「なによこれーーーーーー!!!」
ややハスキーの入った絶叫に、ファッション雑誌を捲っていた田中はビクッと肩を震わせた。
本来ならば振り向きたくもないのだが、彼女の本能がその絶叫の意味をいち早く知りたいと望んでいたのか、
恐る恐るその声のほうに目線を遣る。
卒業証書を受け取るときみたいに、両腕を真っ直ぐ水平に伸ばしたまま、藤本がわなわなと震えていた。
「絵里…なにがあったんかな?」
「えっとぉ…さぁ?」
隣では認知能力が欠如しているのか、お気に入りの漫画をケラケラと笑って読む同期。
潜めた声でのこの一瞬のやりとりだけでは、当然のことながら収穫などありはしない。
まさに大凶作。
天保の大飢饉とかの方がまだ少しは収穫があったような気がする。
まあ、そもそも問いかけた田中の方だって、この刹那の会話に収穫など求めてはいないのだが。
プルプルと震える藤本の両腕。
震えは手先に行けば行くほど大きくなり、両端を握り締めた紙切れが、かさかさと音を立てる。
「……あ、破れた」
パピルスのように藤本の手の中で粉砕されていく紙片。
その様子を実況中継する亀井の神経を疑いながら、
田中はあの紙はさっきまで紺野が一生懸命何かを書き付けていたモノだと気付いていた。
さわらぬ神に祟り無し…
田中の脳味噌が、メモリーで記憶している数少ない諺を反芻していた。
こういうときは知らん振りしてトイレに行くのに限る。
そしてオレンジジュースを買いに行って、他の面子が収録中のスタジオを覗いて、
それから帰ってくれば、大体自分に災いが降りかかってくる危険はないのだ。
…と、ここまでの計算をスパコン並の速度で田中は終え、実行に移るだけだったのだが、
「あれぇ〜? 藤本さん、どうしたんですかぁ?」
生憎自分の隣にいるおバカさんは、思慮の「し」の字の欠片すら持ち合わせていなかった。
「バカッ…絵里!!」
「え? なにがぁ」
小声で諌めてみたところで、最早後の祭り。
ジト目の中でいつもより数倍目だって見える涙袋にやや笑みすら湛えながら、
藤本の凍てつくような視線が二人に突き刺さっていた。
が、その冷凍光線が出そうな目つきが段々潤み始める。
「…あのさぁ、美貴って……暴力的?」
「え?」
「そりゃあ…あまりか弱い感じじゃないよ? でも…そんなに酷いイメージ?」
取り敢えず田中の頭の中で、いくつかの選択肢が閃く。
1…そんなことないですよ、藤本さん!
2…藤本さんは……優しいですよ。私は知ってます。
3…まあ、ちょっとバイオレンスかもしれませんね。
即座にこんな選択肢を思い浮かべる自分の馬鹿さ加減に苦笑しつつ、
田中はこの中のどれかを選べばフラグが立って、あとはエンディングへ一直線のような気がした。
何のエンディングかはよく分からないけど。
田中があっちの世界へ行っている間も、藤本の呼吸は徐々に速くなる。
分かっているのだ。
4つも下の…いや、田中はもっと下だが、そんな子たちに涙を見せることはみっともない。
私は泣いたことがない…等という古い歌はどうでもいいのだが、
やはり「毅然としたイメージ」をきっちり持っていてもらいたい。
だが…それは最早限界だった。
一度口にした言葉は、まるで生きているかのように藤本の心の中で木霊する。
それは心の壁に跳ね返りながら、いろんな感情のドアを開け放していって。
溢れた涙は、もう止まらなかった。
『え? 振り返った私の頬に、ぴたぴたと雫が降りかかった。
目を二度、三度と閉じて、そして舌先に当たった雫の味で、ようやくその正体が分かる。
…血?
