番外編「黄金時間」
あの頃はよく笑っていた。
振り返るといつでもそばに誰かがいて、頼みもしないのにバカやって。
すべての瞬間が輝いていた気がする。きっと輝いていたんだろう。
いつからかな?あまり笑わなくなったのは。
私は独りになっていた。
私に道を教えてくれたあの人もいない。
一緒にその道を駆け抜けたあいつもいない。
誰もいない。
それでもまだ道は、私の前に何処までも続いている。
「たった一人になっても歩き続けろ」
まるでそう責められているみたいだ。
一体どうしてこの道を歩み始めたのか?
この道の先に何が待っているのか?
とっくに忘れちゃっている。初めから知らなかったのかも。
それでも私が『後藤真希』であり続ける限り、歩み続けなければならない。
「大丈夫。きっと大丈夫」
呪文のように私はくり返す。
この道の先にはきっとまた、あの黄金の時間が待っているはずだから。
また…笑えるはずだから。
13歳、中学1年生。
「よくアクビするね」ってクラスメイトに笑われた。
だって毎日が退屈なんだもん。
プリクラとって、カラオケ行って、メールして、勉強しないで、よく食べてよく寝る。
友達はみんな楽しそうに笑っている。
うらやましいよ。
これが青春時代?なんか私だけ…違うみたい。
「イテテテテ…ギブ!ギブ!ギブだって言ってんじゃん姉貴!!」
……なんてことを弟とプロレスごっこしながら考えてた。
四の字固めを解いて、弟の自由解放宣言に応じる。
「なんちゅう馬鹿力だよ。おーイテ。これでも俺、学校に敵無しだぜ」
「小学校の話でしょ」
「あ、馬鹿にしたぁ!うちの学校ジャイアンみたいな奴がゴロゴロいんだぞ!」
「へ〜そりゃあのび太君も大変だ」
「姉貴は格闘技やるべきだね。絶対トップとれる!俺が保証する!」
「格闘技って…あんたねぇ私も一応女の子なの。興味ないし」
「知らねえのかよ姉貴。今は女子でも凄い人いるんだぞ…えーと」
そういうと弟は昨日の新聞を取ってくるとスポーツ欄を広げてみせた。
『柔道世界選手権!優勝!若干16歳の天才娘!!最年少記録更新』の見出しと写真。
「知?変な名前」
「……姉貴。本当に知らねえんだな」
格闘技の世界で成功する人なんて、子供の頃からすごい練習してきた人だけだよ。
だから今までダラダラ生きてきた私が頂点になんて立てるはずがない。
興味ないし。
そんな風に思っていた。これからもダラダラと生きていくんだろうって。
「姉貴!オーディション応募しておいたから」
「ハァァァ!?」
「雑誌で調べたんだ。女子格闘技では今この市井流ってのが一番流行ってるらしいぜ」
「あんた何勝手に!」
「いいじゃんいいじゃん。試しに一回だけ!ダメならそれで終わりで」
最初は絶対嫌だと断ったが、弟のしつこさに降参。
「一回だけだかんね。どうせ私なんかダメに決まってるし」
「OKOK。がんばれ姉貴!」
他人事だと思ってノンキな奴。
オーディション当日の日曜日、私は電車に揺られ市井流柔術の道場まで行くことに…。
(だいたい柔術って何よ?)
到着してびっくり。意外なほどの多くの女性が応募者として集まっていた。
(ふえ〜本当に流行ってんだ。知らなかった)
(これじゃやっぱり私なんかの出る幕ないね…)
ところが一次審査の体力テストを通過。二次審査の模擬戦テストまでも通過。
あっさりと最終審査にまで進んでしまう。
(…てか楽すぎなんだけど。他の子が手ぇ抜いてんじゃないの?)
最終審査は泊り込み合宿だった。
行く前はめんどくさい〜って思ってた。
でもそこで初めて、市井流の道場主さんが登場し、私の心は揺れる。
(若っ。どうせおっさんかと思ってたのに。私とそんなに変わんなくない?)
市井紗耶香。このとき15歳だったそうだ。
そんな年齢で道場を設立する程のエリート……私とはまるで違う。
特別にその技を披露してくれた。
格闘技なんて野蛮なだけのもんだと思っていた私はショックを受けた。
「きれい…」
洗練された技の数々が「美」と呼ばれる領域にまで磨き抜かれていた。
そしてそれはただ美しいだけでなく、力強さに満ち溢れている!
