――― 32話 魔界城 ―――
魔界街に異変が起こっていた。
それは、人々が気付かないほどの些細な新聞記事に表れている。
朝娘タイムスの社会面に乗る、妖魔情報がそれだ。
以前は週一回ぐらいの割合で乗っていた情報は、
いつしか週二回になり、三回になり、今では毎日のように乗っている。
それに比例するかのように凶悪犯罪も増え、
人間が獣化する『ヴァンパイア現象』も珍しくなくなっていた。
だが、人々は、警察がソレ等を駆逐する事を知っており、
事件が増えても、また警察がソレ等を殺してくれると安堵し、慣れ、
日々の生活の中で多発する妖魔事件をも、当たり前の事のように受け止めていた。
9月に入ろうとする夏の終わり。
残暑が陽炎のように揺らめく駐車場のアスファルト。
車は一台も止まっていなかった。
今では参拝客も滅多に来ないだろう。
小川神社は確実に何かが変わっていた。
真実を知らない一般参拝客は、その何かを感じ取って、足を運ぶのを止めた。
真昼なのに空気が冷たく感じる…
小川麻琴は漫然と鳥居を見上げた。
参拝を終えて出てきた一人の老婆が巫女姿の麻琴に向かって声を掛けた。
「あなたは、この神社の…」
「はい。…あの、信者の方ですか?」
「ええ」と頷く老婆は麻琴の手を取り
「龍拳様はどうなされた?この神社はどうなってしまったのか?」
と不安気に尋ねてきた。
聞くと、小川神社には不気味な連中が境内を徘徊し、
神主の小川直也も滅多に参拝者や信者の目の前に姿を現さない。
拳法道場から聞こえる絶叫と、不穏な静けさだけが満ちあふれた本堂。
鳩さえ居なくなった神社には、巫女の3人の少女が
監視するように参拝客の動向を伺っているだけだと言う。
「申し訳ありません」
麻琴は頭を下げる事しか出来なかった。
悲し気な老婆を恐縮しながら見送り、再び鳥居を見上げる。
「私が何とかするしかない…」
悲壮な決意の基、小川神社に来た小川麻琴は
遠くを見詰めるように静かに目を閉じた。
きっかけは飯田圭織の微妙な変化だった。
転校して間もなく、同級生の浜口優が殺された。
そして飯田は、浜口の事件を独自に調査していると、麻琴に語った。
その死の真相を知った事を境に、飯田の態度がぎこちなくなった。
最初は、同級生の死に直面した麻琴に、
心配を掛けまいとして、事件の真相を知らせまいとして、
気を使っているのかと簡単に思っていたのだが、
実際には、麻琴には絶対に知られたくない事実が有ったのだ。
夜中、携帯でヒソヒソと話す飯田の口から小川神社との言葉を聞いて、
ビックリして飛び起きてしまった。
最初は何でも無いと、頭(かぶり)を振って否定していた飯田は
嘘を付けない性格なのだろう。
追求する麻琴にシドロモドロになって、遂には「すまん」と白状した。
麻琴は知らなかった。
自分の家が、小川神社が、朝娘市を飲み込もうとする
魔界からの妖気を放っている魔城と化している事に。
魔人と称する数十人の人間が、小川神社に棲み付いている事に。
その魔人の一人が浜口を殺した事に。
兄の直也が、本物の鬼と化して、魔人を操っている事に。
直也の目的が何なのかは、今になっては解からない。
ただ、当初の目的は知っている。
小川流拳法を日本に広め、小川神社を大きくし、信者を増やし、
政界に出て、権力を手中に収める。
夢みたいな事を本気になって語る 直也の横顔が、
麻琴の閉じた瞼に浮かび上がった。
「飯田さんは、どうするつもりなの?」
知っているが聞いた。
魔人ハンターの仕事は一つしかない。
困った表情で何も語らない飯田。
「兄を殺すの?」
祖父龍拳を殺害した兄だ。
同級生の浜口を殺害した魔人を操っていたのも兄だ。
だが、それでも、たった一人の兄なのだ。
