中国河北省。
擂台賽を制し武術家集団の罠を乗り越えた高橋愛は、無事にここ銀杏へと到着した。
賞金で福田のツケを返すことが、弟子入りOKの約束だった。
「これで認めてもらえますよね」
「ああ」
「やった!よろしくお願いします!じゃあ早速始めましょう、時間もありませんし」
「ちょっと待て。時間がないってどういうことだ?」
「半年後に“最強”を決める大会があるらしいんです」
福田明日香の顔色が変わる。
「最強」という単語に反応した…表情の険しさが増す。
「それで?お前はどの程度を目指しているんだ?」
「決まってるじゃないですかぁ!優勝やよ」
「それは最強ってことか」
「ええ」
「無理だ」
福田は冷たく言い切った。
これから師になる人とは思えない言い方に、思わず反論する愛。
「無理かどーかはやってみんと分からん!」
「分かるんだよ。お前ではあいつには勝てん」
「あいつ…?」
「いやお前だけじゃない。あの女には誰も勝てん。あれこそが最強…」
福田明日香の心は深い闇に包まれていた。
決して開かれることなき絶望という闇。
最強を目指すことだけが福田明日香にとっての希望…光だったのだ。
その光は、ある人物の手によって永久に奪い取られる。
「誰ですか…それ?」
おそるおそる尋ねる愛。
福田明日香をここまで追い込んだその人物とは一体?
「三ヶ月ほど前、俺は戦場にいた。そこで出会った…」
緊張感から愛は唾を飲み込む。福田の腕が震えている。
思い出すのも恐ろしい程の相手ということなのか?
「あの頃の俺は死神と呼ばれていた。自分こそが唯一の存在であると…」
「…死神」
「だが違った。死神はもう一人いた。いや死神じゃない。あれはそんなもんじゃない。
人と呼ぶにはあまりにも完全で、神と呼ぶにはあまりにリアルな。うまく例えられん。
ただ、すべてを超越していた。人も神も越えた存在…たしか名前は」
ついに福田明日香の口から語られるその名。
まさか、こんな所で聞くとは想像さえしていなかったあの名が…愛の前に今。
その名を聞いたときの衝撃……どれほどのものか想像がつくか?
「…松浦亜弥」
「ここを生きて出るのは、一人でいい」
死闘。
この言葉があまりにも相応しき戦場であった。
この言葉があまりにも相応しき二人であった。
福田明日香と松浦亜弥。
地平線の臨める広大な大地の上にこの二人。
合図も無く始まった戦い。この戦いの終わりにも合図は無い。
栄光も無く、名誉も無く、記録にも残らぬ戦い。
だが他のどんな試合よりも勝者と敗者を明確に分ける戦いである。
すべてを得るか?
すべてを失うか?
「うわあああああああああああああああああああああ!!!!!!」
松浦亜弥は吼えた。
恐れを捨てる為に声を張り上げたのだ。
だがそれでも、この震えが止まることは無かった。
怖かった。
あまりにも怖かった。
福田明日香の瞳は笑っていない。
(コロサレル)
一瞬よぎった感情が、脳天から爪先までを振るいあがらせる。
もう一度、亜弥は吼えた。
泣き出したかった。
力の差は歴然だった。
松浦亜弥は強い。
元々秘められていた驚異的な身体能力に、この軍隊経験で死も恐れぬ精神力を得た。
神をも越えたと…思っていた。
だが福田明日香のレベルはその遥か上にいた。
プロレスの神様に破れ、亜弥がこの死線に辿り着き、まだ一年足らず。
その何倍もの時間を福田明日香は生き抜いている。
亜弥が本格的に格闘技を始める前から、この女は神を知っているのだ。
拳の重みが違う。
気が遠くなる程の打撃をもらった。
まともな格闘技の試合ならば十は終わるだろうという時間。
それでもこの戦いは終わらない。
(ボロボロじゃん私…)
私が一殴ったら、三は殴り返されている。
(死神!)
(どうしてこんな化け物に戦いを挑んだんだ…)
空が見えた。なぜ突然空が見えたのだろうか?いつのまにか殴られていた?
…と思ってすぐに後頭部へ強い衝撃、生暖かい地面の感触。
(倒され…!)
