71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
柏木由紀の鼻と云えば、秋葉原で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。
形は元も先も同じように太い。云わば細長い葫のような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。
二十歳を越えた柏木は、ハロヲタの昔から、ひるおびのレギュラーにのぼった今日まで、内心では始終この鼻を苦に病んで来た。
勿論表面では、今でもさほど気にならないような顔をしてすましている。これは専念に一生のアイドルを貫くべきチームキャプテンの身で、鼻の心配をするのが悪いと思ったからばかりではない。
それよりむしろ、自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。柏木は公演のMCの中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりもおそれていた。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/21(月) 19:02:22.90 ID:XyEj1c2rO
柏木が鼻を持てあました理由は二つある。――一つは実際的に、鼻の長いのが不便だったからである。第一飯を食う時にも独りでは食えない。独りで食えば、鼻の先が鋺(かなまり)の中の飯へとどいてしまう。
そこで柏木は研究生の一人を膳の向うへ坐らせて、飯を食う間中、広さ一寸長さ二尺ばかりの板で、鼻を持上げていて貰う事にした。しかしこうして飯を食うと云う事は、持上げている研究生にとっても、持上げられている柏木にとっても、決して容易な事ではない。
一度この柏木の代りをしたまゆゆが、くさめをした拍子に手がふるえて、鼻を粥の中へ落した話は、当時難波まで喧伝された。
――けれどもこれは柏木にとって、決して鼻を苦に病んだおもな理由ではない。柏木は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/21(月) 19:13:36.08 ID:XyEj1c2rO
地下板の柏木ヲタは、こう云う鼻をしている柏木のために、彼女が生涯アイドルである事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も彼氏になる男があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だからオーデを受けたのだろうと批評する者さえあった。
しかし柏木は、自分が芸能人であるために、幾分でもこの鼻に煩される事が少くなったと思っていない。柏木の自尊心は、恋愛と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。
そこで柏木は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復(かいふく)しようと試みた。
第一に柏木の考えたのは、カメラの前でこの長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫を凝(こ)らして見た。
どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖をついたり頤(あご)の先へ指をあてがったりして、根気よく鏡を覗いて見る事もあった。
しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。
時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。柏木は、こう云う時には、鏡を化粧ポーチへしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の楽屋へ、台本をよみに帰るのである。