第33話「野生」
時計の針は10を回っていた。
六本木の高層ホテル最上階にあるバーは適度に客も入っている。
他の客からは見えない様囲いのあるテーブルに、女は一人で座っていた。
片側の壁全体がガラス張りの窓になっており一面に都会の夜景が広がっている。
ウイスキーの入ったグラスを、女は両手でクルクル回している。
「遅いなぁ」
夜景に目を落としながら女は呟いた。
彼氏の到着を待つ女という雰囲気ではない。どこか異質な空気を秘めた女であった。
だがそれは恐さではない、むしろ女からは暖かい空気が醸し出されている。
ではその異質さの正体は何かと問われても、簡単に答えることはできない。
ただそこに座っているだけで何故か彼女がその場の中心になってしまう様なイメージだ。
女の名は安倍なつみであった。
人を待っている。
誘いは向こうからあった。場所を指定したのはなっちの方だ。
向こうが指定した場所では会いたくない相手だった。
たとえ罠があって襲われてもそれを跳ね除ける自信はあった。
けれど油断はしない。これから会う相手はそれほどの執念を秘めた女だからだ。
約束の時間から15分が過ぎた頃、一人の女がなっちのテーブルに近寄ってきた。
「お待たせ」
「へぇ…生きてたんだ、あんた」
遅れてきた相手は保田圭であった。
かつて安倍に完全敗北を喫し、格闘技界を追われ復讐の為だけに生きてきた。
そして昨年のトーナメントの後、なっちを中心とした女子格闘技界に挑んできた。
毒手という脅威をもってなっちと直接対戦するも、以前以上の差をもって半殺しにあう。
本当に死んでもおかしくない程コテンパンに叩きのめされた。
だから安倍は「生きていたんだ」と皮肉を込めて言ったのだ。
「おかげさまで」
「それで今日は何の用?また新しい復讐のネタでも披露してくれるの?」
まるでスキのない目つきで安倍は保田をにらめ付ける。
保田は卑屈な笑みを浮かべながら、テーブルの向かいの席に腰を下ろした。
「まさか。私がお前に勝てないことはよーく分かったわよ」
微妙な言い回しであった。
自分以外の…自分の意思を継ぐ者ならば…お前を倒せると。
店員が保田の分のグラスを置きウイスキーを注ぐ。
その間、二人は無言であった。空気だけが重い会話を交わしている。
店員が去ったあと保田は注がれたウイスキーを持ち上げた。
「とりあえず、乾杯しましょうか」
「あんたの右手と乾杯する気なんかねえよ」
強い口調でなっちは応えた。
保田圭の右手…触れただけで死に至る毒手。
蛇のような笑みを浮かべると、保田はウイスキーを一気に喉へ流し込んだ。
氷をカランと鳴らし空いたグラスをテーブルに置く。
「いい酒だ。たまにはこういう所で飲むのも悪くないわねぇ」
「とっとと用件を言え」
「まぁそうカリカリしないで。今日は忠告に来ただけよ」
「忠告?」
店員が新しいグラスとウイスキーを持って、保田の空いたグラスと交換する。
やはりその間、二人の間には張り詰めた沈黙が流れる。
「そうよ。寺田は覚えているかしら。闇のコロシアムを仕切っていた男」
「ああ、殴り損ねた」
「あの寺田はただの影武者。真の闇の支配者つんくは未だ健在なの」
「影武者だか何だか知らないけど、なっちには関係ない」
「そうはいかない。どうやら最近つんくがまた影で動き出しているらしいのよ。
ターゲットはもちろんあなた、安倍なつみを中心とした表の女子格闘界」
「ふーん」
「最強の座を手にする為、色んな奴を手駒に集めているって噂よ」
つんくと闇の軍団。
興味がない訳ではなかったが、とりたてて騒ぐことでも無いとなっちは思った。
敵がどんなことをしようが負ける気はこれっぽっちも無いからだ。
それより驚くのは、あの保田圭が自分にそんな情報を流すということ。
相手が相手だけに気持ち悪い。
「わざわざのご忠告ありがと。で、何を企んでいるの?」
「企むなんて心外ねぇ。私はつんくなんかに安倍なつみを獲られたくないだけよ」
保田は決して復讐を忘れた訳ではない。
その強烈な目つきが、それを如実に表していた。
「安倍なつみを倒すのは、私の意志を継ぐ者達ということ」
保田の弟子。
コロシアムでの5vs5戦で鮮烈な印象を残した者達。
田中れいな。道重さゆみ。そして亀井絵里。
いずれもが最強の可能性を秘めた恐るべき少女達であった。
だがなっちにとって、その3人以上に気になる存在が保田の元にいる。
「美貴は…元気?」
藤本美貴。かつて夏美会館でなっちの右腕として共に戦った仲間だ。
だが彼女はなっちと共にいることより、なっちを倒す道を選択し保田の元へと去った。
安倍なつみが会いたくも無い保田の誘いを受けたのは、この藤本が原因である。
自分の元を去った藤本の様子を気にならないはずがなかった。
すると保田は表情を変えた。
その無表情には怯えすら伺える。保田が初めて見せる顔だった。
「あれは修羅だ」
「天才がプライドを捨てた。年下の田中や道重たちにボロボロになるまでやられ、
血反吐を吐いて、泥にまみれてでも、ただ強くなろうとしている」
夏美会館にいた頃の藤本からは、想像もできない内容を保田は語る。
持って生まれた才能だけであれほどの実力を持った女が―――――極限までの努力を!
