大神ソウマは男だった。
「振り返るな! 行け、姫子! 行くんだ!」
すぐ手を伸ばせば、愛しい人がそこにいる。にもかかわらず、口から出た言葉はそれだ
った。
「ありがとう、ソウマ君。必ず帰ってくるから!」
愛しい人は、言われたとおりに振り返らない。振り返らずに、ただまっすぐ常闇に続く
道を駆け出した。
行ってしまえば帰ってこない。それは承知の上だった。
多分きっと、引きとめ、胸に抱き、唇を交わして……彼女のすべてを奪ってしまえば、
愛しい人は彼のものになっただろう。
姫子の心が揺れている。愛しているから、いつだってずっと見ているから、その事は手
に取るようにソウマには分かった。今、揺れる心を決めかねている彼女に、決定的な何か
を与えれば、その傾きはソウマに向けて倒れこむ。
そして、もう一つ分かっていることもある。
姫子が走り行くその先では、彼の恋敵が手ぐすね引いて待っている。運命とか宿命とか
前世とか、いろんな絆を鎖に変えて、太陽のようなあの少女を繋ぎとめようと、あの女が
待っている。
闇の向こうの遥か先で、月と太陽は手に手を取って遥か空まで舞い上がってしまうだろ
う。地面を這いずる、ただの男を置き去りにして。
「馬鹿だ、俺」
だけれども、大神ソウマは男だった。哀しいくらいに男だった。
自分一人が涙を飲めば、惚れた女の笑顔が見れる。ならば、喜んでその身を犠牲にでき
る男だっった。
「そう、愚かだ」
ソウマの独り言に答えるように声がした。内と、外から。
「大神ソウマ、我が七の首よ。貴様はどうしようもない愚か者だ」
オロチ。八岐大蛇。八つの首を持つ神話の世界の化け物。腹の底からは唆すように、見
上げる上からは脅かすように、オロチはソウマを嘲笑う。
「愛と言うものの正体がそれだ。人と言うものの正体がそれだ。巫女どもは仲睦まじく殺
しあうことだろうよ。剣と剣とで互いの柔肌を斬り付け、傷付け、血を流し、死と言う名
の悦楽に耽溺する。なんとも慎み深い巫女どもではないか。なんとも女らしい事ではない
か。お互いを貫く肉の陽根が無いのなら、鉄の張型を貫きあう。貴様にも分かるだろう、
ソウマよ。これが人間だ。これが貴様の言う愛だ。全ては肉の欲望に、もっともらしい理
由をつけた。それだけのものにしか過ぎぬ」
七つの首が同時に笑った。赤黒い機械のヒトガタの至るところに開いたアギトが牙を剥
き出し、月の大気を震わせる。
「そう、なのかもしれない」
愛とは、欲望を小奇麗に飾っただけの言葉なのかもしれない。
優しさとは、押し付けがましい自己満足なのかもしれない。
人間の本質は悪なのかもしれない。
地球はどす黒く汚れた星なのかもしれない。
「だけど、だからと言っても……」
目の前に立つのはあまりに強大すぎる敵だった。
地球という、どす黒く汚れきったこの星の、最も醜い部分が凝り固まって、実体すら備
えた邪悪の精髄。
剣神アメノムラクモを用いてすら、本当に倒すことは叶わない。人間達はただ、生贄た
る巫女を捧げてこの神すらいない月の大地に封印することしかできなかった。
ましてや、その邪悪の中から生まれた首の一つが倒せるほど、奇跡は安売りされてない。
「だとしても! 俺は姫子が好きだ! 姫子の柔らかさに触れていたいと思う。姫子の暖
かさを感じていたいと思う。姫子の弱さを支えたいと思う。姫子の優しさに包まれたいと
思う。姫子のためなら、俺は、死んでしまっても構わない!」
轟、と薄い月の大気を震わせて、アメノムラクモに再び光が宿った。人間の身長を十数
倍する鋼の巨躯に宿った光はしかし、剣神の名を冠するには禍々しすぎるほどに赤黒い。
それは、オロチが発する闇色の光とまったく同じ色をしていた。
「敵が貴様だろうが構わない。敵が運命だろうと、宿命だろうと、世界の全てであろうと、
俺は構わない! 俺は、姫子が好きだ! 愛している!」
