――― 34話 さらば魔界街 ―――
私立ハロー大学医学部、大学病院。
廊下に女性のアナウンスが木霊する。
『財前教授の総回診です』
助教授を始めとする10名以上のスタッフを引き連れて、病室を回診する財前吾郎。
『魔界医師』財前の本当の職業がココにあった。
「先生、2ヶ月ぶりぐらいじゃないですか?今までどうなさってたんです?」
診て回る患者達は心配し、口々に同じ質問をする。
それだけ、この財前が信頼されている証拠だ。
「ははは、すみませんねぇ、ちょっと心労が溜まって休暇を取ってたんです」
「もう、大丈夫なんですか?」
「ははは、患者さんに心配してもらえるなんて、僕も幸せです」
そう言って場を和ます財前が、2ヶ月近くも病院を離れていた理由は勿論、心労などではない。
小川神社の呪縛から逃げられなかっただけだ。
財前専用の個室で、窓を開けて空を見上げる 魔界前医師の表情は限りなく重い…
財前は、この病院に戻った真の理由を思い、目を閉じ、
おもむろに空に向かって両手を伸ばし、流れるような手つきで、シャドーオペを始めた。
しかし、その右手は僅かに震えている…
今なお、この体を蝕む『魔』を振り払えないでいるからだ。
財前吾郎が『人造舎』に登録した理由は只一つ、金だ。
ハロー大学医学部の教授になる為には膨大な資金、つまり賄賂が必要だった。
教授になってからも自由に使える金が必要になり、そのまま『人造舎』に登録し続けたのだが、
総帥の北野が殺され、小川直也がその地位を奪い取ってから、財前の人生の全てが変わった。
財前吾郎は小川神社で『魔』に取り憑かれた。
大学病院の最上階に設置された特別ルーム。
そこに飯田圭織が入院していた。
全治4ヶ月と診断された飯田の体は、その後の検診のたびに短くなり、
今日の財前の検診結果では、あと一週間程で退院できると言う。
「まったく驚異的な回復力ですね」
呆れたように言う財前。
「なんたってオニ子ですからね」
付き添いで病室に泊まり込んでる小川麻琴が、悪戯っぽく笑った。
「ハハ…その名前はやめろ」
麻琴が剥いたリンゴをパクつきながら飯田。
「いいじゃないですか?…オニ子、うん、格好いい」
麻琴は頷きながら、納得の表情だ。
「どこが!格好悪いじゃん!しかもカタカナだし!」
ブウっと膨れ面の飯田は、キョトンとしてる辻に気付いて「ねえ?」と話しを向ける。
「…飯田さんは鬼じゃないです。優しいのです」
毎日のようにお見舞いに来てる辻の目当ては、
朝娘署から毎日のように届く、お見舞いのフルーツバスケットだ。
「のんちゃんだけだよぉ!分かってくれるのはぁ!」
メロンを食べてる辻に抱きつき、頬擦りする飯田。
「わぁ!」
メロンを落とし、飯田を咎める辻と、クスクス笑う麻琴。
「それだけ元気なら大丈夫、明日にでも退院できますよ」
その光景を見ていた財前は、薄く笑って肩を竦めた。
「では、お大事に…」
会釈して部屋を出る財前に、ペコリとする麻琴と辻。
「…もう、悪い事すんなよ」
財前の背中に言葉を投げた飯田は、人造舎を抜けた魔界医師を捕まえる気など無くなっていた。
理由は簡単。
吉澤と松浦の命を救ったからだ。
そして、この医師を必要としている多くの病人もいるのだ。
一旦足を止めたが、そのまま何事も無かったようにドアを閉める財前…
飯田は気付かなかった…
病室を出る財前の唇が、歪んだ笑いを形作った事に…
ハロー製薬本社ビル…
ハロー大学医学部教授の財前の地位は、この会社でも絶大だ。
深夜2時に訪れても、丁重に迎えられ、目的の地下研究室に通される。
その中でも厳重に管理されている地下100メートルの最下層、
『バイオ研究室』に、殺菌措置をし、ガウン一枚に着替えさせられて入った財前の
目的は、同期の親友、里見に会う為だ。
(バイオ研究室に入るには、たとえ財前でも厳重なボディチェックが必要なのだ)
朝娘市の中で、魔界に一番近い この部屋は、10メートルの厚さの鉄の壁に囲まれた
息が詰るような重い空気が漂う密室になっている。
地下に染み入る魔界の空気が、危険度特Aのウィルスを造り出し、死滅させ、また造られる。
空気清浄機の音だけが、やけに響く20畳程の研究室には
24時間体制で常時3人ほどの研究員が、研究に勤しんでいた。
「よう、里見、久しぶりだな」
顕微鏡を覗き込んでいる、里見と呼ばれた誠実そうでいて
どこか暗い影を落とす研究員は、ハッと声の主に振り向く。