ゾクリ。
なっちは自分の背筋に冷たい感覚が走るのを感じる。
これはずいぶんと長い間忘れていた感覚だ。人が恐怖と呼ぶもの。
ほんの一瞬だが、なっちは自分がその感情をもったことに驚く。
―――藤本美貴はもしかしたら自分より格闘技の才能があるかもしれない。
―――その藤本美貴がもしかしたら自分よりも耐え難い努力をしているかもしれない。
この二点がなっちに恐怖という感情を思い出させたのだ。
負けるつもりはない。
だが恐い。そして「恐い」という感覚と同時にもう一つ浮かび上がってきた感情がある。
自分を越えるかもしれない程の敵とギリギリの戦いができるかもしれないという「喜び」
「恐怖」と「歓喜」という相反する感情が、なっちの体を震わせていた。
ピシィ…!
なっちの掴んでいたグラスが真っ二つに割れる。
乱暴な力で粉々に割った訳ではない。
グラスはその形を保ったまま、上下水平に引き剥がしたのだ。神業の領域。
「美貴に伝えておけ。殺しても恨むなって」
なっちの瞳孔が開いていた。保田は引きつった笑みで応える。
「それはきっと喜ぶわね」
……
暗闇の中に高橋愛はいた。
(ここは何処だろう?)
上下左右を見渡しても視界に移るのは一面の暗闇。
そのまま立ち尽くしていると前方に明かりが見えた。
(安倍さん!)
出現した光は安倍なつみであった。
その周りにさらに複数の光が生まれ出る。
(飯田さん。矢口さん。藤本さん。それに…辻ちゃん)
格闘技において最強と呼ばれる面々が顔を並べている。
すると今度は後ろから新しい三つの光が自分を追い抜いて、光の集団に加わる。
(あの3人は…!亀井!田中!道重!)
最強に相応しきその面々は、愛を置いてさらに遠くへ進みだそうとしている。
「待って!」
愛は叫んだ。しかし誰も自分に気付かない。
追いかけてもちっとも近づけない。何かにつまづいて愛は転んだ。
最強達の光は遥か遠くへ行ってしまった。自分だけを残して。
すると隣から声が聞こえてきた。あいつの声…。
「いつまでそうしてるつもり?」
「…亜弥?」
「私は行くぜ。あいつら全員ぶったおす」
それだけ言い残すと、巨大な光は物凄いスピードで闇の奥へと消え去った。
「待って!亜弥っ!!」
バラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラ!!!!
(っ!!)
跳ね起きた愛は耳を裂く轟音に我を忘れる。
体にかかった毛布。自分が眠っていたことを悟る。
(今のは夢?ここは何処?)
「やっと起きたか」
前方の座席から見覚えのある顔が現れた。
福田明日香。今は自分の師匠である。
その顔を見てようやく意識が戻り始めた。
修行のために中国を出たのだ。飛行機で何処かへ移動して、空港からバスに乗って…
そこから記憶がない。どうやらバスで眠ってしまった様だ。
だけど今自分が座っている場所は、どう見てもバスではない。
何か乗り物ではあるみたいだが明らかに狭い。それにさっきから響き続けるこの轟音。
ハッと気付いた愛は窓の外を覗き込む。
一面に空が見えた。遥か下に大森林が見えた。
「ヘリコプター!?」
愛が大声をあげると、福田はいつものムッツリとした顔で応えた。
「ああ。アフリカ大陸の真ん中らへん。上空3000mだ」
窓の外には見渡す限りの熱帯雨林(ジャングル)が広がっている。
初めて目にする途方も無い景色に、愛はしばしの間疑問を忘れ見とれてしまっていた。
「ソロソロデス」
「OK」
地元民らしきヘリの運転手が告げると、福田はまた愛の方を見る。
「この辺りは人間も踏み込めないジャングルの秘境だ」
「へぇ〜〜〜」
「滅多にお目にかかれない野生の獣がゴロゴロしてるだろうよ」
福田さんが何故こんな話をしているのか分からなかった。
どうしてわざわざこんな場所に連れてきたのかも分からない。
すると福田さんはおもむろに何かを取り出し、私にくれた。
「これって…もしかして」
「パラシュートだ」
全身から嫌な汗が流れ出してきた。
(まさか…まさか…まさか?)
「お前、ここから降りろ」
福田さんは表情一つ変えず、そう告げた。