ソウマの身体を蝕むオロチの鱗は、すでに全身を覆い尽くすに飽き足らず、さらなる増
殖を続けていた。ある部分は硬く、厚く、板金のように折り重なり。ある部分は、鋭く、
長く、爪牙のように尖出した。頭部の鱗はもはや角と牙を備えた兜に変わり、上衣と袴の
上から全身を覆った鱗はまさしく一揃いの具足となっていた。
「俺は、姫子を、守る!」
もはやそれは、邪神オロチと剣神アメノムラクモの戦いではなくなっていた。
聖剣たるアメノムラクモは、ソウマの持つ邪悪の力を拒絶する。日の巫女が失われた今、
ソウマにそれを動かす手段は無い。戦っているのは、ソウマが振り絞るオロチの力その
ものだった。アメノムラクモの手も、足も、その力に鋼の実体を与えているのに過ぎなか
った。
「うおおおおおっ!」
打ち合う拳と拳。闇色の光が撥ねあって、月の砂漠に黒焦げた跡を残す。二つの大蛇が
お互いの体を呑まんとするように、二つの大邪がぶつかり合い、弾け合う。
しかしそれも、長くは続かなかった。
「愚かな」
必殺の拳の一撃が、オロチの外装を貫いた、そう思ったときだった。砕いたはずの傷口
が、牙を備えて大きく開いた。それが、口であると認識できた時にはもう、すべてが遅す
ぎた。
「砕けるがいい」
「ぐああああああっ!」
開いたアギトが白銀の腕を食いちぎる。清楚に白い外装がガラス細工のように砕けて落
ちた。
腕が砕ける激痛に、ソウマは一歩後ろに下がる。しかしもはや間に合わない。自らに反
逆する首を一つ失ったとしても、八つ首の大邪はなおも七つの首を備えていた。
腕が、胸が、肩が、鋸歯を供えたアギトと化して白銀の巨神に喰らいつく。最初の二つ
は身を捻り、次の二つは砕けた右手で殴りつけ、さらに二つはフットワークで回避した。
しかし、最後の一つはアメノムラクモの肩に深々と喰らい付き、次いで残りの首も動きが
止まった獲物に牙を立てた。
「ぐぅ、ぁぁぁ……」
「ふはははは。痛いか? 苦しいか?」
びしびしと音を立てて、アメノムラクモの全身に亀裂が入る。手足は完全に砕け落ち、
ソウマを覆う胸甲も亀裂の向こうから外が見えた。今や人類の守護者たる剣神は、その形
すら失おうとしていた。
「すべては無駄だったのだ。貴様はただの道化だ。巡り続ける運命の円環の中、貴様はあ
がき、もがく道化に過ぎぬ。幾度も続く同じ話の猿芝居に、一時紛れた一枚の葉にすぎん。
しかし、礼を言うぞ。おかげで今回は愉しませてもらったわ」
締め上げるように食いつく牙に、鋼の巨神は砕け落ちた。胴は細かく噛み砕かれ、脚は
二つに裂かれて投げ出された。瓦礫に変わった剣神は、そのまま赤黒い闇が渦巻くオロチ
の腹に呑み込まれ、そして消えた。
ソウマもまた、力を使い果たし闇に呑まれてオロチの中に溶けていった。
元より、勝てる戦いではなかった。
オロチを封じる巫女の片割れは敵に回り、もう一人の巫女もまた剣神の身体より離れて
いった。残されたのは剣神によって調伏されるべきオロチの首の一つ。ソウマの身体を巡
る力をアメノムラクモは拒絶し、アメノムラクモの聖なる力はむしろソウマを傷つける。
ソウマは、白刃を手に握って戦っているのに等しかった。
彼が敗北することは、すでに分かっていることだった。
「オロチよ」
だからこそ、意識が溶け落ちるその直前、ソウマはにやりと微笑んだ。
「俺の、勝ちだ」
瞬間、黄金色の光がオロチの闇を切り裂いた。
「ぐぉ? がああああああああっ!?」
圧倒的な光量だった。
一瞬、剣のように聳え立った光の柱は、次の瞬間には全ての方向目掛けて爆裂する。そ
の力は質量すら持って、オロチの外装を切り裂き、祓い清め、そして月の中空で一つの姿
を形作った。
剣神アメノムラクモ。日と月の力をその身に受け、今この瞬間に真生した神なる剣は全
身を聖なる光に包まれて宇宙の虚空を翔んでいた。
