【TBSの】出水麻衣は恋人募集中♪Part15【褐色娘】

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838名無しがお伝えします
伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は
3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において
洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す
新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ
中国・日本(倭)においては加羅とも表記された
かつてはこの地域は、倭国(ヤマト王権)の
朝鮮半島における出先機関に相当するものが
所在するとも考えられたが、韓国の学者を中心に否定する意見もあり
日本国内においても「任那日本府」の名称は『百済本紀』の編纂者が
ヤマト王権に迎合するために用いたものであり
伽耶諸国と任那日本府とを同一視することは誤りとする説が出されたことがあった
また、任那とは伽耶諸国の任那加羅(金官加羅・駕洛国)の勢力範囲を指し
高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び
倭国によって軍事を主とする外交機関が設置されていたとする説もある
現在では、『日本書紀』をはじめ
中国や朝鮮の史書にも伽耶を中心に朝鮮半島における倭の活動が記されていること
倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている『広開土王碑』の改竄説が否定されたこと
また、日本列島固有の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で多数発見され始めたこと
そして新羅・百済・任那の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土したこと等により
伽耶地域にヤマト朝廷から派遣された軍人・官吏
あるいはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が現れて
統治をしていたことが有力視されるようになっている

朝鮮半島の諸国の中では距離的に日本に最も近いこともあり
日本とは古くから交流があった
古代日本語においては「韓」の訓として「から」を用いていることからもそのことはうかがえる
ちなみに、「から」という日本語は朝鮮半島との関係が絶たれ
唐が最も身近な外国となった平安時代以降はもっぱら「唐」の訓として使用されるようになり
室町時代後期に南蛮貿易を介して新たな文物が日本に来るようになってからは
「からいも」などのように外国一般を指す語としての用法が生まれ、現在に至っている