第30話「アイ」
河北省は中国東部に位置し、首都である北京市をグルリと囲む形をしている。
省都の石家荘は京広線や石徳線といった路線が交わる交通の要所となっており、
国内でも有数のハイテク産業開発区である。
「人がゴミの様や〜」
高橋愛は、昨夜宿泊した『銀泉酒家』というホテルの窓から下を眺めて呟いた。
日本の約十倍といわれる人口。見渡す限りが人、人、人である。
渋谷のスクランブル交差点の様な光景がどこまでも続いている。
「この中から、あの人を探すんかぁ…。ウォーリーよりきついわぁ」
うなだれていても仕方ない。探すしかないのだ。
もっともっと誰よりも強くなる為には…。
そう、まだ最強を目指す修行の旅の途中である。
コロシアムでの5対5戦より、9ヶ月が過ぎていた。
あの場所で、愛は本当に強い人達の姿を目に焼き付けた。
そして迷いは消えた。彼女達の誰よりも強くなりたいと思ったのだ。
その為にはこのままではいけない。今の高橋流柔術だけではいけないと思った。
それは高橋流を捨てるという訳ではない。
高橋流をさらに向上させる様な、新しい技術を得たいということだ。
考え抜いた末、愛は日本を発った。
両親は猛反対したが、愛は勘当されても曲げる気はなかった。
祖父が応援してくれて、敗北の悔しさを悟ってくれた父も了解してくれた。
最後まで反対した母も愛の頑固さについに折れた。
「心配いらんて。無事に帰って来るから」
こうして愛の一人旅は始まった。
友達の誰にも告げず。消息不明の亜弥はもちろん、紺野や小川にも言わなかった。
(めちゃくちゃ強くなって、皆を驚かせてやるわ〜)
そして目的地として選んだのが、近くて大きな中国である。
格闘技の世界において『中国拳法最強』という幻想がある。
もしかすると何処かにまだ達人と呼ばれる、物凄い人物がいるかもしれない。
そう思った愛は、各地の道場を巡った。
中国拳法と一口に言っても、実際は数百もの様々な流派が存在する。
まず大きく二つに分けることができる。内家拳と外家拳だ。
内家拳とは体内の気を操り、力に変える拳法。
外家拳とは肉体を物理的に鍛え上げる拳法。
ここからさらに多種多様な流派や門派に分類ができる。いくつか例を挙げてみる。
数ある中国武術の総称としても用いられる少林拳。
健康に良く、世界中でもっとも人気を誇る太極拳
保田や田中も会得している、超接近戦の一撃必殺、八極拳。
カマキリの様な独特な構えと素早さを併せ持つ蟷螂拳。
肉を潰して骨を絶つ。代表的な外家拳である洪家拳。
あのブルース・リーも学んだとされる素早い動きの詠春拳。
このように様々な流派を愛は巡った。
確かに強い人物はいた。だがそれは幻想に抱く神秘的な強さとは程遠いもの。
少なくとも安倍なつみより強いと思える人物はいなかった。
また、教えてもらえるのは型や防具を付けての組手ばかりである。
実戦でそのまま使えるとは思えないものばかり。
愛が求めているのとは違う。そういう所はすぐに離れた。
伝説となるような本当に強い中国拳法家は、それでも何処かにいると信じた。
各地でそういう噂を聞きつけ、はるばる探して回ったりもした。
大概は嘘だったり、誇張だったり、すでに亡くなっていたり、老いて動けない人物ばかり。
中国は広い。もしかすると何処かには実在するのかもしれない。
しかし愛は結局、会えなかった。
日本を発って半年。
途方にくれていた愛はたまたま立ち寄った香港の酒屋で「アミ」という日本人と知り合う。彼女はそこのバイトだった。
「何しに中国へ来たの?」という問いに愛は「強くなる為」と答えた。
すると驚いたことに、彼女は“そっち方面”の噂に詳しいという。話は盛り上がった。
もう何年も帰国していないというアミに、愛は現在の女子格闘技情勢を語った。
お返しにと彼女はもう古い格闘界の裏話などを聞かせてくれた。
そこで興味深い話を聞く。
「安倍なつみに勝った女がいる」
“最強”を越えた女?
ずっと無敗だと思っていたなっちが…。愛は思わず声を出して叫んでいた。
「福田明日香よ」
「その人が安倍なつみに勝った人ですか?」
「古い話だから公表はされてないけどね」
「何処にいるか、知っていますか?」
「さぁて、7年前の大会で途中欠場して以来、表社会にはいないみたいだし」
「お願いします!会いたいんです!」
「会ってどうする気?」
「弟子入りします!」
「プッ……あの福田に…?弟子入り?」
「なんで笑うんですか」
「無理よ」
「そんなもん会わんと分かんないじゃないですか!」
愛はまっすぐな瞳でアミに訴えた。
その瞳を見たアミはしばらく考え込む。そして口を開いた。
「殺されるかもしんないよ」
「…覚悟はできてます」
「バカだね」
「はい」
ため息をついたアミは酒場のカウンターから紙とペンを取りだし、何か書き始めた。
『河北省石家荘 杏銀』
「その店へ行きな。運がよけりゃ会えるかもよ」
こういう経緯で私は河北省石家荘へと足を運んだのだ。
まず『銀杏』という店を探さなければいけない。
それこそ途方も無い作業であった。
私はまだ拙い北京語に身振り手振りを織り交ぜ、この街を歩き回った。
「どこや〜」
必ず探し出す。ようやく見つけた手がかりである。
最強になる為の。
安倍なつみを越える為の。
「なっちに勝った女」
武術を学ぶ上で、これほどうってつけの人物はいない。
あの5vs5マッチから早9ヶ月。
あの場にいた怪物たちはさらに強さを増しているのであろうか。
安倍なつみ。飯田圭織。矢口真里。辻希美。
藤本美貴。田中れいな。道重さゆみ。亀井絵里。
誰よりも強く……なりたい。
その為に絶対に見つけ出す!愛はその名を強く胸に刻みつけた。
(福田明日香!)
その頃…。
高橋愛が石家荘の町を歩き回っていた頃だ。
別の「愛」の名をもつ娘が、この中国の地に降り立った。
時間は少し遡る。
「ムラカミアイ…」
「メグミです」
データに記された名前を読み上げたつんくに、遠慮なく訂正を申し出る少女。
御主人の前でも顔色一つ変えず、姿勢を正している。
いや彼女はたとえ誰の前であっても、無闇に表情を変えたりしないだろう。
そういう教育の元で育てられたのだから。
「まぁええやろ。今回は偽名っちゅうことで、アイで通せ」
「はい」
「アヤカ。お前も同行して、成果を俺に報告せい」
「了解しました。さぁ行きましょうアイ」
「はい」
アヤカは村上愛を連れてヘリポートへと向かう。
残った平家みちよにつんくは問う。
「あいつが14人の中で一番強いんか?プロジェクトKの教育担当殿」
「そういう訳ではありません。村上より力がある者もいますし、技が使える者もいます。
ただ…しいて言えば彼女が一番、バランスがとれていると言えるでしょう。
よって今回のテストには最も適していると判断し、選抜致しました。」
「なるほどな」
「では、私も参ります。中国河北省へ…」