「ば、バカなぁ……」
「貴様も言っただろう。これは円環の中で続く儀式なのだと。アメノムラクモが蘇ること
も、二人の巫女の力で貴様が再び封印されることすら、繰り返す儀式の一つにしか過ぎな
い。そうさ、運命だか宿命だか知らないが、姫子が姫宮のところに行った時点で貴様が滅
ぶのは決まっていたんだ。後は……」
姿すら失ったソウマの瞳が、天空を見上げた。どこまでも続く宇宙の漆黒と、そして今
にも壊れそうな青い星。懐かしい故郷の星を見上げて、ソウマは言った。
「後は、それまでの間、貴様から地球を守りさえできればよかった。姫子が帰るあの星を!」
「ぃひ。ひぁぁぁぁぁ」
オロチは、逃げた。硬い実体を脱ぎ捨てて、溜め込んだ力すら振り払い、オロチの核は
逃げ出した。
それは、笑えるほどに卑小な存在だった。それ何者で、どのように生まれ、どうしてオ
ロチとなったのか、それを語る書物はどこにも残ってはいない。わかっているのは、それ
が常に倒される事を定められた、追難の鬼と言うことだけだ。
「道化だな」
残された闇の中、首の一つがそう言った。
「哀れを通り越していっそ笑える」
「ツバサ兄さん」
闇の中、確固とした姿を維持してソウマの実兄はそこにいた。
「満足か、ソウマ。あれが貴様の命を懸けた結果だ。これで満足なのか?」
詰問するような声だった。どこまでも強く、どこまでも優しい、たった一人の実の兄の
声だった。
「ああ、満足さ」
ソウマに迷いは無かった。
全てを守ることが出来たのだから。愛する人のために死ねたのだから。一人の男として、
どうして不満があろうと言うのか。
「……本当に、お前はどうしようも無い大馬鹿者だ」
一閃、ツバサは剣を振るう。
剣風は月の大気をかき乱し、刃の濡れた光は雲を呼び、剣の一撃は嵐を起こす。闇の中、
一時生まれた一陣の嵐は、闇を切り裂き、吹き散らす。全ての闇が晴れた時、大神ソウ
マは前と変わらぬ姿のままに、月の大地に立っていた。
「行けソウマ。貴様にはまだやることがあるだろう?」
「兄さん。ありがとう!」
ソウマの額の文様が輝く。応えるように、砕け落ちた瓦礫の中から一つの巨躯が立ち上
がる。
大神タケノヤミカズチ。
鋼で出来たもう一人の大神ソウマは、欠けたるわが身を再び身体に収め、翼を広げて羽
ばたいた。
「今行くぞ、姫子!」
雄雄しく呼び行く弟を、ツバサは、神も人も、魔すら居ない月の大地で見上げていた。
大邪の力は今もなお、ソウマの中で渦巻いていた。
むしろそれは、かつて感じたことが無いほどに強大な力となっていた。易々と虚無の宇
宙を飛翔し、遥か彼方で続く神々の戦いの域にまで、ソウマは鋼の身体を上昇させた。
「姫子!」
戦いと言う名の儀式は、今まさに終わろうとしていた。
剣神の力をもちて大邪は祓われ、巫女の血をもちて人々の罪は贖われる。神代から永延
と繰り返されたその儀式の中に、ソウマの存在はどこにもありえぬものだった。
「大神くん。無事だったのね」
愛しい人が優しく微笑んだ。二度と見られぬはずのその笑顔を、もう一度見られただけ
で、ソウマはもう他に何もいらなかった。
「ああ、姫子。後は俺がやる。やらせて欲しいんだ。今、俺にできるのはせいぜい地球を
救うことくらいだから」
そう、地球を救う。
あの故郷の星を二度とオロチに蹂躙させないように。繰り返し続く悲劇模様の猿芝居を
終わらせるために、オロチを殺す。
『せいぜい地球を救うこと』。それだけが今、ソウマが恋する人に贈ることのできる、
たった一つのプレゼントだった。
「頑張ってね、ソウマくん」
愛おしい微笑みが、酷く遠く感じられた。すでに彼女は、地べたを這いずる蛇には手に
届かぬ所に行ってしまった。それが、わかった。
「行って来い。姫宮と話したいこと、たくさんあるんだろ」
自分は上手く微笑むことが出来ただろうか。それだけがソウマには不安だった。
