孤男に関係しそうな言葉を引用するスレ

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70名前は誰も知らない:2011/08/22(月) 22:19:20.02 ID:XHNDV8LT0
鈴木瑞実「悲劇の解読―ラカンの死を超えて」から
「まなざし」のみがコミュニケーションの手段である世界とは、「ことばの世界」と異なって、自分と他人の
区別がない世界、自分が他人であり、他人が自分である世界なのである。

フランスの特異な精神分析学者ジャック・ラカンは、秩序ある日常的な「ことばの世界」を<象徴界>と呼び、
ことばなき愛と死の嵐が吹きすさぶ二人だけの「まなざしの世界」を<想像界>と呼んだ。

一方、<象徴界>に対置されるべき<想像界>とは、「まなざし」が生み出すイマージュ=「心像」によって閉ざ
された世界である。そのノン・バーバルな愛の世界、子宮の中の胎児のまどろみにも似た世界=<想像界>とは、
<象徴界>が「ことば」―ロゴスによって規定された理性的・秩序的思考が支配するいわば「父性」を思わせる
世界であるのに対し、本質的に母性的な世界であるだろう。

「想像界」にはよきもの・美しきもののみが存在するわけではない。その「まなざしの世界」とは、「掟」と
「ことば」を欠く本源的にアナーキーな場である。「自己」と「鏡像」(小文字の他者a)との間に成立する
不安定な間主観的にこそ、すべての性倒錯(サディズム、マゾヒズム、窃視症、同性愛など)の種子が孕まれ
ている、とラカンは言う。

ラカンの批判の対象は、バリント『一次愛と精神分析技法』(1952)である。彼の主張をまとめれば、「一次愛」
とは余りにモラル的でありすぎ、その自閉的な「他者不在」のあり方では、たとえば「間主観的」な失調形態―
種々の倒錯行為など―を説明することができない、ということになる。

「想像界」においてはヒトは、鏡像としての他者a、端的には母のイメージに対し、限りない親しみを抱くと
同時に、激しい葛藤を抱かざるをえない。それはaとa'がおたがい相手を支配しようと激しい戦いを繰り広げる
関係(ヘーゲルのいわゆる「主と奴の弁証法」)、母と子の近親相姦から死に至る泥沼のごとき癒合関係(フロイト)
にほかならぬのである。
この「想像関係」に終止符を打つべく、「大文字の他者A」が出現する。これは、「小文字の他者a」のような
鏡像=自己の似姿としての「偽の他者」などではなく、一つの絶対的な他者、いわば「真の他者」である。
ラカン理論においては、この他者Aは「真の他者」であると同時に父性を表わし、この「A」の出現がa-a'の
ラインの葛藤と癒合を禁ずる、といういわゆるエディプス・コンプレックスの図式がここに導入される。

ラカンは、ウィニコットの「移行対象」の考えに大きな影響を受け「対象a」概念を創出した。

ラカン理論における「対象a」とは、先ず「想像界」において、「鏡像化」され得ぬナルシシズム的な対象、
一種の「残滓」として出現してくる。また、「象徴界」においては、それは把握され得ない一種の「欠如」
としてあらわれる。

言語表現の乏しさもまた、主体形成途上での「父」の出現による「象徴界化」が不全で、主体の「言語装置」
―シニフィアンのネットワークが十分形成されないためだろう。
71名前は誰も知らない:2011/08/22(月) 22:19:58.76 ID:p7+cP6aW0
一望監視装置
72名前は誰も知らない:2011/08/25(木) 00:26:39.35 ID:HAFbOwfV0
>>61
3行目の最初の誤変換はわざとですか?
73名前は誰も知らない:2011/08/30(火) 13:48:07.54 ID:Bg2YtXs00
百年の孤独買ってきた
しかし本屋入る度に諭吉が飛ぶから困る
7473:2011/08/30(火) 13:53:48.43 ID:Bg2YtXs00
誤爆


まだふはふはしてゐる。少しも落ち附いてゐない。だから此世にゐても、此汽車から降りても、
此停車場から出ても、又此宿の真中に立つても、云はゞ魂がいやいやながら、
義理に働いてくれた様なもので、決して本気の沙汰で、
自分の仕事として引き受けた専門の職責とは心得られなかつた位、
鈍い意識の所有であつた。そこで、ふらついてゐる、気の遠くなつてゐる、
凡てに興味を失つた、かなつぼ眼を開いて見ると……。

夏目漱石『坑夫』
75名前は誰も知らない:2011/09/08(木) 22:06:50.82 ID:Wq0gvH3k0
岸田秀「ものぐさ精神分析」から
精神病者は、その私的幻想のほとんどを共同化し得なかった者である。

発狂は、ある意味で、私的幻想の、失敗した共同化の試みであると言える。彼の私的幻想が妄想と呼ばれるのは、
他の誰一人としてそこにひとかけらの共同性を見なかったからである。

岡田尊司「統合失調症 その新たなる真実」
統合失調症はどんな性格の人でもかかりうるが、頻度からいうと、ある性格特性をもった人に多い事が昔から
知られていた。有名なのは、ドイツの精神医学者クレッチマーの「シゾイド」である。シゾイドは、非社交的で、
内向的で、孤独を好み、思索的で、浮き世の事からは超然とした気質で、神経繊細で、痩せ型の人が多い。
76名前は誰も知らない:2011/09/26(月) 23:14:30.59 ID:pFainfQk0
中島義道「孤独について 生きるのが困難な人々へ」から
もし、あなたが「死」を最も大切な問題だと考えているなら、孤独になるしか方法はない。そして、孤独になる
には、日常生活を犠牲にするしか方法はない。少しずつ日常生活から遠ざかるしか方法はないのである。健全な
日常生活を守りながら、孤独を獲得することはできない。

私は確信するが、孤独とはたいそう贅沢な境遇である。孤独な時間、われわれは存分に自分を鍛えることが
できる。孤独を紛らすのではなく、孤独によってずっしりと与えられた時間を額面どおり受けとめて、豪勢に
使うことができる。

『聖書』の中に、カインとアベルの話がある。カインは神様に愛されなかった。アベルは愛された。ゆえに、
カインは嫉妬のあまりアベルを殺した。その罰として、カインは額に印を帯びて一生孤独に地上をさまよわねば
ならない。簡単すぎる分類かもしれないが、世の中にはカイン型の少年とアベル型の少年がいる。そして、両者
はその後の人生においてまったく生き方を異にする。アベル型の少年が孤独をめざすことは滑稽であり当人に
とって苦痛であるが、カイン型の少年は心して孤独をめざすべきだと言いたい。

私にとって、この留学は人生を賭けた大事業である。しかし、彼の地に住むウィーン人や日本人にとって、私が
ウィーンに敗北して尻尾を巻いて祖国に逃げ帰り、その後廃人のような人生を送ったとしても、まったく構わ
ないのだ。