ポロポロと涙を流す麻琴に向かって飯田はただ一言。
「…ごめん」
そう言うのが精一杯な飯田は、麻琴に背を向け、外に出たまま帰宅しなかった。
翌日も飯田は帰ってこない。
麻琴は学校を休み、袴に着替え、小川神社に向かった。
そして、今、小川神社の鳥居をくぐろうとしている。
「オマエは誰だぁ?」
うわずった声が背後から聞こえた。
振り向く麻琴の目の前に立っているのは、小川流拳法の胴着を着た、
妙に影が薄い印象がする、ハゲた中年男だ。
「新しいバイトかぁ?巫女のバイトは募集してないぞぉ」
若い麻琴の体を舐めるように見る中年は、舌を出して息が荒い。
「いい匂いがしたから 来てみれば、正解だったようだぁ」
辺りをキョロキョロと見回して、他の人間が居ない事を確かめた中年は、
麻琴に近付き、おもむろに手を取った。
「俺の名は影丸ちゃんだよぅ。仲良くしようよぅ」
言い終える前に、中年影丸の体は5メートルも吹っ飛んだ。
麻琴の小川流波動拳を腹に受け、とたんに表情が変わる影丸。
「や、やったなぁ!」
言いながら影丸は前傾姿勢になり、両手をダラリと下ろし地面に付けた。
内臓を破壊する筈の小川流波動拳が効かない。
分かっている、相手は魔人なのだ。
麻琴は驚きもせず、右拳を前に突き出した。
『鬼拳』を拳に込める。
脳を破壊する『脳坐瘴』だ。
カウンターを当てようと、ジリジリと前に出る麻琴の背中にガツンときた。
「ぐう」と仰け反る麻琴に、影丸がヒャヒャヒャと笑いかける。
「ごめん、ごめん。ちょっと強く殴っちゃったかなぁ。
知ってるよ、鬼拳を使おうとしたねぇ。
でも、僕の影には通用しないよぅ。
君が誰かは知らないけど、大人しく言う事を聞いた方が身の為だよぅ」
真昼の太陽を背に受けて、両手を地面についてる影丸には影が無い。
振り向く麻琴の前には真っ黒な人の形をした物が、
小川流拳法の形を構えていた。
「それは僕の影だよぅ」
耳障りな影丸の声を後ろに聞きながら、
麻琴は正面の影に鬼拳を当てた。
だが、影は影。
黒い人の形をした影丸の分身に鬼拳が通り抜けた。
「ひゃははははは。無駄だよぅ。
君は僕に嬲られるんだよぅ」
影が小川流波動拳を麻琴に当てた。
防御した腕をすり抜けるのは、人の形をした影だからだ。
だが、影の威力は麻琴の内臓を破壊する事は出来ないようだ。
その辺も、やはり影だった。
「小川流拳法を知っているようですね」
そう言いながら、麻琴は両手の拳をギュッと握り、
腰を溜めるように下ろし、握った拳も腰に溜める。
「それでは、この形は知ってます?」
握った拳には梵字が浮き上がった。
小川流拳法最終奥義『発主流(ハッスル)』…
発主流を唱える数だけ、自分の生体エネルギーを拳に込め、
爆発的なオーラを瞬時に発揮する究極の聖拳は、
命を削る危険な諸刃の拳なのだ。
「なにそれぇ?」
とぼけた声の影丸。
「発主流、発主流!」
麻琴が2回唱えると同時に、ドドン!と来た。
左右の聖拳『発主流』は、人の形をした影を貫く。
「だから、無駄だっ…ゲフッ!」
言い終わらずに、影丸本体が血を吹いて、のた打ち回る。
「バカにゃ…」
血を吹きながらもヨタヨタと立ち上がった影丸のハゲ頭に
何かが飛んできて当たり、パンッ!と爆(は)ぜた。
飛んできた物はカツンと音を立てて、アスファルトの地面に落ちる。
それは普通の石ころだ。
ブシューッとハゲ頭が無くなった影丸の首から大量の血が吹き上がり、
バタリと倒れた影丸は絶命した。
両手を膝に当てながらハァハァと息をつく麻琴が、
影丸を殺した石が投げられた、気配の方向を向く。
「兄様…」
鳥居で仁王立ちする、見知らぬ少女(新垣)を従えた
神主姿の小川直也の拳には、拳大の石が握られていた。
