あー、いまようやく最終回をチェックしたわけだが。
なんかこの物語って、「良いインディアンは死んだインディアン」の論理で動いてるんだよな。
良い人間は生贄になった子供だけ、残りの生きてるやつは全部敵、という。
この物語で言うところのモンスターさまって、明らかにニヒリズムのことじゃない。
で、現実には、メロスの戦士みたいにドロップアウトせず日常を大切にしながら、同時にニヒリズムに
陥らないで生きている人間も、山ほど居るわけじゃない。
でもなぜか、この物語ではその単純な事実が視界に入ってないみたいなんだな。
そのことがこの物語を、不毛なアンビバレントに陥らせてると思う。
良いことはいっぱい言ってるんだけどな。
例えば、モンスターさま=ニヒリズムを打倒することはできない、とか。
ニヒリズムは不死だ。ホルのように。
もしニヒリズムを根絶しようとすれば、黒船さんのように永遠に迷宮をさまようことになって、いつまでも
奥さんの元には帰れず自分の人生を送ることが不可能になる。
だから、もし打倒すべき相手を探すとしたら、それはモンスターさまの手先のエージェントと戦うことになる。
実際ボッカが相手にしてたのは、ほぼ人間だけだ。
が、この物語世界では、メロスの戦士以外の生きてる人間は全員モンスターさまの手先だ。
エージェントは死んでも代わりはいくらでも居る。原理的に考えれば、メロスの戦士以外の人間を皆殺しに
しなければ戦いは終わらないことになる。
それ以前に、もしエージェント達が戦いに一般人を動員したらどうするつもりだったんだ。一緒に殺すのか。
幸運河のときみたいに。モンスターさまは死なないのに。それは何の為の戦いだ。
モンスターキングと忘却の旋律の関係は、さらに興味深い。
一つの勢力が理想を実現する為に権力を手にしたとたん、その当の勢力が理想を抑圧する側に回って
しまう、という構図はとてもいい。
世界中の共産国家は、まさにそういうことをした。攘夷を唱えて権力を取ったら、急に現実に目覚めて
いままでのことは無かった事にしちゃった明治日本や、GHQから開放されたらとたんに現実に目覚めて
「逆コース」を辿った戦後日本もそうかもしれない。
理想は追ってるうちは美しいが、引き受けるには荷が重く、それどころか本当に実現させようとしたら
とてつもない惨禍を引き起こす……という認識がそこにはある。それはいい。
理想を追う者が、つい身近にあるなにかを愛せなくなるという逆説が描かれてるのもいい。
痩身幻想に踊らされて拒食に走る女の子も、恋人や奥さんがいて実際愛してるのにエロビでオナるのが
やめられないのも、つまりはそういうことだろう。
理想を実現するだけでは人間は幸せになれない、むしろ理想を追うことのなかにこそ既に不幸の種が
あることにこの物語は気づいている。
ここまで気づいていて、そのうえでなお視聴者に蜂起を促すってのはどうよ?
社会のレベルでも個人のレベルでも不幸になることを重々承知の上で、何でそんなことを言うのかわからん。
ここまで来たら、普通、革命という方法論の限界に思いが至るものではないのか。
ニヒリズムは病気みたいなものだ。
ウイルスを直接叩く薬がないのと同じように、ニヒリズムを直接妥当することは出来ない。
そしてそれは既に世界中くまなく蔓延していて、感染を防ぐことも不可能だ。
だが同時に、それはすぐさま人間の命を奪うほど強力なものでも無い。
普段はなにかポジティブになれることを見つけそれに専念して発症を防ぎ、もし発症したら心と体を休めつつ
理性を働かせて牛娘やエージェントにならないよう自分を見張る。
そのようにして、受け入れ共存しつつも屈することなく自分を保ち続ける以外、モンスター様と戦う
方法なんか無い。
みんなそうして自分の忘却の旋律に耳を傾けつつ、自分と自分の小夜子を守っているのだ。
生贄にされる子供は居る。生贄にする大人も居る。でもそうでない人々も居る。
疎外感に浸る前に、世の中の人がどうやって生きてるか、もっと注意深く観察すべきではないか>ボッカ
自分の実存が犯されたら即実力行使って、お前は酒鬼薔薇か。
俺、ボッカはモンスターキングになったんだと思うな。
新しいメロスの戦士を育てようとしてるのは実は見せかけ。
汚れた大人になった自分を認めることができなくて、新しいメロスの戦士がディオスの力に目覚めて
地球の中心のあの部屋にやってきたら、暁生さんみたいにその力を奪って、自分が今度こそ
「本当のメロスの戦士」になろうとしてるの。
小夜子はもうソロの矢に当たって死んでて、今はボッカの忘却の旋律になってる。
自分を助けようとしたボッカを今でも愛していて、そして妄執の権化と化したボッカが哀れで、
お芝居に付き合ってあげてるんだ。アンシーみたいに。
そういうダークなエンドにしか見えん。