ようやく、聴き終わって今2週目。
僕の考えは柳瀬さんの立場にかなり近いのですが、「自己責任を放棄した奴が蟹工船を読んでる・・・(略」
と言う発言は完全に勇み足だと思いました。
「柳瀬さんの自己責任」(
>>549)は当然ですよね。これを当然と認識してない負け組が居るならば
それは危険だし、八方塞になってしまうというのは事実だと思います。ここについては完全に同意するのですよね。
皆様はどうでしょうか?
>>822 正直、最近の赤木さんの言説には強い力を感じません。結局、自分の立場を逆転するためだけの
発言(希望は戦争)に過ぎなかったのかなぁ・・・と幻滅してます。
■
>>828(考える足さん)
「自己責任を放棄した奴が蟹工船を読んでる・・・(略」については、勇み足という受け取られても当然だと
思いますが(私も、外伝を聞く前には
>>393のように感じました)、柳瀬さんの外伝での詳しく説明を聞くと、
蟹工船発言も、一貫した立場からなされているように思いました。
柳瀬さんは、「蟹工船を読むこと」が、「自己・自分が担える領域に対して、何ら責任を感じない態度を、
倫理的・道徳的に善とみなさせる」
>>554 ことと結びついてしまっていることを、問題にしたのだと思います。
>>830訂正 ×勇み足という受け取られても→勇み足と受け取られても すみません。
832 :
ラジオネーム名無しさん:2008/06/28(土) 15:01:44 ID:70ZDoQd+
>>827 ん?何でかな
一つの意見を多角的に捉えるのと
全く関係のない中傷の発言は
別のでしょ
さっき書いたようにそれも勿論必要なものだと思うけど
柳ちゃんの場合内容がどうこうってことより、なんで地方の話から蟹光線まで話が広がるわけ?って思う。あなたは何を企んでるの?って言いたくなる
俺ずっとXXだと思ってたけどこりゃもしかしてXYか
>>830 > 柳瀬さんは、「蟹工船を読むこと」が、「自己・自分が担える領域に対して、何ら責任を感じない態度を、
> 倫理的・道徳的に善とみなさせる」
>>554 ことと結びついてしまっていることを、問題にしたのだと思います。
なるほど、そうすると僕の考えと柳瀬さんの考えにズレがあります。正直、柳瀬さんが蟹工船を読み事を
「自己・自分が担える領域に対して、何ら責任を感じない態度を、倫理的・道徳的に善とみなさせる」
というようにナイーブに考えているのなら、それは少し違うのではと僕は考えます。
僕は
>>549の柳瀬さんの自己責任とは「環境や他人が原因であってもその結果が自分に降りかかってきて、
その原因を作った物が責任を負い切れる訳は無い」と言う当たり前のことを言ってるに過ぎないと思います。
例えるならば、あるAがBに怪我をさせてもその「怪我を負うこと」「怪我からの復帰」は
Bで無ければ出来ないと言うことです。Aは原因を作ってもBの人生の肩代わりなど決して出来ない。
Bは自らの努力で怪我から復帰するしかない(どれだけ理不尽であろうが)。
ただし、社会的にAが今後他人に怪我をさせないようにする政策を論ずることは意味があると思うのです。
つまり、蟹工船を読むということは味社会問題を意識し、
社会政策上の問題を取り上げる切っ掛けとして十分意味があると考えてます。
>>833 > 柳ちゃんの場合内容がどうこうってことより、なんで地方の話から蟹光線まで話が広がるわけ?って思う。
> あなたは何を企んでるの?って言いたくなる
地方の話を取り上げたのはメールへの反論で、蟹工船の話は柳瀬さんがマッチョな発言
(意訳するならば、タフに頑張れ)を強調して言いたかったに過ぎないのではないでしょうか?
>>172 > 外国人が口出すなとか言ってるヤツも居るが、そもそもおまいらの言う『日本』なんて国は とっくの昔に破綻して伝説の存在でしかないみたいなもんだろw
> 今の日本てのは既に違う国になってんの
> それに日本人よか外国人の方がよっぽど働くし子供もキチンと作る
> 平成攘夷バカや嫌韓厨ニートは少し現実見て物言おうぜ
それで、どうして政界再編が起こらないことに繋がるのですか?
あ、
>>837は違う板の話です。無視してください。
■
>>832については、
>>820 ←
>>821 ←
>>823 ←
>>827 を見てください。
■
>>835 「環境や他人が原因であってもその結果が自分に降りかかってきて、その原因を作った物が責任を負い切れる訳は無い」は、
わかりにくいのですが、続く文章からすると、「ある好ましくない結果が、環境や他人が原因となって、自分に降りかかって
きた場合、その原因となった物・者は責任を負い切れる訳は無い」という意味でしょうか?
