「ェヤァアアアアア!!」
「痛っ!」
からん。と竹刀が床に落ちる音が道場内に響き渡ったあと、しんと静まりかえる。
亀井が床に腰をついている。
「えり、大丈夫か?」
なかなか立ち上がろうとしないのを見て、田中が駆け寄る。
亀井はうつむき、手首を押さえたまま動かないでいる。
駄目だ。全然敵わない。
面の防具の中で激しく呼吸を繰り返しながら亀井はそう思う。
旅籠の一件で何の役にも立てなかったことを自分なりに反省し、
休む間も無く田中の稽古にすすんで付き合った。
しかし、同じ時期に壬生娘。に入り、同じ経験を重ねてきたはずのこの娘に全く歯が立たない。
「よそ見なんかしてるからだ」
田中に言われてまた亀井はうつむく。
目を離すな。
ふいに、新垣に言われたことを思い出す。
「うまい茶店見つけたんだよ」
どこへ行くのかと問いかけた藤本に対して吉澤はそう答えた。
不動堂村屯所を出て、西本願寺の横の通りを歩いていた。
二人とも新しい黒の隊服は着ていない。暑いからいいよ。とは吉澤の弁である。
じゃあ何故、隊服を渡しに来たのだ。とは藤本も聞かなかった。
「そこの干菓子がおいしくてねえ。なんかすごいんだよ。
口に入れた途端、こうしゅっと、なんとも言えない甘さが口いっぱいにさあ。
京菓子ってのはすごいねえ」
顔が本当に嬉しそうだ。
「それでそこのオヤジがさあ――」
藤本が聞きもしない話を一人で勝手に喋り続ける。
なるほど。と藤本は感じていた。
多少馴れ馴れしくされても、不思議と嫌悪感を覚えない。
確かにこの娘には、何か引き寄せられる魅力があるのかもしれない。
とにかくこの娘は隊士の間で妙に人気があるのだ。衆道の疑いを持たれてしまうほどに。
しかし藤本は回りくどいことが好きではない。
他愛も無い雑談が途切れたところで、早々に切り出した。
「それで、どういうつもりだ」
「……何が?」
「私に用があるのだろう」
「だからあ、うまい茶店が」
黙って吉澤を見つめる。
吉澤はつまらなそうに口を「へ」の字に曲げる。
「別にぃ〜。親交を深めようと思っただけだよ。
だってさあ、あんたいっつもぶすっとしてるじゃん? ほら、こんな風に」
わざと口の「へ」の字を強調して顔を近づける。
しかし藤本にはちっともおかしくない。
「やっぱ先輩としては心配じゃん? まだ入ってきたばっかりだしぃ〜。
もしかして藤本ちゃん、おとめ組でいじめにでもあってるのかなあ、なんて」
藤本の表情は全く変わらない。
吉澤はそれを見てため息を一つつく。
つんくといい、藤本を相手にするとこういう態度になってしまう人間が多い。
吉澤は仕切りなおすように、西のほうが橙色に染まり始めた空を見上げながら言った。
「読瓜駕籠襲撃の時にいたの、あんただよね」
「な」
「……な?」
浪人が新垣の発した言葉を繰り返す。
「なーんてこった! ……みたいな」
笑顔でおどけてみせる。目尻のあたりがひくひくと引きつっているのを感じつつ。
「ぁあ? なんだぁ?」
余裕が出てきたのか、壬生娘。の名前に一度は怯んだ浪人たちは、
触れ合わんばかりのところまで顔を近づけて凄んでくる。
やっぱり汚い。それに臭い。
「本当に壬生娘。組なんですけどねえ……」
新垣は眉をしかめて浪人の顔を避けながら言う。
「信じてくれません?」
「ぁあ?」
また後ろの「あ」の声を一段上げて凄む。あまり語彙は無い人たちらしい。
せっかく避けたのにまた顔を近づけてくる。
「逃げて、くれませんかねえ?」
「何言ってんだあ?」
「やっぱり、駄目ですか」
「……お嬢ちゃん」
後ろから別の浪人が出てくる。
「大事なところを邪魔してくれたんだ。それなりの覚悟はあるんだよなあ?」
「だ、大事なところ?」
「そうだぁ。われら天朝さまの世を作らんとする勤王の志士が腹をすかしておるんだ。
逆らうような佐幕の犬は懲らしめてやらんとなぁ」
「……はぁ」
(なんだかなあ……)
浪人がいやらしい視線を新垣の体中にまとわりつかせる。
(うわあああ。気持ち悪い)
「見たところ身なりはご立派なようだぁ。さすが壬生娘。の隊長さんだぁ」
後ろの三人がげひげひと笑う。
(これは、信じてくれてないんだよなあ)
「おまけによく見りゃ、腰にも立派なもんをちゃんと二本差してるぁ。
どうよ? そのご立派な刀と、着物をここに置いていったら、見逃してやらんでもないぁ」
