129 :
しないよ:
「ありがとー!!」
華やかなステージが幕を下ろし、14人の娘。たちは
スポットライトから抜け出した。
「今日はいつも以上に盛り上がったねー!!」
「うん、気持ちよかったー!!」
メンバーは興奮した様子で、控え室へと帰る道すがら、
スタッフに挨拶をしつつ、汗を拭き拭き、ステージの感想
を語り合っていた。
「それでさ、見た今日の?」
「うん、見た見た!」
「ウケるよねー」
いま、メンバーにとって最大の関心事は、珍しいお客に
ついてだった。
130 :
しないよ:04/06/28 16:12 ID:Adv4cIhA
このツアー中、いつも客席の最前列にいて、ネクタイ姿
に法被を羽織り、狂ったように踊る人物がいたのだ。
おそらくは会社帰りのサラリーマンだろうが、それなら
よくあること。
問題は、彼が踊るばかりで、初めから終わりまで全く
舞台を見ようとはしないことだった。
最初に気づいたのは藤本だった。
それからというもの、メンバーは彼を観察することを
ステージに上がる密かな楽しみにしていた。
ただ一人、石川を除いて。
「格好からして、あの人、石川さんのファンみたいですね」
小川が揉み手にすり足で寄ってきた。
131 :
しないよ:04/06/28 16:13 ID:Adv4cIhA
石川は思う。
この子はなぜ、いつもゴマをするような態度でいるのだろう。
「…そうなのよー、困っちゃう」
あの奇妙なお客に、石川は初めから気づいていた。
だから、ここしばらくは、極力それを見ないよう、二階席へ
ばかり目線を送っていた。
一生懸命応援してくれるのなら、どんなに滑稽でもいい。
しかしメンバーには目もくれず、自己陶酔して踊り明かして
いるのを見るのは、気分が悪い。
金を払った以上、どう振舞おうが個人の自由じゃないかと
言われてしまえばそれまでなのだが。
「大の大人がね…」
思わず、口にした。
132 :
しないよ:04/06/28 16:14 ID:Adv4cIhA
「あー、そんなのファンに聞かれたら、愛想尽かされちゃ
うよ」
「だって本当のことですもん」
ゴシップで痛い目に遭ったことのある矢口は心配そうに
語るが、自分には無縁だと、石川は気にも留めていなか
った。
「梨華ちゃん、マイク忘れてる」
「あ、ほんとだ、ありがとう」
石川は慌てて引き返し、謝ってマイクを返した。
スタッフも丁度、ひとつ足りないと慌てていた。
いつもは舞台が跳ねるとすぐ、袖にいるスタッフに預ける
のだが、今日は考え事をしていて持ってきてしまった。
それがこのあと、大きな波紋を呼ぶことになるとは知らず
に。
133 :
しないよ:04/06/28 16:28 ID:Adv4cIhA
あれから数日後の、「ハロモニ」収録日のことだった。
「でないよ」
収録を終えた石川は、テレビ東京のトイレに篭っていきば
っていた。
ひどい便秘になって、もう一週間なのである。
便秘と知られては恥ずかしいので、いつも使っている楽屋
の傍のトイレでなく、そのひとつ先のトイレにいる。
小学校のとき、いちばん奥の個室に「トイレの花子さん」と
いうお化けが出るという怪談があった。
信心深いほうなので、それにあやかって、いちばん奥の
個室に入った。
だって、「出る」かもしれないから。
134 :
しないよ:04/06/28 16:31 ID:Adv4cIhA
便秘の原因は見当たらなかった。
とくに不摂生をしたわけでもなく、生活リズムを崩したわけ
でもない。
ましてや連日ステージをこなしているのだから、運動不足
ということもない。
本格的な便秘は、19歳にしての初体験だ。
だからコーラックも飲んでるし、健康管理に明るい飯田
にアドバイスを受けて、3日目あたりから意識して食物
繊維を摂るようにしていた。
それでも出ないのだ。
このところずっと、空いた時間をみつけてはこうやって
個室で粘っているのだが、便意どころか、その予感すら
ない。
135 :
しないよ:04/06/28 16:34 ID:Adv4cIhA
それから30分がんばったが、あきらめて個室を出ること
にした。
排泄してはいないが水を流す。
こういうのは、気持ちの問題である。
もしかしたら、自分の腸は宇宙空間に直接つながって
いて、肛門を出る前に、異空間に転送されてしまうの
ではないか。
便器の排水口は、いかにも宇宙へつながっていそうだ。
