羽を失くした天使のように、突然放り出された世界。鮮やかで眩しくて、けれど大切な人
が居ない世界。
白磁の素肌を晒し、慣れない陽射しの下を歩く。それは風任せの千切れ雲のような、行
くあてのない旅。頼れる人も、愛しい人も、誰もいない一人旅。
光の中から追放されたけれど、依人と一緒だった日々。空の下を歩けても、依人とふた
りで過ごす夢を失った自分。何かが叶うたび、何かを失う……まるで呪いだ。
眩い輝きに、目を細める。雲の裏側から不意に顔を覗かせた太陽が、日傘の縁から差
し込んでくる。それは私には悲し過ぎて、嫌がるように傘を傾ける。限りない大空を明る
く照らす光でも、私の心までは届かない。まだ。
飛べない鳥が見上げる空には、悲しみしか映らない。なのにどうしてふと惹かれてしまう
んだろう。どうしていつも、切ない気持ちを繰り返すんだろう。
でも……。
行き先を知らない新しい日々を、いつも見つめていた空。依人と茉莉が、我が儘な私に
くれた空。決して忘れられない思い出を満たした『sola』の下で、私は――。
森宮蒼乃@sola 支援文 『夢ひとつ、懐かしい風』
心に穴を開けたまま、雨の雑踏で信号待ち。薄灰色の人混みの片隅で、傘を叩く雨音
だけを聞く。そこまではいつもと同じ、無機質な街で過ごす、独りぼっちの朝だった。
けど、何気なく視線を上げた瞬間、不意に『それ』が目に飛び込んできた。
乗客を総入れ替えしている薄汚れたバス。その降り口から、腰にまで届く黒髪をなびか
せて、一人の少女が顔を覗かせた。軽快にバスから降りた彼女は、頬に当たる雨を見
て、構えていた傘を開き……。
欲しかった幸せを奪ったひと。欲しかった景色をくれたひと。それはあの日、私に空を押
し付けて、朝焼けと一緒に消えてしまった……茉莉!?
いつかと同じ青空色の雨傘で、彼女は駅へと流れる人波に消えていく。待って!!信号
の色が変わった瞬間、私は駆け足で彼女を追いかけていた。叶うのならもう一度、依人
に会いたい――そんな、捨てられない願いのままに。
冷たい雨粒に服を濡らしながら、人の群れをかき分けていく。
ただがむしゃらに、頼りない糸に縋るように。そしてとうとう、改札の先に彼女を捉えて、
「いた、茉……っ!」
手に握りしめていた傘が、見知らぬ誰かにぶつかる。迷惑げな相手に、すみませんと頭
を下げて――次に顔を上げた時、一瞬捉えた筈の後ろ姿は幻のように消えていた。
伸ばした指先が触れようとした瞬間、姿を消してしまうユメ。過去も、あの時も、いつも私
ばかりが残される。それは本当に悲しくて、怖くて、そして何より寂しくて。
すぐに醒めてしまう幸せ。そんな半端な幸せなんて……。
届かない夢が刻まれた空を、プラットホームの片隅から見上げる。
かつてみんなで見たいと願った空。今は私だけが見ている空。今の私の心を映したよう
な、太陽のない、雨雲に覆われた空……。
いつか昔のように、どこまでも澄んだ青空の下を、日傘なしで歩けるようになるだろうか
……そんなことを考えていた時。
知っている、いや、知り過ぎている町の名前が、いきなり響いた。遠くの踏切の音に混じ
って流れた、駅の構内放送。それが、依人達と短い時を過ごした、あの町へ連れて行っ
てくれる電車の到来を告げたのだ。 余りに辛い記憶が多すぎて、その日のうちに逃げ
るように離れてから、一度も戻っていない、あの町に。
だけど私は、驚くほど自然にこの列車に乗っていた。あの町に行けば、二人の幻を見つ
けられるかも知れない、そんなあり得ない期待に後押しされて。