だとすれば、上は「事実上全責任を負うことを強いられている者の「責任」」を一般的に肯定する考えですらありません。
他人が原因となっている場合ですら、当然に「自己」に責任を強いているからです。ある「他人」=自己の責任が不問に
なっていることからいって、典型的な「自己責任論」と言えます(参考:
>>549)。
AがBに怪我をさせた場合に問題になる責任とは、AがBに怪我をさせない責任です。その責任が認められるから、
Aは、Bの回復や損害に対して補償を求められることになるのです。
B自身が回復することは、必ずしもBの責任とは限りません。Bが負った怪我からの回復が可能とは限らないからです。
回復可能な場合は、B自身ができる範囲で、回復する方法をとる責任は確かに認められますが、それを努力の問題と
みなすのはかなりおかしいです。Aのせいで回復に努力が必要な程度の怪我を負ったBに対して、そこからの回復は
本人の意欲の問題だということが、どれだけ残酷なことか、具体的に想像すれば明らかなことです。
そこで必要なのは、サポートであって、責任の強調ではありません。サポートされた上で、するかしないかのところまで
持ってきたところで、責任の問題が出てくるだけです。
よく言うけど作品が人を救うって、本当かなぁ。
勇気をもらうとか、気持ちが楽になるぐらいはあるけど、
突発的な衝動の抑止力にはならないよなぁ。(逆に助長することもあるし)
現実の人間に比べると距離が凄く遠い気がする。
てか、これは別々に考えないといけないものなのか。
健全な世の中には文学(物語)が必要だし、健全に生きていくには特別な他者がいるってか。
(
>>839の続き)
Aを社会、Bを低賃金で雇用される人々とみなすとしても、Bに認められる責任とは、公平に見て、Bがとれるはずの
手段をとるか、知っていて取らない場合は、そのツケを払う責任です。Bが置かれた状況が不当に劣悪な場合には、
劣悪でない状況に置かれた人々よりも、努力する責任が求められる、という考え方には、それを正当とみなす根拠が
ありません。そこでの努力は、責任の問題ではなく、決意とか、気概の問題です。柳瀬さんが問題にしていたのは、
決意や気概をもつこと自体はよいことだし、それをもつしかない状況において、状況を引き受ける人達が、状況を
克服しなければ引き受けざるを得ない結果を知りながら、決意や気概をもつこと自体の困難にかこつけて、共感の
度を越えた、倫理的な善というお墨付きを与えることが、欺瞞的で無責任だということのはずです。
>>839 > 続く文章からすると、「ある好ましくない結果が、環境や他人が原因となって、自分に降りかかって
> きた場合、その原因となった物・者は責任を負い切れる訳は無い」という意味でしょうか?
その通りです。
> AがBに怪我をさせた場合に問題になる責任とは、AがBに怪我をさせない責任です。その責任が認められるから、
> Aは、Bの回復や損害に対して補償を求められることになるのです。
なるほど、僕は「結果に対して、その後の対応する主体が誰にあるのか」という視点で責任を捉えてました。
幾つかの結果を推測した上で、「悪い結果にならなくて済んだ結果について責任がある」と言うことですね。
> 回復可能な場合は、B自身ができる範囲で、回復する方法をとる責任は確かに認められますが、それを努力の問題と
> みなすのはかなりおかしいです。
> Aのせいで回復に努力が必要な程度の怪我を負ったBに対して、そこからの回復は
> 本人の意欲の問題だということが、どれだけ残酷なことか、具体的に想像すれば明らかなことです。
本人の意欲の問題とまでは言いませんし、確かに残酷で不条理なことなのですが、
それでも本人がやるしかないのではないでしょうか?他人がその本人に代わり行動することは不可能なのですから。
> そこで必要なのは、サポートであって、責任の強調ではありません。サポートされた上で、するかしないかのところまで
> 持ってきたところで、責任の問題が出てくるだけです。
もちろん、これは分かります。サポートは極めて重要です。最近政府が非正規労働者に対する
職業訓練を増やしてますがこれは理に適ってると思ってます。
>>840 > よく言うけど作品が人を救うって、本当かなぁ。
僕も個人的にそこまで強烈な印象を受けた作品は無いのですが、
そういう人も居るだろうと言う事は想像出来ます。
作品見て涙流す人等居ますよね?(特に女性)
> 健全な世の中には文学(物語)が必要だし、健全に生きていくには特別な他者がいるってか。
個人的には加藤のような犯罪を犯さないためには
「良い家族関係」「良い友人関係」「良い仕事」「良い希望や信念、宗教心」
みたいな物の内、一つでも存在すればいいと思ってます。
■
>>842 ▼> 幾つかの結果を推測した上で、「悪い結果にならなくて済んだ結果について責任がある」と言うことですね。
違います。ある自己が責任を担うべきなのは、担えるはずの負担をある自己が負わなければ、その負担が
他の自己に不当に帰属させられてしまうと考えられるからです。AがBに怪我をさせない負担を負わなけば、
Bに不当な負担が課せられることになります。それは個人を尊重する価値観からみて、不当な帰結です。