私はクリスチャンではないが、時折自分はまるでクリスチャンのようではないか、と思うことがある。

あるとき、私は失意のどん底に陥る。少なからぬ友人が離れてゆく。多数の知人が私を遠くからとり囲み、うさん
くさそうに眺めている。

ナルシスにはプラスのナルシスとマイナスのナルシスがいる。そして、私はマイナスのナルシスである。自分の
ことだけしか基本的に興味がない。関心が他人や世界に向かってゆかない。それは、水に映るわが身にうっとり
しているからではなく、水に映る自分の姿を見て猛烈な嫌悪を感じているからだ。自分がなぜこれほどまでに
問題児なのか、なぜこれほどまでに生きるのが下手なのか、それにこだわり続けるからだ。そして、それを後悔
してもしかたないと悟るとき、こうした自分を受け入れるほかないと悟るとき、ある人はマイナスのナルシスに
なる。
「自虐」とか「マゾヒズム」という空疎な言葉は慎もう。マイナスのナルシスとは自分が嫌いであるがゆえに好き
であるという構造がくっきり浮かびあがった人のことである。
77名前は誰も知らない:2011/09/26(月) 23:15:31.90 ID:pFainfQk0
中島義道「孤独について 生きるのが困難な人々へ」から
思い出を反芻しながら閉じこもること、人生を――少なくとも――<半分>降りることを許してほしい!

電話機をタオルでぐるぐる巻きにし、しっかり耳栓をし明かりを消して毛布にくるまりソファにごろんと寝ころ
べば、誰からも妨害されない。そして、私は「考える」のだ。これまでの人生のあの一こま、あの一こまを。
こうすればよかった。ああすればよかった。あのときあの人は何を考えていたのだろう。あのとき、あの人は
どんな気持ちでいたのだろう。そして、その人々のうちどの一人にも全然会いたくないのだ。電話をかけたくも
ないのだ。声を聞きたくもないのだ。もっと言ってしまえば、彼(女)がもう死んでいてもいっこうに構わない。
生身のその人にはまったく興味がないのだ。ただ、私が勝手に解釈できるかぎりの私の思い出の中のその人に
興味があるのだ。

私は親戚や学友の結婚式にもほとんど行っていない(招かれない)。それは――先に言ったように――親が親戚
との関係を決定していたからであり、いまだもって従兄弟ともほとんど付き合いがないからであり、大学時代
またともなコースから外れ、放浪しているあいだにほとんどすべての学友は――私に知らせることなく――結婚
してしまったからである。

私にとってとても居心地がよいのは、「明るく生きよう」という常識のウソがここにはないからである。みんな、
哲学を求めている。それは、生きにくいからなのだ。うまく生きることができないからなのだ。生きることが
とても下手だからなのだ。私はこうした人々が好きである。

じつは孤独を楽しみそれを活用するための絶対必要条件は次の二つだけである。
第一の条件は、あなたが他人とうまくやっていけないこと。他人の一人一人が嫌いなのではないが、他人と一緒
にいても自由に心を開くことができず、楽しくない。そして、とにかくくたびれる。すぐに、独りになりたいと
思ってしまう。そして第二の条件は、あなたが真に不幸であること(あったこと)。しかも、その不幸は社会を
改良すればあるいは環境を変えれば解消してしまうようなたぐいの不幸ではなく、あなたのうちに深く巣くって
いるような不幸であること。あえて言い切ってしまえば、「自分が嫌い」であるとう不幸であること。
第一の条件と第二の条件とは不可分の関係にある。第一の条件は「人間嫌い」と言えよう。だが、人間嫌いな人
とはじつは自分が嫌いな人なのである。

孤独を磨きあげてゆくこと、それは「死」だけが見えるようにすることである。つまり、自分の不幸を徹底的に
骨の髄まで実感することなのである。
78名前は誰も知らない:2011/10/07(金) 14:43:52.81 ID:8+Y1Fnqg0
小谷野敦「友達がいないということ」から
私が哲学者・中島義道(1946-)の『孤独について 生きるのが困難な人々へ』を読んで感心したのは、中島が、
そういうことを書いているような気がしたからである。しかし後になって中島が、ウィーン滞在中に同時に七人
の女性から求愛・求婚されたとか、実はけっこう社交的で世渡り上手だとか知って裏切られた気分になったものだ。

その当時、「人間関係プロレタリアート」という言葉があった。ほとんど広まらなかったが、友達がいない、少ない、
またこのような冷たいあしらいを受ける、という意味で、当時の私はまぎれもなく、それだった。

大学生だから「飲み」に行けば、
「どうしてあいつがいるの?」
などと囁かれ、そういう雰囲気がつらくて、だんだんこうした「友達」から遠ざかり、気がつくとひとりぼっち、
だったりする。

高校時代に友達がいないといったら、それはもう一種のいじめられっ子か、さもなくば「孤高の人」である。

男女を問わず、真面目人間には、友達ができにくい傾向がある。

森岡正博という倫理学者も、「無条件の愛」などと言っているが、恋愛関係であろうと友達関係であろうと、
相手を選んでいるのだから、無条件などということはありえない。
そもそも「愛」という言葉は、間違って使われている、と私は考えていて、それは西洋でも同じこだが。本来、
「愛」であれラヴであれ、博愛とか人類愛といった、排他的でない感情や態度に使われるべきものであって、
恋愛や家族愛などという、相手を限定したもに使われるべきではないのである。
恋愛の場合は特にそうだが、1人の相手を選んだ時に、相手も自分も、それ以外の誰かを排斥していることが
多いのでありそれは「愛」とはいえない。恋愛というのは差別的なものなのである。
それは友達関係でも同じであり、誰かを友達として選ぶ場合に、人はそれ以外の人間を排除し、差別している
のである。そんなところで公正さなどを求めるのは、間違いである。

精神分析とかカウンセリングとかいうのは、科学的根拠に乏しく、つまりそれで治るという見込みは薄い。
日本では精神分析医というのはあまりいないが、米国では一時期大流行していた。とはいえ、いずれも、友達
とか、個人的なことを相談できる相手がいない場合の話し相手にしているのが実情ではないかと思う。といっ
ても、もちろん、カネはとられる。セックスの相手がいない相手に、カネで相手をするのが娼婦なら、友達が
いない相手に、カネで話し相手になるのが精神分析医やカウンセラーである。こんなことを書くと、侮辱だと
言って怒る人がいるかもしれないが、それは娼婦に対する侮辱である。

「リア充」という言葉があって、要するにネット上ではなくて「リアル」で充実している、という意味である。
やはり、リアルでの友達こそ、ほんものだろうという、ボナールやセネカとは遥かに遠いところへ、私たちは
来ている。

