灼熱のアスガン

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124書いた人

「すいませーん…矢口さーん……」

ちょっとだけ声のトーンを落として呼び掛けてみたけれど、返事は無かった。
シャワーの音も聞こえてこないってことは、ユニットバスにいるわけでもないらしい。

「矢口さーん…石川さーん…」

外にでも飲みに行ったのかな?
だとしたら…バッグや携帯が無くなってる筈だけど、ちょっと入り口のここからは見えない。
確かめてみたくて、無意識のうちに身体を部屋の中に滑り込ませた。
カチャリ…と小さな音を立ててドアが閉じられる。
部屋の中に入ったら余計に、パソコンのファンの音が大きく聞こえるような気がする。
125書いた人:04/11/23 17:09:17 ID:AbNyjOtu

特に珍しいことではない。
オートロックじゃないホテルに泊まるようなとき、留守の間に部屋に誰かが入っていることなんかざらだ。
大体は遊びに来たのにいなかったから、待ってたとかそんなのだけど。
一度、冷蔵庫に入れておいたヨーグルトを矢口さんに食べられたこともある。

だから別段の罪悪感は無い。
ただちょっとドキドキするのは、先輩の部屋に居るってことと、
いつものお遊びではない、矢口さんにとっても大切なことを伝えたい、って心があるからだ。

テレビの横の大きな鏡。
鏡の前の台には、二人の化粧道具が整然と並べられていた。
嫌でも目に付くピンク色の石川さんバッグが見えないってことは…外に行ったのかな?
でも矢口さんの携帯とお財布がベッドの枕元にあるってことは、矢口さんは中にいるのか。

…待とうかな。
126書いた人:04/11/23 17:09:55 ID:AbNyjOtu

テレビを点けようにも、これは私と矢口さんだけの秘密だから、いつも通りにするのが憚られた。
大体は何人かで他の部屋に乗り込むから、こうやって手持ち無沙汰になることはないし。
窓際の椅子に腰掛けて、ぼぉーっと矢口さんを待つ。

ノートパソコンは壁紙かな?
矢口さんが大きくこっちに向かってピースをしている写真。
自分のパソコンの壁紙が自分、ってどうかとおもうんだけど…

あまり他人のパソコンを覗くのはどうかと思うんだけど、どうしても視界に入っちゃう。
下の…えっと、確か「ツールバー」だったっけ?
そこには何か使ってる途中だろうか、『P.V.』っていうのが見える。

矢口さん…あんた、どこまで自分好きなんですか。
コンサートの遠征先で、プロモなんか見る必要無いと思うんだけど。
127書いた人:04/11/23 17:11:18 ID:AbNyjOtu

部屋の隅の方、パソコンの画面、鏡、ベッド…
色んなところに視線を移しながら考える。

私が寝坊をしたことが、お父さんにメールを打たせるところまで波及した。
考えられないほど大きな変化だ。
勿論偶然に偶然が重なったとは思うけど。

でも…多分、明日になれば、またこんな変化はまるで無い一日が始まるんだと思う。
だって前回の一週間では、必死に毎日を変えようとしても、私たちは次の日にはいつもの次の日に戻っていた。
日が変わるたびに、変化がリセットされてるような気がする。

今ぼんやりと考えているのは、最後の一日が勝負なんじゃないかな、ってことだ。
最後の一日が勝負だから…
128書いた人:04/11/23 17:13:16 ID:AbNyjOtu

だから、娘。のみんなに全てを打ち明けた方がいいんじゃないかって思っている。
つまり…私と矢口さん二人だけじゃ変化は起こせないけど、
みんなが一気にやれば、そのうちのどれかが、
いや…それらが合わさって、この繰り返しを破るところまでいけるんじゃないだろうか。

多分、話した途端みんなに変態扱いされるだろう。
しかも石川さんの卒業の日に、不謹慎としか思えないし。
でも…可能性の一つとして、私は賭ける価値が無いとはけして思わない。

矢口さんにどこまで話すかは、ちょっとまだ考えてるけど。
お父さんからメールが来た事実を、矢口さんがどこまで真摯に受け入れてくれるかだ。

どうしよっかなぁ…つーか、二人ともどこ行っちゃったんだろう?
携帯で電話したって、この部屋にある矢口さんの電話が鳴るだけだしなぁ。

と、カギがガチャガチャと動かされる音がした。
129書いた人:04/11/23 17:14:37 ID:AbNyjOtu

「あれ…カギ掛けなかったかなぁ…石川ぁ〜」

ゴソゴソと入り口付近で動く音。
まだ私の位置からは姿は見えない。
中にいると思っている石川さんに呼びかけながら、ゆっくりと近付いてくる。

「石川、起きたの……か…?」
「矢口さん、お邪魔してます」

なんだろう、私を見たその瞬間、矢口さんは微妙な顔をした。
自分の表現力を呪うけれど、ホントに「微妙な」顔をしたんだ。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけど。
そう、それは一瞬だけで、矢口さんはいつもの矢口さんにすぐに戻った。

