1 :
名前は誰も知らない:
哲学板は気持ち悪いAAと価値のない投稿ばかりなので、この板に立てました。
孤独な男は哲学好きが多そうだし、哲学板より内容のある書き込みが期待できそう。
2 :
名前は誰も知らない:2010/02/17(水) 23:37:36 ID:6al9Grbe0
対人関係が不得意だと観念的になり哲学とかに手を伸ばしやすくなるのかな。
一般人からすれば難しいと思われる本に手を出す事によって、周囲の人間より
優位に立とうという意志があるとか。
他には、暴力の対象となった者や自虐的な傾向のある人の思考パターンは哲学
になじみやすいものがあるとか。
今村仁司「排除の構造―力の一般経済序説」から
・哲学の論理は必ず暴力の世界のなかで実現する。言い換えれば、哲学の
「起源」は暴力であり、暴力なしには哲学あるいは理性は存在しえない。
・哲学的思考は、暴力の存在なしには考えられない。
・哲学と暴力をテーマとするかぎり、哲学自身が暴力から完全に免れている
と考えることはできない。哲学自身は純粋の非暴力的エピステーメーである
のではなく、現実には暴力との雑種であり、哲学的思惟自身が混血であり、
庶子である。
4 :
名前は誰も知らない:2010/02/17(水) 23:44:36 ID:6al9Grbe0
最近、トルストイの人生論を読んでる
この本で説かれているように、理性的意識に徹する事は出来そうにないけど
ほんの僅かでも自分を改める事が出来たら幸いだ
わしは三木清の人生論ノートを読んでおるのじゃ
孤独について遠藤周作と同じこと言ってるが・・・これは遠藤周作が読んだあと忘れて書いてしもたのかな
"いかにも"で何が悪いというのか
ボードリヤールの言うシステムに対抗する手段としての
「詩的実践」と「死の贈与」が加藤の行動と重なる
俺は有馬頼底をよく読む。
そして南直哉など坊さんが多いな。
ドストエフスキーの本は買ってからまだ読んでない。
本読みすぎるとそれに頭が洗脳されるから気をつけないとな。
昆虫の擬態や本能に神のみわざを感じる今日この頃
11 :
名前は誰も知らない:2010/02/18(木) 00:58:56 ID:mTFRzHkW0
哲学はよくわからんが、思想とか精神とかの問題に耽るのは暇人、つまり学生か不労所得のある金持ちの特権なんだろうなと思う
社会の奴隷として働き出すと、考えすぎてたらやってられなくない?
ルサンチマン状態からの脱却を図りたい
数ヶ月かけて産業カウンセラーの講習受けに行ったが感慨深かった。
講師陣の思惑を考えると面白かったよ。
人間やモノ、空間て本当に存在してると思う?
自分の意識内でしか確かめることって不可能じゃん。
自分の存在すら本当にあるか疑わしい。
意識下の外側には絶対にいけないから確かめようがない。
考え出したらキリがないけどね。
読んだ後に、却って疑念が増して混乱したり
ニヒルやペシミやシニカルに近づいたり、衒学的になったりするような不毛な書物ではなく
心が洗われて生まれ変わった気持ちになれるかのような光ある書物を読んでみたい
>>15 それは自分自身の人生の中で悟るしかないと思う
他人の作りだした思想が、己の価値観と100%シンクロすることは有り得ないから
>>15 のようなタイプは哲学には向かないかな。
大人社会を風刺した児童文学なんかでの方が才覚咲き易いタイプだと思う。
あと神学なんかが向いてるのではないかと。
・サン・テグジュペリ『星の王子さま』
・パウロ・コエーリョ『アルケミスト』
とかいけんじゃね。
「現代政治理論」(有斐閣アルマ)って本読んでるんだが、
政治哲学の初心者が次に読んだらいいと思う本誰か教えて
ブランショの明かしえぬ共同体とナンシーの無為の共同体は共同体論を語る上で不可欠(キリッ
とか教授に言われたけど難しすぎて読めないんで
19 :
名前は誰も知らない:2010/02/18(木) 12:54:45 ID:2ssElFdk0
外見的には、哲学はもっとも意識的な論述である。実際には、それは無意識の論述である。
フロイトにおいて無意識を廃止することが問題でないのと同様に、哲学を廃止することは問題ではない。
哲学の無意識的な論述がその場所を見出し、その場所を生み出す諸審級が哲学に割り当てる場所そのものについて声高に語るためには、
哲学の幻想に対する労働によって、哲学的無意識の諸審級の組み立てのなかで何ものかを動かすことが必要である。
神の確実な証明ができないのは、神が人間の思弁のみでは捉えられないからである。
モーセとの対話における「わたしはある。わたしはあるという者だ」という神の自己規定は、神が一定の形態の表象に固定されないことを示しており、
かかる不定の性質は、人間の思弁の領域である対象的世界、すなわち主観と客観という二分化(ダイコトミー)による世界において、その存在を証明できない「絶対的秘儀」なのである。
キリスト教の基本は、証明不可能な不合理な神を信じ救済を得ることに存するが、だからといって神学は神に対する人間の思弁を否定するわけではない。
とくにプロテスタンティズムにおいては、むしろ神を思弁によって知ろうとする「不可能の可能性」を追求することが信仰と切り離せない行為として求められている。
プロテスタント神学者であるペールマンの認識によれば、神の存在についての証明がありえないことを前提としつつ、なお神を考えつづけることが神学の特質である。
「神の証明はできないが、個々の神学者が神を指示することはできる」のである。
22 :
名前は誰も知らない:2010/02/18(木) 13:41:19 ID:M56LtSjrO
インドって、むちゃくちゃで訳わからん国なのに聖人がたくさん出てくるのが不思議