(これが市井流。これが柔術。これが格闘技…)
多分このとき、めんどくさいと思っていた私は少し本気になったと思う。
「合格者を発表する」
泊り込み合宿の後日。再び呼び出された候補者たち。
市井さんの口から発表された内容は、想像もしていなかった内容だった。
「本当は2,3人とろうと思っていたんだけど。1人だけ飛びぬけてレベルが高い子がいた。
だから今回の合格者は1人。後藤真希」
名前を呼ばれて、すぐに返事もできなかった。
私のことを言っているなんて信じられなかったからだ。
「な、俺の言った通りだろ!」
「別にまだ入門しただけだし」
弟は我がことの様に喜んだ。他の家族もみんな応援してくれた。
合格祝いのささやかなパーティー。
そういえば、私が家族を喜ばせるなんて何時以来だろう?
幼稚園のとき相撲大会で優勝したときくらいか?
(もうちょっとだけ本気、出してみようかな)
久しぶりの焼肉をほおばりながら、私は決めた。
そして入門日前日、美容院で髪の毛を染めてもらう。本気の証。
「金髪!」
家族も、市井流道場の先輩も、みんな驚いていた。
市井さんだけは「おっ気合入ってんじゃん」と褒めてくれた。
何故かそれだけで私はこの髪型が気に入った。
金髪の13歳。格闘技デビュー。
きっとこれが私の黄金時間の始まりだったんだと思う。
「後藤。この技は、ここをこう回すんだ」
「はいっ」
グルンと稽古相手を回して、関節技を教えてくれる市井さん。
私も真似してみる。でもやっぱり上手くいかず二回転もさせてしまう。
なかなか教わった通りにできなくて落ち込んだりもした。
(やっぱり難しいもんだね〜)
この時期、市井流道場に通っていた門下生の一人へのインタビュー記事がある。
そこで彼女は後藤真希について下記の様に評していた。
「私は格闘技の世界に天才なんて存在しないと思っていたんですよ。
そりゃあ多少の向き不向きはありますけど、重要なのは努力。
誰よりも練習した人が強くなれるものだって信じていました。
市井師範も若くして大成したが彼女は影で誰よりも努力していましたし。
子供の頃から10年間、一日も休まず柔術に打ち込んでいたそうですから。
私もあの頃はそれを信じて…強くなりたいと思って柔術に打ち込んだものです。
だけど後藤真希。あの子だけは…思い出すだけで未だに鳥肌が立ちますね。
確か入門して三日でしたっけ。市井師範が関節技への入り方を直々に指導したんですよ。
テコの要領で相手を回して倒す技なのですけどね。これが素人にはなかなかできない。
ところが彼女は一回で会得した、それも誰もできない二回転のおまけ付きで。
その日から師範は彼女に次々と技を教え込んだ。ほとんど付きっきりでね。
通常、市井流の免許皆伝には十年はかかると言われています。
後藤さんはそれをたったの二ヶ月足らずで成してしまったんです。
天才と呼ぶ以外に表現の仕様がないでしょう。
あの当時は才能の違いに嫉妬したりもしましたけどね、今となってはむしろ誇りですよ。
彼女と同じ空間で柔術を学んでいたことがですね。
今の女子格闘技界。夏美会館やハロープロレスが最強を語っているそうですが、
私からしたら、後藤真希も知らずにのん気なもんだと笑っちゃいますね。
選ばれし者…天才という人は間違いなく存在します。
もし今、後藤さんが本気になったら、簡単に頂点をとれると思いますよ。
ええ、できればもう一度見たいですね。あの頃の、輝いていた後藤さんを…」
真希は中学二年生になった。
ある日学校でボクシング部の男子生徒が、真希に頼みごとをしてきた。
「後藤!お前強いんだってな!今度の試合出てくんないか?頼む」
「なによいきなり。嫌に決まってんじゃん」
「そんな事言わないでさぁ。埼玉の学校がなぜか女子を代表にしてきやがったんだ。
そいつが女のくせに半端なく強くてさ。女に負けたら俺らも男の面子が…だから後藤に」
「大丈夫。女の私に頼んでる時点であんた達の面子なんて無いから。それじゃ」
「ピスタチオおごるよ」
「しかたないね(即答)」
決してピスタチオで買収された訳ではなく、強い女子に興味があったんだ。間違いない。
こうして優しい私はボクシング部の埼玉遠征につきあってあげた。
噂の強い女子ってのは一目見てわかった。
天才的美少女。それも女々しいものじゃなく中性的魅力をそなえた美少女だ。
(へぇ〜思ったより楽しめるかも)
まずは軽く練習。
得意の蹴りを使えないという事を差し引いても、同じ中学生相手に負ける気はしなかった。
事実、うちの男子ボクシング部の連中のパンチなんか軽々と見切れる。
(伊達に毎日市井ちゃんと組手してないよ)
体が温まったところで、いよいよ本番の対抗戦。
向こうの学校からは例の天才的美少女がリングに上がった。
それを見て私もリングに上がる。
(なんだか…ちょこっとワクワクしてきたぞ)
1Rのゴングが鳴った。
目の前を風が走った。意識は反応できていなかった。体が勝手に避けていてくれた。
(えっ?何?)