ごうごうと音を流れるそれを眺めながら、そんなバカな
ことを考えた。
化粧室で手を洗い、鏡に映る自分の顔を見る。
汗をかいたので化粧を直すが、のりが悪い。
というより、日に日に悪くなっていく。
頬もちょっとやつれた。
136 :
しないよ:04/06/28 16:35 ID:Adv4cIhA
肩を落とすと、スカートの上からでも、若干だが下腹部
が膨らんでいるのが分かる。
だが、何を考えても、出ないものは出ない。
重い足取りで、楽屋へ戻っていく。
「梨華ちゃん、出た?」
入るなり、辻が茶化してきた。
「なんで?」
バレてないつもりだったので意表をつかれたが、
年齢3つぶんの年の功で、取り澄ましてみせる。
「えー、石川さん、どこか体調でも悪いんですかぁ?」
6期までが口を挟んできた。
はっとして楽屋を見渡すと、みんな訳知り顔でくつくつ
とやっている。
137 :
しないよ:04/06/28 16:36 ID:Adv4cIhA
(6期って意外と食わせもの…)
「このあと、みんなでご飯しようと思ったんだけど、梨華
ちゃんは除外ねー」
「や、矢口さん、あたしも行きたいですよ!」
「いーのいーの、ムリしない」
石川を軽くあしらうと、矢口はメシ組みを部屋の真ん中
に集め、何食べるー?と話しはじめた。
「…もうっ」
そうやって、ポーズで頬を膨らませるが、本当は食欲なん
てない。
矢口がムリするなと言うのも、石川が便秘に参っている
ことを知っているからだ。
138 :
しないよ:04/06/28 16:37 ID:Adv4cIhA
いまだって、石川が帰ってくるまで話し合いを始めなかっ
たのがその証拠だった。
すっきりとした顔して帰って来たら、食事に誘おうと思っ
ていたのだろう。
それで気を揉ませているのだなぁと、ちょっと凹んだ。
ため息だったら、すぐに出せるのだけどなぁ、と。
139 :
しないよ:04/06/28 16:43 ID:Adv4cIhA
その後、いくつかの仕事をこなすと夜になっていた。
最後にマネージャーがやってきて、明日のスケジュール
の確認をし、そのまま解散となった。
みんなは、さっさと行ってしまった。
石川は仕方なく、駅へ向けてひとり歩き出す。
明日のコンサートにも、例のネクタイ法被は来るだろうか。
夜道を歩き、そんなことを考えようとして、すぐに止めた。
便秘のこともあって、あまりにも気重だったから。
前方に明かりが気になり始めた。
駅が近い。
まっすぐ家に帰ろうか。
それとも、いまからでもメンバーを追いかけようか。
140 :
しないよ:04/06/28 16:46 ID:Adv4cIhA
店の場所は聞いてある。
しかし自宅は、同じ路線の逆方向だ。
どちらへ乗ろう。
執行猶予の期限が迫る中、揺れる気持ちのまま、建物
の角を曲がった。
その時だった。
目の前に、ぬるりと人影が現れ、石川につかみかかって
きた。
「きゃっ!!」
思わず悲鳴を上げた。
しかし相手は構うことなく、石川の肩を掴んだまま、思い
つめた顔で立ち尽くしている。
暗がりの中、他に人はおらず、その目は確かに石川を
捉えていた。
141 :
しないよ:04/06/28 16:51 ID:Adv4cIhA
よく見ると男だ。
細身のその男は、影であり、どす黒い塊のようだった。
ただならぬ雰囲気を感じ逃げ出そうとするが、突然のこと
に足がすくんで動かない。
「誰かー!誰かー!」
殺される。
そう思い必死で叫んだ。
「…大の大人が、そう取り乱すなよ」
男は何かつぶやいた。
骨が砕けそうなほどの握力に、石川は顔をゆがめる。
この細い身体のどこに、こんな力があるというのか。
「お願い…許して…」
混乱する頭で懇願した。
142 :
しないよ:04/06/28 16:55 ID:Adv4cIhA
「だめだ…裏切ったから…」
肉をえぐる大きな手。
こころを犯すような瞳。
いま男は、恐怖の塊だった。
しかし唸ってばかりで、それ以上なにもしない。
「おい、何してる!!」
遠くで人の声がして、誰かが駆け寄ってくる。
足音は複数あった。
さっきの悲鳴を聞きつけたのだ。
声の主たちが駆けつけると、男はあっけなく引き剥がされ、
路上に組み敷かれた。
「…裏切ったんだ…」
男はなおもくぐもった声でうめき、その場にへたり込んだ
石川を睨み続けていた。
143 :
