小説「ジブンのみち」part3

このエントリーをはてなブックマークに追加
117辻っ子のお豆さん ◆No.NoSexe.
第28話「天使は羽ばたく」

「あいつ、強いのか?」

中堅戦開始前、ふと気になった藤本が隣の田中に尋ねた。
道重、亀井と…確かにその弟子の強さが尋常でないことはわかった。
だが保田自身の実力はわからない。
なにより相手があの“最強”安倍なつみである。

「強いんじゃなかと?」
「お前達よりか?」
「さぁ?本気で試したことなか。……ていうか師匠とは闘いたくなか」
「へぇ、意外だな。お前達でも師匠は敬っているんだ」
「違う!」
「?」
「見ればわかるたい。勝つ自信があっても、あの人とは戦いたくなか理由……」

田中だけではない、道重もうんうんと同意している。
一人ノンキにお茶をすすっている亀井だけは何を考えているかわからないが。
保田という女に、それほど争いたくない理由でもあるのか!?
118辻っ子のお豆さん ◆No.NoSexe. :04/06/17 23:42 ID:zkfnwbCt
なっちが保田を見るのは実に6年ぶりである。
あの頃と異なる点がある。彼女の右腕が異様な形をしていることだ。
包帯でグルグル巻きになっている。
安倍の視線に気付いた保田が笑みを浮かべる。

「フフフ、これが気になる?」
「別に」
「やせ我慢はよしなさい。いいものを見せてあげるわ」

すると保田は控えスペースから持ち出した小さな箱を開く。
中には一匹のネズミが入っていた。
そして保田はスルスルと腕の包帯を解いてゆく。

「これがお前への復讐の為に作り出した、私の怨念!!」

奥で見ていた辻がウワッと悲鳴をあげた。
保田の右腕がどぎつい黒灰色に染まっていたのだ。
見ているだけで禍々しい姿である。
その黒灰色の手で、箱の中のネズミに触れる。
すると、保田の手に包まれたネズミは奇声をあげて走り回り、やがて息絶えた。
ニヤリと強烈な笑みを浮かべる保田圭。

「毒手!」
119辻っ子のお豆さん ◆No.NoSexe. :04/06/17 23:43 ID:zkfnwbCt
コロシアムに戦慄が走りぬける。
毒手――――自らの手を毒に染め、カスっただけで肉が腐り、死に至るという恐ろしい技。
そんなものは作り話の中でしか存在しないと誰もが思っていた。
たとえ実在したとしても、誰が実行にうつすものか。
これは日常生活のあらゆることの放棄を意味する。
その黒き手は、保田圭の怨念そのものを顕著に表している。

(それほど!それほどまでにこの人は!)
愛は言葉を発することもできなかった。
人生のすべてを復讐に注いだ女の覚悟が、あまりにも凄まじ過ぎた為。

(なるほど…)
クールな藤本でさえも、額に汗を浮かべている。
田中たちが絶対に闘いたくないと言った理由がようく分かった。
あまりにも邪悪すぎる。
どれだけ積み重ねた鍛錬も、鍛え上げた肉体も、あれの前では意味を失くす。
ただ触れただけで「死」に至るのだ。
もちろん、そんなものが表の世界で許される訳がない。
保田圭は二度と光の当たる世界に出ぬ覚悟で……
ただ安倍なつみへの復讐という一心で……
悪魔の腕を手にしたのだ。

「地獄の苦しみだったわよ。これを完成させるのはね」

ついに念願の叶った悪魔の笑み。
120辻っ子のお豆さん ◆No.NoSexe. :04/06/17 23:44 ID:zkfnwbCt
秘伝中の秘伝。毒手。
それも成功例は極めて稀。
大概の者はあまりに苦しい製作過程の半ばで、息絶えるか逃げ出す。
まず高温の炎で自らの腕を焼く。
皮膚の焼け爛れた腕を、そのまま毒液につっこむ。
この中にはありとあらゆる種類の毒が混ぜ合わされている。
気の遠くなる様な痛みに耐える。痛みを和らげる方法は無い。ただ耐えるしかない。
そして毒が腕から他へ回る前に腕を抜き、薬液に浸す。
これの繰り返し。
ヤケドと毒素に侵された腕を、また炎で焼く。
毒液につっこむ。
薬液に浸す。
正常な感覚の持ち主が耐えうる内容の過程ではない。
怨念だ。
保田圭の強烈すぎる怨念が、この偉業を克服させたのだ。
そして完成したこの毒手!

「それも全て…お前に捧げる為だよ!安倍なつみぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

黒灰色の腕が怒りに打ち震える。
いや、ついに地獄から解き放たれた喜びに震えているのかもしれない。
死を送ろう。
絶対に逃れることのできぬ死を。
121辻っ子のお豆さん ◆No.NoSexe. :04/06/17 23:45 ID:zkfnwbCt
「なちみぃ……」

辻は泣きそうな顔になっていた。
なっちの為に何とかあの毒手の対策を考えようとするのだが、まるで浮かんでこない。
策が無い=死。
それくらいのことは辻にだって分かる。だから泣きそうになっている。
対照的に保田はこの上なく嬉しそうな笑み。

「自慢のパーフェクト・ピッチも、これじゃ意味がないわねぇ」

そう。かつて保田を破り、最強の座まで登らせたあの能力も……
あのパーフェクト・ピッチも役に立たない!!
毒手は真似てできる類の技ではない。
この毒手には、そういう意味も含まれていたのだ。
パーフェクト・ピッチを殺し、安倍なつみ本人をも殺す。完全なる勝利。

「ふぅ…」

ここで、沈黙を続けていた安倍なつみが息を吐く。
そして優しい顔でそっと後ろを振り返り、辻希美と高橋愛を見た。

「なちみ…」
「安倍さん……」

こんな状況でどうしてあんな天使の様な顔ができるんだ、と愛は思った。
122辻っ子のお豆さん ◆No.NoSexe. :04/06/17 23:47 ID:zkfnwbCt
確かに毒手は強力だが、安倍なつみならば倒すことはできるかもしれない。
触れられても毒が回る前にぶっとばせばいいのだ。
ただしその場合、勝利はしても命は助からない。
コロシアムに監禁されている状況。もちろん解毒の用意などどこにもない。
(まさか、なちみは……)
辻は思った。顔を上げると安倍なつみと目が合う。
ニコッと、なっちが笑った。
その笑顔がまるで……「後は任せたよ」と言っている様に聞こえた。

(まさか安倍さんは命を賭けて、私達に勝利を……!?)
愛も、辻と同様のことを感じた。
もう安倍なつみは敵の方を向いていた。
何故か見えない彼女の顔が微笑んでいる様な気がした。

『中堅戦!!安倍なつみvs保田圭!!!』

寺田のアナウンスと同時に辻希美が泣きながら叫ぶ。

「やめてーーーー!!!死んじゃうよ!!なちみぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」

呆然とする高橋愛。
泣きじゃくる辻希美。
けっして忘れることのできないであろう……その後ろ姿。
未来を託された二人の前で、天使は羽ばたく。