第41話「小川麻琴vs石川梨華」
熱戦の続く島。
その対岸の解説テントに、遅れていた4人目のゲスト解説が到着する。
「わりい、わりい、遅くなったな〜」
市井紗耶香である。
だが、石黒・保田・福田ら解説陣の注目は、彼女が押す車椅子の人物に注がれた。
「吉澤ひとみ…か」
「ああ、こいつ連れてくんのに手間取ったんだよ」
「意識もないのに見る意味あんの?」
保田の蓮っ葉な言い方に、軽く唇を尖らせる市井。
「さあね。あいつが連れて来いって、うるせえからだ」
市井がアゴでさしたモニターに小川麻琴の顔が映る。
その前に佇むのは石川梨華。
「どうやら、ちょうどいい所みたいだな。吉澤」
車椅子の吉澤ひとみはじっと俯いたまま動かない。
モニターの中で大切な人と弟分の戦いが始まろうとしていた。
「もう一年以上も経つな」
「……」
「夏美会館でトーナメントがあった日だ」
「……」
「出場するはずだったアニキが突然消えた。」
「……」
「同時に一緒に暮らしていたあんたも消えた」
「……」
「翌朝、アニキは植物状態となって見つかった。あんたは消えたまま」
小川麻琴はチラリと石川梨華の反応を伺う。
人形の様に顔色一つ変えない。
「妙な噂を聞いたよ」
「……」
「アニキをあんな風にしたのはあんただっていう下らない噂さ」
「……」
「くだらな過ぎて笑えるよな。そうだろ」
「……」
「なんとか言えよ!!あんたがアニキをあんな風にするはずねえよな!」
「…しよ」
「え?」
「…私よ」
「………、え?」
「吉澤ひとみを半殺しにしたのは…私よ」
プツン。
麻琴の中でそれは切れた。
「うわあおおおおおおおおおおおおおああああああああっっ!!!!!!!」
鬼の形相で石川に飛び掛る。
石川は棒立ちでそれを受ける。
二発。麻琴の拳が梨華の頬を撃った。
流れるように服の裾を掴むと、内股で地面に叩き付けた。
そのままマウントポジション。
鬼は美しい人形の顔を、何度も何度も殴りつけた。
人形は抵抗しない。
なすがまま殴られ続けている。
だが痛がっている素振りは見せない。哀しげな瞳で荒れる鬼を眺めている。
「どうして!どうして!どうして!?アニキを!!あんたが!?ちくしょおお!!」
鬼は涙を流していた。
泣きながら殴り続けていた。
梨華はその映像に、デジャビュを感じる。
(あの人も…泣きながら)
ふと梨華は瞳を閉じた。
次の瞬間、物凄い力が麻琴の体を弾き飛ばした。
氷の視線で梨華は麻琴を見下ろした。
「一分たった」
「ハァ?」
「小川ちゃん。あなたには以前、助けてもらった。今の一分はそのときのお礼」
表情を変えず、淡々と語る石川。
無抵抗で殴らせていたこの一分間を、プレゼントだと言い放つ。
小川麻琴の目の色が変わる。
「…ざけんなよ」
「残念だけど、その一分でも、私にダメージを与えることはできなかったみたい」
「ざけんなって言ってんだコノヤロウ!!」
「もう…あなたに貸しはない。いきます」
トンと石川は前に踏み出した。
細腕から繰り出される突きが小川の腹部を打ち抜いた。
「ぐふぅ!!」
信じ難いが、細く弱々しい外見からは想像もつかぬ程に強力な一撃であった。
まるで吉澤ひとみの世界一の右ストレートを髣髴とさせる程。
たったの一撃で小川は口から胃液を吐いてうずくまった。
そこへ容赦のない蹴りが飛び込んでくる。
「ごはぁっ!!」
一発。二発。三発。当たるたびに小川の顔が紅く染まってゆく。
しかし石川は攻撃を止めようとしない。
ついに小川は床にひれ伏した。
その顔面をミチィと踏み潰す石川。
「おしまい」
それはケタ違いの強さであった。
しかしよくよく考えれば至極当たり前のことである。
石川梨華は殴りあいでボクシングヘビー級王者の吉澤ひとみに勝った女である。
その上、痛みを感じぬ天憮の異常体質をもつ。
誰にも負けない無敵の存在だ。
仕方が無い。
相手が悪い。
石川梨華に負けたからと小川を責める者はいない。
「…………ぃ……っぷ……ん………ら」
「!?」
そのとき、去りゆく石川の背後から声が聞こえた。
その声は「一分だ」と言っている。
石川が振り返ると、血まみれの小川が立ち上がり笑っていた。
「…この一分はサービスら……クソヤロウ」
顔面をボコボコに腫らして、血にまみれた、鬼がいた。
初めて、人形の表情が変わる。
なんと小川は、石川が一分間無抵抗で殴らせたのと同じ事をさせたというのだ。
痛みを知らぬ石川とは違い、生身の人間の小川が、である。
「本番は……こっから……ら…行くぜ」
「やはりあなたはヨッスィーの後輩ね」
(呆れるほどに…バカだ)
小川が突進する。
石川はヒラリと身をかわして、カウンターを撃ち返す。
殴られた小川は、それでもまた突っ込む。
それを払いのけた石川が蹴り返す。
蹴られた小川は痛みで顔を歪める。そしてまた向かってゆく。
その動きももはやボロボロで、石川は簡単に捌くことができる。
誰の目にもレベルの差は明らかだ。
だが小川は諦めない。
(無理よ)
石川は思った。
(あなたじゃ無理よ。小川麻琴ちゃん)
小川の顔を鷲づかみにすると、そのまま地面に叩きつけた。
(ヨッスィーに必要なものは…あのとき以上の死闘)
「あなた程度の腕じゃ到底…ヨッスィーと私を満足させることはできない」
地面に倒した小川を殴りつけた。小川には反撃する余地も与えない。
(やはり…いないの?)