インド哲学すごい
>>19 他者に自己の価値観を押し付けない、予測や自己都合による願望の解釈をしない。
と、説きながら実技指導の際には自己解釈しかしない人間ばかりだった。
講師と実技指導者は厳密には違うが講師は産業カウンセラーと言うよりも別に職を持ってて
講演を依頼されただけという状態。実技指導者は上記の通り、人生に酔っ払ってる。
「私はこのようにこのクライエントの感情を理解した、お前は私の意見とは違うから間違ってる」
と素で言い放つ。
>11
逆だ。
社会の奴隷になったら何の為に自分が生きてるのか見失っちまう。
思想にでも耽らないと正気が保てない。
↑確かに奴隷の俺は思想に生の意味を求めてるわ
退屈は普通、僕たちがやりたいことをできないときか、
好きでもないことをしなければならないときに顔を出す。
しかし、僕たちが何をしたいのかさえわからず、
人生の目標を失ってしまったときの退屈は何だろうか。
実はそれこそが深い退屈で、僕たちはそこに意志が欠けているのに気づく。
というのも、意志がかかわる対象を何一つ見いださないからだ。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
退屈は近現代の人間の「特権」である。
歴史の流れのなかで、喜びと悲しみの量はそう変わらないにしても、
退屈はかなり増えているのを確認しなければならない。
世界はたぶん、前より退屈になったのだ。
もし退屈が増えているとしたら、
意味をもたらすものとしての社会や文化に重大な欠陥があることを示している。
僕たちは総体的な意味で社会の一員になっている。
総体的な意味がさまざまな部分に意味を与え、それが僕たちの人生をかたち作っている。
…もし退屈が増えているとしたら、理由はおそらく総体的な意味が離脱してしまったからだろう。
退屈は時間の過ごし方と結びついているのである。
そこでは時間が、前途に何かをもたらしてくれるものではなく、
過ごさなければならない何かに変わっている。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
退屈がこれまでになく広がっているかどうかは、
「社会的プラシーボ」の数が増えているのを見るだけで納得できる。
何かで置き換える考えが多いということは、置き換える意味が多いということである。
個人の意味が欠落して、僕たちは置き換える意味を提供してくれるあらゆる種類の気晴らしを追い求めている。
ヴァルター・ベンヤミンは、エッセイ『経験と貧困』のなかで
「経験は明らかにその株価を下げてしまった」と断言している。
これは僕たちの資本主義社会に特有の新しいコミュニケーション手段、情報と結びついている。
「情報はその場で確認されることを強要する。重要なことはただ一つ、
それ自体で理解できることで、出来事は何一つわれわれに届かず、内部で解釈されることもない」
経験には個人の意味があるのに、それがだんだんと情報に蝕まれている。
メディアによって高速でもたらされる情報は過剰な知識を与え、
それには肯定的な面もあるのだが、やたらとうるさいだけで実は誰の耳にも入っていない。
…少なくとも言えるのは、現在の世界には意味がありあまるほどあるということである。
みんな文字通り、意味のなかでもたついている。
しかし、この意味は僕たちが探し求めているものではない。
退屈で時間が空虚なのは、行動に中身がないのではない。
…時間が空虚なのは、意味が空虚なのである。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
僕は、退屈は個人の意味が欠如していることに基づいていて、
すべての対象や行為がすでに確立されたコードで僕たちのところに届くからだと思っている。
人間は本来、自分自身の世界を創り直すものだが、この世界がすでに勝手にコード化されていたら、
個人が読みとるコード枠は無用になり、そのために僕たちは世界と関わりあうことができなくなる。
…僕たちは個人の計画、意味を活用したいのだが、そのじつ意味の問題にぶつかっている。
主体性は退屈の必要かつ構成条件ではあるが、それだけが条件でない。
退屈するには、主体に個人として恐れ、危惧する能力がなければならない。
そしてそれには世界と自分自身に関わる意味が要求される。
この意味の要求がなければ、退屈も存在しないだろう。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
退屈は暇な時間ではなく、意味の問題なのである。
退屈では、時間はもちろん克服されたものではなく、そのなかに閉じこめられる監獄だ。
…退屈は有限性と無に関係している。死のなかの死であり、生きていないのと同じである。
退屈の非人間性は、僕たち自身の人間らしさの見通しにも関わってくる。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
深い退屈では、人は何であれ欲望の対象を見いだす力を失ってしまう。
…ハイデッガーは深い退屈を「沈黙せる霧」のようなもので、
あらゆる物事や存在、さらには自分自身をも不思議な無関心のなかに混同させると書いている。
…自分自身も世界も同じように麻痺して空虚になるのは、たぶん両方に空虚な部分があるのだろう。
人は、退屈な状態にいるから物事が退屈になるのか、それとも、
世界が退屈だから退屈を覚えるのか、どちらかに決めるのは不可能だ。
…なぜなら、対象と主体それぞれの空虚感は深く結びついているからである。
ジャン・ボードリヤールによると、伝統的な哲学の問いは、
「なぜ無ではなくて何ものかが存在しているのか」だったのが、