小説で「孤独」を描くというのは、実はけっこう難しいことで、なぜなら小説というのは基本的に、人と人との
関係を描くものだからだ。
79名前は誰も知らない:2011/10/29(土) 22:59:38.89 ID:a3F1sZiM0
トニー・マイヤーズ「スラヴォイ・ジジェク」
広い意味でとれば、想像界とは、休むことなき自己の追求、自己は統一されているという物語を支えるために、
次から次へとおのれに似た複製を取りこみ、融合しつづける動きのことだ。

村上龍「タナトス」から引用改造
「モノ、つまり被支配者だけが語るんだ、モノを語るのは奴隷や宦官や反戦民族や被差別者や弱者やマイノリ
ティだ、略奪して殺して犯すだけの戦争民族は真実を語らない。生命の危機とかそのくらいのモティベーション
がないと誰も進んで言葉なんか組み合わせようとは思わない、大人になってから外国語を勉強することを考え
てみろ、外国語を習得しようとするのは追い詰められた奴だけだ、俺達の祖先がやったのは、もちろんそれに
は気が遠くなるような長い時間がかかったにせよ、外国語の習得なんかじゃなくて、言語の創造だ、そんなこと
をやった奴は誰だ?狩りだろうが炎を囲んでのだんらんだろうが言葉なんか要らない、じゃ、誰だ?死刑囚や
奴隷達だろうと俺は思う、あるいは生まれつきからだが不自由だったり弱かったりして狩りに参加できなかった
奴らだ、基本的に、弁明が必要で、その弁明だけで死から免れるっていう連中だ、それが言語の起源だと思う、
モノガタリの起源でもある、マゾヒスティックなんだ、警察右翼は笑いながらマゾヒストの監視部屋や廃墟を
のぞいて無視するだけだ。

「現代思想ガイドブック スラヴォイ・ジジェク」(だった気がする)
大文字の他者の法に従属していないとき、「私法」や主従関係に頼ることで、公的権威の喪失を埋め合わせ
しがちである。そのような人は、主人に対してすすんで奴隷になったり、支配的なものに対してすすんで服従
したりすることで、リビドーの満足を得る。

ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」から
この器官なき充実身体は、非生産的なるもの、不毛なるもの、発生してきたものではなくて始めからあったもの、
消費しえないものなのである。アントナン・アルトーは、自分がいかなる形態(手にふれられるような形や体)
をとることもなく、またいかなる形象(眼に見えるような姿や形)をなすこともなしに存在していたその時に、
この器官なき身体を発見したのだ。死の本能、これがこの身体の名前である。この死には、モデルがないわけ
ではない。

この主体は、固定した一定の自己同一性(身元)をもたない奇妙な主体である。この主体は、器官なき身体の
上をさまよい、常に欲望する諸機械の傍にあって、生産されたものからいかなる取り分を吸収するかによって
自分が誰であるかを明確にしてゆくものなのだ。

生産的無意識は、もはや自分を表現することしかできない無意識――神話や悲劇や夢の中において自分を表現
することしかできない無意識に――席をゆずることになる。

サン=テグジュペリ「人間の土地」から
道路は不毛の土地や、石の多いやせ地や、砂漠を避けて通るものなのだ。道路というものは、人間の欲望の
ままに泉から泉へと行くものなのだ。

計見一雄「統合失調症あるいは精神分裂病」
我々はこのようにしか自己を概念化できず、ある意味では、他の考え方ができないということです。我々は
そのようにしか配線されていない。
80名前は誰も知らない:2011/11/10(木) 11:06:40.92 ID:7jnxeqhY0
行動しているあいだ、私たちには一個の目標がある。だが、終わったとたんに行動は、追い求めた目標と同様、
私たちにとっても実在性を欠くものとなってしまう。してみると、はじめからそこになんら実質的なものはなかったのだ。
ただの遊戯だったのだ。だが、人間のなかには、行動しちる最中に、遊戯でしかないことを自覚する者がある。
そうした人間は、前提の段階で結論を、潜在的なものの段階で実現されたものを体験してしまい、
彼らがこの世に生きているという事実それ自体によって、真摯なものを根こそぎ引っくりかえしてしまうのだ。
実在性の欠如を、世界を蔽う不毛をまざまざと見る能力は、毎日のように味わう感覚に、突然の身震いが結合した成果である。
一切は遊戯だ―この重大な発見をぬきにしたのでは、私たちが日ごとに身に刻みつつあるもろもろの感覚は、
形而上学的体験と、不快感というその偽造品とを峻別すべき、あの明証性の徴を持つことはないだろう。
というのも、不快感とはつねに、出来損ないの形而上学的体験にすぎないからである。

シオラン『生誕の災厄』
81名前は誰も知らない:2011/11/22(火) 20:33:59.00 ID:9NeDTJ850
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
淋しい。淋しいなど、人に言ってはいけないのであろうが。何故に淋しいのか。孤独か。自己の貧寒なためか。
望郷か。いろいろある。もっとも大きな原因は、一人ぼっちということだ。
82名前は誰も知らない:2011/11/22(火) 21:45:46.87 ID:9NeDTJ850
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
みずからを下げることが友情ではない。友情とは、相互の上昇でなければならない。上昇はすべての根本だ。
低俗で退屈な交友よりは、充実した孤独を望む。
現在のぼくの孤独を、しっかり噛みしめて、そこに沈潜してみよう。これは深い意味を持つ孤独だ。独りで
いること、これこそ生の根源だ。
83名前は誰も知らない:2011/11/23(水) 20:42:51.24 ID:pnS/Jiaf0
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
ぼくは独りである。ただ可能なことは、至高の友人を予想しつつ、生を高めることである。その人に対し、常に
誠実であり、偽らぬことである。そうして生きることが、わが生である。
勉強とは「何をいかに学ぶか」という二点に力点がおかれる。自己の自覚も同様である。ぼくにとって学問とは、
より広く深く、自己を認識することである。
84名前は誰も知らない:2011/11/28(月) 22:16:19.59 ID:tDKxN8kS0
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
小説が、ぼくに教えてくれたものは、生活の基礎としての愛、人間が存立しうる基礎としての愛だ。ぼくの
生活の空虚さは、かかる愛の喪失だ。それならば、どのようにしたら、この愛が取り戻せるというのだ。
85名前は誰も知らない:2011/12/02(金) 19:10:48.54 ID:5d0kqUhm0
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
おれは高等学校いらいの孤独の生活であったが、やはりそれが性にあっているのだ。そしておれは、団体の
なかにあっては陽気に騒ぐほうではなく、寂しくとも孤独のほうが、はるかにぴったりしているのだ。
86月食領主 ◆DxgwL./BZw :2011/12/03(土) 01:40:49.92 ID:pfKP/ljNP
今の時代インプットは誰にでも出来るが
アウトプットは必ずしも誰にでも出来るという訳ではない
たまには自分の言葉で何かを表現してみたらどうだ?
87名前は誰も知らない:2011/12/05(月) 18:29:52.58 ID:Dz34xBMG0
林尹夫「わがいのち月明に燃ゆ」
おれは外面的な若さを捨てたかわりに、内面的な永遠の若さを獲得したと。すなわちおれは、老いることが
ない男になった、と信ずる。

