跳ね上がるしぶきに裾を濡らし、慌ただしく隊士たちが通りを行き交う。
黒く堅い木材で組まれた蔵の前、
壬生娘。組の幹部が集まる中で、紺野は黙って成り行きを眺めている。
めざまし屋の蔵に武器が隠されていたことが発覚してから、事態は急変した。
あの地下蔵の広さ、残された跡から言っても、大量の武器がそこにあったことが推測された。
一つ二つの夜盗の類で使いこなせる量ではない。
自然、不穏な言葉が誰の頭にも浮かんだ。
「車輪の跡は高瀬川で途絶えていました」
矢口のもとに走ってきた隊士の一人が言った。
「舟か」
「おそらく」
高瀬川は、上流の加茂川より分岐し、鴨川のすぐ西側を平行に流れる小さな川である。
舟で物資を運ぶため慶長一六年(1611)に開削が始まった運河で、
北は加茂川から南は伏見の宇治川まで続き、京都から大坂までの舟運をほぼ直結させた。
離れたところで、簡単な検分を終えためざまし屋の番頭軽兵衛と、
色黒の小太りの男――たぶんめざまし屋の主人であろう。が、
隊士らに囲まれて連れられていくのが紺野の目に映る。
あれだけの量の武器が一度に消え去ったのだ。
初期段階の探索で何をつかめるかが、より重要になる。
よゐこや阿佐藩士の時のように、ぬるい訊問を悠長に繰り返している暇は無い。
矢口副長も、もはや幕府の体裁などを構ってはいられまい。
きっと、死よりも恐ろしい苦痛が彼らを待ち受けている。
「矢口さん! 藤州藩邸に乗り込もう」
辻が声を上げた。
めざまし屋となれば、その背後に藤州藩があると考えるのが自然である。
幕府に隠れて大量の武器を保有していたということは、それだけで大罪に値する。
まずこのことに関して、藤州の周辺を探るという考え自体は間違いではない。しかし。
「いや。藩邸は辺りを見張らせる。今は賊と武器強奪の足取りを掴むのが先だ」
矢口が冷静に答える。
その判断は正しい。と紺野も思う。
誰もがこの事態に藤州が絡んでいることは分かっている。
しかし今は、政事的に非常に緊迫した時期である。
藤州と読瓜が手を結び、幕府による第二次藤州征伐は幕軍の完全な敗北に終わった。
幕府と朝廷を繋ぐ重石となっていた織明天皇は崩御し、幕府の求心力は下がる一方で、
もはやいかな緊急時であれ、
幕府の威光を笠に強制的に他藩の領域に立ち入ることは難しい。
まして壬生娘。組は今や幕臣である。仮に何かの失態を犯せば、
壬生娘。組が罪を被るだけでは済まない。
それがそのまま幕府の失態となり、倒幕という大きな炎の火種になりかねないのである。
先日の滅茶勤王党壊滅により、洛内の勤王派は一応の落ち着きを見せてはいるものの、
他の倒幕派藩と幕府の実質的な戦力、政治力、そして思想的正当性は、
既にそこまで拮抗しつつある。
今、誰もが両者の動向を見守り、より有利な方の傘下に属すべしと様子を窺っている。
もはや幕府は絶対ではないのだ。
「これだけの武器が持ち出されて、これだけの人が斬られてるんだよ!? 矢口さん!」
「辻さん、落ち着いて」
紺野は辻を抑えようとする。
興奮しすぎると、また体調を崩してしまうかもしれない。
「会府藩に応援を要請したらいいんじゃないですか?」
加護が口を挟んだ。
これまで壬生娘。組が多くとってきた実地的な行動ではなく、
京都守護職を後ろ盾に、政事的な道筋から藤州藩に話を通してみればどうかという意味だろう。
「壬生娘。はもう幕臣なんですし、会府藩も兵をきちんと動かしてくれるんじゃないですか。
これからの検分には、どうしたってもっと人手が必要になりますし」
確かにこれは京都守護職、幕府にとっても看過できる問題ではない。
政事に慣れた会府藩から正当な手続きを踏めば、何らかの情報を引き出せる可能性はある。
もちろん、時が経てばいずれ必然的にそういった話も進むだろうが、
幕臣としてより能動的に、会府藩の兵も動かしていくべきということだろう。
しかしそれでもやはり、と紺野は思う。
(今の会府藩は……)
恐らく紺野と同じ事を考えたのであろう。矢口は黙り込む。
「いいよ矢口、私が黒谷に行ってこよう」
しばしの沈黙の後、そう切り出したのは安倍だった。
「局長……」
矢口は安倍を見つめる。
あれから簡単な手当てを受け、頭の傷から流れた血は既に止まっている。
「わかっている」
「いいのか」
「うん。加護、警護についてくれ」
安倍は加護に微笑む。
「わかった。じゃあ、吉澤も一緒に局長についてくれ」
矢口が言うと、吉澤は無言で小さく頷く。
「この件はさくらおとめ合同でやる。残りの者は探索を続行。
現場の指揮は石川が取れ。屯所を手薄にするな」
「はい」
加護が答える。
「絶対に逃がさない」
辻が下唇を噛んだ。
「矢口さんは?」
石川が言った。
「おいらは所司代に行ってくる」
「所司代? わかりました」
おそらく探索の範囲などを話し合いに行くと、石川は受け止めたのだろう。
しかし紺野は少し違う受け止め方をした。
(所司代……)
あの時の矢口は、一体なんだったのだろう。
「引き上げるぞ!」
成り行きを見守っていた見廻組与頭の斉藤が、辺りの見廻組隊士たちに叫んだ。
近くで作業を続けていた大谷は、
壬生娘。組の隊士を睨みつつも、黙って斉藤の傍に寄った。
「矢口」
斉藤は矢口を見る。
「事は重大だ。我々のほうも動く」
その瞳には、先程までとは違った深刻さが浮かんでいる。
「わかった」
「協力は、する」
「……ありがたい」
矢口は表情を変えず答えた。
「ごきげんよう」
村田が去り際に含み笑いを見せる。
柴田が黙ってその後についた。
「とりあえず賊が丑三だとして。丑三が囮だったとすると……」
現場の指示が一通り終わると、
紺野は石川の後について、河原の遺体が置かれた場所に戻っていた。
石川は紺野の横で顎に手を当て、高い声で独り呟き続けている。
「同胞のよゐこを殺した丑三は……滅茶を裏切った?
