自分の本当の妹、小川麻琴が小川神社に行った事を知らない飯田圭織は、
気まずい雰囲気のままで麻琴と顔を合わすことが出来ず、昨日から『スナック梨華』に入り浸っていた。
昨日、閉店しても居残る飯田に店を預けて帰った石川と吉澤が、今日 店を開けに出勤した時、
昨夜と同じ格好でカウンターに座って水割りをチビチビやってる飯田の姿にビックリしたが、
あまり酔ってはいないようなので、「お疲れ様」と、声をかけて、そのままにしている。
飯田が今日 何回目かも分からない溜息をついた。
昨日、麻琴に問われるままに、小川神社の真相は話した。
麻琴は案の定、ショックを受けたようだ。
そして、喉まで出かかったが、自分が麻琴の本当の姉だとは遂に言い出せなかった。
これ以上のショックを与えることが忍びなかったし、
鬼の子という不浄な出自の自分が嫌われるかもしれない、という不安が過ぎったのも事実だ。
カウンターに寝そべるように頬を付け、溜息をつく姿は泥酔者にも見える。
そんな飯田の格好を見て、肩を竦める吉澤と石川。
カランカランとドアを開けて定刻通りに入ってきたのは藤本だ。
ただし、藤本の後ろには背の低い男が着いてきていた。
藤本の運転手かとも思ったが、猿顔は同じだが、格好が違う。
どこかの拳法着を着ている。
藤本の目配せで気付いた。
石川からレクチャーを受けた人造舎所属の魔人だという事に…
「入り口で店内の様子を伺ってましたので、『入ったらどう?』って私が声をかけましたの。
…飯田さんに用が有るそうよ」
目が据わり、漫然と立ち竦む小柄な男を尻目に藤本は、いつも通りカウンターに座った。
物憂げに男を見た飯田も、男の正体に気付き、「…何のよう?」と立ち上がった。
「…オマエが魔人ハンター飯田圭織か?」
「アンタは人造舎の飛猿ね」
飛猿と呼ばれた男は自分の正体を知られている事に
驚きながらも、吉澤達を舐めるように見回した。
「この3人が魔人ハンターの仲間か…」
「だったらなに?」
ポキポキと指を鳴らしながら前に出る飯田を、右手を上げて止める飛猿。
「小川直也様からの言伝を伝えに来た」
「なに!?」
「麻琴という少女を預かっている。取り戻したければ明日の夜、小川神社に来るように。との事だ」
「!!」
愕然とし、言葉が見つからない飯田の代わりに吉澤が聞く。
「オマエは麻琴が小川直也の妹と知っているのか?」
「なっ?」
今度は飛び猿が言葉を飲んだ。
「…どうやら知らなかったようだな」
「と、とにかく伝えたぞ」
言いながら後ろに下がり、ドアの向こうに消える飛猿。
「岡村…」
飛猿が消えたと同時に従者に命じる藤本。
いつの間にか現れた岡村は藤本に一礼して、身を翻した。
「どうするつもりだ?」と、吉澤。
「飛猿は私と貴方の存在を知ったわ。消えてもらいます」
「でも麻琴ちゃんが…」と、心配顔の石川。
「伝言係が死んだくらいでは、実の妹を殺しはしないでしょう」
依存は無いわね?と、飯田を見る藤本。
「…お前達には話してた方がいいかな」
肩を落とした飯田が、ポツリポツリと妹の事を話し始めた…
街並みを見下ろすように、飛猿はビルの間を人家の屋根を、文字通り
飛ぶサルの如く駆け抜ける。
人質の麻琴という少女が小川直也総帥の実の妹と『スナック梨華』で聞いてから、
ずうっと考え事をしていて、周りの気配に注意をしてなかったことが不味かった。
ビルとビルの間を跳んだ飛猿の背中を、いつの間にか忍び寄った何者かが
ガッシリと羽交い絞めにして、そのまま地面に叩きつけようと20メートルの高さから落下した。
「ぐう!」
両肩の関節を自ら外し、羽交い絞めを逃れる飛猿は地面にぶつかる寸前に
身を翻して両足だけで着地したが、不完全な着地は両膝に衝撃を与え、
大腿骨と脛の骨に数箇所ヒビを入れた。
「キサマ…」
目の前に立つ、背格好が同じ位の男は運転手の格好をしている。
そして右手には、飛猿に向けた拳銃が握られていた。
パンパンパン!