小川神社本堂に通された麻琴は、座する兄 直也と対自するように座っていた。
「懐かしくないか?」
暫く黙っていた兄は、ふと周りを見ながら聞いた。
「懐かしいです」
「…うむ」
本堂の広くて高い天井を懐かしそうに見上げた、
麻琴の声は震えていた。
「麻琴よ、オマエに見せたい物がある」
スクッと立ち上がる直也の、有無を言わせぬ態度と声は
以前と少しも変わっていない。
黙って兄に着いて行く先は、奉納堂だ。
色々な物が奉物されている奉納堂には、見た事も無い札束が積み上がっていた。
麻琴の背丈より高く積まれた万札の束を、呆然と見上げる妹を横目に、
「ざっと600億は有る」
と、直也は事も無げに言い放つ。
「魔界街の裏社会を牛耳っていた男の遺産だ」
北野を葬った直也は、人造舎の全てを手に入れたのだ。
「だが、この金に何の価値も無い。…その意味を教えてやる」
言いながら、奉納堂を出る直也は、またしても有無を言わせぬ態度で
麻琴を中庭に連れ出した。
白砂利が敷き詰められた庭園には、
以前と変わらぬ静かな佇(たたず)まいがある。
だが、どこか違う…
霊山の精錬な空気が消えていた。
代わりに漂うのは、妙な違和感を発する不気味な空気…
静かなのは、鳥が鳴かないから。
生物の息づかいが感じられないから。
死んだように静かな中庭は、生命という文字が掻き消えていた。
「俺は魔界街の王になる」
「魔界街の王?」
「…そうだ」
「どうやって?」
「気付かぬか?」
「何をです?」
「神経を集中して周りを見てみろ」
兄は、また訳の分からない世迷言を夢想している。
だが、心の底から湧き上がる不安は拭いようも無い。
その不安を見定める為に、麻琴は言われた通りに集中して周りを見た。
ドクンと心臓が鳴った。
いや、悲鳴を上げたと言った方がいいのかもしれない。
この神社は魔界と確実に繋がっている。
そう実感させられる物の存在に、麻琴の膝がガクガクと震えた。
中庭を眼下に臨む、杉林の中に何かが蠢いていた。
目を凝らして見ると、それは人の顔だった。
ただの人の顔ではない。
それは、5メートルもある巨大な女性の顔だ。
血走った怨霊を思わせる目は、麻琴を凝視している。
ザザザザッと、いきなりソレは麻琴に向かって襲いかかった。
首も何も無い、ただの巨大な顔は、大口を開けて麻琴を飲み込んだ。
http://blanch-web.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/data/IMG_000067.jpg 「ひぃ!」
腰が抜けた。
巨大な顔は…
消えていた。
「奴等は、まだ実体を持ってはいない」
腕を組みながら直也が語る。
「だが、魔城と化した、この小川神社の妖気は奴等に肉体を与えて、
魔界街を真の魔界にするだろう」
ズーンと何かが落ちる音…
ズルズルと音を立てて、中庭に這って来るのは、
胴回りが3メートルもある大蛇…いや、蛇の顔は人間の顔。
「だが、たまに、こうして実体を持って降りて来る魔物もいる。
我が小川神社の妖気に同調してな」
大股で大蛇の前に立った直也は、ギューッと握った拳を
直也の体ほども有る、魔蛇の人間の顔に叩き込む。
ボンボンボンボン!と音を立てて内側から爆発するように内蔵を撒き散らす
魔界の大蛇は、この世の物とは思えぬ悲鳴をあげて、溶けるように消えていく。
「見たか!麻琴よ!奴等は人間を狙う。奴等は人間を食らう。
人間は奴等の餌にしか過ぎんのだ」
余りの出来事に言葉を失い、呆然とするしかない麻琴。
ガクガクと体が震えるのを抑えることが出来ない。
それは出会ったことも感じた事も無い、未知の恐怖に身を落としたからだ。
