【TBSの】出水麻衣は恋人募集中♪Part15【褐色娘】

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878名無しがお伝えします
中国史料に見られる丁零が、「テュルク」の語で
自称・他称されていたと考えられる民族に関する記録の最古のものであると考えられている
丁零は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりに居住していた遊牧民で
匈奴衰退後の3〜4世紀ごろ南下して「高車丁零」を立てたが
6世紀前半に柔然に滅ぼされた
同じ頃、中国史料に鉄勒という当て字で記録される、テュルクの名を持つ人々が現れ
丁零の原住地バイカル湖沿岸から、中央アジアのカスピ海西岸に至る広大な地域で遊牧していた
また、同じ6世紀中頃に、やはりテュルクの音写名で記録される突厥が現れ
柔然を滅ぼし鉄勒諸部族を服属させてモンゴル高原からカスピ海北岸のキプチャク草原に至り
ソグド人などの定住民が居住する中央アジアのオアシス地帯までも支配する大帝国を築き
その支配のもとで中央ユーラシア全域に及ぶテュルク世界の原型が形作られた

8世紀に突厥が滅びた後、モンゴル高原を支配した回鶻の遊牧国家が崩壊すると
テュルク人のオアシス地域への南下、定住化が始まった
同時に在来のオアシス居住民のテュルク化が始まり
時代が進むにつれ中央アジアが「トルキスタン」と呼ばれるに至る契機となった

イスラム世界に属した西アジアへのテュルクの進出は
はじめマムルークとして個人個人が到来することによって始まったが
同時に定住・遊牧のテュルク人にイスラム教が次第に受け入れられてゆき
やがてイスラム化したテュルク人が遊牧部族の組織力を保ったまま西アジアに進出するようになった
トゥルクマーンと呼ばれた彼らのうち一派は、中央アジアからシリアに至るセルジューク朝を立て
アッバース朝のカリフからスルタンの称号を与えられてスンナ派の擁護者としての地位を確立する
また、トゥルクマーンの一部はアナトリア半島に進出し、ルーム・セルジューク朝、ついでオスマン朝を立て
その支配下でアナトリアのテュルク化・イスラム化が進んだ