この頃、わずかに時間の歩みの速くなったことを感ずる。
88名前は誰も知らない:2012/01/31(火) 16:55:49.99 ID:B5zIhAhJ0
スラヴォイ・ジジェク「「テロル」と戦争―“現実界”の砂漠へようこそ」から引用改造
エス(禁制の攻撃的欲動と性的欲望だと解釈される)を犠牲にした超自我(社会的権威)と自我(一般市民)
との直接的協定がある、とサヨクは主張している。そうしたことと構造的に似ている何かが、今日の政治レベル
においても進行しているのではないだろうか――ポストモダンなグローバル資本主義(超自我)と近代それ自体
(自我)とのプレモダンな諸社会(エス)を生贄にした異様な協定が。

まるでありふれた風景を見たかのような通行人の無視、それが警察右翼による在日に対する嫌がらせが普通の
出来事として受け容れられる素地を作りだす。直接的で野蛮な攻撃であればありそうにもないことが、ここでは
可能になってしまうのだ。他者をホモ・サケルとして扱うようになるとき、それと似た無視、ある種の倫理的
エポケーが動員される、と私は主張したい。
89名前は誰も知らない:2012/02/01(水) 15:52:57.95 ID:o9Z9kBQ60
鉛色の空には、鳥の羽根の層は薄くなり、鳩は少し高く上がり、
薔薇色の薄明かりが、屋根すれすれに、わたしの想像の新たな一日を告げている。
ダムラック通りでは、始発の市電が湿った空気に轟音を響かせ、このヨーロッパのはずれの生活の目覚めのベルを鳴らす。
その瞬間、何億もの人間、つまり私の臣下が、口のなかの苦みを噛みしめながら、
やっとのことでベッドから起き出して、喜びもなく仕事に向かう。
そのとき、知らずしてわたしに服従しているこの大陸の上を頭のなかで空高く飛翔し、
アプサンのような色の夜明けを飲み干しながら、やっと呪いの言葉に酔い痴れるんです。

いいですか、そんなわたしは幸福なんです。幸福なんですよ。
わたしは幸福なんだ、死ぬほど幸福なんだと思ってくれなければ困ります。
おお、太陽よ、浜辺よ、貿易風の吹く島よ、思い出すに胸のゆまる青春よ!

『転落』――アルベール・カミュ 大久保敏彦・訳
90名前は誰も知らない:2012/02/13(月) 22:22:34.72 ID:caZpbMDB0
孤独でいると、疲労も手伝って、えてして自分を預言者だとおもいこんでしまう、しょうがないですな。
結局、わたしの今の姿がまさしくそれなんです。
石と霧と腐った水の荒野に逃げ込んだ平凡な時代の虚しい預言者、
へべれけで高熱にうなされながら、黴の生えた扉に背をも凭せ掛け、低い空を指差し、
いかなる裁きをも我慢できぬ律法なき人間たちの呪詛に囲まれた、救い主のないエリヤってところですか。

なにせ彼らは、いいですか、いかなる裁きをも我慢できないのですからね。
問題のすべてはそこにあります。なにかの掟に従う者は裁きを恐れることはありません。
裁きは彼が信じている秩序を超えるようなことはないのですから。
しかし人間のいちばん大きな苦しみは律法なしに裁かれることなんです。

とはいえいまのわれわれはその苦しみのただなかにいるんですよ。
本来あるはずの轡を奪われ、裁判官たちは、盲滅法に奮い立って、性急にことを運んでいるのです。
となれば、彼らに先んずるよう努力しなければならないことになりますよね?
それこそ上や下への大騒ぎです。
預言者だの祈祷師だのがやたらと増え、結構な律法やら完璧な組織を携えて、
人が全滅しない前に目的を達しようとやっきになっているんです。

幸いなことに、わたしは到達しました、このわたしはね!
わたしは終わりであり初めであり、律法を告げるのです。
要するに、裁き手にして改悛者なんですよ。

『転落』――アルベール・カミュ 大久保敏彦・訳
91名前は誰も知らない:2012/02/21(火) 00:04:08.55 ID:qHYYwZMC0
私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、
人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に
押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた。
ともすると早春の空のただならぬ燦めきは、地上をおおうほどに巨きな斧の、
すずしい刃の光のようにも思われた。私はただその落下を待った。

三島由紀夫『金閣寺』
92名前は誰も知らない:2012/02/27(月) 00:20:12.58 ID:iKyLi9nJ0
香山リカ「「こころのSOS」をもっと発信しよう」から
私が20代だったころには、まだ携帯電話もネットもなかった。だから「私って孤独かも」という考えが頭を
よぎっても、それを確認する手段さえないので「もしかしたらこの瞬間も、遠くに住む友だちが思っていて
くれるかもしれないし」などと空想し、気を紛らわせることができた。それはただの錯覚かもしれないが、
それでも孤独が絶望に変わる前に気持ちを落ち着かせることはできた。
ところが、携帯電話の出現は空想や錯覚が生まれる余地を、残酷なまでに奪った。もし、自分のことを少し
でも思ってくれる人がいれば、手もとにメールの一通も届くはずだ。それが来ないということは、本当に誰も
自分のことなど気にしてない、ということなのだ。
ネットで公開する日記形式のブログにも、「誰が見ているか」をチェックする「足跡」と呼ばれる機能がある。
そこに誰の「足跡」もなければ、もう「きっとみんな見ているさ」と空想することもできない。
かくして、コミュニケーション手段の拡張は、孤独な若者たちに「誰も相手にしてくれない」という現実を
シビアに突きつけることになった。
まわりにいる20代から30代の人たちに容疑者の書き込みを見せ、「犯行と切り離して読んだらどう思う?」と
感想を求めると、「けっこうわかる」という答えが多かった。
ある人は「存在自体が迷惑だなんて、そんな人、誰もいないのに。私が読んでたら違うって言ったと思う」と
語っていた。
しかし、容疑者には自分に「違うよ」「捨てばちにならないで」と言ってくれる人などこの世にはひとりも
いない、と思い込んでしまったのだ。
携帯電話やネットが、逆に若者の孤独を深めている。
この事実をどうとらえ、どうやって若者たちに「ひとりじゃないよ」と声をかければいいのか。連日の報道を
見ながら気が重くなる。
93名前は誰も知らない:2012/03/08(木) 21:25:20.29 ID:BCwnHIAG0
でもね、いいですか、そうした愛情を取り戻すや、たちまちそれが重荷になってしまった。
苛々しているときなど、わたしの気を引く女が死ねば、
それこそ理想的な解決だと、自分に言い聞かせるときもありました。
そのような死はわたしたちの絆を決定的にしてしまう一方、
他方では、その絆の束縛を奪い去ってくれるわけですからね。

