150 :
書いた人:
ちゃぷちゃぷとタオルを洗う音がユニットバスの方から聞こえる。
…いつの間に着替えさせられたんだろう、汗でぐしょぐしょになった浴衣をその隙に着替えた。
大分寝たから気分の方は結構いい。
身体も特に疲れてないし…うん、これなら明日は大丈夫そうだ。
胸の前でグッと拳を握ってみたところで、石川さんが再び現れた。
「紺野、ちゃんとお布団入ってないとダメだよ」
「…ハァ、でも別に風邪ひいてるわけじゃないんですし…
っていうか、何で熱も無いのに濡れタオル?」
「いやぁ、その方が看病っぽくていいじゃん」
能天気に左手で頭の後ろを掻きながら、石川さんは照れ笑い。
そして私の両肩を掴んで、無理矢理ベッドに寝かしつける。
「さ、紺野はもうちょっと寝てなさいって。いいからいいから」
なんというか、今日の石川さんは久々に見る、あの能天気と強引さが同居した感じ。
中澤さんのお隣で弾けまくっていた、あの頃を見る感じ。
151 :
書いた人:04/11/26 21:33:44 ID:4C5KnbQj
ベッドの横に腰掛けて、石川さんは私をニコニコと見下ろす。
そんなに笑われてもなぁ。
「あのぉ、石川さん」
「ん? なによ」
「今日、コンサート休んじゃってごめんなさい」
「なに謝ってんのよ」
ちょっと呆れちゃった、とでも言いたそうに、人差し指で頬をつついてくる。
爪の先っぽが、痛覚と冷覚を同時に刺激する。
「あのさぁ、あと4日あるでしょ?」
「あと4日しかないです」
「4日もあるのよ」
4日どころか、あと1ヶ月…いや1年続くかもしれない。
それでも私は今謝りたかったのだ。
今日の分のコンサートは何回繰り返されたって、やっぱり今日しかないから。
152 :
書いた人:04/11/26 21:34:44 ID:4C5KnbQj
私を突っつくのに飽きたのか、石川さんは立ち上がって窓の方に歩き出した。
寝そべったまま、彼女が向かう方向に頭と目線だけを向ける。
日頃見ないアングルで、ミニスカートから伸びた細い脚が強調される。
「紺野、ちょっと空気澱んでるから、窓開けようか?」
「ええ、お願いします」
「おっけ」
振り向いてウインクをした石川さんが恥ずかしくて、なんとなく目を逸らした。
カーテンを開ける音。
…でも、その後に来るはずの金属が触れ合う音が聞こえてこない。
おかしいなあ…
「紺野、桜が綺麗だよ」
「は?」
石川さんの声に目を向けると、窓ガラス越しに窓の下の方を見下ろす姿。
そっか…このホテル、大きな公園の隣でしたね。
夜桜か…きっと、いや絶対綺麗ですよね。
153 :
書いた人:04/11/26 21:35:38 ID:4C5KnbQj
「やっぱり今日も変な夢見た?」
「って! 話飛びすぎですよ! 桜は?」
「まあ、いいじゃない」
振り向いてにやりと笑うと、ガチャガチャと回転窓をちょっとだけ開ける。
すぐに外の冷たい空気が、生暖かくて澱んだ空気を洗い流していく。
石川さんの髪の先が、さらさらと風の流れに踊っていた。
「変な夢、また見た?
