吉原のティアラって店利用する?【TIARA】避難所★5

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津波に襲われながらも、車の運転席から窓の外へはい上がり、最後まで生きようとしていた。
岩手県陸前高田市の石川猛さん(当時60歳)。市内で写真スタジオを営む佐々木宏さん(58)が
高台へ逃げながら津波を撮った写真に、偶然その姿が写り込んでいた。
「何を思いながら、逝ったんだべな」。写真を引き取った義母スミさん(83)は、涙なしでは見られなかった。

◇義母「何を思い、逝ったんだべな」
あの日、休暇だった猛さんは朝早く、エメラルドグリーンの特徴あるワンボックスカーで家を出た。
解禁されたばかりの渓流釣りのため気仙川上流へ向かったらしい。だが揺れの後スミさんを助けようと海が近い自宅へ戻ろうとした。
孫の車で逃げ無事だったスミさんに避難所で、釣り仲間が教えてくれた。
その後間もなく、猛さんは遺体で発見された。スミさんが買ったセーター見慣れた黄色いダウンジャケットを身につけていた。
佐々木さんは、山へ逃げる途中、手にしていたカメラで、津波に押し流される街を写し続けていた。
昨年末、プレハブで写真スタジオを再開。現像した写真を地元の人々に見せると、驚きの声が上がった。
「これ、石川さんの車でねえか」
1〜3枚目。倒壊した家々や樹木などとともに、エメラルドグリーンの車を濁流がのむ。
4枚目。その車の窓から上にはい上がる、黄色いダウンジャケットの男性。そして最後はがれきの中に吸い込まれ……。
時間にしてわずか1分、最期の場面を刻んだ計18枚。
「無我夢中で、人が写り込んでいることに気付かなかった」。佐々木さんは迷いながらも写真の存在を知ったスミさんが「見たい」というので手渡した。
スミさんは3年前、同居の次女喜久子さん(当時51歳)を肺がんで亡くし、本当の息子のように信頼していた婿の猛さんに、財産を引き継ぐことを決めていた。
「おらいの父さん(猛さん)は、本当に年寄りを大事にする。だから、とっても、いだましくて、いだましくて」
写真を受け取ると「可哀そうに」と涙しながら、その最期の姿を自身の目で確認できたことに感謝した。


「本人には悪いが、息子は就職戦線での“負け組”でした」。長男を「過労自殺」で亡くした父親は
そう言葉を絞りだした。
平成20(2008)年8月2日朝、村井義郎(65)=仮名=は兵庫県尼崎市の自宅で長男
智志=当時(27)、仮名=の変わり果てた姿を見つけた。スーツのズボンに白い肌着という
出勤時に着る服装のまま、首をつっていたという。
智志は、死のわずか4カ月前に「正社員」になったばかりだった。それまでの5年間を
アルバイトなどの非正規労働者として働きながら就職活動に費やしていたのだ。
智志が大学を卒業したのは、就職氷河期まっただ中の15年3月。前年10月時点での就職内定率は
64・1%だった。いまや24年3月の卒業予定者で59・9%というさらに厳しい時代を迎えているが
当時でも智志は3年生から応募を始め、書類選考だけで落とされ続けたという。
ようやく面接にこぎつけた会社からは、容姿をけなされる“圧迫面接”を受け、自信を失ったこともあったが
希望は捨てなかった。義郎を安心させたいという思いが強かったのだろう。
回り道の末に採用が決まったとき、智志は「やっと正社員になれたよ」と笑顔で報告している。

■求人時は「朝7時15分〜午後4時15分」
就職先は大手飲料メーカーの孫請けで、自動販売機に清涼飲料水を補充する会社。
コンピューター関係の仕事に就きたいという夢を持ち、資格取得に向け勉強もしていた智志にとって
求人広告にあった午前7時15分〜午後4時15分という勤務時間は魅力だった。
だが、実態は違った。朝は6時台に出社し、清涼飲料水を運ぶトラックの洗車を済ませておかねばならない。
トラックで自販機を回り、商品補充を終えて夕方帰社しても、翌日分の積み込み作業とルート確認在庫管理などに追われ、帰宅は深夜になった。
補充自体も過酷な肉体労働だ。1日のノルマに加え、自販機の故障や客からの苦情があれば急行しなければならない。「倒れそうです」。自殺1週間前の7月26日の日報にはこう記したが
智志だけでなくほかの従業員も「まじで無理!!」とつづっていた。
「耐えられないなら、辞めてもいいよ」。姉の寛子(34)=仮名=は何度もいたわったが
智志の答えはいつも同じだった。
「せっかく正社員になれたんやから、もう少し頑張ってみるよ」