「私がラジオを選んだ理由」 小島慶子 (ラジオ・パーソナリティー)
このほど、満十五年勤めた会社を辞めて、ラジオ・パーソナリティーとして独立しました。
TBS『時事放談』で私をご存じの方は、意外に思われるでしょう。
職場の人も一様に「なぜ、ラジオ?」と驚きましたが、答えは「なぜって、ラジオは面白いから!」です。
一般的には、華やかな局アナからラジオ・パーソナリティーへという選択は、わかりにくいのかもしれません。
私が勤めていたTBSは在京の民放で唯一、テレビとラジオの兼営局です。
入社四年目に「ラジオの帯番組をやらないか」と言われた時には、
テレビに比べてなんだか地味だし……と気後れしましたが
「財産になるから」という上司と「肩書きを忘れてリスナーと向き合って」というプロデューサーの言葉を信じて、
引き受けました。これが一九九八年にスタートしてから四年余り担当した『アクセス』という番組でした。
毎晩、電話のリスナーと目の前の専門家を繋いで硬派の討論番組を進行する仕事は
二十六歳の私には荷が重かったですが、
思いがけず開始半年でギャラクシーDJパーソナリティー賞という大きな賞を頂き、
初めて「放送」で声が届くのだということを実感しました。
その感覚は、テレビでは一度も味わったことのないものでした。これが私の喋り手としての原点になりました。
伴侶の死がテーマのとき、六十代の男性が電話を下さいました。
「まさか妻が先に逝くとは。仕事一筋だったが料理の味は覚えていたから、
寂しさから台所に立つようになって一年。先日息子が『これが母さんの味だね』と言ってくれて、
ようやく妻の死を受け入れられた。これからは地域と繋がって生きようと思う」。
……なぜ、見ず知らずの私にこんな話をしてくれるのだろう。
互いの顔も見えない人たちが誰かの話を分かち合えるなんて。
ラジオでしか繋がれない、人間の柔らかいところがあるのではないか。
こんな素晴らしい仕事はないなと思いました。
テレビの現場ではよく「画が欲しい」という言葉を使います。
形が見えないと伝わらない、価値がない、という不安が常に付き纏います。
余裕がなくなると、画を作ることこそが伝えることだと思い違いをしがちです。
その画面の一部として「局アナ」という、いわばわかりやすい制服を着て仕事をすることに違和感があった私にとって、
ラジオは手ごたえのある会話であり、初めて出会った自由な世界でした。
その後二度の出産を経て昨年三月から始めた『キラ☆キラ』という番組は、リスナーの日常の他愛ないエピソードを紹介する番組です。
まさに画にならない、取るに足らない誰かの生活の一コマで笑ったり泣いたり。
開始当初は「局アナらしくない」「局アナなのに面白い」と賛否両論でしたが、
自分が局アナであることなんかを気にしていたら人には話しかけられません。
会社には申し訳ないですが、TBSのことを考えて喋ったことは一度もありませんでした。
422 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 06:49:08 ID:eDLjfkcS0
考えてみれば、議論するべき社会問題や感動的なドラマがある一方で、
人は地味な日常会話の中で、人生の奇跡や葛藤に出会うものです。
それらと丁寧に向き合いながら、大きな物語も他愛ないやりとりも、
どちらも等価で無二であると言い続けることが、誰かの孤独を温めるかもしれない。
行き場のない人が明日も生きてみようと思うかもしれない。
「放送」は時として幾億もの日常を取りこぼしながら、画になるものばかりを見せてはこなかったか。
私たちは知らぬ間に画にならない日常を軽んじてはこなかったか。そこにしか自分の人生はないのに。
メディアの形が大きく変わろうとしている今、マイクを前にして日々その思いが強くなりました。
十五年続けた放送局の顔としての肩書を外して、
これからはひとりの喋り手として自殺者三万人超という生きづらい世の中に向き合おうと思います。
私がラジオを選んだ理由は、放送の原点が会話だからです。
「世の中きっと、捨てたもんじゃない」と今日も言う。
たとえ一瞬で消えてしまう囁きでも、私はそう言い続けていこうと思っています。