しないよ:04/06/28 16:58 ID:Adv4cIhA
助かった。
しかし身体は強張ったままだった。
駆けつけた男の一人が石川を立ち上がらせようとするが、
腰が抜けてしまっていて、近くのベンチに腰を下ろさせた。
そして何度も大丈夫かと声をかけ、石川がうなづいたのを
確認すると、ケータイで警察を呼んだ。
石川の意識を確認したのは、場合によっては110でなく
119にかける必要があったからだ。
暫くするとパトカーがやってきて、男は連行されていった。
車に押し込まれる際も、男は唸り続けた。
「…裏切った」
サイレンの音とともに、その言葉が耳に残っていた。
144 :
しないよ:04/06/28 17:01 ID:Adv4cIhA
――モー娘。石川、ファンに襲われる。
翌朝から、このことは事件として各メディアに報道された。
テレビ局の近くだったことが災いして、事務所の隠ぺい
工作が及ばなかったのだ。
石川も警察署で事情聴取を受け、マネージャーがそれに
付き添った。
警察署へ行き、「面通し」といって、マジックミラーごしに
犯人の顔を確認させられたが、昨夜の男と同一人物か
どうかわからなかった。
幸いなことに怪我ひとつなく、大事には至らなかったため、
1日だけ休暇をもらい、石川はすぐに仕事復帰した。
145 :
しないよ:04/06/28 17:05 ID:Adv4cIhA
「でないよ」
石川は相変わらず、テレ東のトイレの、やはりいちばん
奥に篭って、東スポを読んでいた。
各メディアの中でも、やはりこの事件を一番大きく報じ
たのが「東スポ」だった。
その記事によると、犯人はネット上に流れていた音声
ファイルを聴き、石川への復讐を思い立ったのだという。
それは、モーニング娘。がコンサートで使っている無線
マイクを傍受し、録音したもので、そこに石川がファン
のことを「大の大人が…」と嘲る声が入っていた。
取り調べで犯人は、「梨華ちゃんにはそんなこと言っ
て欲しくなかった」と語り、動機を「イメージを裏切られ
た」からだと話した。
はじめから危害を加える気はなかったという。
146 :
しないよ:04/06/28 17:08 ID:Adv4cIhA
(あたし、そんなこと言った?)
石川は「大の大人発言」を、覚えていなかった。
(それに、イメージって?)
自分のタレントとしてのイメージについて、考えたこと
はあった。
しかしそれは、ぶりっこキャラで笑いを取るのが自分の
持ち味なのだ、という程度の認識だ。
最近でこそ出番は少ないが、チャーミー石川という持ち
キャラは、かなり評判がよかった。
だから、夜道で襲われた原因がその発言にある理由
が理解できなかった。
マスコミの報道により、この事件は当然、ネット界隈の
モーヲタの知るところとなった。
147 :
しないよ:04/06/28 17:11 ID:Adv4cIhA
犯人や、事務所のタレント管理能力を非難する書き込
みが続き、アンチ石ヲタはここぞとばかりにスレを乱立
させていった。
しかし、それは石川の知らない世界の出来事。
事務所に送られてくる励ましの手紙や花束が、石川の
こころを癒したこと以外、この事件におけるファンからの
アプローチを、石川は知らなかった。
頭を抱えていると、誰かがトイレに入ってきた。
「梨華ちゃんも大変だよねー」
矢口の声がして、石川は便座から飛び上がった。
楽屋からは離れたトイレを使っているのに、なぜ矢口が
ここへ入ってくるのか。
いつものトイレが故障しているのだろうか。
いずれにしろ、石川は身動きが取れなくなった。
148 :
しないよ:04/06/28 17:15 ID:Adv4cIhA
トイレのドアは2つ開けられた。
もう一人いるらしい。
用を足し終えると、ふたりは化粧室で話し始めた。
「石川さん、けっこう平気そうでしたよね」
「東スポ見せたら、まっ先に、自分の写真うつりを気に
してたしねー」
改めて指摘されると、ちょっと恥ずかしい。
「やっぱ、ファンの人って、ああいうの嫌なんですか?」
「あたりまえっしょ」
もうひとつの声は小川だ。
事件のことについて喋っている。
石川は東スポを握りしめ、ドアの向こうへ耳をそばだてた。
「でも、あの法被ネクタイの人、そんな凶暴そうには
見えませんでしたけどね」
149 :
しないよ:04/06/28 17:18 ID:Adv4cIhA
(え!?)