しかしすべての人間の死を願うわけにはいかないし、極端に言って、
地球から人類を抹殺してしまわない限り考えられない自由を楽しむなんてことはできない相談です。
それこそわたしの感情や人類愛に反することです。

(中略)

ああ! けっして自惚れからこんな話をしているのではないことだけは分かって下さい。
自分では一文も払わずにすべてを要求し、自分の用事のために多くの人間を動員し、
彼らをいわば冷蔵庫にしまっておいて、いつか都合のよいときにそれを取り出していたあの頃を考えるとき、
心に湧き上がるあの不思議な感情をなんと呼んだらいいんでしょうかね。

『転落』――アルベール・カミュ 大久保敏彦・訳
94名前は誰も知らない:2012/03/09(金) 16:14:06.06 ID:wva8fql7O
自分で作るって健康的にもいいよね
ずっと外食や出来合いだったから
久しぶりに自分で作ってみた 昨日の夜食
http://k.pic.to/2y8yl
http://n.pic.to/8dbb4
95名前は誰も知らない:2012/03/15(木) 02:06:21.33 ID:dbJFQ4jEO
良いねこのスレ
96名前は誰も知らない:2012/03/17(土) 21:40:47.84 ID:1xxu5Ws30
恋愛にも禁欲にも失敗したわたしは、最後に放蕩というものが残っていることに気づきました。
これならまさしく恋愛の代わりになるし、笑い声を黙らせて、沈黙を取り戻してくれるし、
それになによりも不死身にしてくれる。

夜更けに、二人の娼婦に挟まれて、すっかり肉欲を発散させ、
ある種の頭の冴え渡った陶酔に身を委ねていると、希望はもはや苦痛ではなくなってね、いいですか、
希望がすべての時間を支配し、生きる苦しみが永遠に溶け去ってしまう。
ある意味ではわたしはずっと放蕩に生きてきたんですよ、いつだって不死身になりたいと願っていたんですからね。
それこそわたしの本性だったのでは?
それはまた前にお話ししたわたし自身の際立った自己愛の成果ではなかったのでしょうか?

そうです、わたしはなんとしても不死身になりたかった。
自分があまりにも可愛かったのもので、自分の愛の貴重な対象がけっして消滅しないことを願わずにはいられなかった。
頭がはっきりしていて、またほんの僅かでも自分を知っているなら、
こんな猿みたいな好色漢を不死身にするためのもっともな理由なんて見つかるはずがないので、
その不死の代用品を自分で見つけ出さなければならない。
永遠の生を願っているがゆえに、わたしは多くの淫売とも寝たし、夜を徹して酒も飲んだ。
もちろん、朝方は、口の中には死すべき人間の条件からくる苦い味を噛みしめていましたがね。
しかし何時間かは、たいそう幸せそうに飛翔していた。

『転落』――アルベール・カミュ 大久保敏彦・訳
97名前は誰も知らない:2012/03/18(日) 05:56:46.44 ID:FzHZLR8A0
人間は孤独でいるかぎり、彼自身であり得るのだ。
だから孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間に他ならぬ。
孤独でいるときのみ人間は自由なのだから。

  ――ショーペンハウアー

世間にあって、世間の意見のままに生活していくのは容易である。
また孤独の境にあって、自分の意見のままに生活していくのも容易である。
この孤独の境地において持っている孤独を、群衆の中にあってもまもっている人こそ、至高の人である。

  ――エマソン
98名前は誰も知らない:2012/03/21(水) 09:40:27.20 ID:PAH5gG8S0
要するに、いいですか、大切なのはもはや自由であることを止めて、
自分より悪党であっても、悔恨を秘めてその男に屈服することなんです。
われわれがみんな有罪となれば、民主主義が到来するというもの。
一人で死ななければならないことに復讐すべきだということは別にしてね、あなた。
死が孤独であるのにたいし、隷属は集団的。
他の連中もやはりわたしたちと同時に死んでいきますが、それが大切なところ。
最後にやっとみんなが集まる。でも跪いて、頭を垂れたままでいる。

だから社会に合わせて生きることもまた良いことではありませんかね、
そのためには社会がわたしに似ることが必要ではありませんか?
脅迫とか不名誉とか警察とかは、そうした類似を出現させるための秘跡なんですよ。
軽蔑され、追い立てられ、強いられたときこそ、わたしは初めて自分の力を存分に発揮し、
あるがままの自分を享受し、やっと自然でいられるのです。

それがあなた、自由にうやうやしく敬意を捧げたあとで、たとえ誰であれ、
躊躇なく自由を返してやらなければと秘かに決意した理由なんです。

『転落』――アルベール・カミュ 大久保敏彦・訳
99名前は誰も知らない:2012/04/14(土) 15:26:32.92 ID:3rlSMPfc0
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え

言葉

何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え

読み

なにせうぞ くすんで いちごはゆめよ ただくるえ

意味

何をしようというのか くすんで 今のこの時間は夢だ ただ狂え
「かぶく(異風の行動をする)」ことを称揚する言葉。安土桃山から江戸にかけての日本文化の重要な一面をなす。歌舞伎のもとになっている。

備考

豊国祭礼図屏風を描いた岩佐又兵衛の言葉である。閑吟集からの一節である。
豊国神社の社頭に集まって踊り狂う民衆の姿はすばらしい。工夫を凝らした衣装をまとい、珍奇な被り物で練り歩く風流の集団の異形振りは圧巻である。
100名前は誰も知らない:2012/04/24(火) 01:54:08.82 ID:/YRJf5dK0
誠実さというものがどうして友情の条件になどなりえましょうか?
なにがなんでも真実を求めること、
これはなにものをも容赦せず、なにものも逆らえない情熱のようなものなんです。
それは悪徳であり、ときとして慰めであり、あるいはエゴイズムでもあります。

『転落』――アルベール・カミュ 大久保敏彦・訳
101名前は誰も知らない:2012/05/19(土) 20:02:02.67 ID:/KrkStDE0
宮台真司「きみがモテれば、社会は変わる。」から
孤独死も無縁死も、そして自殺も、じつは同じようなプロセス、同じようなパターンで人が死に向かいます。
いうならば「金の切れ目が縁の切れ目」。経済だけの問題ではなく、ポッカリと大きな穴があいてしまった
クソ社会。それが、ものすごい勢いで人々の幸福と生命を飲みこんでいるのが、この日本というわけです。

