西の空が、茜色に変わっていた。
行き交う人々の姿が暗く、ぼやける時刻である。
「くそっ、このままじゃ終われねえ」
足早に歩きながら言う。
先程の四人連れの浪人である。
「仲間を集めろ。あの小娘、恥じかかせやがって目にもの見せてやる」
中心に立っていた髭の浪人が言う。
「だけどよお。あいつ本物の壬生娘。なんじゃねえか」
「ああ、あの殺気はマジでただもんじゃねえ」
「そんなことねえ。ちょっと驚いただけだ。あんな餓鬼に舐められたままで黙ってられるか」
と。通りすがりの人間が、髭の浪人の肩にぶつかる。
「てめぇ、どこ見てやがるんだっ」
すれ違いざまに振り返ると、相手は笠を深く被った三人の武士。
着物を汚く着くずした浪人たちとは違い、
身なりはきちんとしていて、いかにもそれなりの武家に関わりのある者といった風である。
しかし髭の浪人は怯まず言い放つ。
「勤王の志士様にぶつかっておいて何の挨拶も無しかっ」
「勤王……志士?」
武士の一人が立ち止まり、振り返る。
「やんのかあ? こちとら気が立ってんだぁ、ただじゃ済まねぇぜ」
髭の浪人が刀に手をかける。
「おい」
しかし、残りの二人の武士が、振り返った武士を諌めるように声を掛けた。
すると諌められた武士は右手を笠の端にかけ、
「軽々しく勤王を叫ぶな……屑が」
と言い捨て、再び向かっていた方向に足早に歩き出した。
「何だと、おい待てっ」
浪人が叫ぶが、武士たちの足は早くそのまま消えていく。
わざわざ追っていく気力は起きなかった。
「ちっ」
道端に唾を吐く。
再び歩き出す。
「なぁ、もう勤王の志士なんて流行らねえんじゃねえか」
「京都も潮時かもしれねえなあ」
「ああ、壬生狼に睨まれたらもう……」
「急にしけたこと言い出してんじゃねえ! おめぇら。
冗談じゃねえ、何が壬生狼だ。
人集めて一度に襲いかかりゃ、あんな小娘の一人や二人……へっ、やってやる」
髭の浪人がいやらしい顔を浮かべる。
「小娘の一人や二人に、穏やかじゃないねえ」
と。今度は別の通りすがりの人間に、いきなり手首を掴まれた。
「なんだてめえ」
髭の浪人が凄むと、その相手は面倒臭そうに、独り言のように呟いた。
「しゃあねえなあ。後始末くらいはしてやるか」
「て、てめえは」
別の浪人がその相手の顔を見て言った。
「お、おい、見たことあるぞ。こいつ壬生狼だ!」
「何!?」
「ご名答〜」
吉澤だった。
「て、てめえ、離せ」
髭の浪人は吉澤に掴まれた手首を力づくでほどこうとする。
しかし強い力で掴まれているわけでもないのに、何故かほどくことができない。
髭の浪人が手を外そうともがいていると、吉澤はそれを難なく引き寄せ、耳元に顔を近づけた。
「冗談でやれるほど、壬生娘。は甘かねえんだよ」
飄々とした外見からは想像のつかない、ドスの効いた低い声だった。
「俺らに遊んで欲しかったら、郷里(さと)に帰って、軍隊でもつれてきな」
浪人の体でも臭ったのか、一瞬嫌そうに顔をしかめる。
「郷里ごと潰してやるよ」
体が硬直する。
表情をこわばらせた髭の浪人の頬を、汗がつたっていった。
「ま、昔は色々あったからね……」
懐かしい友人を思い出すかのように吉澤が話を続けた。
藤本と吉澤の二人は、再び吉澤お薦めの茶店へ向かって歩いていた。
後始末をしたい。と吉澤が言ったので、少し遠回りをした。
吉澤は、あれくらい脅しておけばもう大丈夫だろうと言った。
笑いながら楽しそうに新垣の様子を眺めていた時は、
割とそういったことに気を回さない性格なのかとも思っていたが、
何だかんだ言って最後まで見守ったあげくに後始末までしてやるのだから、
この娘なりに心配はするのだろう。
「ガキさんとかさ。がんばってるから許してやれなんてことは言わないさ。
なんだかんだカッケーこと言っても、俺ら人斬りだからね。
一人の腑抜けが隊の生死に関わる。それは分かってるよ。ただ……」
吉澤は空を見上げる。
「道はひとつじゃないと思うんだよね」
「特に後から入った娘たちはね……。ま、俺が言うのも何なんだけど」
しかし、だからと言って。
「甘いかい?」
「死ぬぞ」
あの程度の浪人相手ならばどうとでもなるが、
このまま戦いに身を置き続ければ、いずれ新垣のような娘は死に、それは組の死につながる。
「ははっ、そうかもね。やっぱ面白いなあ、あんた」
吉澤は笑った。その意味が藤本にはわからない。
「面白い?」
「心配してるんだろ?」
「いや――」
そんなことはないが、と言おうとしとして、止まった。
(……心配?)