「魔界街が本当の魔界になるとは、こういう事よ。
だが、麻琴よ、俺は奴等をコントロールできる。
我が小川流拳法の開祖、小川秀麻呂が練り上げた鬼を殺す拳法は、
今、俺が魔物を殺したように魔界の化け物共を破壊する破邪の拳なのだ。
その意味が分かるか?」
ブンブンと首を振る麻琴。
分からないし、解かりたくもなかった。
麻琴の知っている兄は、もう目の前には居なかった。
「小川流拳法を身につけた者だけが、生き残り、
怯える人類を支配する時代がやってくるのだ!」
直也の声は、ある種の色を帯び始める。
「俺は鬼の角を二本持っている。一つは爺殿から奪った元鬼魂。
一つは所在知れずの小川家長姉オニ子の形見の鬼の角。
この二つの角を持った俺は、本来の鬼の能力をも超える
真の王になる資格を持つ、この世で只一人の人間なのだ!」
兄の声は、狂っていた。
兄の世迷言は、狂気に満ちていた。
「俺は、奴等を召喚し、操り、魔界街の、
そして世界の王になるつもりだ…
麻琴よ、オマエは俺に従い着いて来い。
オマエにも世界というのを見せてやろう」
もう…兄の存在自体が、許せなくなっていた。
「…兄様は…」
呟くように声がでた…
「なんだ?」
「兄様は狂っている」
出た声は震えている…
「今に分かる」
「兄様は、お爺様を殺した」
否定し難い事実…
「…爺殿は生きている」
「嘘だ!」
兄の言う事は信用できない…
「本当だ、山頂の祠に幽閉してある」
「嘘だ!もう、兄様を信じられない!」
狂った兄の言葉は信ずるに値しない…
「……」
「兄様は全てが狂っている…」
堰を切ったように涙が溢れた…
「どうするつもりだ?」
「飯田さんが兄様を殺す…」
魔界刑事が兄を殺しに来る…
「…飯田?誰だ?」
「その前に…飯田さんが兄様を殺す前に…」
魔人ハンターは事情を知りながらも兄を殺しに来る…
「……」
「私が兄様を殺す!」
どうせ殺されるなら、自分の手で兄を殺す…
幽鬼のように立ち上がり、念を集中して構える。
ギリギリと砂利を噛む足の指は、飛び込む瞬間を伺い、
腰を落として両手を溜める構えは、小川流拳法最終奥義『発主流』…
「無駄な事はよせ。オマエの『発主流』は俺には通用せん。
オマエのオーラが『発主流』によって何倍にもなろうとも、
俺には全くの無意味だ」
兄に反抗する妹を初めて見た…
「うるさい!」
「…麻琴!何故分からん!」
何故か狼狽してしまう…
「発主流!」
「やめろ!オマエは先程、『発主流』を使って命を削っているんだぞ!」
麻琴は自分の掛け替えの無い妹なのだ…
「発主流!」
「やめるんだ!」
このままでは妹は死んでしまう…
「発主流!」
「やめろぉぉおおお!!」
このままでは本当に死んでしまう…
先に動いたのは直也だった。
小川直也に着き従っていた新垣里沙は、声も出ずに失禁し、
中庭の端っこで、呆けたように、うわ言をブツブツと呟いていた。
今の今まで、小川直也の正体を知らなかった。
今の今まで、小川神社が魔城と化しているのを知らなかった。
今の今まで、魔界街が真の魔界に飲み込まれつつあるのを知らなかった。
初めて目の当たりにした異世界の化け物に驚愕し、恐怖した。
朝娘市を徘徊する妖魔や亡者の類では絶対に無い、
真の魔界の生き物は、新垣の頭をパニックに陥れる。
こんな化け物に自分が食われ、朝娘市が破壊されると思うと気が狂いそうになった。
そして、目の前では、涙を流す小川直也が拳を振り上げて天を指している。
その突き上げた拳の先には、唇から一筋の血を流した
実の妹が、人形のように果敢なく揺れていた…
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