誰とも、どこにもつながれずにいると、人は驚くほどあっさり死んでしまうのです。

人から理解され、肯定され、承認されるという感情的な安全は、自分にとって、そして相手にとって「生命の
安全」さえ保障します。孤独死や無縁死を考えてみてください。たとえ何かでいきづまっても、当人が周囲
から受け入れられていると感じること。「自分は生きていてもいいんだ」と思えること。人が幸福に生きられる
社会には、必ずそういった〈包摂〉があるのです。
〈包摂〉のない社会では、人は幸せになれません。同じように〈包摂〉によって人を幸せにする人間、社会貢献
的で、利他的である人間だけが、みずからもまた幸せになれる。
102名前は誰も知らない:2012/05/19(土) 20:53:49.03 ID:rDk4v0If0
>>95
私もそう思う
みんな難しい本読んでるんだな
すごいや(´・ω・`)
103名前は誰も知らない:2012/05/20(日) 05:34:53.59 ID:aJTeusuL0
太田光「マボロシの鳥」から
「……この世で一番幸福なことは、誰かに必要とされることだ……」

中年男は口をつぐんだままだった。
そしていつもの、自己嫌悪だった。

ぼくは、キミの声でぼくの物語を聞きたいんだ。

ぼくの生きてきた人生をキミの声で聞くこと。それがぼくの、本当の本当の、目では見えない幸福だ。

太田光「文明の子」から
キャラクター達はみな、どこかで見たような顔をしていた。どこかの別の国の人気キャラクターのようだが、
でも、少し違うようで、チグハグな出来損ないのような印象だった。

「実はこちらの方が大きな問題ですが……こういった、いわゆる模造品文化というものが、大手を振ってまかり
通ってしまう社会であるということ。これは裏を返せば、その国固有のオリジナルの文化というものを発信し
にくい社会であるということでもあります。……これは長い目で見た場合、その国のオリジナリティというもの
を徐々にですが、消し去ってしまうという危険性があります。こちらの方がダイレクトにその国の文化に与える
影響としては心配ですね」
「なるほど。それはそうかもしれませんね。……あのテーマパークで、あのヌイグルミに飛び付いていた子供達
が、大人になった時に、自分達が大好きだったキャラクターが実は偽物だったと知った時、果たして子供達は
どう感じるのか?その時、本当に自分の国に対して誇りを持つことが出来るだろうか?それを考えると、切なく
なりますね」
104名前は誰も知らない:2012/05/21(月) 16:28:45.04 ID:go4OGP2b0
 ――人間の分際というものの不承認。そこからくる無気力。拗ねた理想の郷愁。気を悪く
した自尊心。無限を垣間見、夢みて、それと比較するために、自分をも事物をも本気にしな
い……。自己の無力の感じ。周囲の事情を打破る力も、強いる力も、按排するする力も無く、事
情が自分の欲するようになっていない時には、手を出すまいとする。自分で一つの目的を定
め、希望を持ち、闘って行くという事は、不可能な・途方もない事のように思われる。――

中島敦『かめれおん日記』
105名前は誰も知らない:2012/05/24(木) 21:09:09.56 ID:8tdx06OH0
デイヴィッド・ライアン「監視社会」から引用改造
警察が在日がパソコンで閲覧した情報への反応から心理分析したり、日々の生活態度から心理分析して公表しても、
誰も異議を唱えない。監視は社会生活の考えられる全領域で極めて急速に広がっていて、在日の個人情報が公開
の公的空間に漏洩しても誰も異議を唱えないし、在日には秘匿している。
警察と警察右翼は、在日の選択を誘導し、欲望に方向を与え、精神を束縛・管理するという活動をしている。
自宅にいる時も外出先でも車の中でも、在日の言動はモニターされているようである。
警察の監視とは、情報管理という名目での人間集団を統御するための警察の手段と言える。
在日は警察の監視から逃れられないようで、在日の生が他の人々よりも例外的に抑圧されている。
在日の生活や通信手段の監視と公表によって反在日の世論を喚起しようとしているのだろうか。
警察の監視体制は、在日の公的/私的の境界線を切り崩す。
政府機関は在日がどんなライフスタイルを営なんでいるか探り出し公表しているようである。
パノプティコンは、在日に、全てを見通す影の人の視線の下にあると思わせるというもので、電子的に強化された
社会的監禁の一種の原型と考えられる。
在日のように周縁に押しやられたり外側に排除されたりしていない限り、社会への参加とは、在日の日常生活を
追跡・モニターするメカニズムに能動的に関与する事と言える。
監視は、在日の日常の行動や精神が警察右翼のものだと保証・確認するために生み出されたのかもしれない。
それは、囲い込み/排除する基準に従って、ウチワとヨソモノを識別し、警察右翼と在日を分離する。
在日の生活範囲には監視ネットワークが張り巡らされている。
106名前は誰も知らない:2012/05/24(木) 21:17:54.79 ID:8tdx06OH0
「谷川俊太郎詩選集」から引用改造
水に渇いているだけではないのです
言葉に渇いているのです

言葉に渇いているだけではないのです
愛に渇いているのです

愛に渇いているだけではないのです
力に渇いているのです

力に渇いているだけではないのです
真理に渇いているのです

<水ヲクダサイ 水ヲ……>
あの日からずっと渇きつづけているのです

小川一水「老ヴォールの惑星」から
「待ちたまえ。君は疲れきってるな。餌場と水場は見つけていないのか?」
「まだだ」
「では水をやろう」
私は振り返り、ぼんやりと彼を見つめた。
「……そんなことをして何の得がある?」
「何も。だが、僕は人間だ。人間が人間を助けたいと思うのが不自然か?」
107名前は誰も知らない:2012/05/24(木) 22:37:32.73 ID:8tdx06OH0
赤坂憲雄「異人論序説」から
内部と外部とが転換する結節点、この零度の空間には、浮遊せる意味スルモノたちが跳梁する。そこではくり
かえし、バルバロスないし怪物の物語が紡がれる。怪物のなかには、見慣れた姿・形と見慣れぬ姿・形が組み
あわされ、また見慣れた姿・形が断片化されたうえで奇妙な規則によって結合されている。怪物とはそれゆえ、
浮遊せる意味スルモノのコラージュである。
たとえば、日本の妖怪のなかではもっともポピュラーな河童のイメージは、亀・猿・人間の子供・人形などの
属性を合成してつくられたものである。

人間と獣の境界を侵犯し、動物や獣の分類カテゴリーを逸脱する、一個の隠喩としての妖怪イメージ。
108名前は誰も知らない:2012/06/01(金) 20:08:13.17 ID:JHFymOuE0
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109名前は誰も知らない:2012/06/02(土) 20:04:40.90 ID:u2rLDTb30
村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」
「どれだけの天才でもどれだけの馬鹿でも自分一人だけの純粋な世界なんて存在しえないんだ。どんなに地下
深くに閉じこもろうが、どんな高い壁をまわりにめぐらそうがね。いつか誰かがやってきて、それをほじくり
かえす」

