「ッ!!」
藤本さんの犬歯が首筋に迫るその刹那、跳ね起きた。
薄暗い部屋、水色のカーテン……
夢だったんだ…よかった。
カーテンの隙間から差し込む弱い光で、まだ夜が明けきっていないことが分かる。
でも…ここどこだろう。
今まで見たことのない景色。
私の部屋じゃない。
まこっちゃんでも愛ちゃんでもガキさんでも…のんちゃんの部屋でもない。
私たちの部屋よりは数十倍落ち着いた感じがする部屋だ。
一言で言えばアダルティーなんだけどね。
「あぁ…紺野、起きた?」
ぶっきらぼうというか、めんどくさそうな声に振り向く。
「保田さん……中澤さんも」
メガネの奥に吊り上った瞳を湛えて保田さんはニヤリと笑いかけていた。
一方その後ろで、中澤さんはどこか儚げに私を見遣る。
「えっと……なんで…私、ここに?」
確か…矢口さんが吸血鬼で…それを亀ちゃんが止めてくれて…
その後は……記憶が無い。
「あのッ…!! 中澤さん! 保田さん!
矢口さんが…みんなを…血を吸って!! それで亀ッ!!」
「…」
「だから…みんなッ……死んじゃったったんですよッ!!
中澤さん!? 死んじゃったんです!」
頬の辺りが涙でべっとりと濡れた。
にもかかわらず、私は悲しさをまったく感じずにいて。
目の前で頷きながら、落ち着いて話を聞いてる二人に憤りを感じる以外は感情はなく。
「何で悔しくないんですか? 何で悲しくないんですか!?
死んじゃったんですよ! みんな! 首筋から血を吸われて…亀ちゃんなんかバラバラに!!」
「…知っとったからな」
鼻から「ふぅ」と大きく息を漏らして、中澤さんは前髪を掻きあげる。
「裕ちゃん…やっぱり…紺野にも…」
「そやな」
感情を一気に出したからか、頭の芯が痺れるような感触。
二人のそんな会話は、まるで人ごみで耳を掠る程度に遥か遠くに聞こえた。
起きたばかりなのに、猛烈に眠い。
「裕ちゃん…紺野にも教えよう?
私たちのこと、矢口のこと……そして、紺野自身のこと」
「そやな…そうしないと……矢口には勝てんなぁ」
―――
「よし、お前はすぐに続きに取り掛かれ」
上司(ボス)よろしく紺野の両肩をぐっと掴むと、矢口はにやりと笑った。
楽屋に帰ってきた紺野に「小説を読んで感想を聞かせてくれ」といわれたときは、
正直このような展開になるとは矢口は予想していなかったのだが。
『どうせ同人っぽい、女同士がキスしたりとか禁断の百合の園とか、そんな話だろ。
そんなんだからおめーはヲタなんだよッ!!』
等という、名誉毀損で告発されたら送検は免れない言葉を吐きつつ、
紺野から渡された紙を読んでみたのだが、意外だった。
最初の方こそ、少し分かりにくかったのだが、読むに従って引き込まれていく。
原稿用紙にしたらほんの2、3枚程度のものなのだが、矢口は続きが気になってたまらなかった。
それは矢沢あいを読み終え、続きが気になってたまらなかった若き日に似ている。
尤も紺野の文章をプロと比べることはプロに失礼極まりないのだが、
二十歳をちょっと過ぎた彼女には、デジャヴにも似た感覚だったのだ。
だから…矢口の微笑には、まだそのような感性を持っていたことが分かって嬉しかった、という感情も含まれている。
「しっかしなぁ…おいらが吸血鬼とはなぁ…」
「す…すいません!!」
ずずっとダージリンティーを啜りながら矢口が睨みつけると、紺野は小さくなった(顔の大きさは変わらないが)。
矢口としては特に不快には思わない。
最初は狂的な書かれ方に「お?」と思ったのは事実だが、それだけだ。
紺野が自分のことをちょっと怖がっているのなど知っている。
それが上手いこと文章に使われているのがおかしかった。
おそらく…じゃんけんぴょんでどうのこうのといった歌を歌っている頃の矢口だったら、
紺野の人権を蹂躙するかのような、特高も逃げ出す精神的拷問を与える所だろう。