どうしてなのか分からないけれど、何かが始まる予感があった。雨、幻……そして町。
いつの間にか重ねられた、作為的な偶然。
まるで、二人があの町から自分を呼んでいるような。
触れることも、見ることもできないけど、どんな時だって、私のことを本当に想っていてく
れていた依人。最後の朝焼けの中で、私にもう一度陽射しをくれた茉莉。
たった一人で入院していた私を、依人と一緒に毎日励ましてくれた、こよりと真名。
いくつもの悲しい記憶と、暖かい思い出で満ちた町。
君は君、依人は依人――依人が、臆病だった私に思い切り反発して、喧嘩したあの時
に伝えようとしていたこと。それを探す旅になると知らぬまま、私は列車に揺られ……。
懐かしくて哀しいこの町に、一年ぶりに降り立った。
かつて依人が友達と歩いていた、明るい昼下がりの町。いつの間にか雨も止み、清々
しい青空が広がるその下で、依人が話してくれていた川沿いの道を歩く。
いくつもの橋をくぐり、洒落た石段を登り降りする散歩道。春の日光をめいっぱい浴びた
風が、煌めく水面を渡って日傘の下からそよいでくる。 きっと依人も、こんな晴れの日
に……そう考えると切なくなって、空を避けて近くの本屋に入る。すると、そこには。
「はぅぅ、お金より、もう少し背が欲しい気分です……んにゅぅっ!」
ありったけの背伸びをして、本棚の一番上に手を伸ばす小さな先客さん。長い髪を二つ
の髪留めで飾り、必死に折り紙の本を狙う女の子を、私は良く知っていた。病院にいた
頃、一人ぼっちだった私に温もりをくれた――友達。 自販機前の長椅子で、毎晩姉妹
のように折り紙遊びをしたこと、今でもはっきり覚えてる。
舟に折り鶴、かえるに手裏剣。新しい『技』を覚えるたびに浮かべていた、笑顔を。
幻でも見ているような、泣きたいほど懐かしい後ろ姿。でも、声をかけるのは怖い。私達
が友達だった時の記憶は、悉く消している。つまり、今は二人は完全に他人同士。
思い出も接点もない。それに向こうだって、この街を離れていた間に、変わってしまって
いるかも知れない。それでも声をかけてもいいの?
出したい声と、出せない言葉。その姿を見るだけで、依人や茉莉達との、辛すぎる別れ
を思い出す。でも、それでも、叶うならまた、あの頃のように……。
見かねたふりをして、そっと女の子の方に歩いていく。寄っていく私のことなど全然気に
せず、今なお悪戦苦闘している少女に、そっとお目当ての折り紙本を手渡した。
ただもう一度、一緒に過ごせるようになれたらと、祈るような気持ちで。
忘れた筈の友達、忘れられない夜の終わり―― 一度は逃げた街の、最後に二人と別
れたその場所で、出逢ったばかりのこよりと、買ったばかりの折り紙で遊ぶ。
「なかなか奥が深いのですよ。この前マナさ……あうっ、ま、マナお姉ちゃんに……」
いつかと同じ口癖と、いつかと同じチョップを、快晴の公園で交わしながら。
誰も知らない筈だった私。誰もから距離を取っていた私。
かつて生け贄だった頃は、自分が生きていることを隠すため。夜禍人だった頃は、自分
の秘密を隠すため。そして今までは……もしかしたら、訪れる別れを避けるため。
声を上げて泣き腫らしながら迎えた朝。友達も大切なひとも、何もかもを無くした思い出
が嫌で、ずっと逃げ続けていた冬。でも、本当はこの街には……。
切なくて優しくて、本当は大泣きしたい私を、いつの間にかこよりが覗き込んでいた。
「なんでも、ないの。ただ、こうやって誰かと話すの、本当に久し振りだったから……」
くすっ、と精一杯の作り笑顔を返す。こよりが不安にならないように、大空に明るい声を