石川は耳を疑った。
昨日自分を襲ったファンと、あのネクタイ法被のお客が
同一人物なんて知らなかったのだ。
「じつは石川さん、裏でもっと酷いことしてたりして」
「おー、言うねー後輩」
(しないよ!)
と言えないのがつらい。
便秘はメンバーにとって公然の秘密とはいえ、トイレの
ドアからこんにちは、というのはちょっと嫌だ。
「それに、便秘でしょう?」
「アナルにローソクでもつっこんだら溶けちゃって、抜け
なくなったとか」
「なはは、石川さんやりそー」
150 :
しないよ:04/06/28 17:21 ID:Adv4cIhA
(し、しないよ!!)
石川はもどかしさを噛みしめた。
変なイメージで語らないで!
しないよ、と言えないのが、こんなにつらいとは。
それに仲間に好き勝手言われるし、なんだか凹んで
しまう。
しかも片方は後輩だ。
小川って、こういうときフォローしてくれるタイプの子だと
思っていたのに、イメージが壊れてしまった。
なんだか、がっかりだ。
と、そこまで考えて、石川は思った。
あのネクタイ法被の人も、自分に対して同じ気持ちだった
のではないのか。
151 :
しないよ:04/06/28 17:25 ID:Adv4cIhA
『梨華ちゃんには、そんなこと言って欲しくなかった』
その言葉を思い出すと、胸に突き刺さった。
いま自分が小川に感じたように、あの人も自分に対して
失望しているのかも…
「じゃ、お先にー」
小川が出て行ったと思ったら、入れ替わりに藤本が入っ
てきた。
「長いっすねー」
「あー、梨華ちゃんのトイレ?」
話しながら、藤本は個室に入っていく。
「いえ、矢口さんの化粧直し」
「おいらかよ!」
「冗談ですよ」
152 :
しないよ:04/06/28 17:28 ID:Adv4cIhA
いつもなら微笑ましい取りも、石川は笑えなかった。
藤本も用を足しに来たらしい。
個室から出てくると、鏡の前で雑談を始めた。
「いまごろ、お通じついてるかもしれませんよ」
「それで、一週間分だから出すぎちゃって、流せなく
なってたり」
(…しない…よ)
なんだか石川は、あの発言の責任を取らされて、罰を
受けている気分になってきた。
「ところで、ミキティはどう思う?」
「梨華ちゃんの事件ですか?」
「そう、イメージってやつ」
「美貴は、大事にしてますよ」
藤本は、それが当たり前のことのように言った。
153 :
しないよ:04/06/28 17:32 ID:Adv4cIhA
「北海道の真ん中ら辺、ってやつ?」
「あと、眼つきが悪いとか」
「大事だもんね、そーいうの。
おいらもミキティ寄りのキャラだし、よくわかる」
「そう、だから梨華ちゃんは、甘いと思います」
梨華ははっとして胸を押さえた。
まるで自分に向けて言われたみたいだ。
「きびしいねー」
「あたしは必死ですから」
「そうは見えないけど」
「だてに、真ん中ら辺から出てきてないですよ」
そう言って、藤本は、かかと笑った。
154 :
しないよ:04/06/28 17:35 ID:Adv4cIhA
「そんなこと言って、その花瓶の下に盗聴機あるかもよ?」
「いいですもん、キャラはみ出てないから」
「まぁ、ウチらはね…」
そのあと話題は、藤本の実家経由で焼肉の方に流れて
いき、会話は終わった。
ふたりが出て行くと、石川はひとりトイレに残された。
(…イメージって大事なんだ)
石川は、みんなの会話から、大事なことに気づいた気が
した。
そして便座から立ち上がり、東スポを強く握り締めた。
紙面の顔写真はくしゃくしゃになっていたが、ぜんぜん
構わなかった。
155 :
しないよ:04/06/28 17:38 ID:Adv4cIhA
はやく、ステージに立ちたい。
そして、あの人に謝りたい。