心に溜め込んで疲れの元になっちゃうんだったら、石川さんに話してみなさいって」
なんと言うか、今夜の石川さんは一味違う。
話に脈絡が無かったり、それを強引に進めていくのは相変わらずだけど。
どこか、儚い感じがする。
それが私の精神状態のせいか、春の夜のせいか、その辺はさっぱり分からない。
154 :
書いた人:04/11/26 21:37:40 ID:4C5KnbQj
「夢…ですか。色々見た気がするんですけどねぇ…そんなに全部覚えてないんですよ」
その「儚さ」が染みて、ついつい言葉が先に出た。
その話の相手はベッドに横座りに腰掛けて、私をじっと見下ろす。
「何でしょうねぇ…そう、作文読んでましたよ。
今まで書いたことがない作文を、さも自分のものみたいに読んでましたよ」
「へぇ…どんなのよ?」
「大きくなったら…とかそんなのだった気がしますけど。みんなに笑われて、でも…」
「でも?」
「ひとりだけ、誰だったかなぁ? あれ。
知ってるような知らないような、どっちだったか分かんないですけど。
その人だけは、本気で私の話を聞いてくれてたんですよ」
瞬間、石川さんは頬を膨らまして吹き出した。
でもそれも一瞬、
155 :
書いた人:04/11/26 21:38:37 ID:4C5KnbQj
「ハハハハ…なぁに? それぇ〜」
ただでさえ甲高い声を更に響かせて、笑い声を響かせる。
お布団をボンボンと叩いて、お腹を片手で抱える。
目尻に浮かんだ涙を小指の先で飛ばして石川さんはそれでも笑いつづけた。
むぅ…折角打ち明けたのに、これじゃ心の支えがとれるどころか、却ってストレスになりそうだ。
頬をぷうっと膨らませて石川さんに不機嫌をアピール。
流石に鈍感な彼女も気付いたらしい。
「ああ、ゴメン、紺野…で、どうなのよ? やっぱり嫌な感じなわけ?」
「んーと、今回は別に…っていうか、普段も嫌って感じじゃなくて、
どっちかって言うと身に覚えがなさ過ぎて困っちゃう、ってところですねぇ」
「そんなもんでしょ、夢って」
『もしも明日も調子悪かったら、遠慮なく休むのよ』
そんな言葉を残して、窓を閉めると石川さんは出て行った。
今日は夜まで騒がないように、私だけ一人部屋にされたらしい。
まあ…早く寝るとしますか。
どうせまた、変な夢を見るんだろうけど。
夢を見ることがまるで普通になってきた自分がいた。
156 :
書いた人:04/11/26 21:39:33 ID:4C5KnbQj
―――
「お! 石川、紺野どうだった?」
部屋のドアを後ろ手に閉めた石川を認め、矢口はパソコンのディスプレイから目線を移した。
普段だったら『所詮石川』だから、パソコンから目を離すことなどないのだけれど。
今日は、離す気になったのだ。
一つは、彼女が紺野の部屋から帰ってきているということから。
そしてもう一つ、いつもは部屋に入ってくるなりキャーキャー声をあげる、その声がなかった。
「まあ…そのまんま、過労ですよ。大分元気そうでしたけど。
やっぱり会話の節々で、ちょっと鬱な感じが見え隠れってところですか」
「むぅ」
『むぅ』に色んな想いが込められていることは充分に分かる。
『事務所がこき使いすぎなんだよ』などと、リーダーとして大っぴらに言えない、
その葛藤が『むぅ』には込められている…はず。
そして…もう一つの葛藤も勿論含まれているはず。
いや、含まれていない方がおかしい。
「矢口さん、紺野また夢見たって」
「どんな?」
「将来の夢の作文を読んでる夢…って言ってました」
「それって…そっか…うん、そっか」
まるで頭の中で何度も何度も反芻しているみたいに、矢口は顎に指をかけて数度頷く。
石川はただ憂鬱そうに、その様子を見下ろしていた。
157 :
書いた人:04/11/26 21:40:58 ID:4C5KnbQj
そのまま言葉がなくなったのを契機に、石川はまだ考え込んでいる矢口の後ろに回る。
そして何気にノートパソコンに目を落とした。
「矢口さん、またそれ見てるんですか?」
「ん…あぁ、だってよ…何度でも復習しないとさ」
「忘れることなんかないでしょ」
忘れることなどないはずだ。
そう、絶対に。
矢口がこれを忘れるなんて、ありえない。
何と言うか…心配性とでも言うのだろうか。
石川に言葉には反応せずに、またさっきの思考のスパイラルに戻った矢口に溜息を漏らすと、
石川はもう一度カーテンを開ける。
やっぱり窓の下には、笑ってしまうような綺麗な桜色が広がっていた。
明日のコンサート、紺野も出られるといいな…
そんなことを思った。
まだ矢口は考えつづけている。
ノートパソコンが静かにファンの音を立てていた。
パソコンでは、紺野が昨日ちらりとファイルネームだけを覗いた『P.V.』が起動されていた。