村上春樹「羊をめぐる冒険」
「もちろん人間はみんな弱さを持っている。しかし本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なもの
なんだ。たえまなく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが
実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない。結局のところ、俺が連中の影
から逃げきれなかったのもその弱さのせいなんだよ」
110名前は誰も知らない:2012/06/04(月) 22:36:56.59 ID:Za9sW29N0
西部邁「知識人の生態」から
さて、かつて存在した真正の知識人は、言い換えればインテレクチュアルは、どうした種類の存在であった
だろうか。それは、比喩的にいえば、村はずれの狂人として村人(一般民衆)から扱われ、また自分自身も村
はずれに庵を結ぶことに甘んじる、という種類の人々であった。
村人つまり現世利害のなかに生きている人々は、通常の場合、そうした利害の内部に秘められている精神的・
言語的な真実にまで目を届かせようとしないし、またそれをなすことは一般に利害追求の障害とすらなる。
それゆえ真正の知識人には、村人と一緒に生活する資格はないとみなされ、村はずれの狂人という位置におか
れる。

村はずれの狂人は村を訪れ、おのれが村のはずれの小高い丘から何年、何十年にもわたって村を観察したり解釈
したりしてきたことから得られた知見を披瀝し、それを村人の参考に供するのである。その参考意見が村人から
受け入れられれば、そのかぎりで素直に喜び、もしも受け入れられなければ、むしろそれを当然のこととして
受け止めて、ふたたび村はずれの庵に帰っていく、それが真正の知識人の本来の生活というものである。
ところが、大衆社会の動きのなかで、村はずれの狂人たちは忘れ去られ、ほとんど餓死してしまった。

別の仕方で比喩してみれば、真正の知識人は現世利害の見地からすると自分がほとんど娼婦以下の存在である
ということをよく自覚していたということである。村の生活の一翼を担っている娼婦は肉体をさらすことによって
商いをやっている。それにたいし村はずれの狂人たる知識人は、商いの種にはとうていなりえぬはずのものを、
つまりおのれの精神の内奥を村人たちにさらしている。
つまり娼婦が貨幣を媒介してのみ肉体を他者にさらすのにたいして、知識人は貨幣的取引という媒介をおかず
に直接的におのれの精神を村人たちの前に開示しなければならないのである。
村人の現世利害の奥底にある真実を尋ねるということは、まさに人間精神の在り様の根源に言及するということ
であり、そのためには、まず知識人が自己自身の精神を分析し解釈してみせなければならない。それは、現世
利益の構造が安定してる場合には、無益であるどころか有害ですらありうる所業である。対価もないにおのれ
の精神の根源を解剖し陳列してみせる、それはいわば露出狂の振る舞いであり、それゆえ通常の場合には、真正
の知識人は狂人扱いされてやむをえないのである。
111名前は誰も知らない:2012/06/05(火) 15:51:11.10 ID:GNFrFnfA0
ダリュは逡巡した。太陽は今空にかなり高く、彼の額を焼きはじめていた。
教師は踵を返してさっきの道を戻った。
はじめは少し不安げに、それから確信をもって。
低い丘に達したときには汗が流れていた。彼は全速力で登った。
頂上で、息を切らして、立ち止まった。
南は、岩場のひろがりが青空の下にはっきりと浮き出ていたが、
東の草原の上にはすでに熱気の靄が立ち昇っていた。
そして、この簿靄のなかに、ダリュは、胸を締めつけられて、
牢獄への道をしずかに進むアラビア人の姿を見いだした。

しばらく経って、教室の窓べに突っ立ったまま、教師は、高原の縁一面に、
黄色の光が空からさっと躍り出るのを、見るとはなしに眺めていた。
彼の背後の黒板には、フランスの大河のうねりくねりのあいだに、
下手くそな筆跡の、白墨で書かれた文字がならんでいた。
それはこう読まれた。
「お前は己の兄弟を引き渡した。必ず報いがあるぞ」

ダリュは空を眺め、高原を眺め、さらに、そのかなたに海までのびている目に見えぬ土地を眺めていた。
これほど愛していたこの広い国に、彼はひとりぼっちでいた。

アルベール・カミュ『客』
112名前は誰も知らない:2012/06/13(水) 06:48:31.85 ID:bt/HuLYw0
味方としての友達がいないのが孤独な人で、そういう人をスケープゴートにして、一緒に闘ってくれる者がいない
ように、警察権力を背後に抵抗の芽をつむようにする、なんていう最悪のシナリオが現実に起こっているように
思う。被害にあっても警察も頼れないし、警察の敵であるように仕立て上げられている、とか。そして警察による
敵視を当然とするように、善良な一般市民ではない事が強調されるとか。
あと、ヒトが友達関係を築くには単に所属や肩書でウチワであるだけでは不十分で、自我理想となるような魅力が
感じられる事が必要なのと、感情的交流も必要なのだと思う。

小谷野敦「友達がいないということ」から
シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の登場人物一覧(dramatis personae)には、「シーザーの敵」
「シーザーの味方」などというのがあるが、この「味方」は friend である。私はこれを知ったとき驚いた
もので、そう言われてみれば、敵は英語で enemy、あるいは foe などもあるが「味方」に当たる英語はない。
friend なのである。

「頼りになる知人」という程度の意味で「フレンド」というのだ。それなら、強姦されてしまった時に「フレンド」
を呼ぶ、というのは意味が分かる。
113名前は誰も知らない:2012/06/13(水) 07:00:59.08 ID:bt/HuLYw0
赤坂憲雄「異人論序説」から引用改造
在日日本人は経済的には余裕を、言葉と愛と文化においては貧困を強制された存在である。この経済的余裕と
文化的貧困という逸脱性ゆえに、在日は在日であり続ける限り、共同体の周縁部にある〈異人〉という宿命を
免れる事ができない。
114名前は誰も知らない:2012/06/15(金) 23:55:32.82 ID:V8yesR1/0
kiss sisのコメ欄にあった

Keito seems rather… gay. in manners and all that, the way he speaks, runs stands around. also he never takes one of those perfect opportunities.
Maby its because he has so much attention he never learned to act manly to attract girls so he is one giant fag in personality. thats probebly the biggest problem i have with this show, the male char is gay xD
115名前は誰も知らない:2012/06/28(木) 21:27:40.07 ID:trtoDapC0
吉村昭「漂流」から
長平は、
「必ず近くを船が通る。それを心の支えに、身をすこやかにして生きてゆこう」
と、他の者をはげましていた。