そんな想いが、便秘のお腹以上に膨れ上がっていくの
を感じていた。
156 :
しないよ:04/06/28 17:42 ID:Adv4cIhA
しかし、ネクタイ法被のひとは、あれ以来ライブに現れ
なくなっていた。
それでも石川は、いままで以上にチャーミーキャラで愛想
を振りまいたが、どこか空しさだけが残った。
便秘は相変わらず続き、もう6週目に入った。
お腹のふくらみは衣装で誤魔化せるが、顔を化粧でカバー
するには限界がある。
どんどんチャーミーじゃなくなっていく自分が、そこには
いた。
あまりの様子に、親やメンバー、事務所は入院を勧めた
が、石川は断固拒否した。
いつかあの人が戻ってきてくれる時のために。
157 :
しないよ:04/06/28 17:45 ID:Adv4cIhA
しかし、そんな熱意は、症状の悪化とともに、いつしか
消え失せていった。
そして便秘が始まって2ヶ月が過ぎた頃、レッスン中に
石川は倒れた。
マネージャーに担がれて病院へ行くと、即時入院を言い
渡された。
当然、仕事にもドクターストップがかかった。
お腹がいびつに膨れ上がり、本物の妊婦のようになって
いたのだ。
折りしも担ぎ込まれた病院が総合病院で、すぐさま産婦人
科に通されたほどだった。
吸引機で肛門から便を吸い出すことが提案されたが、
いかなる装置をもってしても吸引力が足りず、断念した。
158 :
しないよ:04/06/28 17:49 ID:Adv4cIhA
この異常な事態に、腹を切開して便を排泄させるという
案まで出されたが、それは事務所が断固として許さなか
った。
それに、原因がわからない以上、定期的にそれを繰り
返さなければならず、医師としても得策ではないと判断
したのだ。
そして、少し体調の落ち着いた翌週のこと。
メンバーがお見舞いにやって来た。
「やっほー!げん……」
石川の姿を見るなり、行き場を失った矢口の言葉は床に
落ちた。
すっかり寝付いたせいで、張りつめていた気が抜けてしま
い、石川は10歳も老けて見えた。
159 :
しないよ:04/06/28 17:53 ID:Adv4cIhA
とりあえずでも、「元気?」と声をかければ、石川の気も
丈夫になるのではないか、という矢口の考えは、だから
浅はかだった。
遅れて藤本が入ってきたが、差し出された椅子には
座ろうとしなかった。
「ちょうど、ふたり揃ってオフでさ」
「うん、ありがとう」
石川はメンバーを歓迎すべく起き上がろうとするが、
差し入れの袋を受け取り損ねるほどに覚束なかった。
「いい、楽な格好でいて」
「…ありがとう」
「どっちがお客か分からないね」
「…はは、そうだね」
ふたりは明るく振舞おうとするが、布団のふくらみが
異様な存在感でそこにあって、それで空回りをした。
160 :
しないよ:04/06/28 17:56 ID:Adv4cIhA
「自分のおなかじゃないみたい」
石川は苦笑して腹をさすった。
「…あのひと、来た?」
「…ううん」
「…さすがにムリっしょ」
「…そうだね。もう来ないよね」
石川は、深いため息をつき、肩を落とした。
「会社も、クビになったって」
窓の外を睨んでいた藤本が、はじめて口を開いた。
「ミ、ミキティ?それは言わないって!」
「…いいの、聞かせて」
「…でも」
「お願い」
161 :
しないよ:04/06/28 18:00 ID:Adv4cIhA
矢口は渋々ながら、ライブでヲタ芸をする客が激減した
ことを告げた。
「…ごめん、あたしがあんなこと言ったから」
「いいよ、気にすんなって」
「………」
ふたりの会話が袋小路へ入ると、藤本はベッドに雑誌
を広げた。
「ミキティ、それ!!」
「フライデー?」
「マネージャーが男だったのが、まずかった」
――モー娘。石川梨華・できちゃった結婚!?