現在は「なぜ何ものかではなくて無が存在しているのか」になったと言う。
この無への問いかけは、深い退屈から発生する。
退屈があまりに深いので、現実のすべてに関わってくるのである。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
「気分を当てはめられない世界は果たしてあるのだろうか?」
果たして人は「退屈である」ことと、「退屈に感じられる」ことをはっきり区別できるのだろうか。
退屈は客観か主観かだけの関係では位置づけられない。
対象それ自体が退屈であるとも言えるし、僕にとって退屈だとも言えるだろう。
「退屈であること」の特徴は、主観にも客観にも同じように関係がある。
気分が「内部から」来るとか、「外部から」来るとかは言えないのである。
気分は内・外の単純な図式に還元できないのだ。
…もし世界が意味を持つか欠けているかで理解されるのなら、
気分の変化は同時に世界の変化であると見なさなければならない。
なぜなら僕たちは比較しようにも、気分の変化に影響を受けない世界を持ち合わせていないからである。
感情には意図的な対象があることが多いのに対し、気分には対象がないのである。
気分は、むしろすべての対象の総体、つまり世界と関係があるのだ。
僕たちは気分をもとに状況を認識し、気分によって状況は動く。
…気分を持つことは、僕たちの実存的要因の一つであるだけでなく、
僕たちの認識の条件も構築し、それによって物事がいろいろな意味を帯びてくる。
気分がある体験を可能にし、別の体験を拒絶させる。
気分によって、世界すなわち出来事が、僕たちに現れる様相が、決まってくる。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
ハイデッガーが前提とするのは、
「哲学はいつも或る根本気分において生起する」ことだ。
気分は、思考や行動の条件であり環境なのである。
ある気分の中にあることは、世界をある側面から見ることであり、
また世界はある特定の面からしか見られない。
本来の気分は、表象よりも根源的である。
それは論証的な総体ではなく、むしろ総体として世界を現すものである。
僕たちを退屈させるものを知りたいという質問へのハイデッガーの答えはこうだ。
「退屈」(…彼は現象学はその本質において同語反復であると認めている)
僕が僕を退屈させるのでも、あなたがあなたを退屈させるのでもなく、退屈が退屈させるのだ。
このような退屈では、年齢や性別、職業など、個人を特徴づけるものはすべて関係なくなる。
それはそれらをすべて超えたところであらわれる退屈である。
表面的な退屈では、人は僕たちのまわりのものに空しさを感じる。
深い退屈ではすべて、自分自身も含むすべてが空しいと感じる。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
「有るもの(存在者)は…全体においてどうでもよくなっている。
この人物としてのわれわれ自身も免除されてはいない。
われわれはもはや、主観あるいはこれに類する何かとして、
この有るものから除外されてこの有るものに対峙して立っているのではない。
そうではなくて、われわれは、全体における有るもの、
すなわちこのどうでもよさの全体における有るもの、のまっただ中にいるのである。
ただし、全体における有るものは消えて無くなるわけではなく、
それはそれのどうでもよさにおいて、まさにそのようなものとして自らを示している」
ここで言わんとしているのは、深い退屈では…すべての存在者が意味を欠き、
僕たちには無関心なものになって、僕たちも無関心になるように強制される。
…僕は誰でもなくなり、自分が空になった状態を体験できる。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
ハイデッガーは繰り返し、形而上学的な問題提起は具体的な根本気分からしか生まれないと主張する。
だからこそ、根本気分を目覚めさせ、形而上学の場において、自らが形而上学的主体として現れるような、
形而上学的な問いへと道を開けるようにしなければならないのである。
退屈では、形而上学的な二つの極、世界全体と個人が、同じ虚無という一つになって密接に結びついている。
哲学は退屈の虚無から生まれる。
退屈は空虚やつまらなさを露わにし、そこでは物事がすべてを包みこむ無関心のなかへ沈み込んでいる。
時間は僕たちには見えない。
僕たちは時間に何の注意も払わず、僕たちには時間が何らかの存在者のようには見えない。
しかし、退屈で僕たちが虚無と向き合い、時間が無でいっぱいになったように見えたとき、
その意味に僕たちが注意を払うようになって、初めて時間を意識する。
…退屈では時間は「言うことを聞かない」ものになる。
というのも普通に過ぎようとしないからで、そこから時間の現実性を知覚することになる。
そして人間生活の意味が崩壊する。
…人生にはもう意味も目的もなく、…それを僕たちに意識させるのがまさに退屈の責務なのである。
退屈では、僕たちは現実が存在しないこと、または存在しないことの現実を思い知らされる。
物事が僕たちから逃げていき、僕たちと物事の正常な関係が崩壊する。
最終的に退屈の空しさだけが特異な現象として残り、僕たちに直接に関わってくる。
…その時に僕たちに残っているのは何だろうか。そう、存在だけである。
(引用:『退屈の小さな哲学』 L・スヴェンセン 集英社新書)
著作権侵害をするだけのスレッドに成り下がったか
引用にもルールがあるんだぜ
引用ばかりじゃ退屈
引用ではなく経験から導かれたあなたの言葉が聞きたいわ
哲学ってなんで難しい言葉や難しい言い回し使うの?
