「みなさ〜ん、こっちの収録終わりました…よ?」
亀ちゃんが楽屋のドアを開いた瞬間、黒い空気に吸い込まれそうになる。
私は咄嗟に廊下の壁をグッと抑えると、同時にもう片方の手で亀ちゃんの襟首をつかんだ。
「え? え? なに?」
「亀ちゃん、外! 出なくっちゃ!!」
抵抗空しく、私たちは楽屋に吸い込まれる。
もつれるように中に倒れこむ瞬間…目に入ったのは…床に倒れ伏すみんな。
いやただ一人だけ、薄暗くておかしな空気の渦巻きができている部屋の中に立っているのは…
矢口さん…?
ドサッと音が出るのと同時に、膝とかそこかしこに痛みが走る。
私の胸の下には亀ちゃんが潰れていた。
そして二人同時に、倒れた途端、矢口さんを見上げた。
「ハハハ…お前らか」
乾いた笑いが室内に響く。
真っ白な顔、真っ赤な唇…そして…その端から顎に垂れている赤い雫。
「別に心配すんなよ、おいらだよおいら」
「矢口さん…みんなどうしたんですか?」
「ん? 亀井? ああ、みんなか。それも心配すんなよ。ただ寝てるだけだから」
「嘘です!!」
「お、紺野…てめぇ、言うようになったなぁ。
心配すんなっていったろ? すぐにお前らも同じように眠らせてやるから」
ふっと、すぐ近くに倒れている美貴ちゃんが視界に入る。
白い首筋には、真っ黒な丸い穴が二つ、くっきりと付いていた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ…
口元を手の甲で拭う矢口さんを前にして、私は立ち上がるのが精一杯だった。
いや、亀ちゃんを…先に逃がして…
でもどうすれば?
ぐるぐる考えが回るだけで、ちっとも体がついてこない。
そしてそんな私たちにニヤッと笑いかけて、矢口さんは一歩ずつ近付いてくる。
その瞬間…私の後ろから、影が走り出す。
「亀ちゃん!?」
「ん? 何だ…亀井?」
瞬きをしたその瞬間、亀ちゃんは私の背後から走り出すと、矢口さんの背中にしがみ付く。
「チッ…おい、ちょっと…どけよ! 亀井!」
小さな身体でもがく矢口さんを、必死で羽交い絞めにする亀ちゃん。
矢口さんの眉の角度が徐々に上がって、怒りの度合いを示す。
『紺野さん…』
!?
頭の中に声が響いた。
亀ちゃん?
『紺野さん…さようなら……どうか死なないで』
え?
薄暗い室内に、亀ちゃんを中心として放射状の光が走る。
私の叫び声は、爆発音の中に吸い込まれた。
―――
「……」
いつもの楽屋の片隅。
いつものオレンジペコと、これもいつもの砂糖とミルクがこれでもかと入ったコーヒー。
いや、今日はそれにオレンジジュースが加わっているのだが。
両手を膝の上に置き、顔を真っ赤にして照れまくる紺野(HNモチロン)の前で、
小川と新垣が石化していた。
「どうかな…矢口さんが吸血鬼で…あ! でもね、もちろんこれは導入部。
これからみんなで矢口さんを元に戻すために頑張っていく、って話なんだけど…」
ああ、小川と新垣は今ほどテレパス能力があればよいと願ったことはないだろう。
テレパシーができれば紺野を傷つけることなく、最高の対応策を協議できるのだから。
ちなみに小川は脳内で
『どうする? いくらヲタ素質あるからって今時コロコロコミックでもありえないストーリーなんだけど。
いや読んだことないけどさ。あんまりにもあんまりじゃない? これ。
ってか、すっげー読みにくい』
と、取り敢えず批評めいたことをしていたのだが、
『パク・ヨンハ…間違えた、パクリだよね? これ?
最後って絶対チャオズが死んだとこじゃん。
あれでしょ? 『天さん…さよなら、どうか死なないで』ってところでしょ?
チャオズの数少ない見せ場…ああ!
安倍さんごめんなさい、私としたことがパクリなんて言葉を…
ってか、亀井ちゃんいきなり死んでるし、なにこれ? 亀井ちゃんイコールチャオズ?
