【AKB48】石田晴香ファン倶楽部★151.1【はるきゃん

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36名無しさん@実況は禁止です
▼小学生の時に将来は歌手になりたいと思いオーディションを受けるようになる。
▼中学生の頃にはボイストレーニングにも通うようになりオーディションを延べ100回以上受けるが合格には至らなかった。
▼AKBの「夢を持った人が集まる」「AKBは夢を叶えるための一つの通過点」というコンセプトに惹かれAKB8期生,SKE2期生のオーディションを受けるがともに不合格となる。
▼2009年9月にリベンジのために受けたAKB9期生に合格して候補生となる。
▼週末は夜行バスで京都から東京へ行きレッスンを受け、平日は放課後にバス代や宿泊費を稼ぐためにバイト(ヤマザキパン工場など)をする生活が始まる。
 「大変だったんじゃない?」ってよく言われます。でも全然そんなことなかった。学校もバイトもレッスンも全部好きやったから。
▼夜行バスではイメージトレーニング、平日は放課後バイト終わりに30分だけ寝てから起きて練習するというがむしゃらな努力の結果、2009年12月にセレクション審査を突破して正式にAKB48の研究生となる。
▼劇場デビュー公演で「私は将来、誰からも愛されるような歌手になるのが夢」という目標を明かす。
▼研究生時代は、ひたむきな努力と芯の強さとガッツによって、ダイナミックなパフォーマンスに磨きをかけていく。
▼2010年10月、東京秋祭りでチームK正規メンバーに昇格する。※9期生初の昇格
 篠田「たかみなの次に尊敬する」高橋「誰よりも死ぬ気で練習していた」戸賀崎「物凄い努力家」など多くの賛辞を贈られる。
▼2010年12月、劇場5周年記念公演で同期全員が昇格。自分のことのように喜んで本人達以上に号泣する。
▼2010年12月、初めての生誕祭(18歳)が行われ、涙ながらに歌手になりたいという思いとファンへの感謝の気持を繰り返し言葉にして伝える。
▼将来の夢は、人に夢をあげられるような歌手になること。目標は、一人の歌手として大阪城ホールでライブをすること。
 ※いきものがかりさんみたいな曲が歌えたらとのちに雑誌で話している
▼2010年末のネ申inマカオでバンジージャンプを飛べなかった先輩達のために飛ぶことに成功する。
▼2011年1月〜 DOCUMENTARY of AKB48、Not yet、マジすか2(おたべ役)、等でフィーチャーされる。
▼短期間での昇格、ユニットデビューやメディア露出によりアンチが急増するがそれらの誹謗中傷にも弱みを見せずに気丈に振るまう。
▼2011年6月、第3回総選挙で初の選抜入りを果たす(19位)。嬉しさのあまり号泣&過呼吸&腰が砕けたようになったがなんとかスピーチをこなした。
 選挙後にファンの方からの手紙で、短期間での昇格やユニットデビューでプレッシャーがあったから過呼吸になったんじゃないかと言われることについて「ただ普通に嬉しかっただけやので…」「プレッシャーなんて感じていません!」と話す。
 AKBでの活動を通して、ソロの歌手という夢に加えてAKBを少しでも支えていける人になりたいという夢も持つようになる。
▼2012年3月、軽音楽部の部長に就任する。
 秋元康曰く「軽音楽部の部長に横山由依を指名したのは、去年の夏、GM5に向けて楽器の練習を開始した時、すべての楽器のアンダーに入れるように、コツコツ練習していたのを見ていたから。横山なら、先輩も後輩もなく、まとめていけるだろう。」
▼2012年5月、Not yet 4thシングル『西瓜BABY』Type-Cに、初のソロ曲『May』が収録される。
 ソロデビューについては、「目指したいですね。頑張ります」「夢に向かって、これからも進んでいきたいなと思います」と意気込みつつも、今は自分に納得できていない状態だと話す。だからこそ、劇場公演やNot yetの活動に全力を注ぐ。
 「人に夢を与えられる歌手になるために自分も夢がなきゃだめ。小さい夢であれ、常に持っているようにしたい」この情熱を持って走り続けた後に夢の実現の時が訪れる。と、インタビュー記事はまとめられている。
 また、ボイトレに通っていること、作詞に興味がでてきたこと、作曲に意欲をみせていることなどが、雑誌等で語られる。
▼2012年6月、第4回総選挙では15位で選抜入り。
 昨年同様に嬉しさのあまり過呼吸気味になるが「今年は徳光さんのお手は借りません」と助けをキッパリと断り、ファンへの感謝の気持ちを繰り返し伝え、「一歩一歩がむしゃらに取り組んでいけたらと思います」とスピーチを締めた。