専門用語使った抽象的な話ばかりじゃなくてもっと日常的に納得できる具体例とかで説明して欲しいんだけど
あまたの具体例に共通する一般的な真理・抽象概念を考える学問だからね
更に専門になるとその概念を共通のボキャブラリとして議論を更に進めるようになるし
学問ってのはみんなそういうものだからある程度仕方ない
日本語としてこなれてない用語・訳語が多いのは輸入学問の宿痾だねえ
長ったらしく説明しなきゃならない概念なんかを一つの言葉で言い表せたら逐一語る手間が省けるからな
42 :
名前は誰も知らない:2010/02/27(土) 11:39:23 ID:Rp+kgnOH0
哲学で幸福になれるかしら
なれません
ただ自分の人生に少しの物語性を与えることはできます
44 :
名前は誰も知らない:2010/02/27(土) 13:17:47 ID:Rp+kgnOH0
物語性て何?
自身が体験する個々のイベントを繋ぐもの
46 :
名前は誰も知らない:2010/02/27(土) 13:53:54 ID:BpwfPmWv0
愛されてないとか子供ぽっいよな?
47 :
名前は誰も知らない:2010/02/27(土) 18:53:35 ID:vBcppSuB0
>>39 難しいと感じるということは何かが欠けているから理解できないということ。
十分な説明がなされてない、何かが省略されているということなんだ。
つまり常に書き手話し手の説明が十分というわけではないということ。
だから自分が感じるその理解できないという感覚を保って
自分の言葉によって表現し意識化するってことが必要。
そこに哲学できるかどうかの差ができる。
自分で考えることが必要とされるってことで、対象は結局何でもいい。
大事なことはなぜかどうやってという問いを常に自分に課す事、それが訓練になる。
答えを得るには時間がかかるものもあるし、さほど時間がかからないものもある。
時間がかかるものはその記憶と感覚を保ったまま疑問を保留し、わかるものは思考を突き詰める。
これは哲学に限らず、どの分野でもわからないものがあるから普遍的。
そういえば
>>41で面白い問いを思い出したが、20世紀後半に情報論という分野ができて
ノイマンかファインマンかがもし仮に今人類のほぼすべてが消滅して、
わずかに残る人に最小限の、しかし最高の知識・情報を残すとするなら何がいいか、
という問いに古代ギリシャの原子論を揚げたとさ。
原子論が近現代科学の基礎だと見なして、人はそこから様々な疑問を持ち、それが学問を形成し、
再び現代科学の水準に達するだろう、それに最適最善な知識情報だと考えたと。
これ面白いと思わない?
古代ギリシャの原子論というわずかな情報で、今の現代科学に到達するほどの知見を得ると考えてるんだから。
自然現象をなぜかと考えるきっかけとして、この原子論ほど科学に貢献するものはないってことなんだろうね。
これは生得観念論にも通じる面白い話だけど、こうやって疑問は疑問をつなげていく。
こういう哲学の哲学たる性格付けやその意味なんかを
意識的自覚的にまた明快に説明してるのはアリストテレス。
アリストテレスの形而上学だったかな。
なぜ哲学を学び、どういう意識やどういう目的でどういう効果を持つかを
古代の天才が懇切丁寧に説明してくれる。
48 :
名前は誰も知らない:2010/02/27(土) 19:31:52 ID:Rp+kgnOH0
哲学むいてないとおも
語りえることは全て三語で説明できる
みたいなことをヴィトゲンシュタインは言ってたな
つまり
>>41と同じこと
おまいらは、ソーカル事件についてどう思うか?
長ったらしい言葉とか難しい言い回しを好んで使うくせに、しかも使い方を間違ってる
「不確定性原理」とか「複雑系」とか
ポストモダン思想が思想の説明に誤った科学用語を使用してるってことを
示しただけで、思想そのものの誤りを示したものではないと思う。
そのうち日本でも情報技術系周りと社会学系周りで同じことが起きそうな
53 :
名前は誰も知らない:2010/02/28(日) 09:00:55 ID:O05wK1cO0
そもそも自分が理解や解釈もできない用語を用いて理論展開するってことがありえない。
大学じゃそういう駄作と秀作の違いを見抜けるようになることも必要だな。
どんな分野でも本は結構いっぱいあるが
その中で本当によくわかった著者が書いた本はそう多くはない。
本を比較しながら、そういう秀作駄作の取捨選択が求められる。
わかってない人が書く本は、読者に何も理解させない。
ソーカル事件はそういうのに通じるものがあるね。
哲学やら心理学やらその他諸々の思想を学んだ所で、それらを心から信じられない、若しくは信じた所で実践に移せないのなら、
結局それらの知識はなにかを諦めたり何かから逃避したい時の体裁を整えるためだけの言い訳の材料にしかならないよね。
もっとも重い荷物というものはすなわち、
同時にもっとも充実した人生の姿なのである。
重荷が重ければ重いほど、
われわれの人生は地面に近くなり、
いっそう現実的なものとなり、
より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷がまったく欠けていると、
人間は空気より軽くなり、
空中に舞い上がり、
地面や、地上の存在から遠ざかり、
半ば現実感を失い、
その動きは自由であると同様に無意味になる。
そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?
重さか、あるいは、軽さか?
(引用:『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ 集英社文庫)
哲学は宗教とは違うと思う
パルメニデースは答えた。
軽さが肯定的で、重さが否定的だと。
正しいかどうか?
