灼熱のアスガン

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111書いた人

―――

♪でーもー えがおはー 大切に した〜いぃ

大音量で会場に流れる石川さんの声は、黒板を爪で擦ったときみたいに、みんなの顔を顰めさせた。
右隣で矢口さんが息を整えつつ、ニヤニヤしている。
なんつーか…まあ、相変わらずの光景だった。
私も人のことは言えないんだけどね。

でも…何度も聞いているうちに、石川さんの歌が普通に聞こえてくるから不思議だ。
いや「普通に」って言うよりは、上手くなっているような感覚さえ覚える。
『慣れ』って怖い。


♪ 愛する人のために…


…5日後、私たちは曲の最後まで、行き着くことができるんだろうか?
ヲタさんたちの声援を耳腔に感じながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
112書いた人:04/11/21 11:43:50 ID:7KgevwYz

―――

「それじゃ、今日はここまで。あんまり夜遅くまではしゃがないように。
あと紺野、てめーは寝坊すんじゃねーぞ」
「はぁい」

私の気の抜けた返事に、矢口さんは脱力したような溜息を唇の端で漏らした。
でもすぐに気を取り直すと、元の…「リーダーとしての矢口真里」の顔に戻る。

「朝8時、8階のエレベーター前に集合な。
朝飯はホテルのラウンジでとってもいいけど、騒がれないように。
あと、そん時はちゃんとマネージャーに一言入れること」

コンサートと移動の疲れから、矢口さんの注意はみんなの左耳から入って右耳へ抜けていく。
外に泊まるたびに繰り返される注意。
みんな聞き飽きてるだろうけど…私はもっと聞き飽きている。
113書いた人:04/11/21 11:44:50 ID:7KgevwYz

―――

「…うっそ! 名古屋って、名古屋県じゃないんですか?」
「いやいやいや、亀子、あんた間違ってるから」

ベッドに寝そべって携帯をいじりながら、亀子と馬鹿話。
あんた何を考えて今まで生きてきたんだ。
何が楽しいのか分からないけど、亀子はベッドの上でコロコロしながら、私に笑顔を振り撒く。

「ねえ、一応聞くけど…仙台って何県?」
「…仙台県?」
「ハァ…宮城県」
「え? 宮城って、九州ですよね?」

だめだこりゃ、と天国からチョーさんが手を振っているのが見えた、気がした。
間違っているのを指摘されても、唇を尖らせて子犬みたいな目を一瞬するだけで、またすぐに元に戻る。

ジャンルがちょっとずつ変わるけど、ホテルでこんな馬鹿話をするのも、いつも通り。
確か前の一週間のこの日は、「カニカマは蟹か」だったかな。
114書いた人:04/11/21 11:45:32 ID:7KgevwYz

『いいんですよ、東京人だもーん』と、開き直りに近い言葉を発しているのを横目に、
メールのセンター問い合わせ…あれ、メール来てる。
今まで、この場面でメールが来たことはないはずなんだけど。

「あれ? 誰からですか?」

鳴り響く着信音に、亀子が興味津々といった感じで目をキラキラさせる。
その輝きとは反比例して、私のテンションは一気に下がった。
…だって、メール、お父さんからなんだもん。

「んー、お父さんからだ」
「仲良いんですねー」
「すっごく悪いから」

事実、お父さんからメールが来ることなんか滅多に無い。
大体殆ど話もしないし、好きか嫌いかで言えば、嫌いの方だ。
115書いた人:04/11/21 11:46:07 ID:7KgevwYz

とはいえ、もしかしたらお母さんが病気とかそういう知らせかもしれないので、一応内容を読んでみる。
くだらない内容だったら、もう金輪際口なんかきかないから。

『元気ですか? お仕事キツイでしょうがあまり無理しないように』

これだけだった。
いつもだったら「何こんな内容でメールなんか打ってんのよ」って思うんだけど…
でも、どこか嬉しかった。

つまり…今日私が寝過ごしたりとかしたから、一日が微妙に変わって行ったってことかな。
私が寝坊することで、ホントは来るはずのないメールが来て。
たった一日で、そこまで影響が及ぶのにちょっとびっくりする。
116書いた人:04/11/21 11:47:13 ID:7KgevwYz

「…どうしたんですか?」
「ん…いや、ちょっと考えごと」
「なんか深刻なメールだったんですか?」
「そういうわけじゃないけど」

ベッドから起き上がって顔を斜め45度に傾けて、亀子はすこし寂しそうな顔をした。
私もそれにつられて起き上がる。
考えているのは、お父さんからのメールの内容じゃない。
ちょっとずつ、やっぱり変化が生じるこの事実。
一応矢口さんに早く伝えた方がいいかな、って考えていたんだ。

「あのさ、矢口さんの部屋って…812だったっけ?」
「そうですよ…石川さんと相部屋です」
「ちょっと行ってくるね」

部屋を出ようとした私の後ろから、
『京都まで行っちゃったことは、別に矢口さんも怒ってないと思いますよ〜』
と、気の抜けた声が聞こえた。

なんか、この期に及んで後輩に心配されてる自分が可笑しかった。
117書いた人:04/11/21 11:48:33 ID:KbUpGzIe

コンコン…

「いないのかな…?」

ホテルの廊下。
ノックに中から答える声は無かった。
時折別の部屋から妙な雄たけびが聞こえてくるのは、まこっちゃんと吉澤さんだろう。
でもその声も厚い扉で低減されて、廊下は妙に静かだ。

もう一度ノックをしてみる…やっぱり答える声は無い。
…寝ちゃったのかな?
まさか、まだ夜の9時半だ。
加入直後のれいなじゃないんだから、そりゃないだろう。

ノブを静かに回して引くと…あれ、開いてるじゃない。
顔だけ部屋の中に差し入れてみても、誰も中には見えなかった。
整然とした室内。
テーブルの上では矢口さんのだろうか? 開いたままのノートパソコンが鎮座していた。

微かに、パソコンのファンの音が聞こえていた。