「財前か…元気そうだな、何しに来た?」
「まだ、僕への医学部長就任の祝いの言葉を聞いてなかったからな」
「…そうか、医学部長になったのか、知らなかったよ。おめでとう」
握手を求めてきた財前の手を握り返しながら
「で、本当の目的はなんだ?」
約1年ぶりに、この研究室に足を運んだ財前の真意を聞く。
財前自ら、このような場所に赴くには、それ相応の理由が有るはずだ。
「…これと言った理由はないが、君の声が聞きたくなったのと、
以前、君が言っていた究極にして最悪のウィルスが
どうなったのか知りたくてね」
「あぁ、『Zウィルス』の事か…」
里見の胸に、嫌な胸騒ぎが過ぎる。
「どうなった?」
「…ちゃんと保管してある、予防ワクチンと一緒に」
「そうか、それを聞いて安心した」
財前はガラス張りの、もう一つの部屋を覗き込む。
ウィルスアンプルがズラリと並べられた その部屋は、言わば、究極の冷蔵保管室だ。
その保管室の奥に、厳重に封印された黒い箱があった。
「…あれがそうか?」
「そうだが、何故そんな事に興味を抱く?」
答えぬ財前が、不適な笑みを漏らした。
その財前の足元に転がる、他の2名の研究員の亡骸…
研究に没頭していた里見は、財前が入って来た時に、
研究員が瞬殺された事を気付かずにいたのだ。
「…財前!お前!!」
里見の首筋に財前の手刀。
崩れ落ちる里見を抱きかかえるように支えた財前は、
気を失った里見を里見自身の椅子に座らせる。
「里見、君と僕の仲だ、君には…
いや、朝娘市の全市民には、死んで欲しくない…
それには君の力が必要なんだ」
里見のポケットから、IDカードと研究室の鍵類を取り出した
財前の顔には、悲壮感が漂っていた…
ハッと顔を上げた里見は時計を見た。
気を失ってから4時間が過ぎようとしていた。
里見は、机の上に置いてある
空になったウィルスアンプルと注射器、
それとボールペンと便箋に気付いた。
それは遺言が書かれた、財前の遺書だった…
里見へ …
この手紙をもって、僕の魔界医師としての最後の仕事とする。
まず、僕が取り憑かれた『魔』について、以下に、愚見を述べる。
この2ヶ月、僕は自分を侵し始めた病的とも思える
ある種の欲望に自分自身を抑えることが出来なくなっている事に気付いた。
それは、日を増すごとに強くなり、自分の意識さえ無くなっている時があるのだ。
その欲望を言葉に表すなら「死」「破壊」「絶望」「無」…
それらの感情が僕を満たし、僕を魅了し、僕を侵した。
『魔』…奴等と言ってもいい。
奴等は姿形を持たない、何百、何千、何万もの意思の集合体なのだ。
そいつ等が僕に憑依した。
理由がある。
僕は知っているのだ。
この日本を、いや全世界の人間だけを絶滅させる方法を。
奴等は、そこに目をつけた。
奴等は、人類の滅亡を願っているのだ。
里見よ、僕は奴等の手に落ちたよ。
自分の感情と行動をコントロール出来なくなってしまった。
君の造った『Zウィルス』は人間の最も大切な人格を司る
僅か1・5ミリの大脳新皮質を崩壊させるため、知能が爬虫類並みになり、
凶暴性が増大し、同じ種の人類に感染させようと噛み付く衝動に駆られる。
そして、出血多量、出血性ショック、破傷風、敗血症 …
噛まれる事により引き起こされる、これらの原因で死に至り、
死んだ者は脳が破損していない限り、発病して甦る。
『Zウィルス』で発病した生ける死者の肉体は、
腐敗を著しく遅らせるので、5年近くは活動を続ける…
そう、君から聞いたが、間違いはないか?
僕は今、君の造ったウィルスを自分の腕に注射したよ。
感染した僕は、数日後には歩く死者になるだろう。
それまでの間に、感染者及び発病者を増やす事に専念する。
これは深遠の魔界に巣食う『魔』の意思なのだ。
ただ、願わくば、僕の好きな朝娘市の住民だけでも生き残らせたい。
だから、僕は今すぐ この足で魔界街を出るよ。
君の造った予防ワクチンを市民の数、37万本を早急に作る事を進言する。
日本滅亡まで後7日、世界の滅亡は一ヶ月しかないのだから。
そして、生き残った朝娘市民の手で、人類の再興を果たして貰いたい。
なお、人の命を救う医師という職業に身を置く僕の知識が、
人類を死滅させる結果を招いてしまった事を、心から恥じる。
財前吾郎
愕然とする里見は再び腕時計の針を見る。
朝の7時を回りそうだった。
財前の書き残した遺書が本当だったら…
すでに、万単位で被害者が出ている筈なのだ…