それが問題だ。
確かなことはただ一つ、
重さ―軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、
もっとも多義的だということである。
(引用:『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ 集英社文庫)
…真実に生きるということ、
自分にも他人にもいつわらないということは、
観客なしに生きるという前提でのみ可能となる。
われわれの行動を誰かが注目しているときには、
望むと望まないとにかかわらず、
その目を意識せざるをえず、
やっていることの何ひとつとして真実ではなくなる。
観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。
(引用:『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ 集英社文庫)
59 :
名前は誰も知らない:2010/02/28(日) 12:27:26 ID:O05wK1cO0
>>54のような者のために天才哲学者アリストテレスが書いたのが形而上学。
なぜ哲学を学ぶのか、なぜ実用性があると思えないことを知ることにエネルギーを使うのか、
こういう疑問がギリシャの時代からあったんだろう、それに天才が明快に答えてくれる。
そもそも哲学の原語たる古代ギリシャ語の”philosophia”は
philos(愛)+sophia(知)が結び合わさったもので、「知を愛する」という意味。
そこに何のためにという応用や実用を念頭においた学問ではないんだよ。
アレクサンドロスから師アリストテレスへの手紙は面白いから読め
61 :
名前は誰も知らない:2010/03/06(土) 22:24:51 ID:gSDHiqYA0
ラカンとかクリステヴァとかドゥルーズとかの難しさは異常
大学とかで専門的な教育を受けた人は、実際のところああいうのサクサク理解できるもんなの?
それとも大学教授レベルじゃないとやっぱキツイの?
近代の難しいの読んでもあまり得るものはない気がする
プラトン、アリストテレスあたりは言葉もわかりやすいし、素朴な疑問から出発してるからすんなり入ってくる
63 :
名前は誰も知らない:2010/03/07(日) 11:18:20 ID:UT4mCN5t0
今、カミュの『ペスト』(新潮文庫)
読んでるが、訳の硬さが異常だな。
光文社文庫よ。新訳出してくれ。
64 :
名前は誰も知らない:2010/03/07(日) 11:36:31 ID:w7fxkish0
サクサク読み進める哲学書はめったにないよ。
でもただ無意味に難解なのと、抽象度が高くて難解なのの2つがあるから
それを判断する力がいるね。
65 :
名前は誰も知らない:2010/03/07(日) 12:45:13 ID:0ECEOiBc0
カミュはルックスからしてカッコイイよね
「異邦人」とかも新訳出してほしい
66 :
名前は誰も知らない:2010/03/12(金) 19:53:38 ID:ZrjtJd7p0
>>61 先にアラン・ソーカル「知の欺瞞」読むといい
カミュのシーシュポスよかったよ。アバウトにしかわからなかったけど感動した。
哲学に向き合っていこうと思った本だわ。
68 :
名前は誰も知らない:2010/04/11(日) 22:57:42 ID:yDEJd1qjO
哲学って自分に都合がいい受け売りを繋ぎ合わせただけだよね
哲学書を読むことに意味があるのかしら
又聞きみたいなもんでしょ
そんなことで考えを深めるより実体験に基づいて考える方がいいんじゃないの
哲学書を読むことが実体験というのはナシな
69 :
名前は誰も知らない:2010/04/11(日) 23:06:15 ID:wRh5NRe4O
様々な概念を獲得して自分の世界を広げることが目的
そんなかんじだっけ?
よくわかんないけど
思考のフレームを手っ取り早く獲得するにはいいでしょ
俺らみたいな凡人はもちろん、非凡なやつにだって過去の哲学者が
積み上げてきた知識体系を全部自分だけの思考で手に入れることなんてできないんだし
71 :
名前は誰も知らない:2010/04/11(日) 23:38:15 ID:yDEJd1qjO
どうして自分という人間に気付くのがこんなに遅かったのだろう
早い奴なら中学の時点で自己実現に目覚めていたのに
この差が人生の差なのか
精神的自立が早ければ早いほど人生はうまくいく
結局は俺自身の問題か
おそらく今回の人生では、このヒトの入れ物に
俺の本体である魂がうまく馴染めなかったのだろう
身体と精神を魂でうまくコントロールできなかったのだろう
でもそんなに悲観はしていない
ネコは八回人生を繰り返すっていうからな
おそらくヒトも似たようなものだろう
今回の人生を教訓にして次の人生ではそれなりに馴染んで
もう少し早く精神的自立ができてもう少しうまくやっていけるだろう
イチローや石川遼やその他大勢の自己実現成功者は
違う時間軸の人生で何度も苦労を繰り返してきたのだろう
俺はまだこの入れ物に入って一回目か二回目程度の存在だろう
自殺は誰もが通る道だろうな
俺自身が納得するまで俺という存在は消えんよ
実体験・受け売りに基づいてこのような都合のいい結論に到達し
自分の中で人生に意味を与え、自殺を正当化しました
家族が亡くなったの?
自分ができないことを輪廻転生のせいにしてるだけな。
哲学なんて素読で十分。悟りを開けば概ね繋がるし。
まぁそうすると自身の経験が生んだと思った事さえ
先人の残した格言みたいなのに辿り着くからもはや忌々しく思えるけどなw
糧になるのは確かだよ。でも探求はやめられないから自身さえ曖昧になりそうではあるな。
だから勘違いしてる可哀相な奴も珍しくはないだろう。
75 :
名前は誰も知らない:2010/05/07(金) 06:08:11 ID:23F7FOlb0
0が3個続いててうらやましいよ あと
何が本当で何が嘘かわからないよな、死ぬことも
自分を意識できない状態に変化するだけかも で、
またどこかで自意識が生まれることもないとはいえないのかな?
