浦野一美って超絶かわいいじゃねえか!

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189名無しさん@実況は禁止です
2006年11月下旬。
「チームBオーディション」に合格したのは19人。
彼女たちはそれから約1週間後(12月9日)のイベントで、短い時間ながら“お披露目”と称してステージに立つことになった。
 そう、一度はファンの前に立ったオリジナルのチームB。
しかしその後、予期せぬことが起きた。
 当時、チームAは20人、チームKが16人。
この人数はステージを成立させるために必要な人数でもあり、普通に考えればチームBにも少なくとも同程度のメンバーが必要だった。
 しかし、チームBの“候補生”はお披露目の後に続いた厳しいレッスンの中で脱落者が続出し、チームKの16人を大きく下回ってしまったのだ。
 そこで運営側は、ある手段に出る。

――とある日のチームAの公演後。
 AKB48劇場の楽屋でスタッフがチームA全員に声をかけた。
 その日のことをチームAキャプテン高橋みなみが振り返る。
「『ちょっと今日はみんなに話がある。チームBが発足するということで…』っていきなりスタッフさんが言い出したんです。
『なんでこんな話をするんだろう?』って思っていたら、続けて『AからBに数人、行ってもらいたい』って。
そこにいた全員、一瞬のうちに血の気が引いていくのがわかるんです。そうしたらスタッフさんに『高橋はどう思う?』っていきなり言われたんですよ。
で、『異動するのは自分だ!』って思いました。その時はなんとか声を出して『…何も言えないです』って答えるだけで。
もう『今、地獄にいる』って思いました」
 その後、スタッフの口から名前が出たのは、浦野一美、平嶋夏海、増山加弥乃、渡邊志穂の4人。

 最初に名前を呼ばれた浦野が言う。
「その話になった瞬間、『あっ、呼ばれる。ヤバイヤバイ!』って思いました。『呼ばれたメンバーは楽屋から(ステージに)出て』って言われて。
あの時、加弥乃は号泣していて、なっちゃん(平嶋夏海)も泣いていて、しほ(渡邊志穂)ちゃんはふてくされ気味。
私はどうしたらいいかわからなくて黙っていました。
言葉は悪いけど“左遷”ってイメージがあったから」
 候補生の大量脱落。そして、チームAからの移籍組のとまどい。
 “B”というチームの未来は大きな不安から始まった。

 年が明け、2007年。
 1月19日にチームAの3rdステージ(『誰かのために』公演)千秋楽。
チームAをそれまで引っ張っていた折井あゆみが卒業することになり、チームBへの移籍組から一番年下だった増山のチームA残留が決定。
 チームBへと移籍するのは浦野、平嶋、渡邊の3人となった。

浦野「3人に決まった時点で役割を決めたんですよ。
なっちゃんはBのコたちと年が近いから話を聞く役。私は嫌われてもいいから叱る役。志穂ちゃんはふたりの中間、みたいな。
 あの頃は…正直、辛かったです。
声も低くして口調も強めにして…怒りたくないのに怒って…。
でも、やっぱり、あのコたちは『挨拶がちゃんとできない』とか『言葉遣いを知らない』『意識が低い』とか…自分がいたチームAと比べて気になることがいっぱいありましたね」

 この頃のAKBは、少しずつだが社会的に知名度を上げていた。
それゆえ、チームBのメンバーたちは「私もAKBに入りたい!」と思いオーディションを受けた者が多かった。
 一方でゼロからスタートし、
「本当に自分たちはアイドルになれるのか?」
 そんな不安を抱えながら、毎日、劇場で必死に踊り続けたチームAやKとは意識が決定的に違っていた。
 また、チームAやKが合格後約1ヵ月でステージに立ったのに比べ、チームBは年末のお披露目から劇場デビューまで5カ月かかったこともあらぬ憶測を呼んだ。
190名無しさん@実況は禁止です:2012/06/03(日) 20:29:38.00 ID:eysvtZ8F0
 2007年4月8日。
チームB、新しいメンバー13人と移籍メンバー3人の総勢16人(浦野一美、多田愛佳、柏木由紀、片山陽加、菊地彩香、田名部生来、
仲川遥香、仲谷明香、平嶋夏海、米澤瑠美、渡辺麻友。
以下は卒業:井上奈瑠、早乙女美樹、野口玲菜、松岡由紀、渡邊志穂)による公演がスタート。
セットリストにはチームKの2nd『青春ガールズ』が選ばれた。