新垣の、
地面に尻をつき、襲い掛かる浪人の恐怖に引きつった顔。
お前らなんかにいい世が作れるはずないと、浪人に向かって言ったときの顔。
何か心に引っかかるものがある。
しかしその引っかかりの正体も、藤本にはわからない。
「――そうかもしれない」
「あはははは、やっぱ面白い」
おかしな娘だ、と藤本は、笑う吉澤を見て思った。おかしな連中だ。
「あいつらは、宝に気がつかなきゃいけない」
吉澤が歩く藤本の邪魔をするように前に回りこんだ。
藤本は足を止める。
吉澤は腰を低くして、いたずらをする子供のように藤本を上目づかいで見る。
「そう、ここにあるね」
藤本の胸の中心を指で突いた。
「うわ! ぺったんこ」
吉澤の指先を目で追っていた藤本の動きが、自分の胸を見て止まる。
「いや。武士たるもの、胸はそんなもんでいい。そんなもんでいいんだ。
デカ過ぎても斬り合いには邪魔だしな。うんうん」
そう言いながら吉澤はとても楽しそうにしている。
「睨むなって、ジョークだよジョーク」
「じょーく?」
「洒落のことだよ、黒船の言葉」
別に吉澤の行動に怒ったわけではなかった。
それについては何も感じることはなかった。
藤本はそんな人間だ。
ただ、胸を突かれて、
それと全く同じことを自分にした、少女のことを思い出していた。
自らを人形と言っていた少女。
通りの向こうから歩いてくる人々の影が長い。
西の山に日が落ちようとしている。
町が刻々と色を変えていく時刻。鐘の音が、透きとおった空気に響く。
三人連れの武士とすれ違う。
笠を深く被り、その小奇麗な身なりと歩く仕種は、
いかにもそれなりの武家の者たちといった風情である。
各藩邸が多く存在し、政事の中心となっていた京都では珍しくない。
しかしすれ違いざま耳に入ってきたその武士たちの密話が、藤本の意識を捉えた。
「……見つけ……か」
「読……の勅旨…………会……」
「まあなんだ、胸のことは置いておいてもさ」
吉澤は歩きながら話を続けている。
「もうちょっと長い目で……って、あれ?」
隣にいたはずの藤本の姿がない。
「って、あれ? おい!」
「ちょ、ちょ待――」
「覚悟しろ貴様!」
「わかっているだろうな?」
大通りから外れた人気のない袋小路で、小さな諍いが起きていた。
笠を被った三人の武士が小路の奥の、
どこかの店の積み上げられた荷に向かって、罵声を吐いていた。
武士たちは口々に罵声を浴びせながら、脅すように周りの積荷を蹴る。
「待て」
不意に後ろから掛けられたその声に、三人は振り返る。
袋小路の出口に、藤本が立っていた。
「なんだ……貴様は」
武士たちは自然と腰の刀に手をかける。
それを受けて藤本も、腰の『独り舞台』に手をかけようとした、と。
藤本の目の前にすっと、後ろから手が伸びた。
吉澤だった。
「往来だ、ここは俺に」
吉澤は藤本より一歩前に出る。
「我らは壬生娘。組だ。貴様らも名乗れ」
「壬生……」
明らかに動揺が走る。
しかし武士たちはそのまま笠の奥で黙って顔を見合わせるのみで、名乗ろうとしない。
吉澤は武士の容姿をつぶさに見つめ、笠の奥を覗き込みながら言った。
「……阿佐(あさ)者か。ただの浪人どもとは違うようだな」
阿佐藩。
藤州、読瓜に次ぐ西国の外様雄藩である。
藩の方針は穏健な公武合体的であったが、内部では過激な勤王派の動きも活発で、
多くの藩がそうであったように、ここも倒幕と佐幕の間を絶えず揺れ動く藩であった。
阿佐藩士は月代の形に特徴があり、また、「阿佐の長刀(なががたな)」と言われるように、
長刀を好んで腰に差すため、見分けがつきやすい。
この時代。志士の多く、特に雄藩の出の者はあえて出身を隠すようなことはしなかった。
藩に誇りを持ち、自らも常に誇りを持って行動しているという自負があったためである。
顔を見合わせていた武士たちは、何かをぼそぼそとつぶやきあった後、
おもむろに刀を抜いた。
迷いのない抜き方だった。
腰が据わっており、そこらの浪人どもとは明らかに格が違う。
人を斬り慣れている。
「あー、抜いちゃ駄目だって」
吉澤が重い空気に似合わない気楽な声で言う。
「そんな物騒なもん見せたら、ここのこわ〜いお人にすぱっと斬られちゃうよ?
そういうの大好きなんだから、この娘」
藤本は黙っている。
「俺、蛇の次に血が嫌いなんだよ」
しかし武士たちは聞く耳を持たず、じりじりと間合いを詰める。
吉澤はしょうがない、というふうに首を振り、腰を落とし、鯉口を切った。
「壬生娘。さくら組副長助勤、吉澤ひとみ」
笑みを含んだ涼しい瞳。
「月光の吉澤!?」
武士の一人が叫んだ。
「……その名前であんまり呼ばないでくれるかな。なんか恥ずかしいから」
吉澤は嫌そうに言った。
「壬生娘。の師範だ。気をつけろ!」
武士が叫ぶ。
「いいや、こいつは柔術の使い手だ。剣の腕はそれ程でもないと聞く」
「剣の間合いで懐に入れなければ怖るるに足らん」
他の武士がまた間合いを詰める。隙あらばすかさず斬りかかるという体勢。
「……ったく。どいつもこいつも」
吉澤は首の後ろを掻きながら言った。
「舐められたもんだなあ」
絶妙の間合いですらりと刀を抜く。
抜く瞬間の飛びかかる隙を相手にあたえない。
「いいものを見せてやるよ」
ちらりと横の藤本を見て、にぃと笑ってみせた。
それは今まで藤本に見せていたもののどれとも違う、獣の笑みだった。