幽霊とかもいるかもしんないし まあ、ただの言葉あそびだろうけど
76 :
名前は誰も知らない:2010/05/18(火) 20:49:58 ID:TxGGgCIj0
NHKでやってるハーバード白熱授業おもしろいな
77 :
名前は誰も知らない:2010/06/15(火) 15:40:15 ID:rLAIQKaz0
どうして孤独になったのかようやく分かった
能無しのくせにプライドだけは高かった
虚栄という名の下らんプライドを守り抜くために
何の努力もろくにしていないくせに
人間ヒエラルキーの最下層にいることにただ耐えられず
一方的に人間関係から逃げた
その結果最下層以下になってしまった
プライドというものは自己に対してではなく
社会的役割に対して持つものなのだとようやく悟った
だがもう遅い 遅すぎる
ここから這い上がり真っ当な人間として生きていくのは尋常の努力じゃできんだろう
プライドと共に生きプライドと共に死んで人間以下になる方が
今となってはよっぽど楽かもしれん
本当に悟った人間はおそらく死ぬのが楽とは言わないだろう。
自虐的なギャグでなら言うかもしれんがねw
俺も最下層組だと思ってるけど人生が面白すぎて笑いが止まらんぜ?
ネット環境さえ守れれば底辺でも孤独でも前向きにはなれるかな。
孤独を知るならこんな言葉も偽善にしか聞こえないかもしれないがねw
79 :
名前は誰も知らない:2010/06/15(火) 22:28:01 ID:6ttgzine0
>>77 このスレとどういう関係がある書き込みなの?
君が人間以下だという事は分かったが。
いいじゃないか。孤独なんだ
蔑みあうのはやめよう
>>77 うん、スレとは関係ない。
俺も最下層の人間だから死にたい気持ちは分かるけど、
その上でなお理想を持ちえるかが哲学の問題なんじゃないか?
俺は知的虚栄心が高いから哲学書とか読むんだけど、
未だに何をなすべきかなんて分からないし、
頭悪いからほとんど理解出来てないよw
それでも、哲学しか自分を救ってくれないと思って、
頑張って読むんだよ。
ってか、そもそも死んで人間以下になるなんてプライドが許さなくないか?
83 :
名前は誰も知らない:2010/06/17(木) 02:20:13 ID:yV6QDcYGO
哲学とか思想とかよくわからんが厨房のころに、なんで生きてるのかってなやみつづけてたら高校入って孤独化した。
84 :
名前は誰も知らない:2010/06/17(木) 18:52:18 ID:CCyincbv0
>>81 君が最下層の人間だというのは分かったが、実際に手に取った哲学書は何なの?
>>77と同様に想像で書いて自虐とみせて他者を侮辱しているように見えるんだが。
本当に哲学に興味を持っていて読んでも分からんと思っているなら高校倫理から
はじめるのをすすめるが。
「何で生きてるのか」なんてことについて語ってる哲学なんてほとんどない
全く無関係とまでは言わんけど
「国家」でも「純粋理性批判」でも「存在と時間」でも何でもいいけど、
そこに書かれてある問題に興味が持てないなら、読むだけ無駄
その手のことについて考えたければ、宗教とか文学に走った方がいい
虚栄心を満たすためだけと割り切るのもありだけど、それじゃ面白くないでしょう
おまえらハーバード白熱教室でもおっぱじめるつもりか?w
87 :
81:2010/06/18(金) 01:53:16 ID:Qf1EGgOP0
>>84 実を言うと大衆向けに書かれたようなのしか、まだまともに通読してない。
ショーペンハウアーの『孤独と人生』とか、
サルトルの『実存主義とは何か』、
ニーチェの『この人を見よ』、
キルケゴールの『死に至る病』、
カミュの『シューシュポスの神話』とか。
そんでサルトルをよく理解しようと思って『存在と無』買ったんだけど、
先の『実存主義とは何か』に比べて桁外れに難しいから、
もっと基礎的なとこから学ぼうと思って、プラトンの『パイドン』とか
デカルトの『方法序説』、あと西洋哲学史(っても宝島社から出てる
小坂修平って人が書いたイラスト付きの)なんかを読んだ。
でも、西洋哲学史読んでみると、カントとかヘーゲル読んでないと
サルトルとかハイデッガーなんかは理解できないのかなって思ってきて、
今カントの『純粋理性批判』読んでるんだけど(まだ第1部w)、
この難解さがずっと続くのか、って思うとなんか憂鬱になってきて
今『ちびまるこちゃん』読んでる。
正直哲学やってるって言えないわな。
頭が悪いというのは本当だと思う。よく人の名前忘れるし。
たぶんこのまま積読で終わりそう。
>>77と同様に想像で書いて自虐とみせて他者を侮辱しているように見えるんだが。
っていうのは認めるわ。すまん。
>>85 「何で生きるのか」っていうか、「自分自身の良心に従って自由に行動していいのか」
とか「人間は個人的な意志と理想を持っていいのか、てか持ちえるか」
みたいなことに興味があって、、、、、虚栄心だけでってわけではないです。
長文すまん。
ちびまる子ww落差に笑ったww
>>88 きっと彼はそこにも哲学を見出してるのだろう
なんだか
>>87ってかわいそう
どうせ「衒学的だ」とか「著名な思想家の名前を並べればお茶を濁せるとでも思ってんのか」
とか「お前は何をやってもダメだ」などと言われるんだろう
91 :
名前は誰も知らない:2010/06/18(金) 23:07:12 ID:Eic0yyIe0
>>85 中島義道はその手の本を書いていると思うが。
「生きる意味などない」という事を強調しているが、他の思想家なんかも
「生きる意味はない」という事を本の中で当たり前のようにちらっと書いている。
宮台真司とか、斎藤環とか。
>>87 自虐とみせて誰を侮辱しているの?想定している敵は誰?