「いえいえいえいえいえ。それは、駄目です」
両の掌を物凄い勢いで振る。それは駄目だ。本当に。
「見逃してやるって言ってるんだやぁ」
「いえいえ、いいです。ていうか見逃すのはこっちですし。
いや見逃さないですし、できれば」
「ぁあ? じゃしょうがねえなあ」
急に声が大きくなる。
「かわいそうだが、お嬢ちゃんには見せしめになってもらうかなあ」
「いえいえいえ、それも困ります」
「なんだそれは」
藤本は言った。表情は全く変わらない。
「ふ〜ん」
吉澤は藤本の顔をまじまじと見つめながら言う。どんな変化も見逃さないという顔。
しかし藤本がこういうことで“ぼろ”を出すことはない。
読瓜駕籠襲撃の時、藤本と直接対峙した壬生娘。は飯田、紺野、辻の三人のみである。
本人たちには固く口止めされ、他の隊士には能面の襲撃だけが伝えられている。
他に知っているのは事情を聞いた石川だけだ。
たとえあの場に吉澤がいたとしても、
あの暗闇では対峙するほど近くまで来なければ藤本の顔は見えない。
そもそもあの時点では誰も藤本の顔など知らないのだ。
顔見知りがあの場いたならば気づくこともあるかもしれないが、
あの場にいた者と後に別の場所で出会ったところで、そう簡単に気づくはずはない。
「いや、いいのいいの、どういう反応するかちょっと見てみたかっただけ。
俺そういうのは興味ないから」
吉澤は視線を外す。
「興味あるのは、どちらかと言えば生身のあんたのほうだし」
藤本は瞬時に吉澤が石川と一緒にいるところを思い出し、身を少し引いた。
「いや、そういう意味じゃなくて。……面白いな、あんた」
吉澤は妙に嬉しそうににやりとする。
「まあ、それは置いておくとして。いい感じだから。あんた」
「?」
「刺激になるよ。いい意味で」
吉澤の言わんとするところが分からない。
歩きながら吉澤は、うん、と背伸びをする。
「今の壬生娘。はさ、ほら、色々言われてるじゃん。知ってるだろ?」
藤本は何も言わない。しかし吉澤はそれを同意と受けたように続ける。
「腑抜けたとか、餓鬼の集団とか、壬生の犬っころ、とか」
変化するということ。
特に、何か形のあったものが少しずつ崩れていくといったとき。
そこには抗いようの無い、時の圧力のようなものがある。
たとえばこの二百五十余年の泰平の世と引き換えに、失ったものが多くある。
武士のありようなども随分と変わった。
戦乱がなくなっても尚、特権階級でありつづけた武士という存在は、
長い平安の年月を経て、やがてその存在自体に自己の価値を見出すしかなくなり、
兵士という本質を少しずつ変容させていった。
礼儀、作法、精神性、様式。
戦の存在しない世で自己の存在を保持しようとする中、武士たちは自然と、
実戦と何ら関わりのない細かな部分により価値を見出すようになり、
結果として、実戦力を少しずつ失っていった。
江戸の時代は、茶道、華道といった『求道』の文化が爛熟した時代でもある。
鎖国により海外文化の流入が皆無であったという背景もあり、その様式の独自性は粋を極めた。
士道もそれに似た。
茶道、華道は泰平の世で文化としての様式の美を極めた。
しかし士道は本来、戦いの具である。
そもそも黒船の来航に始まったこの混乱の時代に、
幕府が壬生娘。組という浪人集団の力に頼らざるを得なかったのは、
泰平の世を経て、幕府の戦力の多くが役に立たない無用の長物と化していた実情からきている。
数だけならば旗本八万騎とも言われる膨大な兵を抱えていたにも関わらず、である。
無理からぬ面もある。
実質的な存在意義を失い、その名誉ある身分にすがるしかなかった末端の下士は、
その日の食い物のために裕福な商人に媚びへつらい、
城に登る上士は、己の地位を維持するために剣より政治力を磨くしかなかった。
そんな中、田舎から現れた壬生娘。という浪人による実戦集団が、
士道というものに妙に拘ったのは、なにかの皮肉のようでもある。
そして今、その泰平の世に武士を蝕んだ時の圧力が、
今度は壬生娘。という組織を侵そうとしている。
「何かの刺激が必要だったのかもしれない」
吉澤が言った。
自分のことを言っているのか? いや、自分にそんな力はない。と藤本は思った。
「そうでもないさ」
藤本の心を見透かしたように吉澤が言う。
