【TBSの】出水麻衣は恋人募集中♪Part15【褐色娘】

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839名無しがお伝えします
1990年代になると伽耶研究の対象が従来の金官伽耶・任那加羅の倭との関係だけではなく
井上説を支持する田中俊明の提唱になる大伽耶連盟の概念により
高霊地域の大伽耶を中心とする伽耶そのものの歴史研究に移行していった
また、1990年代後半からは主に考古学的側面から
卓淳・安羅などの諸地域の研究が推進される一方で
1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして
紹介されて以来相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳の発見や
新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土しているヒスイ製勾玉の原産地が
糸魚川周辺に比定されている事などを踏まえ
一部地域への倭人の集住を認める論考が相次いで提出された

吉田孝によると、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために
百済・倭国と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合であり
いわゆる地名である伽耶地域とは必ずしも一致しない政治上の概念であり
任那が倭国の軍事力を勢力拡大に利用するために
倭国に設置させた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだと主張し
百済に割譲した四県は倭人が移住した地域であったという
また、532年の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが
562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったとしている
吉田は一時期否定された4世紀の日本府について
金官加羅の主導性を認めつつ倭国の軍事的外交機関として認めており
他の研究者と一線を画している

鬼頭清明は『加耶はなぜほろんだか』の中で、安羅の豪族が倭府と称し
伽耶地方や百済の政治決定に重要な関与をしていたことは認めたうえで
貢調徴取の機関でも直接支配の機関でもないとしている