なぜその人を見下そうと思っているの?今までどういう関係を持ったの?
それとも「孤男で哲学書を読むようなやつはこういうやつだろう」という見当を
つけてこのスレが盛り上がらないようにしたいとか?
92 :
名前は誰も知らない:2010/06/18(金) 23:23:33 ID:Eic0yyIe0
女は哲学しないとか、女で哲学書を読む人なんてほとんどいないと
言われているが、それが事実だとして、原因はなんだろう?
1、真理を求める心が男より少ない(理系に女が少ないのと同じ?)
2、コミュニケーション能力が男より高いため孤立しにくく、
一人で悩んだり深く思索する機会が少なく、その悩みの解決手段
として哲学書を選ぶ事が少ない
このスレで自虐と見せて誰かを見下している人の攻撃パターンが、
すごく俗っぽい心理に基づいているのは女の持つ世界観や人間観が
それだけ俗っぽいものに支配されているっていう事なのだろうか
93 :
名前は誰も知らない:2010/06/20(日) 15:50:18 ID:HpcC+5bd0
女の方がものごとの背後に隠されている法則を知ろうという意欲や
抽象的な概念を遊ばせるということに嗜好がない。
右脳と左脳の間にある脳梁が、女は太くて男は細いことが
関係しているのかもしれない。
なんだろう。
文学部は基本的に女が多いのであんまりそういう感じはない気がするな。
文学や美術の勉強するにしても哲学まわりの本は読むし。
具象を丁寧に追う思考ができない
自身の感情を交えず、物事に寄り添って考えることができないのが女
直感で生きているから文学や美術に強いということはありうるが科学には滅法弱い。
抽象概念を「遊ばせる」程度のことならできるし好みもするだろうが、抽象概念を厳密に運用する能力は無い。
女、子供はすっこんでろ!ってことですね?わかりますん。
>>95 哲学自体、運用する用途ってないし、実社会にあまり役に立たない学問にも
結局遊ばされてるだけだけどね。
大前提として知識を生かせないのは自分のせいだがな!
哲学が生かせないだけで知識は多少生かして生きてるよ
抽象概念を厳密に運用って、何を想定して言ってんだろう???
抽象概念は厳密になっても抽象概念足りえるのか?
何を想定っていうと表現を想定してるんだと思うんだけど…
ここでも既に書き込みという形の表現をしている訳でね
> 抽象概念は厳密になっても抽象概念足りえるのか?
自分が抽象概念を厳密に表現したつもりでいるだけかもね。
>>87 >ニーチェの『この人を見よ』
遅レスだけど
「道徳の系譜」や「善悪の彼岸」から入ったほうがいいと思う
ニーチェ自身もこの二冊から読んでほしいと言っていたようだ
>>103 確かに型破りで詩的だから経過を追った方が得る物はあるかもしれない
直観的に読めるならば入り口なんか何処でもいいし興味が湧けばさらに深く潜るだけ
ニーチェ派の宣伝に見えるからこそ逆に君がニーチェに何を学んだんだか気になるわw
哲学史が好きな人とその中の個人が好きな人と自身が創作する人と多岐に渡るのもまた哲学かもなw
>>104 亀レスすまん
自著の解説&発狂気味の「この人を見よ」より、この二冊がいいのではと思った。
>>87に関してはサルトルも「嘔吐」から、カミュも小説からがいいのではと感じたりしたが
それは自分が小説から哲学に関心を持ったクチだからそう思うのだろう。
まあ小説はスレ違いだが。
自分はニーチェ派でもなんでもないw 超人や永劫回帰とか通り一遍の事をさらっただけで、
深い知識もない。
でもニーチェの格言集(二冊立ち読みで少し読んだ)がベストセラーになるとは。
女も読んでいるらしいが、ニーチェが著書で女の事をどう書いているかを知った時の
反応が見たいと思う自分は性格悪いなw
なんて書いてんの?
>>87です。
>>103=
>>105 ?
その2冊はまだ未読ですけど、「悲劇の誕生」と「ツゥラトゥストラ・・・」なら読みました。
てか
>>87で書いた本が読破した全てではないです。
なんか説明不足ですいません・・・。
僕もニーチェ派ではないですけどwその2冊はいずれ読もうと思ってましたが、結局読まずじまいです・・・。
ある著者を究めようと思ったら、他のも読まなきゃいけない必要を感じて、
色々遠回りしてる感じです・・・。
>
>>87に関してはサルトルも「嘔吐」から、カミュも小説からがいいのではと感じたりしたが
僕もサルトルは「嘔吐」から入りました。
カミュも「異邦人」から入りましたし。
最近は哲学なんか自分には不向きだと思って、小説ばっかり読んでるけど、
もう一度やり直そうかなあ・・・。
とりあえず何か手に取ってみます!ありがとうございます!