記事には、お腹の大きな石川が、マネージャーに抱え
られて病院へ入っていく写真が掲載されていた。
162 :
しないよ:04/06/28 18:03 ID:Adv4cIhA
すぐにでも卒業か?と記事にはある。
「…そう」
「お客さんが離れていった。おかげでライブに張りがなく
なった」
「おい、言いすぎだよ!」
矢口の言葉を無視するように、藤本は窓の外を睨んで
いた。
「…ごめんね」
「いや、おいらたちのことは気にすんなって」
「謝る相手がちがうでしょ」
つばでも吐くように、藤本が言った。
「じゃ誰!?」
163 :
しないよ:04/06/28 18:07 ID:Adv4cIhA
その態度に苛立った矢口が、藤本に噛み付いた。
「…あの人」
石川は、シーツを力なくつかみ寄せた。
「同情するの?」
「うん…あ、ううん。同情とはちょっとちがうかも」
「どっちなんだよ」
石川の表情が曇るたび、藤本はますます尖っていく。
「き、今日はこのへんで帰るね」
「…あ、うん」
耐え切れなくなった矢口は、そのまま藤本を引っ張って
部屋を出て行った。
「ありがとう」
164 :
しないよ:04/06/28 18:11 ID:Adv4cIhA
石川は二人の後姿に声をかけた。
藤本だけは振り返らなかった。
ひとり病室に残った石川は、足の上に載せられた雑誌
の記事に目をやった。
トイレの中で聞いた、藤本の言葉を思い出した。
――梨華ちゃんは、甘いと思います。
――あたしは、必死ですから。
藤本は北海道から上京して、2年も地道にレッスンを
積み、ようやくデビューできた苦労人。
思い返せば、自分のように、初めて受けたオーディシ
ョンで、こんな大きなグループに拾ってもらえた甘ちゃ
んとは大違いだった。
色々な思いに胸がつまり、フライデーの記事から目を
逸らすことができなかった。
165 :
しないよ:04/06/28 18:15 ID:Adv4cIhA
それから一週間後、ネクタイ法被がライブに戻ってきた
というメールを受けた。
藤本からだった。
――そのお腹は、誰のものでもない、梨華ちゃんが
受け止めるべきものだよ
そう添えられていた。
いや、そちらが本文だったのかもしれない。
ヲタに襲われた事件から、ちょうど2ヵ月後のことだっ
た。
石川はいても立ってもいられず、ステージに立ちたいと
主治医に申し出た。
しかし絶対安静だといって、受け入れられないまま
更に一週間が過ぎた。
166 :
しないよ:04/06/28 18:19 ID:Adv4cIhA
快方に向かう気配などない。
しかし黙って寝てなどいられない。
石川は病室を這うように出た。
お腹の重みを確かに感じていた。
(こんな無様な姿見られたら、誰でも幻滅だよね)
覚束ない足取りで病院を出ると、国道でタクシーを拾っ
た。
行き先は、モーニングのコンサート会場。
167 :
しないよ:04/06/28 18:23 ID:Adv4cIhA
舞台には、13人のモーニング娘。がいた。
「こっちー!!」
右へ左へ。
後ろへ前へ。
いつもなら会場を変幻自在に煽る娘。たちだが、この日は
無力だった。
メンバーがひとり足りない。
しかしその事実以上に、客席の異様な光景がメンバーを、
そしてステージを楽しみに詰め掛けたファンを戸惑わせた。
一部のヲタが、ステージのあいだ中なにもせず、ただ立ち
尽くしていたのだ。
その中には、あのネクタイ法被の彼もいた。
168 :
しないよ:04/06/28 18:27 ID:Adv4cIhA
ちょうど一週間前、彼はライブに復帰し、やはり最前列
にいて、何もせず立ち尽くした。
そして来る日も来る日も、蚊の鳴くような声で、しないよ、
しないよ、と唸り続けた。
その声は、MCにすら支障をきたさないほど弱かった。
そのため公演は通常通りに行われたが、誰もがそれを
不気味に思っていた。
ネットでも彼の振る舞いが噂になっていた。
そして、それに共鳴した者は、石川ヲタであるか否かに
関係なく、応援やヲタ芸をやめた。
2日経ち、3日経ち、1週間が経った今日、会場の3分
の1が彼に倣った。
169 :
しないよ:04/06/28 18:30 ID:Adv4cIhA
それは、ゴシップに踊らされたりしないよ、というヲタなり
の意思表示だった。
「ありがとー!!」
衣装チェンジを終えたメンバーは、誰もが同じ不満の種
を抱えたまま、アンコールのステージに立った。
しかし、客席の鼓動はまばらで弱かった。
会場は広く、そして冷たく感じた。
そして、田中がキレた。
「ちょっと、あんたら、おかしいんやなかとね!!」
そこまでは台本どおりのMCをこなしていたが、客の
あまりにひねた態度に耐え切れなくなったのだ。
170 :
しないよ:04/06/28 18:35 ID:Adv4cIhA
――石川を出せ!