救出される望みは全くなく、その証拠には、三年間に一度も船影を眼にしたことがない。それは、この無人島
の付近が一般の船にとって全く用のない海であることをしめしている。

ようやくたどりついた島が、不毛に近い無人島だということを知ったかれらは、気力も失せたらしく頭を垂れ、
涙ぐんでいた。

食糧を得たかれらの顔には、ようやく生色がうかびはじめていた。

かれらは、長平が島で三年半すごしてきた間に一艘の船影もみたことがなかったという話に失望していた。
島にたどりついたのは、かれらの漂船だけで、航行能力のある船は近づいたこともない。人が絶対に住むこと
も近づくこともない土地というのがあるのと同じように、船には無縁の海もある。

長平は、深い息をついた。無人の島で生きぬくためには尋常の精神力では果たし得ない。気力が萎え、死を
えらぶ男がいるのも当然だった。

「長平さんは五年もこの島にいて、船影を何度みました?」
栄右衛門が、重苦しい空気にたえられぬように言った。
「船を観たのは、あなたたちの船だけでした。ほかには、なにも……」
長平が、低い声で答えた。
「大変なところに来てしまった」
総右衛門という男が、声をふるわせて呻くように言った。
かれらは、五年間に一度も船影をみたことがないという長平の言葉に大きな衝撃をうけたようだった。それは、
島をぬけ出し帰国することが不可能だということを意味している。
116名前は誰も知らない:2012/06/28(木) 21:29:50.05 ID:trtoDapC0
吉村昭「漂流」から
かれらにとって、おそらくこの島は地獄に思え、長平たちがそこをさ迷い歩く亡者の群のようにも思えるに
ちがいなかった。
栄右衛門たちは、肩をふるわせて泣きはじめた。船も近寄ることのない絶海の孤島に漂着した自分たちの運命
を嘆くとともに、そのような地獄にもひとしい島で生きつづけてきた長平たちの哀れさに涙を流しているのだ。
それとは対照的に、大阪船の者たちの顔には、喜びの色がおさえきれぬようにうかんでいた。かれらは、新たな
仲間がきてくれたことを喜び、しかも多くの道具箱をたずさえてきてくれたことを歓迎しているのだ。

かれらの失望は、大きかった。かれらは、あらためて自分たちの漂着した島が、人間のすむ世界とは隔絶した
地であることに気づいた。

積極的に島をぬけ出すことに力を傾ける必要はある、と自らに言いきかせた。
しかし、具体的にどのような方法をとってよいか、全く見当もつかなかった。過去八年間、船影を見たことが
ないことから判断して、船が接近し、救出してくれる望みは絶無に近い。他力にたよらず、自力で脱出する以外
に方法はないのだ。

「楫取は、その海は海の墓場だと言っていた。漂流船しか通らぬ海で、人はそこで死ぬという。おれは、近頃
その楫取の話がしきりに思い出されてならねえんだ。一艘の船も通らぬ海なんてものが、あるはずはねえ」

「一度は死んだおれたちだ。自分が亡者だと思えば、欲も消える。ここは海の墓場で、おれたちは亡者だ。亡者
が力を合わせて、人間の生きている場所にもどれば、それでよいではないか」
長平の言葉に、栄右衛門が深い息をつくと、
「亡者が、船を造って帰ろうというわけだ」
と、言った。
「そうだ。亡者が亡者の造った船で人間の生きている場所にもどってゆく……」
長平が、目を光らせて言った。
男たちの顔に、薄笑いがうかんだ。

十四名の者たちは、百姓平四朗方で起居して審問をうけたが、かれらは罪人同然の身として、厳重な監視をうけ
ていた。

長平は、人々から無人島という渾名をつけられた。
117名前は誰も知らない:2012/08/01(水) 23:45:53.95 ID:nnfNx4AI0
人間はたしかに月へ行ったけれども
形を変える月の不実に変りはないんだ
世界はいまだにあなたの見た通りのもので
スープをすする口が呪いを吐き散らし
言葉にするのも憚られるところに接吻し
やがては吸う息も吐く息もなくなって
土の下で白樺の根を育てることになるのは
うそつきも正直者も無口もおしゃべりも同じだ
夜に向ってきしる硝子窓を開くと
隣の柿の木の枝にただ一つ柿が残っていて
その昔ながらの俳句の主題も今夜のぼくには
成熟とそれを食いつくす種子としか見えないのさ

谷川俊太郎『シェークスピアのあとに』
118名前は誰も知らない:2012/08/17(金) 22:30:44.11 ID:dnFPfnfi0
支配するかあるいは服従させられるかのどちらかでしかないことはよく心得ています。
人間は誰でも、きれいな空気を求めるのと同じように、奴隷を必要としているのですから。
指揮をするということは息をするのと同じですよ、この意見に賛成ですか?
それにどんなひどい不具者にだって息をする余裕はある。
社会的階層のいちばん下にいるものでもまた配偶者なり子供なりをもっています。
もし独身者なら、犬がいます。

要するに、大切なのは相手が口答えをする権利がないままに、こちらが腹を立てうることなんですよ。
「父親には口答えをしない」、御存知でしょうこの言い回しを?
ある意味では、これはおかしいですな。
この世で、愛する者にたいしてでなければ誰に答えればいいのでしょう?
でも別の意味では、この言い回しには説得力があります。
誰かが最後の一言を言わなければいけない。
そうでなければ、一つの理由に別の理由が対立することになって、結局は切りがなくなってしまう。

反対に、権力はなんでもずばりと断ち切ることができる。
随分と時間が掛かったけれど、われわれはやっとそのことに気づいたのです。
例えば、あなたもお気づきになったに違いありませんが、
われわれの古いヨーロッパはやっと確かな方法で哲学するようになったんですよ。
素朴な時代のように、今や、
「われわれはこのように考える。あなたはどのように反論するのか?」
などとは言いはしません。
われわれは利口になったのです。
「君たちが反対を唱えるのは自由だ。
しかしそれはわれわれが関知するところではない。
数年のちには、正しいのは当方であることを警察力によって君たちに知らしめるだろう」

ああ、いとしきかな地球よ、ってとこですか。今ではすべてが白日のもとにさらされている。
今やわれわれは己を知り、自分になにができるかを知っている。

カミュ『転落』
119名前は誰も知らない
村上龍「すべての男は消耗品である」から引用改造
読書に、人工的に発生させられた幻想に支配されるのも寂しいが、幻想と無縁に
なるのはもっと寂しいことなのである。俺は、コミュニケーションなしでもエキ
サイトできる事を見つけ続けるしかないと思う。
それができないと、他者の幻想の奴隷となり無意識的に模倣を続けるか、私的幻想
に隔離されてしまうか、そのどちらかしか道は残っていないのだ。