「うん、ありがとう!」
光が渦巻き、そして剣神アメノムラクモは消え去った。高次の時空のどこか、二人きり
の世界に消えたのだろう。愛しい人の顔に曇りは無かった。それがソウマにとっては全て
だった。
姫宮千歌音は結局視線すら向けなかった。
「幸せに、姫子」
最後に一言囁いて、そして最後の戦いが始まった。
迷うものは一つとして無かった。
思い残す所は一つとして無かった。
恐怖も悔恨も、何一つ彼の心を濁しはしなかった。
「こ、この愚か者め! 貴様は自分が何をやろうとしているのか、わかっているのか!」
「分かっている。分かっているとも!」
神無き月より生まれた大邪は、聖なる剣によって倒され、清められ。そして生贄の巫女
によってすべての災いを封じられる。その繰り返す円環の儀式に、この戦いは記されてい
ない。それゆえに、この戦いの結果がどうなるか。それは誰にもわからない。
追難の鬼は必要だろう。地球という星の穢れを、一身に受ける生贄は必要だろう。世界
は、回り続ける茶番劇を続けようとするだろう。
役者の一人が失われ、それでも芝居を続けるために、何が起こるかは容易に想像がついた。
「我を倒した所でオロチは滅びんのだぞ。世界が、地球という星が穢れを生み出す限り、
オロチという存在は常に必要とされる。貴様が我を倒すということは、貴様という蛇が、
我を喰らうということは、貴様が次の……」
「分かっている!」
オロチの言葉を遮って、ソウマは両の拳を胸の前で打ち合わせる。
既に、体内を駆け巡る大邪の力はオロチを遥かに上回っていた。打ち捨てられたオロチ
の骸に残った力、その全てがソウマの中で結集していた。
「日輪! 烈光! 」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「絶 撃 破!」
吹き上がるその力が全てを飲み込んだ。ソウマが放った力の塊は、何者をも破壊しつく
す威力を持ってオロチを破壊し、次いで放った右拳は、渦巻く闇を光に変えた。
虚空の宇宙を震わせる力の渦が消えた時、残っていたのはソウマ一人だった。
「姫……」
そしてソウマも、深淵の宇宙に身を横たえた。
月には、誰も知らない社がある。
神すら居ない月の大地に、澱み生まれし大邪を祀る社がある。
今、新生した月の社は、生贄たる巫女を飲み込んで、光も通さぬほどに固く閉じられた。
「そう言えば、二人っきりで話すのは初めてだったな」
ぬばだまのような闇の中、男の声が響いた。若い、少年と言っていい声だった。
「……気が、狂いそう。貴方とずっと一緒にいないといけないだなんて」
全身を闇に呑まれてもなお、月の巫女は光を放つようだった。
鋭く、美しく、どこまでも闇を拒絶する光だった。
「嫌われたもんだな」
そう、男の声は苦笑した。困っているようにも聞こえる。
「貴方は私が嫌いで無くって?」
巫女の問いに、闇はしばし黙ってそれから答えた。
「好きじゃ、無い。言いたい事も山とある。……だが、嫌いと言うほどでもないかな」
「私は嫌い。大嫌い。私とあの子の間にあるもの全てが」
そう、月の巫女は唇を吊り上げた。牙を剥くような微笑みだった。
「怖いな」
「怖いわよ」
「そんなに嫌なら、今から帰ってくれても構わない」
「それであの子を代わりにしろって? 馬鹿な事言わないで。貴方とあの子を二人っきり
にさせるなんて、それこそ気が狂ってしまうわ。一秒でも早くあの子を開放するために、
進んで世界に闇を振り撒くかもしれない」
「……二十世紀が荒れるわけだ」
闇の声は天を仰ぐようだった。これでは、どちらが穢れの澱みか分からない。
「お陰様で。さあ、無駄話はこれくらいにしましょう。時間を巻き戻すわ。すべての災い
を封じるために」
そう言って、月の巫女は揶揄するように片眉を上げる。
「あなたが起こしたすべての災いを、ね」