続けざまに3発、岡村の銃が火を噴いたが、
当たった筈の鉛の弾丸は、滑るように飛猿の体を抜けた。
フウ、フウ、と荒い息をつく飛猿の額は、油を塗ったようにテラテラと光っている。
「危なかったぜ…」
岡村の銃に気付いた瞬間に、大量の汗を噴出した飛猿の身体防御機能。
その汗は、弾丸さえも滑らす鉄壁のガードを誇っていた。
「もう、俺を捕まえる事は出来ないぜ」
足の骨にヒビが入っていても、肩の骨が外れていても、
全てを滑らす事が出来る汗に守られていれば、歩いてでも帰れる。
「誰が捕まえると言った」
岡村は懐から携帯を取り出すと、どこかに連絡をした。
「ちょうど近くを通りかかっていたぜ」
岡村がパチンと携帯を閉じると同時にサイレンの音が聞こえてきた。
「警察?ハハハ、警察に何が出来るというのだ」
飛猿は警察などには捕まらない絶対の自信があった。
直ぐにパトカーが到着し、警官がドアを開けると同時に岡村はパトカーの中に勝手に入って、
対生物用に備え付けてある火炎放射器を、これまた勝手に取り出した。
慌てて岡村に銃を向ける警官に向かって、自分のIDカードを投げ渡し、
そのまま火炎放射器を飛猿に向ける。
ボン!
両足の骨が折れ、走ることが出来ない飛猿の油汗に包まれた体は、
逃げることも出来ず、一瞬にして灰になる。
さすがの滑る汗も爆発的な火力には勝てなかったのだ。
IDカードを端末機で照会した警官が、諦めにも似た顔で
「勘弁してくださいよ」と、こぼした。
ハロー製薬専務のS級ボディガードの起こした殺人は事件にはならない。
だが、始末書を書くのは重火器を渡した、この警察官自身だ。
ボディガードが殺した相手によっては懲戒になる可能性だってある。
ガックリと方を下ろす警官。
「大丈夫だ。昇進だって有り得る」
ニッと笑った岡村は、そう言い残して夜の街に消えた。
「そうか…」
飯田の話しを聞き終えた吉澤は、それ以上の言葉が出なかった。
石川と藤本もフウと溜息を漏らすだけだ。
飯田が麻琴の実の姉だったなんて知らなかった。
それだけではなく、明日殺そうとする相手は実の兄なのだ。
「でもでもでも。麻琴ちゃんは絶対助けないとね」
石川が、水割りを作って飯田に差し出す。
「うん…」
頷く飯田。
「それより間に合うのか?例の件は」
吉澤が自分の携帯を取り出した。
「予定では明後日だが」
チビリと水割りに口をつける飯田。
「大丈夫ですの?あんなやる気の無いB級アイドルで」
藤本のぁゃゃに対する言葉には、いつも棘がある。
「事情を話して発破を掛けるてみるよ」
吉澤は携帯を耳に当てて、呼び出し音を聞く。
携帯に出た松浦の声は眠そうだ。
「俺だ…」
『……?』
「事情が変わってしまった。
明日の昼に正面から突入することになった」
『…?!…!!』
「ああ、そうだ…人質を取られた。飯田さんの妹さんだ」
『!!…!!!』
「それまでに例の件を仕上げてくれ」
『★△■○!!!』
「…た、頼んだぜ」
ピッと携帯を切った吉澤が肩を竦める。
「ハハ…無理かもしれん」
携帯の向こうから伝わる空気は、
受話器からこぼれ落ちた松浦の声の雰囲気で分かった。
顔を見合わせて、溜息を付く3人…
時計は夜の9時を回ったばかりだった…