響かせる。街を離れてから、ずっと無表情だった私。きっと鏡を見れば逃げたい位、凄
く下手な笑顔だったけど、こよりはとびっきりの顔で、一緒に笑ってくれた。
始まりは、本当に些細なこと。自販機前で出逢ったり、本屋で鉢合わせたり。でも。
「まずここをこうやって折るの。でも、本にはないけど、慣れないうちは、こう折り目をつけ
るの。そうすると、こうして、こう折った時に、綺麗に折れるの。後は……」
予めこよりが持っていた折り紙をあっという間に使い切った後も、私達は暫く話をした。
感じる『何か』があったのか、沢山の折り紙たちに囲まれた空の下で、こよりは昔病院
に居た頃と、変わらない時間を私にくれた。
ふらっと本屋に立ち寄って、まだ何時間も経っていないのに、こんなに仲良しになってい
る。ただ話をするだけで、こんなに楽しくて、幸せになれるような。
えいえんに戻れない、依人と茉莉との日々。だけど、二人がくれた明るい世界で、こうし
て穏やかな時間が過ごせる。それは本当にささやかで、そして、本当に……。
忘れたいとばかり思っていた街。けれど、あの僅かな時間の中で、依人以外にも手に入
れていたものがあった。
ただ、気付けなかっただけのもの。ただ、ずっと自分を待っていてくれたもの。
いつの間にか私は、この街へと誘ってくれた幻に、こっそり『ありがとう』を言っていた。
願いはもう届かない。いや、もしかしたら始めから、届かないことを知っていた。でも、も
う私は、依人を取り戻そうとはしない気がする。
自ら『ほんとう』に帰ろうと決意した依人と、命と引き替えに奇跡をくれた茉莉。今でも自
分の中には、依人ともう一度暮らしたい希望があるけど、そんな自分を癒してくれるもの
が、ちゃんと側にあったから。
わけのわからないままに失った弟を、夜禍の力で無理矢理求めた私。
かつて茉莉も、私達と出逢って人の笑顔に触れた。そしてそれを失くした時に、どうした
らいいか分からずに私を求めて……でも、最後には、弱い私に教えてくれた。だから。
「なかなか吹っ切れないかも知れないけど、頑張ってみるから……依人」
いつもは日傘越しに見ていたお日様に、私はちょっとだけ、不慣れな笑顔を向けた。
待ち合わせの時間まで、あと10分。まだ星空が見える頃、私は急ぎ足で公園へと向か
っている。雨で邪魔された昨日と違って、今日は雲一つない快晴。朝陽の撮影には持っ
てこいの天気だ。
いつかの依人と同じように、今はもう馴染みになった公園で、茉莉がくれた朝焼けを撮
る。空が大好きな私達が始めた、新しい習慣だ。
揺れる木立の先に、仄白く変わり始めた空が覗く。普段はこの辺りで、二人に声をかけ
られるのだが、今日は私の方が先に着いたようだ。こんなに空気が澄んでいるのに、撮
れなかったら残念……そんなことを考えながら、満天の星空を見上げている。
なんでだろう、多分、前に……。 かつて依人を想っていた真名が、漏らした言葉。記憶
が消えていても、あの日の出来事を知らなくても、二人があの空にいると知っているか
ら、だからこの場所で空を求める。そして、私も……。
夢の跡に、もうすぐ朝がくる。白みゆく東の空と、徐々に色褪せていく西の空。ふたつで
ひとつの繋がった空が、かけがえのない思い出を乗せて、今日もまた巡る―― そんな
とりとめもない物思いをする私の耳に、遠くから元気な姉妹の声が響いてきた。
つかの間の幻と別れた場所で、また新しい朝焼けを撮りに行く。そんな私達に、青い空
を追いかけ続けていた誰かが、どこからかそっと手を振っているような気がした。