(あのときの…ヨッスィーくらいの…死闘に付き合ってくれる人は何処にも?)
その女は風に乗っていた。
風の様な速さで森の中を走っていた。
目指す場所は島の中央にある城。そこに目的の人物がいるはずだ。
だがボートで到着した場所がひどく離れた場所であった為、まだ城が見えない。
(ん…?)
女はすぐ近くから誰かの気配を感じ取った。
それも自分と同じくらいのスピードで走っている。
近づいてみると子供であった。
(城に向かってるのかな?ちょうどいいから案内してもらおう)
少し速度を落とすと、女は子供の後ろに付いた。
「誰!!」
すると子供が気付いて止まった。
(あーあ、近寄りすぎたか。子供のくせに意外とするどいねぇ)
子供はKで最速を誇る矢島舞美であった。
辻と加護の見張りに付いたKの一人だ。
加護の圧力に屈し、城に戻ろうとしている所であった。
矢島は自分のスピードに付いて来た女を見る。
「誰だ!」
「…後藤真希」
「どうして後ろに?」
「別にぃ。付いていけば城まで最短距離で行けるかなって思っただけよ」
「させないわ」
矢島が消えた。
いや実際に消えた訳ではない。物凄い速さで飛び上がったのだ。
しかし常人の目には消えた様に映るであろう。
それほどの速さである。
矢島は飛び移った木の上から、後藤を見下ろして言った。
「どう?スピードで私に付いてこれる奴なんていな…」
下に後藤がいない!矢島は目を見開く。
(いつの間に?何処へ消え…)
「あのさぁ。スピード勝負なんて興味ないから。案内だけしてよ」
「っ!!」
すぐ後ろからのんびりした声が聞こえ、矢島は思わず飛び上がった。
「そ、そんな!私は!速さなら誰にも負けないと…!!」
加護の三倍拳はある意味反則だ。本来もっているスピードで負けた訳ではない。
だから矢島のプライドもまだ保たれていた。だがこの後藤真希という女は…違う!
「面倒くさいなぁ…案内してくんないなら、もう倒しちゃうよ」
「認めない!スピードだけは誰にも…負けてたまるかぁ!!うわあああ!!」
矢島は全速力を賭けて飛び掛った。
最速決戦。文字通り勝負は一瞬で終わった。
石川梨華はまだこの後藤真希を知らない。
どうしようもない悲しみの中、ただ小川麻琴を殴り続けていた。
小川麻琴の意識は薄れ掛けていた。
もう力が入らない。手も、足も。
あの梨華さんがこれほど強い人とは思わなかった。
とても勝てそうにない。
よく考えりゃ、アニキが勝てなかった人に私が勝てる訳ねえよな。
わかってたさそんなこと。
だけど逃げる訳にはいかねえんだよな。
私はアニキが好きだから。
アニキをあんな風にした奴を許せるはずがねえんだ。
その相手が石川梨華というなら尚更だ。
アニキは梨華さんのことが好きだったから。
梨華さんもアニキのことが好きだと思ってた。
あんたならいいって思った。
あんたなら私は黙って身を引こうって思った。
アニキとあんたなら、私は笑顔で祝ってやろうって思ったんだよクソヤロウ!
だから死んでも許さねえ!!
アニキを裏切った石川梨華を私は死んでも許さねえ!!
たとえ勝てなくても!
たとえどれほどレベルが違っても!
たとえ私がここでボコボコに殺されようと!!
負ける訳にはいかねえんだ!
石川梨華!
強い衝撃に、石川の細い体が弾け飛んだ。
クルッと体勢を整えると石川はそれを眺める。
もう動けない、そう思っていた。
だが、それはムクリと立ち上がってきた。
激しい攻防で柔道着の背中の部分がめくれ落ちていた。
「……小川ちゃん?」
石川は目をこすって見直す。
幻覚か?それとも?
小川麻琴の背中に『鬼の顔』が浮かび上がっていたのだ。