パンッ!!
グラブに快音が走り、思わず腕がのけぞる。ビリビリィときた。
(今のがジャブ?重っ!)
(それに速い…)
天才的美少女のジャブは並みの男子のストレートを越える重さだった。
なめていた真希は完全に面をくらう。
(この子、強い!)
もともとボクシングは素人の真希は、逃げ続けるだけで精一杯だった。
1Rの3分がとても長く感じた。
(いくら蹴れないからって、一発も返せないなんて!)
コーナーで悔しさに唇を噛む。周りで男子が何か言っているがまるで耳に入らなかった。
だが悔しさを感じていたのは真希だけではなかった。
「あの後藤って奴、ボクシングは今日初めてなんだってよ」
天才的美少女が試合前、部活仲間から聞いていた噂。
(そんな初心者相手に…3分も逃げられるなんて)
プライドを大きく傷つけられた。次のラウンドは絶対に倒す!
そう意気込んで天才的美少女はコーナーを立つ。
合わせて真希も立ち上がる。
二人とも顔つきが、試合前とはまるで異なっていた。
闘士と闘士の顔である。
そして第2Rに事件は起こった。
天才的美少女が本気になったのだ。目にも止まらぬコンビネーション。
真希の反射神経をしてもギリギリのラインの攻防。
体中の全神経を最大限に発揮しなければ、一発で決まってしまう。
(負けたくない!)
ヒュッ!
そのとき、鼻先を何かが通過した。
死角を突いた左フック。僅かにかすった程度。それでも脳がグラリと揺れた。
天才的美少女の顔がダブって見えた。真希は恐怖した。
恐怖しただけであって、そうしようと思った訳ではない。体が勝手に動いたのだ。
無意識に右足が天才的美少女の頭を蹴っていた。
当然反則。
相手校の生徒が怒ってリングに上がってきた。
対抗する様にうちの生徒もリングに上がり、もうメチャクチャ。
口が濡れている。私はロープにもたれて腕で顔をぬぐった。紅かった。
(鼻血…)
反対側のコーナーを見た。天才的美少女がロープに腕をかけて私を睨んでいた。
どうやら意識はしっかりしているみたいである。
(私の蹴りで…倒れないのか)
あらためて思った。強い。
試合は私の反則負け。だけど勝負で勝ったという訳でもない。
キックは無いというルールで当たった蹴りだ。
最初からノールールなら当たっていなかったかもしれない。いや彼女なら避ける。
同学年にこれほどの娘がいるなんて…思ってもいなかった。
予感がした。彼女の名前はこれから幾度となく私の前に立ち塞がるであろう。
最強の天才的美少女・吉澤ひとみ。
せっかくの遠征をめちゃくちゃにしたこと、ボクシング部の人達に謝った。
だけど彼らは誰も怒りはしなかった。むしろ喜んで興奮していたようだ。
「あんな凄ぇキックみたことねぇよ!」
「当たり前だ。俺達ボクシング部だぜ」
「後藤!将来お前がチャンピオンになったら俺達応援するから」
愛想笑いを浮かべてその場は切り抜けた。
ほんとうは、笑える気分じゃなかったんだ。
夕暮れの帰り道。
川沿いの堤防を一人歩く。真っ赤な空を見上げると自然に涙がこぼれ落ちる。
(負けちゃった…)
反則負けとはいえ、負けは負け。
負けることがこんなにも悔しいなんて知らなかった。
泣きながら堤防を歩く金髪の女子中学生は、傍から見たらどんな風に映るのだろう。
私の足は自然と市井流道場へと向かっていた。
「いぢいぢゃん!」
市井ちゃんは泣きながら帰ってきた妹弟子の話を、何も言わずに聞いてくれた。