「もう、変わり始めてる奴もいるみたいだしね」
「……大丈夫」
心配する田中に向かってそう言い、亀井は立ち上がった。
竹刀を拾い、構える
旅籠への突入は、結局一度も刀を誰に触れることすら無く終わった。
亀井が斬るべき相手は藤本によって斬られてしまった。
あれ以来、亀井はなぜか藤本を見かけると、ついなんとなく、
姿を盗み見てしまうようになった。
田中の稽古に付き合う気になったのも、藤本の剣を見たことと無縁ではない。
あのとき、藤本の剣に見とれた。
きらめく陽光の下に現れた野生の獣は、美しい舞いのようにしなやかに刀を振るった。
決して、人を斬りたいと思っているわけではない。
だが壬生娘。としてやっていく以上、斬らなければとも思っている。
たとえそれが他人の生を一方的に、完全に奪い去ることだとしても。
それでも亀井は、京の治安を守る壬生娘。に入りたいと思ったのだ。
「ヤァ!」
自分を奮い立たせるように声を出す。
目を離すな。と新垣に言われたとき、どきりとした。
町人の冷たい視線に耐え切れず、思わず目を伏せてしまった心を見透かされたと思った。
自分に自信が持てない。
胸を張って、私は壬生娘。だ。と言えない。
「ヤァァァァ!」
目の前に立つ田中は、きっとそんなことは超越している。
自分が壬生娘。かどうかなんてことより、きっともっと先のことを見つめている。
焦ってしまう。
うまくいかないとすぐに自分で思い込み、すぐにうつむいてしまう。
胸を張れ。と以前、新垣に言われたことがある。
あれもきっと、そういう意味なのだ。
自分の存在が周りを変える。
悪い意味でならともかく、良い意味でそんなことがあった経験が藤本にはない。
それは常に藤本が独りでいたことが大きな要因なのだが、経験の無い藤本には分からない。
藤本には正直なところ、吉澤の言いたいことがよくわからないでいる。
吉澤の狙いが何なのか。この娘は何を知り、何の目的で自分に近づいてきているのか。
僧侶の行列と行き違う。
大きい笠を被り、皆一様に顔を伏せて静かに歩いている。
特に寺社の多い京都では、このような光景も珍しくない。
人の流れが増えてきている。
商店の建ち並ぶ場所に近づいているせいだ。
吉澤の言う茶店はその中にあるらしい。
気がつくと、藤本は無意識にあやの姿を人ごみの中に探している。
こんな場所にあやがいるはずは無い。
しかし、もしかしたら。その可能性をぬぐいきれない。
いや、冷静に考えればそんなことは徒労でしかないことはわかっている。
しかし、もしかしたら。
町に出るたびに、そんな思いを繰り返している。
「おー。よっちゃん、休みかい、どうよ、食ってかないかい」
「あははー、またねー」
「よっちゃーん。活きのいいのが入ったんだよ。帰りに寄ってってなー」
「おっちゃんいつもありがとー」
「よっすぃ〜」
「はーい」
大きい通りに出ると、吉澤に声をかける人間の多さに驚く。
老若男女、年齢性別を問わず吉澤を見つけるとみな気軽に声を掛けてくる。
吉澤はそれにまんべんなく笑顔で応える。
「この辺は馴染みなんだよ」
吉澤が言う。
飯田並みに背が高く。肌の透けるような色の白さに、朗らかな笑顔。
男ではないが、いわゆる美丈夫。といったところだろうか。
泣く子も黙る壬生娘。さくら組二番隊組長ではなく、
ここでは隊服を纏わない吉澤ひとみのほうが顔が知れているように見える。
もしかしたら隊服を着てこなかったのも、あえてだったのかもしれない。
それを聞くと、
「俺らって、京都の治安守るのが仕事だからね」
と吉澤は答えた。
「おおい、ひとみちゃん」
一人の老人が近づいてきた。
「おー。石松のじいちゃん、元気?」
「あっちのほうで、なんか騒いどるがの」
老人が通りの先を指さす。
確かに人だかりができている。
「あれ、お前さんところの子じゃないかい」
「へえ?」
「ちょいとごめんよ」
老人の言った人だかりの中に入った。
間を抜けながら、人々の会話が耳に聞こえてくる。
「また、あいつらや」
「最近ここら荒らしとるらしいで」
「伏見の同心もやられちまって手を焼いてるって聞くが」
「くわばらくわばら」
「あのおチビちゃん危ないんやないかね」
「誰か助け呼んで来なはれ」
「およ?」
人だかりを抜け、吉澤と藤本が顔を覗かせると、
その中心に四人の浪人風の男と、新垣が立っていた。