挑発するような巫女の声にも、闇は僅かに動揺することもなかった。
「いや、それは俺がやるよ。姫宮は帰ってくれて構わない」
蟠る闇がさらに一層塗りつぶされたかのように、深さを一段増した。月の光すら遮るそ
の闇は、物理的な重さすら備えて、全てのものを深淵の中に沈めてゆくようだった。
「何ですって?」
「宮様は帰って姫子と幸せに、って事。俺は災いを封じに行くよ。最初のオロチを倒して
、その穢れを全部俺が引き受ければ、こんな儀式そのものが無くなる。最初から、何も無
かったことになる」
すぶりと、闇が時の狭間に落ちていく。
「馬鹿な事を。そんな事、できるはずが無いじゃない」
「出来るさ。やってやるさ。永遠だろうが運命だろうが、敵がいるなら俺は負けない。姫
子を守るためなら、相手の喉笛に噛み付いたって勝ってみせる。それに姫宮、知ってるか?」
「何が、よ?」
「神話のアメノムラクモは、オロチの身体から生まれたんだ」
闇は完全に落ち消えて、神も人も、魔すらいない月の大地に社と巫女が残された。
むかしむかしのものがたり。
むかしむかし、あるところにとても大きな蛇がいました。
蛇の身体は山より大きく、うろこはやけた鉄のよう。吐く息は毒に変わって鳥もけもの
も近づくだけで死んでしまう。何より恐ろしいのは、人々を一飲みにしてしまう首が八つ
もあるということでした。
八つ首の蛇、ということから「やまたのおろち」と呼ばれた蛇は、人々にこう言いました。
「毎年、二人の女をおれによこせ。二人をころさせあって、死んだほうをおれが食う。そ
れがいやなら、お前ら一人のこらず食ってやるぞ」
人々はおどろき、そして困りました。
やまたのおろちはとても恐ろしく、とても逆らうことなんてできません。
でも、大切なむすめをころさせるわけにもいきません。
人々はどうしようかと、みんなで集まり話し合いました。
みんなをまもるため、むすめさんにはぎせいになってもらおうと、そう話がきまろうと
したその時でした。
「おれが、やまたのおろちをたおそう!」
一人のたび人がそう言いました。
たび人は、だれも見たことも聞いたことも無い服を着て、だれも見たことも聞いたこと
も無いぶきを持った、だれも見たことも聞いたことも無い男の人でした。
「たび人よ、お前はいったいなにものだ?」
「おれは、やまたのおろちをたおすためにお月さまから来たものだ」
なんとおどろくべきことに、たび人は神様だったのです。
たび人の神様は月のお宮(かぐや姫がいるあのお宮です)にいたとき、ひどいらんぼう
者だったので、おねえさまにおこられて、やまたのおろちをたおして来なさいと言われて
来たのでした。
たび人の神様は、やまたのおろちにわたすささげ物にかくれてやまたのおろちに近づく
と、ころあいをみはからってやぁっと飛び出し言いました。
「やぁやぁ、われこそはスサノオノミコトなり! やまたのおろち、かくごしろ!」
たび人の神様が一声上げると、たび人の神様のからだはみるみる山のように大きくなり
ました。
たび人の神様が一声上げると、たび人の神様のからだはピカピカのてつのよろいにかわ
りました。
たび人の神様が一声上げると、たび人の神様のうでは大きくて強いかたなにかわりまし
た。
たび人の神様が一声上げると、たび人の神様のせなかからギラギラ光るつばさが生えま
した。
たび人の神様は、やまたのおろちのからだの中からうばいとった「あまのむらくものつ
るぎ」を手に持って、ゆうかんにたたかいました。
たび人の神様とやまたのおろちのたたかいは、それはそれはおそろしいものでした。
たび人の神様が足をふみならせばじめんがゆれて、やまたのおろちが一声ほえればいな
ずまが落ちました。
やまたのおろちがはいまわる所すべてが大きな火じになり、たび人の神様が剣をひとふ