 当時、『週間プレイボーイ』の誌面で事前にチームBのメンバー全員の顔写真や名前などの情報が掲載されていたこともあり、初日からニックネームでの応援コールが鳴り響く。
 しかも、チームKの“リバイバル”公演でもあったため、ファン全員がKにかけていた“お約束”のかけ声をかけてくれる。
チームBの新しいメンバー全員「こんなに盛り上がるんだ!」と歓喜していたという。

 しかし、その喜びには…なんと数日でブレーキがかかることになる。
 チームBのセンターで踊る渡辺麻友が、たった2日で足のケガにより長期離脱に追い込まれてしまったのだ。
渡辺「右足のスネあたりがすっごく痛くなって、病院に行ったら『踊っちゃいけない』って言われたんです。『なんでこんな大切な時に…私、何しているんだろう』って…。泣きました。
それに私が休んでいる間もみんなは公演をやっているわけで、どんどん差がついちゃうって焦って。家で毎日毎日…不安でしたね」
 追い打ちをかけるように、多くのメンバーが次々とケガや体調不良のため離脱していく。

柏木「当時はアンダー(代役)がいなかったから、休んだメンバーの立ち位置には誰もいないんです。
本当は16人必要なのに9人で公演したこともけっこうあって。
最終的にはチームKさんたちにまで出てもらったりとか…。
不注意でケガをしたりインフルエンザにかかったり…先輩たちはそんなことなかったのにBだけが多くて。
シンディ(浦野一美)やなっちゃんにも怒られました。
『Bのコは不注意が多い。Aは体調不良になったとしても這ってでも舞台に立ったよ。第一、お客さんに申し訳ないと思わないの?』って」

 自分たちの未熟さのせいで先輩にもスタッフにも迷惑をかける。
そして、なによりチームBを楽しみにして見にきてくれたお客さんをガッカリさせる。
悔しくて情けなくて…初日に喜んだ自分たちがバカみたいに思えたという。
“手のかかる末っ子”チームBは、AKB48始まって以来の危機に立たされていた。
(略)

 明けて2008年。
 AKB48が3回目の春を迎えようとする少し前の2月3日。
 佐伯美香という少女が“研究生”からチームBに“昇格”した。
 この“研究生という制度。
これは、チームBが合格した第三期オーディション以降にAKB48になった少女たちに与えられた“名前”である。
 研究生オーディションは、チームBが初日を踏んだ1ヵ月後の2007年5月に第1回が行なわれ、そこで合格した少女たちは「4期生」(佐伯は4期生)、第2回(2007年9月)合格者は「5期生」と呼ばれていた。
 彼女たちはAKB48と呼ばれながらも自分の所属チームがない。そしてチームA、K、Bの公演に欠員が出た場合にのみステージに立つことが許されるのだ(※当時はまだ研究生公演はない)。
そのため、出番がくるかどうかもわからないが、とにかく先輩たちのダンスや歌を覚えた。
(略)
 同じ研究生仲間と、そして自分自身と戦い、“上”を目指す研究生たち。
そんな彼女たちの中から“チーム昇格”を果たした者が現れた。それは彼女たちの“希望”だった。

 一方、そんな研究生たちを先輩チームのメンバーはどう見ていたのだろうか?
 新チームBキャプテンの柏木由紀。
「4期生のオーディションがあるって聞いた時はビックリしました。
だってチーム“B”でAKB48は最後だと思っていたのに、いきなりすぐ下がくるなんて…。
私たちは一番最初がチームKさんの『青春ガールズ』公演、次がチームAさんの『会いたかった』公演。
自分たちのオリジナル公演すらないのにって不安でした。
しかも『会いたかった』公演で自分にもアンダーができたんです。
その時にスタッフさんに『チームBの代わりはいくらでもいるんだよ』って言われたんですよ。体が震えましたね…」

 先輩のチームAとKは“ひまわり組(チームAとKをシャッフル。
ひとつのポジションにふたり配置されるダブルスタンバイ制がとられ、ふたりとも休演の場合はアンダーとして研究生が登場した)
”として、試行錯誤しながらもさらに上を目指していた。
191名無しさん@実況は禁止です:2012/06/03(日) 20:30:07.08 ID:eysvtZ8F0
 そして下からは“夢”という名の野望を持ち、チーム昇格を目指す研究生たちに追い上げられていた。
 その間で“末っ子”扱いを受け、先輩の“リバイバル公演を精一杯やっても「代わりはいくらでもいる」と言われていたチームBの少女たち。

