【TBSの】出水麻衣は恋人募集中♪Part15【褐色娘】

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837名無しがお伝えします
蒙古への服属・元寇への参加
蒙古はこれまでの契丹や女真と異なり、露骨な内政干渉をしてきた
国内には多くの蒙古軍人が駐留し、反発感情が生まれた
1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた
同年、崔氏を倒した林氏政権が滅んで武臣政権は終焉するが
蒙古支配に納得しない人々が反乱し、三別抄の乱となった
反乱者たちは済州島に移って徹底抗戦したが、1273年に鎮圧された
乱の鎮圧と共に、クビライは日本を服属させようと試みたが交渉は失敗し
1274年と1281年に二度の日本侵攻(元寇)を行った
このため高麗は前線基地として、兵站の補給と戦艦の建造を命令され
これらの協力と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた
一方、高麗史には忠烈王が元に日本侵攻を働きかけたとの記述がある
忠烈王が自身の政治基盤強化のため、元軍を半島に留めさせ
その武力を後ろ盾とする目的であったと見られる

親政を回復した高麗王は忠烈王以後
クビライの娘忽都魯掲里迷失と結婚してハーンの娘婿の待遇を受けるようになるが
同時に日本征討のために設けられた元の出先機関である征東と高麗政府が一体化して
高麗は元の強い影響下に入ることとなった
また、元は国王一族を瀋陽王に封じて別の宮廷を建てさせて
事実上の高麗朝廷の分割を行ったため、国王の権威は大きく損なわれた
そのような中で忠烈王とモンゴル人の夫人の間に生まれた忠宣王以降の国王となる世子は
禿魯花として元の宮廷で育てられ、元の宮廷政治に関わるようにすらなる
具体的には、胡服辮髪の令(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち
忠宣王は「益知礼普花」、忠粛王は「阿刺訥失里」、忠恵王は「普塔失里」と
元風の名も持っていた