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名前は誰も知らない:
私の母は私を産んでから体が弱くなったそうで、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当は、品数少なく見映えの悪い物だった。
高校のクラスメートに弁当を見られたらカラカワレル様な気がして、弁当は食べずに
購買でパンを買ったりしていた。流石に弁当箱ソノママは拙いと思い、中身は下校の際
道すがら民家の犬やネコに投げ与えていた。
ある朝、母が嬉しそうに「今日は、大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま登校し、休憩時間こっそり中身を確認した。
すると確に海老は入っていたが殻が半分付いた侭で足も残っていた。背腸も残り、食べる気には
成れなかったので、何時もように処分した。
帰宅するとその日に限り母は私に「今日のお弁当どうだった?」と、シツコクでもニコニコと
尋ねてきた。
私は何時も捨ててる罪悪感を感じつつも、段々イラついてきて
「うるさいな!あんな汚い弁当いつも捨てたよ!もう作らなくていいから」
と怒鳴り散らしてしまった。
母は目に涙を為ながらもニコヤカに「気付かなくてごめんね…」と言った。
翌日から弁当は作られなくなった。私が帰宅しても母が居間に出てくるは無かった。
顔を合わせること無く過していた私は母が入院した事も知らなかった。
怒鳴り散らしてから半年後、母は死んだ。難しい長い名前の病気だった。
私は特段に悲しむ事もなく葬儀を済ませ、変らぬ日常を過していた。
49日の法要も済んだ夜、父が母の日記帳を私にくれた。
開いて見ると私が産まれた時からの日記だった。最初は整った文字で私の誕生の喜び等、
書かれていた。幼稚園で園児のスカートめくりが直らず、追い出された事や、小学校入学式に
オモラシした事とか、学年が進んでも逆上がりが出来ずに日々夕方暗くなるまで特訓したこと
とか書かれていた。
逆上がりの事は微かに記憶にあり、以後のイベントは大体記憶と合致してきた。
懐かしさを感じながら読み進む。高校に入学の頃の日記は、気が付けば文字が随分と汚くなり、
大きさもバラバラでコドモが書くような文字だった。
『高校では学校給食が無いのでお弁当を持たせなければならない。頑張らねば』とか
『弁当箱は空っぽだった。良かった。でも量が少なかったのかもしれない。お金も少し持たせよう』とか
『指に力が入らず卵を綺麗に焼けないが、頑張るぞ』とか弁当のことばかり書いてあった。
『手の震えが止まらず上手くエビが処理できない。弁当作るのもあと何日できるだろうか』
とあった翌日
『独り善がりだったと言ってくれた厚意に甘えよう。正直、もう起き上がることも辛い』
殆ど読めない字でかかれ、これが最後の日記だった。
日記帳のページに濡れた跡があることに気が付いた。
私が母を気遣って弁当なんか要らない!と言ったと解釈したように書いてくれたんだと
気が付くのに数秒掛かった。