美貴ちゃんが…いや、昨日までは美貴ちゃんだった吸血鬼が…犬歯から血を滴らせている。
ゆらりと身体を半回転させて、中澤さんがこっちをぼんやりと見ながら倒れるのがスローモーションで見えた。
虚ろな瞳を湛えた目尻からは、涙が糸になって宙に浮かぶ。
『紺ちゃん…頂戴よ? ね? 紺ちゃんの血も飲みたいんだ…私』
咄嗟に身を引いた瞬間…
バキッ
すさまじい音を立てて、すぐ前の床に大きく穴が空く。
クレーターの中心から、ボコッと音を立てて美貴ちゃんは拳を引き抜いた。
甲に滲んだ血をぺろぺろと舐めながら、彼女は流し目でこちらを睨みつける。
『紺ちゃん…避けちゃダメだよ。美貴は紺ちゃんの首をちょっと咥えるだけなんだから。
大丈夫…きっと紺ちゃんの血って美味しいんだろうなぁ…首のあたりのお肉の歯ざわりも最高だと思うよ。
ちょっと抵抗があって、そのあとはサクって行くよ。
そしたらさ、私の口の中にすぅっと流れ込むんだ。
痛くなんかないよ。最初はちょっとチクッとするけど、
でも血を吸われてる内は気持ちよくてたまらないから。』』
前後関係はわからない。
ただ…これだけの文章。
私は、こんなにも狂的な人間に見えるのか。
パンチ一つで床に穴が空けられるくらい…そんな風に見えるのか。
いや…そもそも紺野にパンチを浴びせるような人間だと思われているのか。
そして……こんなに病的に血を吸う魅力を語る人間のキャラが当てはまるのか。
偶然見つけたその紙切れに藤本の心は揺り動かされた。
いつもの彼女ならば、おそらくは笑って破いていただろう。
だが…今日の彼女の感情の起伏は、これも偶然に、この出来事と周波数を一にした。
ちょっと落ち込んでいるときに優しい言葉を掛けられると、何故か涙が出てくるように。
それは…心理学的には説明できるのかもしれないが、やはり藤本には分からない。
小さい子どもが「ゾウさんのスキャンティー」などという、
取り敢えず謎なタイトルの歌をアニメで聴き、「スキャンティー」の意味が分からないで悩むように。
藤本は泣きながら、自らの心の騒擾に戸惑っていた。
余談ではあるが、私はかつて「スキャンティー」の意味がさっぱり分からず、
でも「なにかちょっといやらしい」というニュアンスだけは幼心に感じ取り、
「スキャンティーってなぁに?」と、母親に聞こうか迷いまくった。
あの時、知的好奇心に負けずに母親に尋ねなかった幼き日の自分を誉めてやりたい。
「ねぇ、二人とも…私って……ッ」
後に続けたかった言葉は涙に詰まった。
藤本が自分自身に戸惑っているように、田中も藤本に戸惑っていた。
「キャラクター」という言葉は恐ろしい。
12人も人がいれば、その中で自然と役割が決まってくる…いや、演じているのだ。
大人の飯田、毒づく矢口、壊れた石川、男っぽい吉澤、空気を読まない高橋、食欲の紺野、
たるんだ小川、平常心の新垣、冷静な藤本、にやついた亀井、自己愛の道重、子どもの田中
誰が望んだでもなく、誰に望まれたでもなく、彼女たちは演じている。
田中自身もそれは分かっている。
明らかに自分自身がこの集団に入って、少し子どもじみてきたことを。
子どもであることを許されたのではなく、子どもであることを求められている。
それは…空気が、求めているとでも言えようか。
本当は全ての面をみんながちょっとずつ併せ持っている。
一面しか持っていない人間などこの世にはいないのだ。
あのおちゃらけているつんくでさえも、恋に悩んで眠れない日があった…と信じることとしよう。
ともかく頭脳では分かっていても、いざ目の前にしたとき、田中は理解できなかった。
藤本が泣いている?
「あの」藤本が?
これが紺野や辻なら分かる。
なのに…藤本さんが泣く? 紙切れを読んで? ただそれだけで?
――――――――――
うぷぷぷぷ…
怪しい思い出し笑いをする紺野の横で、新垣が本能的に危険を察知したのか、身を引いていた。
だが今の紺野にはそんな光景など目に入らない。
楽屋で書き留めた小説の続きは、休憩の合間に書いた割にはかなりいい感触だ。
はやくあれを高橋に打ち込んでもらおう。
そして…待っているか待っていないか分からないけれど、読者に見せることができるのだ。
「いやぁ、こんな日はさっさと収録終わらせたいねぇ、ガキさん」
「は?」
「ねぇ、こんなに気持ちのいい日は仕事なんかサボタージュして、
オープンテラスのカフェでくつろぎたいねぇ」
「…あさ美ちゃん」
「ん?」
「中澤さんがすっごい目付きで睨んでるよ」
哺乳類なら石化しそうな、そして鳥類以下なら殺してしまいそうな目線に紺野は凍り付く。
楽屋での田中の困惑を予想だにせず、彼女はじっと今を耐えていた。
切り所が難しいですね。
紺野さんの桃色片想いを聴き、下手さ加減に萌える私はどうかしてるのでしょう。
>>212 多分あなたしかいなさそうですなぁ。
つづきたい