どこからか野次が飛んだ。
「石川さんのこととか、関係なかっ!!あたしはこんな
心のちっさい人達のために歌いたくなかだけとっ!!」
田中はマイクを投げ捨てると、そのまま舞台袖へ向けて
歩き出した。
「田中」
藤本がマイクを拾い上げると、田中のもとへ歩み寄った。
「マイク投げ捨てるなんて、歌手失格だよ」
「…っ!!」
「プロ意識、アンタにはないの?」
「じゃあ、プロは歌う相手を選んじゃいけないんですか?」
171 :
しないよ:04/06/28 18:39 ID:Adv4cIhA
噛み付く田中に、藤本はそっとその手をとり、マイクを握ら
せた。
「いま、その疑問に答えられるのは、あたしじゃない」
「…え?」
「でも、きっともうすぐ…」
――待って!!
突然、スピーカーから石川の声がした。
とても凛とした声だった。
そして会場がどよめいた。
舞台袖から、石川が現れたのだ。
石川は、娘。たちと同じ衣装を身にまとい、グロテスクに
膨れた腹を、隠そうともしなかった。
その姿に誰もが目を見張り、そして背けた。
172 :
しないよ:04/06/28 18:43 ID:Adv4cIhA
ネクタイ法被の彼は、やはり俯いたまま、フロアの一点を
睨んでいる。
「そんなのおかしい!」
会場へ向け、石川は叫んだ。
そして舞台の最前へ歩み寄ろうとし、半ばで力尽きた。
「梨華ちゃん!!」
メンバーが倒れた石川の元へ駆け寄り、手を差し出した。
しかし、それを拒んだ石川は叫んだ。
「こんなの、みんなじゃない!!」
――だって大人気ないんだろ?
どこからか、冷めた野次が飛んだ。
それを非難する者は、誰もいない。
173 :
しないよ:04/06/28 18:46 ID:Adv4cIhA
「…ごめんなさい」
石川は打ちひしがれたように肩を落とした。
「…あたしが間違ってた。みんなの気持ちなんて、何にも
考えてなかった…」
そして静まり返った会場に、涙が床をたたく音が響いた。
いつか、マイクを通して石川の本音を聞いたヲタたちは、
同じようにして、いまの石川の本音を知った。
――大の大人は…
蚊の泣くような声がした。
石川はすぐにその人を見つけた。
俯いたままの、ネクタイ法被の彼だった。
彼のこぶしは、きつく握られていた。
174 :
しないよ:04/06/28 18:49 ID:Adv4cIhA
「大の大人は、そんなこと…」
石川が立ち上がった。
そして、震える足でステージの縁へと歩き出した。
――大の大人は…
もう一度、蚊が泣いた。
そして、石川は叫んだ。
「するよ!!」
両手を一杯に広げていた。
マイクはもう、口元にはなかった。
「大の大人は、そんなこと、するよ!!」
生の声で、もう一度叫んだ。
それが会場中に響いた。
175 :
しないよ:04/06/28 18:51 ID:Adv4cIhA
突如、ネクタイ法被が踊りだした。
――するよっ!するよっ!するよっ!ピ〜スピ〜ス♪
怒号のような声をあげ、髪を振り乱し、踊り狂う。
それは、替え歌された「ザ☆ピ〜ス!」だった。
視線こそステージに向けられてはいなかったが、その姿
には神々しさすら漂っていた。
――するよっ!するよっ!するよっ!ピ〜スピ〜ス♪
そして、公演のあいだ中、ずっと沈黙を守っていたヲタ達
も唄いだし、そして踊りだした。
はじめ疎らだったうねりは、さざ波が津波を呼ぶように、
次第に会場中を包み込んでいった。
176 :
しないよ:04/06/28 18:52 ID:Adv4cIhA
「みんな…」
石川は両手を広げ、そのうねりを全身で受け止めた。
そしてステージ上のメンバーも合唱を始めた。
それは、マイクなど通さない、生の声と体が響き合う
ほんもののコミュニケーション。
――ゴロゴロゴロ…
突如、落雷のような音が会場に鳴り響き、会場がまた
静まり返った。
「うぅっ!」
石川が呻き声をあげ、身体をねじらせた。
そして急に走り出すと、舞台袖へ消えていった。
177 :
しないよ:04/06/28 18:54 ID:Adv4cIhA
全ての人が、その様子に唖然としていた。
石川の消えた会場には、なにか訳のわからない声や
物音が聞こえている。
そして、石川の姿が消えて1分ほどあとのことだった。
――ブピピピピピピー!!!!