「あ…紺野、お前……どうした?」
「ちょっと…伝えたいことがありまして」
「ああ…そうか…ちょっと待ってろ…」

それだけ言って、矢口さんは私の目の前に鎮座しているノートパソコンに目を落とす。
瞬間、矢口さんの目の色がさあっ、と変わった。
130書いた人:04/11/23 17:16:37 ID:bH1OWwe/

「紺野…もしかして…パソコンいじった?」
「え? え…いいえ、壁紙が見えちゃっただけですけど」

気圧されて、むしろ嘘をつく暇も無くて、そのままホントのことが口から出てきた。
やっぱり、パソコンを覗き見られるのって気分悪いですもんねぇ。
矢口さんはその目付きのまま私の眼を見ていたけれど、すぐに満足げに頷く。

「そうか…うん…ちょっと待ってろ。お茶淹れるから」

さっと身を翻して、矢口さんは備えつけのポットに水を汲みに向かう。
その背中から、パソコンにもう一度パソコンに目を移す。
相変わらず、壁紙では矢口さんが大きくピースをしながらウインクしていた。

「どこ行ってらっしゃったんですか?」
「バーカ、お前が寝坊したの、もう一度マネージャーに謝りに行ってたんだよ」
「あぅ…すいません」
「ま、気にすんな」

振り向いてポットを両手で抱える矢口さんは、やっぱりいつもの矢口さんだった。
131書いた人:04/11/23 17:17:58 ID:bH1OWwe/

―――

「しっかしなぁ…元の一週間のままでって言った傍から、これだもんなぁ」
「ってか、もう覚えてないですからねぇ。精神的にも厳しいですし」

ティーパックだけど淹れてくれた緑茶が胸に染みる。
矢口さんはパソコンをさっさとしまってテーブルの上をどけると、
『てめーは太るから、ちょっとだけにしろよ』と言って、お菓子を出してくれた。

「で…どうしたんだよ」
「ええ…お父さんからメールが来たんですよ」
「お父さんって…札幌の?」
「ええ」

それから私は一気に言い切った。
もしかしたら…娘。いや、ハロプロ全員で最終日に何かをしていけば、
きっとこの繰り返しは終わるんじゃないか。
矢口さんは一々頷きながら、時々目を見広げて、私の話を聞いてくれていた。
132書いた人:04/11/23 17:18:55 ID:bH1OWwe/

「でもさぁ…お前が寝坊して、お前と石川とマネージャーが京都まで行ったのって、
めちゃくちゃ強烈な変化だぞ?」

話を聞き終わると、むしろ冷静にしようと努めているらしく、
右手の人差し指を額に乗せて矢口さんは呟く。

「それよりもっともっと凄い変化が必要なんじゃないのか?
それってかなり危ないと思うんだけどさぁ」
「…?」

『危ない』の意味が捉えにくくて首をかしげる私。
その様子が面白かったのか、矢口さんはちょっと笑いかけると優しく続ける。

「つまりさ…石川の卒業コンサートが台無しになっちまうくらいのものなんじゃないかなぁ。
それでそのまま時間が進んでくれたって、石川の卒業コンサート、もう二度と出来ないんだぜ?」
「…そうですね」

もっともなことだ。
何度もやっているから神経が麻痺してるけど、仮に動き出したそのときのことを考える必要も当然ある。

「考えさせてくれない…?」

40分くらい話して、矢口さんの最後の言葉が結論だったんだろう。
私も…今夜はじっくり考えよう、そう考えながら部屋を後にした。
133書いた人:04/11/23 17:20:30 ID:bH1OWwe/

―――

紺野が出て行ったのを目で確認して、足音が遠ざかるのを鼓膜で感じると、矢口は静かにカギを回した。
ちょっと寒気がするのは、春の夜のせいだけではない。

「石川…まだ帰ってこないのかな?」

独り言をいう気分にも当然なっていた。
考えることがありすぎる中で、
独り言がガス抜きみたいに自分の心の思慮の絡みを解いてくれそうな気がしていたから。

パソコンを出そうと身をかがめたとき、メールの着信音が聞こえる
無遠慮に響くそれにちょっと顔を顰めて、矢口は携帯を取り上げて開いた。

『しっかし、鋭いですねぇ』

本文を一瞥すると、手馴れた操作でそのメッセージを消去する。
鋭いに決まってるじゃない、私の後輩なんだから。

矢口の呟きは、声にはなっていなかった。