「結果に対して、その後の対応する主体が誰にあるのか」は「結果に対応する主体は誰か」の意味でしょうが、
それは、見解の相違というレベルではなく、責任と捉える理由がありません。責任があるということは、
具体的な行為を求める(場合によっては強いる)理由があるということですが、「ある主体の対応が期待される
ならば、他の主体がある主体の対応を要求する理由が当然にある」ことにはならないからです。
▼> 本人の意欲の問題とまでは言いませんし、確かに残酷で不条理なことなのですが、
> それでも本人がやるしかないのではないでしょうか?他人がその本人に代わり行動することは不可能なのですから。
その点は、
>>841に説明したとおり、責任の問題ではなく、決意・気概の問題です。
>>841 > (略)そこでの努力は、責任の問題ではなく、決意とか、気概の問題です。
そうだと思います。僕の主張もその決意を持って本人がやるしかないと言う点にあります。
当然、周りからのサポートが重要ですが、不条理にも無い場合もあると思います。
その際にはより強い決意でやるしかないと思ってます。
> 柳瀬さんが問題にしていたのは・・・(略)・・・共感の度を越えた、
> 倫理的な善というお墨付きを与えることが、欺瞞的で無責任だということのはずです。
ここが少し僕の柳瀬像とずれます。柳瀬さんは
「共感の度を越えた、倫理的な善というお墨付きを与えることが、欺瞞的で無責任だ」
というより、むしろ
「倫理的な善というお墨付きを与えて、本人が努力せず人生が好転しない事」に対して
「識者は無責任だ」「本人の人生を(識者は)背負えない」と発言してるのだと認識してます。
柳瀬さんはあくまで「倫理的な善悪」ではなく「発言に対する結果責任」を非難してるのではないでしょうか?
(
>>844の続き)
▼> サポートは極めて重要です。
>>835 ←
>>839の文脈を離れて、ただサポートの重要性を確認するようなふるまいは無意味です。
自分のした発言との整合性を配慮してください。あなたは、サポートの重要性を実質的に軽視する議論を
835で展開したのです。これは事実であり、あなたの意図でねじまげていい問題ではありません。
▼> 最近政府が非正規労働者に対する職業訓練を増やしてますがこれは理に適ってる
「職業訓練を増やしている」だけで、理に適っているとみなすことはできません。
実効的な職業訓練かどうかが問題です。職業訓練を受けるのにお金がかかりすぎたり、
期間が短すぎたり、雇われても、何らかの一般的な問題が原因ですぐにクビになるのが実態であれば、
あまり意味はありません。また、人は、食い扶持がありさえすれば生きられるというものではありません。
そういう面をサポートする観点から言えば、職業訓練を増やすことは全く無意味です。
だ〜か〜ら〜 柳瀬は蟹工船自己責任ホザく前に
まず経団連と日経の総括やれってばよw
話しはそれからだ
>>844 > 違います。ある自己が責任を担うべきなのは、担えるはずの負担をある自己が負わなければ、その負担が
> 他の自己に不当に帰属させられてしまうと考えられるからです。
なるほど、良く分かりました。
> 「結果に対して、その後の対応する主体が誰にあるのか」は「結果に対応する主体は誰か」の意味でしょうが、
> それは、見解の相違というレベルではなく、責任と捉える理由がありません。
僕が責任の意味をよく理解してなかっただけのようですね。
■
>>845 ▼> そうだと思います。僕の主張もその決意を持って本人がやるしかないと言う点にあります。
> 当然、周りからのサポートが重要ですが、不条理にも無い場合もあると思います。
> その際にはより強い決意でやるしかないと思ってます。
本人がやるしかないことから、本人の目をそらさせることを倫理的に正当化するのは間違っていますが、
本人がやるしかないと言う点を、本人に強いるのも間違っています。
>>841に書いた通りです。
845さんはご自身の発言の「効果」を意識すべきです。「不条理にも無い場合もあると思います。
その際には強い決意でやるしかないと思ってます。」と安直に結論付けるような態度は、そういう
不条理をそのまま黙認すれば、結局「自己」に責任帰属できるという発想と簡単に結びつきます。
また、不条理に直面すれば、人はダメージを受けます。簡単に「強い」決意でやるなどと言ってのけるのは、
私には理解できない態度です。強い決意を持てるようにサポートxすることが絶対に必要であり、
サポートがなかったなら、その場合はうまくいかない可能性が高いという事実を、端的に認めるべきです。
言説のレベルで、決意、決意、と簡単に繰り返すのは、避けるべきだと思います。
▼> 「共感の度を越えた、倫理的な善というお墨付きを与えることが、欺瞞的で無責任だ」というより、むしろ
> 「倫理的な善というお墨付きを与えて、本人が努力せず人生が好転しない事」に対して
> 「識者は無責任だ」「本人の人生を(識者は)背負えない」と発言してるのだと認識してます。
> 柳瀬さんはあくまで「倫理的な善悪」ではなく「発言に対する結果責任」を非難してるのではないでしょうか?