だが今の矢口は、ちょっとの理性と、ある程度の諦めを身につけていた。
楽屋の向こうの方で六期がバカなことをして遊んでいる声が聞こえた。
藤本が『燃え尽きた』元少年院の入院者のように、
パイプイスの上で灰になっていたのが少し気にかかったが、いつもの楽屋だ。
矢口はいつもの楽屋が、こんな風に変わってくれるとは思ってもいなかったのだから。
暇つぶしと言われればそれまでだが、刺激を求めて止まない145センチの瞳は輝いている。
なぜそこまで刺激を求めているのか。
センチメンタル南向きの「風が南向き」って、それってホントは北風じゃねーの? ってくらいにその辺は謎である。
謎は謎のままでいいのだろう。
矢口の心は矢口のものである。
他の誰のものでもないのだから。
同じくつんくの作詞感性もつんくだけのものだ。
それが与える影響が放射能汚染くらいに広大なだけで。
ただ、間違いないことがひとつ。
自転車に二人乗りしてる二人には、風が北風であろうと南風であろうと関係が無い。
それだけはおそらく間違いは無いのだろう。
作者にはそれだけでご飯3杯は軽いこのような経験が無いので、あくまでも憶測の域を出ない。
「でもさぁ、紺野。ひとつだけ。
話の中でお前が見たことになってる夢があるじゃん? これって描写特にねーんだけど」
そうなのだ。
亀井がその身を犠牲にして吹っ飛んだシーンの次、いきなり紺野が目覚めたシーンが来ている。
唐突というか…ちょっと繋がりが分からない。
一番に突っ込もうかと思ったのだが、
紺野なりの考えがあるのかと思った矢口はすこし躊躇していた。
矢口の言葉に紺野は少し顔を俯かせて唇を尖らせる。
頬を覆い隠している長い前髪がふわりと浮いた。
『まあ…ヲタ受けするわなぁ』と矢口はバカなことを考えている。
ちなみに『男受けが』と言わないあたりが、矢口の最後の精神的砦である。
「えっとですねぇ…ホントは書いたんですよ。
でも…ちょっと書いたメモ無くしちゃって…あ! でも頭の中には入ってますから!」
「ン…そっか。じゃあ大丈夫だな」
教え子を見守る先生のように、矢口は大きく頷いた。
紺野ははにかみながら、頷き返す。
楽屋の中のこのテーブルが暖色系に染まっていくのが目に見えるように。
二人は互いに微笑みあった。
「そっかぁ…藤本が出てくる描写なんだろ?」
「ええ、そうです。夢の中の部分なんで、ちょっと病的に書いてますけど」
「ふーん…すっげぇ怖そうだな。藤本が病的な…吸血鬼か」
暖色系の空気が、一人燃え尽きている女に届いた。
藤本の身体がピクリと動いたのを、唯一田中だけが認めていたのだが。
―――――
「ええ、あの時確かに私は藤本さんを止めなくちゃと思いました」
―――なるほど、なのにあなたは止めなかった。
「ええ、ゆらりと藤本さんが立ち上がって、そして助走を始めるのを、ただ見つめていました」
―――ただ見ていただけ、と。
「ッ!! そんな言い方…!」
―――失礼、そうですね。止めることは…
「できません。多分、『退かぬ媚びぬ省みぬ』が信条の人でも無理だと思います」
―――誰だよそれ。
「あなたは藤本さんに会ったことがないからです!!」
―――…失礼。その後、助走した藤本さんはどうしましたか。
「ええ……飛びましたよ。飛んでいました。スローモーションみたいに長い間。
れいな、人間って頑張れば飛べるんだなって思いましたもん。
ウィルバー・ライトが『俺の弟もあんくらいだったらなぁ』ってあの世で嘆息したらしいですよ。
そしてその後……」
―――――
「紺野ッ!! ちょっと藤本! なにやってんだ!!」
「矢口さんは黙っててください!!」
「あさ美ちゃん…白目剥いてる…」
ひっくり返ったテーブル、飲み差しの紅茶、横倒しのイス
飛び蹴りをした藤本は肩で息をして
目の前で後輩が吹っ飛ぶ姿を見た矢口は捲くし立てて
紺野は倒れたままピクリとも動かずに
流石に…いつもの楽屋とは言えなかった。