りすれば風と雨が火じをかきけしました。
おそろしいたたかいは三日三晩も続いて、四日目の朝。とうとうお山は静かになりまし
た。
しずかになったお山に、おそるおそる人々がやってくると、そこには一人、たび人の神
様がいました。
やまたのおろちは八つの首の七つまでを二つにさかれ、そのまま死んでいました。
「やあ、みなさん、もうしんぱいすることは無い。もう、ぎせいをはらうことはない」
と、もとの大きさにもどったたび人の神様はいいました。
人々もおおよろこびして、たび人の神様にいいました。
「どうか、ここの王様になってください」
ですが、たび人の神様はいいました。
「おれは王様になるためにやまたのおろちをたおしたんじゃない」
そのことばにびっくりした人々は、こんどはこういいました。
「それなら、やまたのおろちにさしだすはずの、金ぎんざいほうをさしあげましょう」
ですが、たび人の神様はいいました。
「おれはざいほうがほしくてやまたのおろちをたおしたんじゃない」
ますます人々はびっくりしました。そして、こんどはこういいました。
「それなら、やまたのおろちにさしだすはずの、むすめをおよめさんにさしあげましょう」
ですが、やはりたび人の神様はいいました。
「おれは、およめさんがほしくてやまたのおろちをたおしたんじゃない」
人々は困りました。たび人の神様が何がほしくてやまたのおろちをたおしたのはわから
なかったからです。
そこで、一人の男が聞きました。
「では、神様。あなたはなにがほしいのですか?」
たび人の神様は答えました。
「おれは、きみたちが良くしっている。でも、ぜんぜん知らないおんなの人のために、や
またのおろちをたおしたんだ。そのおんなの人は、これからおよめにいってしまう。だけ
れども、やまたのおろちがいるとしあわせになれないんだ。だから、おれはやまたのおろ
ちをたおしたんだ」
なんと、たび人の神様は月のおねえさまが大好きなのでした(なにしろ、人々がよく知
っていて、それなのに全然しらないおんなの人といえば、月のお宮様。つまりたび人の神
様のおねえさま以外にはいませんから)。これからおよめに行くおねえさまのために、た
び人の神様はいのちをかけてやまたのおろちをたおしたのでした。
「おれができることはこれまでだ。おれは王様にもならないし、お宝はみんなで分け合い
なさい。むすめさんはお家に帰ってしあわせになりなさい。みんなで仲良くがんばれば、
きっとみんなしあわせになれるから」
「それでも。もし、お前たちだけではどうしようもないてきがあらわれた時、おれはまた
やってこよう。やってきて、そのてきとたたかおう。おれにできるのは、せいぜいちきゅ
うを守ることくらいなのだから」
そう言って、たび人の神様はお月さまへとかえっていきました。
そして今でも、たび人の神様は、お月さまのうらがわにある、だれもしらないやしろの
中で、悪いものがやってこないかと、じっと見張っているのです。
ちきゅうと人々と、そしてたび人の神様が大好きな、およめにいってしまったお宮さま
を守るために。
「……めでたし、めでたし」
ソウマはぱたんと絵本を閉じた。この「やまたのおろちとたび人の神様」の絵本は、子
供のときからソウマのお気に入りの絵本だった。兄と二人っきりだったあの時、何度も何
度も読み返した思い出の絵本だった。
ソウマのお話が終わると同時に、聞き入っていた園児たちが騒ぎ出す。どうやら、思い
出の絵本は今の子供も気に入ってくれたらしい。
「ねーねー、そーませんせー」
園児の一人がソウマに言った。黒い長い髪の可愛らしい女の子だった。
「それで、たび人のかみさまはどうなったの?」
「ん、今も月のお社でみんなを見守っているんだよ。悪い奴はいないか、ってね」
「ううん。そうじゃなくって」
ソウマの答えにしかし園児はかぶりを振った。