「…倫理的な善というお墨付き」の前に、「状況を引き受ける人達が、状況を克服しなければ引き受けざるを
得ない結果を知りながら、…」と書いてある通り、この部分では、私はあなたと同じように考えています。
(「発言に対する結果責任」は、「発言が結果の重大性を考慮しない無責任なものであること」ぐらいの意味だ
と思われます。意味と使う言葉の対応関係を工夫するとよいと思います)
>>846 >
>>835 ←
>>839の文脈を離れて、ただサポートの重要性を確認するようなふるまいは無意味です。
> 自分のした発言との整合性を配慮してください。あなたは、サポートの重要性を実質的に軽視する議論を
> 835で展開したのです。これは事実であり、あなたの意図でねじまげていい問題ではありません。
いえ、
>>835はサポートについては何も主張してないです。
>>848で述べたように僕が「責任の意味」を
よく理解してなかったから、誤解を招いたかもしれません。
つまり、
>>835でいいたかった事は、他人が原因で自分が困難に面しても「気概をもって自分でやるしかない」
と言うことになります。
> 「職業訓練を増やしている」だけで、理に適っているとみなすことはできません。
> ・・・(略)・・・
> そういう面をサポートする観点から言えば、職業訓練を増やすことは全く無意味です。
その通りだと思います。
>>843 >>「良い家族関係」「良い友人関係」「良い仕事」「良い希望や信念、宗教心」
>>みたいな物の内、一つでも存在すればいいと思ってます。
「良い家族関係」ではなかった為に「良い友人関係」を築けず、独りで迷走して「良い仕事」も得られず、
その結果「良い希望や信念、宗教心」をもてなかったのが加藤なんじゃないかなと思う。
これらは別々な要素のようで連鎖的なものだと思う。
そもそも「家庭関係」も社会と関係してるから、全てが繋がってるといえる。
何を個人の問題として何を社会の問題とするかなんて難しい話だな。
あと蟹工船の話はそれを読んだ人達が、ただ共感を得て終わるのと、
実際に行動を起こすかで話が変わってくるよなぁと思った。
しかし、作品にそんなに影響力があるとすると、
どういうものを読んだ人間がこうなるとか、どういう人間がこういうものを読むとか、
そういう話になっていくわけで、作品が人を救うって考えもそうだけど、ちょっと宗教じみてくるね。
■
>>848>>850 丁寧にレスのやりとりができて、よかったです。こちらこそ、ありがとうございました。
>>849 > 本人がやるしかないと言う点を、本人に強いるのも間違っています。
>>841に書いた通りです。
良く分かります。
> 845さんはご自身の発言の「効果」を意識すべきです。「不条理にも無い場合もあると思います。
> その際には強い決意でやるしかないと思ってます。」と安直に結論付けるような態度は、そういう
> 不条理をそのまま黙認すれば、結局「自己」に責任帰属できるという発想と簡単に結びつきます。
>
> また、不条理に直面すれば、人はダメージを受けます。簡単に「強い」決意でやるなどと言ってのけるのは、
> 私には理解できない態度です。強い決意を持てるようにサポートxすることが絶対に必要であり、
> サポートがなかったなら、その場合はうまくいかない可能性が高いという事実を、端的に認めるべきです。
> 言説のレベルで、決意、決意、と簡単に繰り返すのは、避けるべきだと思います。
全くその通りですね。自分の発言の「効果」、安易な決意の繰り返しは気をつける必要があるようです。
> (「発言に対する結果責任」は、「発言が結果の重大性を考慮しない無責任なものであること」ぐらいの意味だ
> と思われます。意味と使う言葉の対応関係を工夫するとよいと思います)
上述と同じように僕は自分に対しても戒めなければならない事のようです。
>>852 大体、考え方が近いことが分かりました。
こちらこそ、ありがとうございました。