考える暇は無い。みぞおちをまっすぐ踏み潰された。
(うぐっ!!)
苦しんでいる暇は無い。次は足の裏が目の前にあった。
(危っ!)
必死で足の裏を掴みとった。顔面が踏み潰されない様に必死で支える。
すると胸や腹をメチャクチャに踏み殴られる。
両手を頭部のガードに奪われているから、まったくガードができない。
ちょっとでも腕の力を抜くと、足で顔面が潰される。
信じられない死神の攻撃の嵐。
死んだ方がマシだと思うほどの激痛の上にさらに激痛。
(反撃を…)
一瞬、あいつの攻撃の手が止まる。
しかしそれはチャンスでも何でもない。
頭を守る腕の隙間を、あいつの指がすり抜けて来た。
(耳っ!)
胴への打撃で苦しんでいる隙に、耳の穴に指を突っ込もうという攻撃。
間一髪、頭を斜めにずらし、指は私の頬をすべっていった。
けれどそれで終わる訳じゃない。
再び始まる、無抵抗の臓器を狙った踏み潰し。
その隙をついて頭部の急所を狙った一撃必殺の恐怖。
片足は絶え間なく、仰向けになった私の頭部の上で両腕の自由を奪っている。
地獄の時間。
継続的に続く恐怖と一瞬を突く恐怖。
反撃を考える暇を与えない。
死神と呼ばれる理由が死にたくなるほど分かった。
(もう……)
そのとき!亜弥の目が覚める!
今、一瞬、自分が何を思おうとしたのか?
もう負けてもいい……と思おうとしなかったか?
諦めようとしなかったか?
私が!?
もし神を知らない状態だったならば。
飯田圭織という神クラスの圧倒的な強さを我が身で知っていなければ…
多分、亜弥はこの場で諦めていただろう。
だが亜弥は知っている。
(これだろ!)
亜弥の全身が脈打ち出す。
(私が望んでいたものは!この圧倒的な強さ!圧倒的な恐怖!)
(諦めている暇があったら、喜べ!)
地獄の時間は続いている。
その地獄の中で亜弥は強烈な笑みを浮かべた。
(これを越える為に…こんなところにまで来たんだろ!)
(最高の時間だ)
地獄の業火は…
死神の遊戯は…
気の遠くなる時間続いた。
(なぜ?)
先に動揺をした者――死神――福田明日香。
(なぜ、笑っている?)
彼女はこれまで何百何千という敵と戦ってきた。
誰一人として死神の攻撃を生き抜いた者はいない。
全員が死を選ぶ程の苦しみを与え続けてきた。
しかし今―――足元にいるこの女。
(なんだ、こいつは?)
死神の脳裏に突き抜ける初めての動揺。
その動揺で生まれた初めての隙!
松浦亜弥は見逃さなかった。
ガードしていた両手を素早く足首に回して、一気にひねる。
少しでも遅れたりミスをすれば、たちまち顔面を踏みつけられる刹那の隙だった。
ブチブチブチィ…!!!
死神のアキレス腱が破壊される音。
悲鳴…あげる暇も与えない。
破壊したアキレス腱をさらに回転し、次は膝をひねる。
グビュン!!
骨と骨の外れた音。
悲鳴…あげる暇も与えない。
起き上がり、すぐさま呼吸器のある胸を踏みつける。
そして顔面―――――両腕でガードされる。
代わりに破壊した左足をもう一度蹴り潰す。
痛みで体がのけぞる。
空いた腕をすぐに掴んで決める。簡単なこと。
ポキン。
(死神のくせにかわいい音で折れるんだな)
これでガードもできない。顔面を思い切り踏みつけた。
二度三度。胴体がピクピク痙攣している。
心臓の辺り――全体重を乗せて踏み潰す。
動かなくなった。
数時間にも及ぶ死闘の幕切れは、30秒にも満たぬ地獄の返礼。
(あんたが教えてくれた。礼を言う)
ラスト。左目の辺りをかかとで踏み潰す。グチュという破壊の音。
そして松浦亜弥は…神を越えた。
再び中国河北省。
福田明日香の口から吐き出た重い言葉が、愛の体を振るえ上がらせていた。
彼女には左目が無い。破壊された左足と右手はもう元には戻らない。
今こうして生きていることが信じられない程の敗北。
そしてその原因となった娘が…。
親友でライバルの松浦亜弥。もう1年以上も顔をあわせていない。
今もきっと何処かで夢を追い続けていると思っていたがまさか…!