こんなにも彼女に出会えてよかったと思った日はない。
私が泣き止むまで抱きしめてくれて「大丈夫。きっと大丈夫」と繰り返す。
強くなろうと思った。強くなりたいと思った。市井ちゃんは強くなれると言ってくれた。
「今日の敗北を、後藤真希の人生…最初で最後の敗北にしな」
その夜から私は市井ちゃんに対ボクサー用の戦闘方法を教えてもらう。
二週間後、私は吉澤ひとみに「果たし状」を送りつけた。
相手にされないかと思ったら、吉澤は律儀にも時間通りに現れた。
後で聞いた話だが、実はヨッシィーも決着をつけたいと特訓していたらしい。
場所は二人の家のちょうど中間地点に位置する淵公園。
辺鄙な場所にあって、ほとんど誰も使わないから決闘にはうってつけの場所。
うちらの間では通称「プッチ公園」で通っている。
数々の激闘の歴史を造る思い出の場所…プッチ。
「今日はボクシングじゃないからね。こないだみたいに行かないよ」
「悪いけど…ボクシングより喧嘩の方が得意なんだよね」
私、後藤真希と吉澤ひとみはこのプッチ公園で何度も勝負しあった。
いつ闘りあっても、どちらも倒れないし負けを認めないから勝負が終わらない。
「ああ、くっそ。終電だから帰らなきゃ」
「あっ私もだ!よぅし続きは来週の土曜日またここで!」
「望むところだ!逃げんなよ後藤」
「あんたこそね吉澤」
毎回そんな感じ。いつの間にか毎週土曜のプッチ公園は恒例行事と化していた。
その勝負でみつけた自分の弱点や吉澤の技の対策を、市井ちゃんに話し一週間で克服する。
だけど一週間後には吉澤もまた強くなっていて、結局また引き分け。
ヨッスィーとの決闘と、市井ちゃんとの特訓の繰り返し。
そんな毎日だけど私は楽しくてしかたなかった。
やっとみつけた私の青春時代。
「その吉澤ひとみって子、一回会ってみたいね」
市井ちゃんも一回だけプッチ公園に来たことがある。
保護者同伴みたいで恥ずかしかったが、断りきる事ができなかった。
市井ちゃんが来てもヨッスィーは特に文句も言わずいつも通りだった。
手を貸してもらうつもりは無いし、市井ちゃんも手を出すつもりはないだろう。
審判という訳でもなく、ただ二人の喧嘩を遠くで眺めていただけだった。
(最強という字を〜ふたりで書くぞ〜ひとりよりも楽しいぞ〜♪…か)
(真希。いい奴に出会えたな)
市井紗耶香は確認しておきたかったのだ。
話に聞いていた吉澤ひとみという娘が、もし自分が消えた後、真希を任せられる者かを。
そしてその期待は想像を遥かに上回っていた。
天才二人が出会う。あるいはこれも運命の歯車の一部であったのだろうか。
市井紗耶香はその日、吉澤ひとみを自分の道場に誘った。
吉澤はあくまでボクシングが本業、その空いた時間だけならとOKの返事をした。
そしてこの出来事が市井紗耶香にある決意をもたらす。
私とヨッスィーの決闘はその後もプッチ公園で続いた。
ここは相変わらずヒト気がなくて、気兼ねすることがない。
自分たち二人以外では、たまに変な体操をする年配のおばちゃんしか見た事が無い。
あの体操は八極拳だったのかな。変なおばちゃんだ。
だからプッチ公園を使ったのは後藤真希と吉澤ひとみとそのおばちゃんに市井ちゃん。
計4人しかいない。
今はどうなっているのか私は知らない。
帰国してから一度も行っていない。なんとなくあの頃の思い出を汚したくないんだ。
あの黄金時代は……もう遠い昔のことだから。