「たび人の神様と、月のお宮さまはどうなったの?」
「んー。それはねー」
ソウマは、困ったように腕を組んだ。
絵本の主人公が言うには、「その女の人はお嫁に行ってしまう」らしい。彼の元に嫁い
でくるのに、「行ってしまう」とは言わないだろう。それに大体、姉と弟だとしたら最初
から結ばれる事も無いだろう。命を懸けて戦って、それでも好きな人は手の届かないとこ
ろに行ってしまったと言うことだろう。
物語の主人公にしては、あまりに哀れな話だと、ソウマは思った。
「きっと……そうだな。お姉さんがやっと幸せになれて、それだけで旅人の神様は満足だ
ったんじゃないかな。自分がその人を幸せにできなくても、その人が幸せでありさえすれ
ば、きっと満足だったんだよ」
ソウマはそう答えた。多分、自分が同じ立場に立ったとしても、同じ気持ちでいるだろう。
「ふーん」
しかし、黒い髪のおしゃまなお嬢様は納得できないようだ。
「へんなの。わたしならそんなのゆるさないのに」
映画のワンシーンみたいに、結婚式から花嫁を奪い取れとでも言いたげに、少女は唇を
尖らせる。女の子と男の子では、価値観が少し違うらしい。
「ソウマくん。ごめんね、子供達まかせちゃって」
ソウマがどうしようかと考えていると、一人の女性が割ってきた。褐色の肌の綺麗な人
だ。そのたおやかな手の左薬指には、指輪がキラキラと輝いている。ソウマの兄が贈った
ものだった。
「いえ、いいですよミヤコ姉さん。俺も結構暇ですし」
「あら、そんな事言っていいの? 来てるわよ、彼女」
ミヤコの視線を追ってみると、園の正門前に女の子が一人手を振っていた。短い髪を右
側に纏めた、溌剌とした美少女だった。
「い、いや。別に俺はマコトとは、まだつきあってるって、そんなわけじゃなくって、そ
の……」
「いいから、早く行ってあげなさい。ソウマ君は男の子なんだから、ソウマ君の方からエ
スコートしてあげなきゃダメなのよ。あんないい子逃がしちゃったら一生悔やむわよ」
顔を赤くして慌てるソウマを押し出して、それからミヤコはソウマと話していた女の子
に向き直る。
「それじゃあ、ソウマお兄ちゃんも行った事だし、私が代わりに月に帰った旅人の神様の
話をしてあげる。月の社に帰った神様は、大好きな人がお嫁に行ってしまったショックで
何日も何日も泣き続けたの。誰にも分からないように社の窓をぴったりと閉じて、声を上
げないようにぎゅって枕をかみ締めて」
「でもね、そうやって一生懸命隠していても、必ず誰かが気付いてしまう。一人の平凡な
女の子がそれに気付いたの。女の子はこう言ったわ『哀しいのは分かるけど、いつまでも
泣いているのは男らしいことかしら? 外ではみんな楽しくしてるわ。ためしに私と外で
遊びましょう。絶対損はさせないわ』。ふふ、一番男らしいのはこの女の子かもね」
「そうして二人は時を忘れて遊んだの。最初は戸惑っていた旅人の神様も、だんだん哀し
い気持ちが楽しい気持ちに変わっていって、女の子への気持ちも『ありがとう』から『好
きです』に変わっていったの。それである日、旅人の神様は決心したわ。『愛してます』
って気持ちを伝えようって」
「それで、女の子はどう答えたの?」
ミヤコをじっと見上げて女の子は聞いた。ソウマが話した絵本の時よりずっと心惹かれ
ているようだ。
「女の子は呆れたみたいにこう言ったわ『馬鹿ね、あなたはとっくの昔のあたしにつかま
っちゃったんだから。今更逃げようったってもう逃がさないわよ』だって」
くすくすと、少女とミヤコは二人して笑った。どうやらお気に召したらしい。
しばらく笑っていた少女だったが、思い直して笑いを止めて、胸を反らしてこう言った
。
「それでも、わたしがその人だったら、ぜったい、だいすきな人をあきらめたりしないわ」
にっ、と微笑む少女の胸には、小さな桜色の貝殻が輝いていた。