バタン、という扉の閉まるような音のあと、突如、会場中
に卑猥な音が鳴り響いた。
――あぁぁぁぁぁーー!!!!
石川らしき人物の叫び声もした。
それは、3時間ぶりに正座から立ち上がったような、風呂
上りにジョッキで一杯やったような、苦痛を裏返したような
快楽に満ちた声。
178 :
しないよ:04/06/28 18:55 ID:Adv4cIhA
それで誰もが理解した。
それは、まごうことなき排便の音であった。
「…マイク」
我に返って、矢口が呟いた。
石川はマイクを持ったままトイレに駆け込んでしまった
のだ。
2ヶ月ぶりの排便の音はすさまじく、特撮映画のダムの
決壊を思わせた。
そして、それが延々と続き、もう誰もが聞くに堪えないと
思ったそのとき。
どこからともなく歌声が起こった。
――ヲタなの子、理解してよ〜♪
179 :
しないよ:04/06/28 18:57 ID:Adv4cIhA
石川のソロ曲。
「理解して<女の子」だった。
ネクタイ法被の彼が、ヲタ芸を踊っていた。
彼は、コンサートで歌うことのない曲にまで、オリジナル
のヲタ芸を開発していたのだ。
――ヲタなの子、理解してよ〜♪
確かに彼は、人としてあるまじき事をした男だった。
しかし石ヲタとしての彼は真摯だった。
あの事件は、それゆえの過ちだった。
いつしか、会場にいた全ての人が大合唱をはじめた。
その会場を揺るがすほどの歌声は、あの卑猥な音を
見事に遮った。
180 :
しないよ:04/06/28 18:59 ID:Adv4cIhA
「ちゃお〜!」
フルコーラスを2回ほど歌い終わると、石川が舞台に
戻ってきた。
グロテスクだったお腹もすっきりへこんでいた。
その表情は、舞台から消える前よりいっそやつれて
見えたが、この上なくチャーミーだった。
「大人しいみんななんて、ヲタなげないぞ!!」
矢口が叫んだ。
石川もあとに続く。
「そうですよ、『大のヲタな』なんだから!!」
それは、排便と同じく腹の底から出た本音だった。
181 :
しないよ:04/06/28 19:01 ID:Adv4cIhA
――ちゃんと流したの!?
客席から、誰かが叫んだ。
石川はにんまりと笑みを浮かべ、両手をチャーミー仕様
で広げた。
そして…
\( ^▽^)/<しないよ
石川は今まさに、舞台の中心で、愛をさけんだ。
総立ちの大喝采が起こった。
ごうごうと、鼓膜を破るほどの。
スタンディングオベーションとは、まさにこの光景のみ
を指すべき言葉だった。
182 :
しないよ:04/06/28 19:02 ID:Adv4cIhA
その晩のこと。
この日、会場に居合わせたある著名なモーヲタは、自身
のサイトに、この晩のヲタの行動に関して、こう書き記した。
『90年度のサッカーW杯において、反則行為を一度も
犯さなかった、かのイングランドチーム以上の、紳士的
行為であった』
そして、こう追記した。
『私は聞いた。
彼女は、その一言が狂喜するヲタの大歓声にかき消され
ることを決して恐れなかった。
183 :
しないよ:04/06/28 19:03 ID:Adv4cIhA
「するよ」と「しないよ」に揺れる石川とヲタに向けて、まさ
しくサッカーの主審のごとき威厳さを持って、藤本美貴は
こう判定を下した。
――どっちなんだよ。
「つっこみ」とは「ジャッジメント」である。
だからあの藤本の一言は、比類なき優秀なアドバンテー
ジであり、客席の熱を冷ますどころか、更なる白熱を生み
だした。
そう、ツッコミキティの存在によって、あの晩、会場は奇跡
足りえたのだ。
この日、あの会場に居合わせたことを、モーヲタ人生に
おける、最も輝かしい瞬間として記憶にとどめておこうと
思う』
184 :
しないよ:04/06/28 19:05 ID:Adv4cIhA
――しーないよっ、ヲイ!しーないよっ、ヲイ!
会場では、また新たなコールが起こった。
それをさけぶヲタと娘。は止めどなく涙し、コールもまた、
止むことはなかった。
その晩、会場に居合わせた全ての人にとって、最高の
フィナーレは、新たな幕開けとなった。
ネクタイと法被が、笑っていた。
《浣》