108 :
名前は誰も知らない:2010/07/29(木) 01:23:24 ID:XThN3iNq0
真の哲学は宗教に切迫している。
古代において宗教と哲学は分離していなかった。
じゃあ現代に真の哲学はないの?w
現代は「真の哲学?んなもんねーよ。真理とかってアホじゃね?」って感じになってきているw
111 :
108:2010/07/29(木) 13:42:15 ID:XThN3iNq0
>>109 ないね。逆に聞くが現代の哲学に何がある?
ちなみに宗教と哲学が最もよく一致したのはインドの哲学、宗教である。
お前はアホか?
この手のスレには時々哲学を読んでいるのにアレな人が多いからw
スレタイに宗教とか書いてないのに。
戦争に男のロマンを感じているそこのアナタ
戦争になったら真っ先に捨て駒として殺されるのはキミたちですよ!!
そう、男のロマンなんて女の奴隷である事実を隠す為の単なる嘘っぱちなんです!!
キミたちの人生は男のロマンという厚化粧で素顔が見えなくなった奴隷の人生なんです!!
どうか皆さん!!愛国心のイデオロギーを資本家と女性様の為に役立ててください!!
あなたたちは女性様の肥やしになる為にこの世に生まれてきたのですから、決して命乞いなんかしてはいけません。
もちろん女性様はこの世の大事な主人公ですからいくら命乞いしてもいいんです!!
どうか皆さん、一人一人が女性様の下僕であるという自覚を持って社会的地位という衣を身にまとって
俺は女よりも偉いと勘違いしながら阿鼻叫喚の生き地獄を発狂しながら生き抜いてください!!
英雄もスポーツ選手も犯罪者も男はいつの時代もみな発狂をエネルギーに代えて叫び続けてきたのです。
もちろんその絶望の叫びはどれだけ多くの女性様の下品な心を楽しませてくれたことでしょうね!!
そうして女性様の為にせっせとお金を稼いで代理戦争を楽しんで女性の楽園を支えてやってください!!
そんな糞ゲーもちろん私は参加しませんけどねwウフフっ
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八| |: ∧ : :\! ,,, ,, , ´ ̄ `ヾノ : j人ハ: : :│
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∧ jj \\\ ∧:::::::::::::::/ / : : : : :/ // \|
クザーヌスは宗教と哲学が入ってるんでは
もう哲学を信仰する宗教でいいじゃんよ
背信者はクルクルパーっていう…w
ようやく規制解除
>>106 - 愛または憎しみと競演しないとき、女は凡庸な役者だ。
- 復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である。
- 女のうちにはあれほど多くの固陋さ、浅薄さ、教師臭さ、小生意気さ、
くだらない放縦さ、くだらない思い上がりが潜んでいる。
- 女は真理を欲しない。女にとって真理などなんであろう。
真理ほど女にとって疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。
女の最大の技巧は虚言であり、女の最大の関心事は外見と美しさである。
- 女性が憎みだしたら、男性はこれを恐れなければならない。なぜなら、
魂の深部で、男性はせいぜい悪であるにすぎないが、女性は劣悪であるから。
- 「女のところへ行くなら、鞭を忘れなさるな!」
...などなど
1つ目から4つ目までは「善悪の彼岸」より引用
4つ目については、「われわれ男は女のこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ」
とニーチェは書いているが…
5つ目はツァラトゥストラの言葉、6つ目はツァラトゥストラと対話した老婆のセリフ。
引用は全て岩波文庫版より
>>107 >僕もサルトルは「嘔吐」から入りました。カミュも「異邦人」から入りましたし。
やっぱり結構読んでるな。余計な助言だったようだ
これも既読かもしれんが、コリン・ウィルソン著「アウトサイダー」おすすめ
まああまり根を詰めすぎないようにな
ちびまる子ちゃんで息抜きできる感覚の持ち主なら大丈夫と思うけどw
118 :
107:2010/08/30(月) 00:51:17 ID:gVzturh+0
>>117 その著者自体知らなかった。
まだまだだわw
案外サルトルなりニーチェを直接攻めるより
それに影響を受けた著者から入るのもいいかもしれない
119 :
名前は誰も知らない:2010/09/19(日) 01:24:20 ID:34d/kexw0
おまえらが哲学で身につけたことって何?
老子好き
知恵
19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した
グレート・ジャーマン・トリオ(ニーチェ・マルクス・フロイト)は、
伝統的権威を否定したことで共通する。
だが、ニーチェとマルクスが「宗教」は捨てられても
「国家」と「民族」からは逃れられなかったのに対して、
フロイトはその全てを弾劾し拒絶している。
これは、精神分析という学問的研究を通じて、
何にも束縛されることのない、全ての源泉としての「自我」を
フロイトは手に入れることができたという証だろう。
フロイトが取り組むこととなった幻想とは、
「宗教」と「国家」と「民族」である。
フロイトはこの3つを、
人間の自我を阻害して一方向に縛り付けるものとして徹底的に排斥した。
「ユダヤ教」の家庭に育ち、居を定めた「ドイツ」からはしばしば差別的な待遇を受け、
「ユダヤ人」の一人として苦悩することとなったフロイトにとって、
このような個人を拘束する伝統的権威は「幻想」以外の何物でもなかった。
123 :
名前は誰も知らない:2010/09/27(月) 01:52:12 ID:HTfD221h0
古いけど「精神と自然」って本が孤男にピッタリだと思うな。
是非一度読んでみることをススメル。
孤男として強くなれるよ。
ベイトソンだっけ
あれにはけっこうやられた
もう四半世紀になるんだな