 ある日、そんな彼女たちに待ちわびたプレゼントが届く。
 『パジャマドライブ』公演。
 それはチームBが劇場デビューしてから約1年。初めて、彼女たちだけのために作られたセットリスト(演目)だった。

柏木「一番最初に自分たちにオリジナルのセットリストがもらえるって聞いた時には…本当にうれしかったです。
それまで、チームAさんやKさんたちはだいたい3ヵ月くらい(※当時)で次のセットリストが始まるって聞いていて、『私たちは…?』ってみんなが思っていました。うれしくてうれしくて、みんな泣いていました。
それからしばらくすると、セットリストに入ってくる曲のCDが一曲一曲渡されるんですよ。なんてうれしいんだろうって」

 スタッフから渡されたCDをもらったメンバーは、劇場で、電車で、そして自宅の布団の中で何度も何度も聴いた。
初めてもらった自分たちだけの曲を、胸に抱くようにして聴いた。

 そして、ある日。
「次の曲だよ」とスタッフにCDを渡されたチームBのメンバー。
 受け取った時のことを柏木はこう振り返る。
「あの日のことは覚えています。それまではみんな、CDをもらって、おのおの聴いていたんですよ。でも、あの曲の時はなぜか『みんなで聴いてみようか?』っていう話になって。
そこでかけてみたんですよね」

 それは『初日』という曲だった。

 後にチームBの代表曲といわれる曲をたまたまメンバー全員で聴いた。
「私は立ってる 憧れていたステージ」。
そんな一節から始まる『初日』は、ステージに立つことをやめなかった少女たちの決意の歌だった。
 それは“末っ子”といわれ続け、ボロボロになりながらも必死で前に進み続けた彼女たちに対する総合プロデューサー、秋元康からの贈り物だった。

柏木「CDを聴きながら、みんなで歌詞を読んでいったんですよ。
そうしたら、誰かが『これ私たちのことじゃない??』って言って。
『一人だけ踊れずに 帰り道 泣いた』って歌詞ははるごん(仲川遥香)のことだし。…もう、すっとみんなで『ウチらのことだ!』って大騒ぎでした」

 チームB、渡辺麻友
「あの歌詞は本当にチームBの気持というか、あの頃の私たちがそのまま描かれているんです。
『怪我をして休んだ時 悔しくて 泣いた日もある』って…私なんです。
チームB初公演の2日目にケガをして、その後、長期で休んでしまった時のことなんですよね。
だから、そういう部分の歌詞を歌っていると…いろんな記憶が蘇ってきて…自然と涙が溢れてくるんですよ」

 それからチームBのメンバーたちは「自分たちだけの公演を作るため」に必死でレッスンを続けた。
 そして迎えた(2008年)3月1日。
 幕が上がり、チームBの浦野一美の「いつもの、いきます!」という声が響く。
続いて、チームB全員の声。
「いつも感謝。冷静に、丁寧に、正確に。みんなの夢が叶いますように!」
「AKB!チームB!」
 その声と同時に鳴り響く『初日』。劇場から巻き起こる大歓声。
 デビュー当時から「チームAやKに比べたらBはぜんぜん苦労していない」「末っ子の万年“劇場のお留守番係”」、そう呼ばれていたチームBがやっと認められた瞬間だった。
(略)

明けて、2009年。
 1月18日。前年の1月から始まり、その後、毎年恒例となる『AKB48リクエストアワー・セットリストベスト100』というイベントでのこと。
 これはファンがAKB48の楽曲に投票してベスト100を決め、4日間にわたって発表するというお祭り企画。前年の第1位は『桜の花びらたち』。
そして迎えた2009年の第2回目は、誰もが昨年ヒットした『大声ダイヤモンド』が第1位になると思っていた。
 しかし、イベント4日目。
多くの予想をひっくり返し、チームBの『初日』が“番狂わせ”で堂々1位となったのだ。末っ子であるチームBが大事に育ててきた『初日』が獲得した1位という結果。
 チームBのメンバー全員が大号泣で歌った。