「これは忠告だ。最強を目指すなんてやめろ」
「福田さん。私はやめません」
「おい」
「私が倒しますよ。その松浦亜弥って人」
決意。
揺るぐことなき最強を目指す決意。
高橋愛のまっすぐな瞳があまりにまぶしくて福田は顔をしかめた。
「何を考えてやがる。言っただろ無理だって」
「今は無理でも!無理じゃなくなる為に福田さんに弟子入りしたんやが!」
「俺なんかに弟子入りしたってな!最強にはなれねえ!」
「そんなことないわ!だって福田さんはなっちに勝ったって…!」
「逃げたんだ!」
「え?」
「俺はな…安倍なつみが怖くて逃げたんだよ!」
告白。誰にも言えなかった重い告白が福田の口を割って出た。
「1番になることが、全てではない」
かつて福田明日香はマスコミにそうコメントしたのを最後に、格闘技界から姿を消した。
一部潜在的格闘技マニアの間では未だに伝説として語られている。
あれから長い年月が流れた今、福田明日香がついに真相を告白したのである。
「確かに俺は安倍なつみに勝った。だがそれは格闘技を初めてわずか半年の安倍なつみだ」
「…!」
「それから3年後のトーナメントで再び安倍なつみを見た。
自分が天才という呼称で呼ばれることが恥ずかしくなったさ。奴は本物だった」
「そんな…」
「だから逃げた。俺はこの選択を間違いとは思っていない。保田圭を見れば分かるだろ?」
なっちに完全敗北し、人生のすべてを復讐へと捧げた悲痛な女を思い出す。
あまりにも悲惨で鮮烈なその後の人生を。
「ただ…俺は逃げたといっても諦めた訳じゃない。あの後すぐに戦場へ飛んだ。
そこで生死の境を越えた戦闘を繰り返した。すべては最強を目指す為だ!!」
「その夢も…」
「ああ、費えた!松浦という女にすべて潰された!なにもかも無駄に終わったんだよ!」
「まだ終わってえんよ福田さん!その夢は私が引き継ぐから!」
「何度言えば分かる。お前だって逃げ出すさ。安倍なつみから逃げた俺のように!」
「私は逃げん!!安倍なつみも松浦亜弥も……私が倒す!!」
愛は吼えた。
決意の咆哮。逃げない!
絶望の暗闇に堕ちた福田明日香の心に……その決意が小さな光を灯す。
「うぁ…ううぁ…ううぁううううぅぅ……」
夜の帳にうめき声があがる。
かつては栄華を誇ったこの豪邸も、今は静かに潜まりかえっている。
主の女はもう何年間も寝たきりの状態で、現在も毎晩苦しみ続けている。
悪夢に出るその姿―――――――――――――――――――――プロレスの神!
「女帝・中澤裕子。惨めな姿だな」
何者が彼女のベッド脇に立っていた。家族にも従者にも誰一人気付かれず。
闇よりの使者・平家みちよである。つんくの命令…3番目の駒を求めて訪れた。
しかし起き上がることもできない中澤に反応は無い。
「力が欲しいか。中澤裕子よ。」
「ううぅ……」
「我々ならば貴女に与える事が可能だ。飯田圭織を滅ぼす力を!!」
飯田圭織!!
その名を耳にした瞬間、虚ろだった中澤裕子のまぶたが一気に開眼する。物凄い眼力。
(つんく様のおっしゃる通りだ。やはりこの女は最強の殺戮マシーンと成りうる!)
すべてを失った女帝は、目の前に差し出された手をなりふり構わず掴み取った。
この瞬間、かつて最強にして最恐と呼ばれた伝説の女帝・中澤裕子!復活!!
第32話「プロジェクトKの子供達」終わり
次回予告
「生存確率?そんなもんは知らねえ」
愛の説得より目覚めた福田明日香は、とんでもない試練を言い渡す。
最強への道を決意した愛はこの試練を突破できるのか!?
一方その頃、安倍なつみは招かれざる客と相対していた!
「へぇ…生きてたんだ、あんた」
To be continued