「はふぅ」
「いやいやいや…なに? そのわざとらしい溜息?」
楽屋の入り口から見て右側の手前、いつものテーブル。
収録の合間の和やかなティータイムは、これ見よがしな紺野の溜息で打ち破られる。
おそらくこの溜息をスルーしたなら、鬼だの悪魔だの藤本だの、ほぼ人非人の扱いを受けるのであろう。
小川の中のあまり性能が良いとは言えないコンピュータも、
今回ばかりは問題の簡単さ故に、コンマ秒の早さで回答を導き出した。
「ん…ちょっとね…はぁ」
クリーム色のノースリーブのニット。
ネックの辺りではふわふわとした飾りが渦を巻いていて、紺野のふわふわ感をますます引き立たせる。
白く柔らかな…いや、実際に小川も触ったことがあってそのぷにぷにを知っているのだが、
その柔らかな腕が机の上で折り曲げられて、紺野の顔を顎のところで支える。
頬杖をついてちょっと目を逸らす仕草。
通常ならばメランコリーを醸し出し、同年代かちょっと下くらいの男なら簡単に落とせそうなその切なさ…
ただ、紺野が顔を向けている方向には壁しかないのだが。
「ちょっと…どうしたのよ、あさ美ちゃん?」
一見女の友情を垣間見るような光景ではあるが、
小川の心の底に『うわ、やっべ、私ってば大人?』といった感情があることを見逃してはならない。
小川の底の感情は兎に角、一応礼儀は尽くされた前振りは、紺野の唇を動かすには充分だった。
「ん…ちょっと…スランプ」
「はぁ?」
小川の無遠慮な声に、室内の何人かがこちらに振り向く。
ただ、声の主が小川であることを認めると、すぐに視線を元に戻した。
小川自身は何も感じていないが、皆のこの仕草には、
『ああ、こいつが大声をあげるのはいつものことだ。あと、吉澤さんな』
という意味が込められていることも、一応付言しておいた方がいいのだろう。
「スランプって…あれ? 小説のこと?」
「うん、他に何があるの?」
「まだ書いてたのか…」
お前の歌や踊りは基本的にスランプだ、等という下から二番目の言葉を出さないだけ、
やはり小川は一応大人になったのだろう。
さて、スランプの女王は自分の意思だけを伝えると、さっさと先ほどの体勢に戻る。
せめてそこに窓でもあったら絵にあるのにな、と一瞬だけ情緒的な精神が小川の心に宿る。
でもそれもほんの一瞬。
なんだ? もうスランプだってことは伝えたから、あとはお前から進めてくれってか?
次に続いたのは疑問符だらけの感情。
「いやいやいや…スランプって、あさ美ちゃん、あの花札以外の話書いたこと無いじゃん」
「うん、だから書けないのよ」
「スランプってさぁ、ある程度好調だった人がつまづいちゃうことじゃん。
あさ美ちゃんまだまだ全然書いてないし」
「それはそうなんだけどさ」
はて、スランプの定義をこう置けば、紺野の歌と踊りは果たしてスランプと言えるのだろうか。
論理学は取り敢えず今回のところは放置しておこう。
「いや、ほら。まこっちゃんに見てもらってさ、なんでこういう小説書こうとしたのか言ってさ、
そうしたら、なんか突然ハードル高くなっちゃって」
言霊とでも言うのだろうか、分からなくはない。
小川自身も、「自分がモーニング娘。のエースになる」とテレビで公言してしばらくの間、
自分の歌や踊りが少し固くなった覚えがある。
つまり…「エース」の歌と踊りをしなくてはならない、という妙な圧力が心の中にあった。
それは別に他の人が自分に何を期待しているのかではなく、自分自身の心の中の戦い。
さっきまでのように、簡単に次の言葉が出なかった。
オレンジペコの入ったティーカップを両手で包むとそれを口に運び、紺野は甘ったるい液体で唇を塗らす。
一方小川のカップに入った砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーは、
ただ湯気を立てているだけでテーブルに鎮座している。
「うーんと、どう言えばいいのか全然わかんないけどさ」
「?」
「しばらくは、自分が読んで面白いと思えるものを書けば良いんじゃない?」
「それでいいのかな?」
ティーカップを包んだまま、紺野は小首をかしげる。
出会った頃によく紺野がしていた、自信がなさそうで、いつも周りにおどおどしてたあの瞳。
小川はその瞳を随分久しぶりに見たような気がした。
「良くはないよ? 多分最低ラインってとこだよ。
でもさ、自分が面白いって思えないものを、他人が面白いって思う?」
「それは…思わないね」
「でしょ?」
もう大丈夫だろう。
紺野はまずは自分が面白いと思えるものを書くだろう。
それを読んだとき、小川は鬼となってダメ出しができるか、今ひとつ自信が無いけれど。
まずは紺野に書かせるところから始めなければ。
「そう言えばさぁ、この間の花札の話、感想とか出たの?」
「ううん…全然。おっかしいよねぇ…結構人が多い掲示板だと思うのに」
カップを空にした紺野は寂しそうに眉を下げる。
次から頑張れば良いよ…そう言おうとした瞬間、小川は紺野の言葉に顎が外れそうになった。
「おっかしいよねぇ…かなり自信があったのになぁ…面白いと思うんだけど」
やはりこの人には小説の才能がないのではないか、と小川は心からそう感じる。
そして…今後どんな小説を読まされるのか考えると、家を出て電車に乗った後に、
炬燵の電気を消し忘れたことに気付いたときのような悪寒が走った。
その後数分、たった数行の花札小説の魅力を散々語られる小川がいた。
楽屋のほかの面々は、にこやかにその光景を見守っている。
いつもの平和な楽屋だった。