ってことは、亀井ちゃんからチャオズを取ったら何も残らないわけで…
いやいやいやどっちにしろパクリ…ああ、またごめんなさい、安倍さん』
と、困惑しつつも2秒に一度は安倍に謝罪していたのだから、
恐らくはイスラエルとファタハの最高幹部くらいに、話し合いが成り立つ余地がなかったのだろうが。
やはりよりショッキングなあの花札話を読んでいたからか、小川の方が立ち直りは早かった。
とりあえず心の揺れの振幅がこれ以上大きくならないように、コーヒーを取ると舌を浸す。
「あさ美ちゃんさぁ…うーん…何を書きたいのかわかんないんだよねぇ」
「あれ? なに? そのいっぱしの編集者気取りの言葉?」
「あんたもなにいっぱしの小説家気取ってんのよ」
ちゃんと心を鬼にして批評ができている自分に少し感心した。
何が書きたいのか…つまり、なににスポットライトを当てたいのか分からないのだ。
「だからさぁ、あさ美ちゃんが書きたいのは、不気味な風景なのか、矢口さんの恐ろしさなのか…」
「小川あ!! ほっとけ!!」
カクテルパーティー効果は絶大で、部屋の反対側の隅でファッション誌に目を通していた矢口が怒声をあげた。
小川は『えへえへ、すいません』と、林家三平も裸足で逃げ出す詫びを入れると、きりっとして紺野に向き直る。
「うーん、書きたいことは…色々だよ。
最初は部屋の中の不穏な空気、次は矢口さんの怖さ、そして亀ちゃんが死んじゃうことへの悲しみ…」
一応学習効果があるのか、「矢口」のところは少しだけ声を潜める紺野。
新垣はやっと石化呪文が解けたのか、グラスを机から奪い取ると、一気に中の液体を吸い込んでいた。
「どれも中途半端だよ。
長くなっちゃうのはしょうがないからさぁ、だったらもっと表現を重ねないと。
今のままじゃ、ホントに読んでる人、さっと読み飛ばしちゃうよ?」
「そっかぁ…今のままの表現で、それで厚みを入れたいところはもっと色々入れてみる、ってところかなぁ」
「そだね。それに、自分の感情なのか、周りの情景なのかはっきりさせること」
「はーい」
紺野は茶目っ気たっぷりに顔を傾けて敬礼する。
小川は「ぶっ」とむせ込んで、照れ隠しに顔を伏せてしまった。
今までに比べて遥かに真っ当な意見を得て上機嫌な紺野は、
更なる感想を得ようとほくほく顔で新垣をターゲティング。
「あ! ガキさんはどうだった!?」
「…」
「ねえ?」
「パ…」
「パ?」
ちなみに紺野は「パナップ食べたいのか? もしや」と変なことを考えていたのだが、
生憎彼女の半分は食欲でできているので、この際しょうがないとしよう。
ただしこんな穏やかな空気も一変、新垣塾ですら出したことのない大声が楽屋の中を駆け巡った。
「パクリじゃーーーーん!! これ!! ねえあさ美ちゃん!!
いや! 紺野あさ美!! パークーリーッ!!」
この後、楽屋の中のみんなが新垣を放っておいてくれたわけがないことは、言うまでもないだろう。
娘。内の、いやハロプロ内での一番の話題、しかも声に出すことが憚られている話題を、
突然大声でいきなり言い出したものだから、楽屋は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
突如パクリ等という、「プレステ」に続く娘。内放送禁止用語を絶叫した新垣は、
当然のことながら任期があとわずかのリーダーによって、みっちりとお説教をされることになる。
まあ説教の間、リーダーもどこか頬の辺りがにやついていた。
尤も、そのにやつきが、こうしてお説教ができることへの惜別であったか、
それとも遥か昔自分のソロパートを奪い取った同期への復讐が果たされたことへの微笑なのか、知る由もない。
怒られている新垣の方も、ヲタ故の宿命か、
残り少ないリーダーの説教にご満悦の様子であったから、結果的には良しとしよう。
さて、その頃…
「うーん…愛ちゃ〜ん、どうしよう」
「ドイツ軍なんて無理だよぉ、あさ美、断んなぁ…」
掲示板でレスがついたのはいいが、「ドイツ軍を出してほしい」とリクされて、
困惑する紺野と高橋がいたのだった。