内紛? ……すると阿佐? じゃあ武器を奪ったのは?
やっぱり、よゐこに死なれてしまったのが……一体、彼らは何を握っていたんだろう」
そう。各藩の思惑が複雑に入り組み、未だ分からない部分が多すぎる。けれど。
(毒を入れられていたのは別の……ええと、阿佐のお侍さんたちのほうですよ。三人の)
(阿佐……の?)
他の皆には、まだ知られていないことがある。
心の隅に、引っ掛かっているものがある。
「紺野、おい紺野、どうした?」
「え? あ、は、はい?」
突然の声に慌てて視線を上げると、背の高い吉澤が上から顔を覗き込んでいた。
「さっきから呼んでるのに、なんだまたぼうっとしちゃって」
「すいません」
「どうかした?」
「あ、いえ、別に……」
「ふうん。ならいいんだけど。お前のところの隊士たちが探してたぞ」
「あ、はい。……あれ? 吉澤さん、安倍さんたちと黒谷の本陣へいったんじゃあ……」
「ああ、ちょっとね」
吉澤は薄く微笑む。
「う〜ん」
石川はまだ腕を組んで難しい顔をしている。
「今は難しいこと考えたってしょうがない。とりあえず目の前のことから片付けていこう」
吉澤が石川の肩に手を置いている。
「あの……」
紺野は意を決して石川に近寄った。
「なに?」
「私の隊を、しばらくの間、石川さんに預かってもらえませんか」
「……いいけど? どうかしたの?」
「ちょっと個人的に当たってみたいところがあるんですが、
今はまだちょっと確信が持てないので」
「わかった。紺野なら、いいよ」
石川は少し考えた後、にこりと笑顔で言った。
加護は安倍と駕籠に乗り、黒谷へと向かっていた。
「台場」より四条橋を渡り、祇園を北へ抜けて行った先の、
黒谷の金戒光明寺に会府藩の本陣はある。
位置的には二条城、御所のほぼ真東。鴨川を渡った先になる。
道が雨にぬかるんでいるせいかもしれないが、駕籠が上下に大きく揺れる。
あまり乗り心地の良くない駕籠を捕まえてしまった、
前の駕籠に乗った安倍さんも今頃苦労しているだろうな、と揺られながら、
加護は先程のことを思い出していた。
(ああっと)
矢口らと別れ、これから黒谷の本陣へ向かおうかという時、吉澤が声を上げた。
(すんません安倍さん。用事思い出しました。いいすか?)
(……そう?)
元々、会府藩に今回の件の要請と相談に行くというだけのことである。
事務的な能力と、本陣をいきなり尋ねるだけの「顔」としては、
局長の安倍と加護だけで十分に足りている。
それでも矢口が吉澤に同行を指示したのは護衛の意味と、
幕臣たる壬生娘。組の頭である局長が本陣に上がる上で、
形式的な格を保つための「家臣」を安倍に少しでもつけてやりたいという思いからだろう。
しかし実質的には元よりさしたる意味はないので、無理に同行させる理由もなかった。
(わかった。いいよ)
安倍は少しも疑うことなく、吉澤の申し出を受け入れた。
だが加護にはわかっている。
どうせ大した用事なんてない。
吉澤は、自分が幕臣として本陣に上がることを避けたのだ。
幕臣になることに反抗し続けた自分の、体面を少しでも保ちたいのだろう。
子供っぽい。と加護は思う。
じくじくと、加護の心の底に溜まった泥のようなものが、またとぐろを巻きはじめる。
西の通りで駕籠を降り、門番に許可を得て高麗門をくぐる。
来るのは初めてではないが、城門のような趣の高麗門には、
何度訪ねても気圧されるものがある。
ただ今までと違うのは、自分が幕臣の身分であるということだった。
やはり雇われ浪人として、どこか卑屈さと共に門をくぐるのと、
会府藩と同等の幕臣の身分としてくぐるのとでは心持ちが違う。
飯田や矢口などには、自分たちに武士としての誇りがあれば、
何も卑屈になることは無いと幾度となく言われたが、それでもやはり加護には違って思えた。
ゆるい坂の先の石段を上る。濡れた石肌に安倍が足をとられないかと心配したが、
安倍は半眼のまま少しも迷うことなく、そよぐ風のように登っていく。
やはり、あの投石はわざと避けなかったのだと、あのとき後ろで見ていた加護は思った。
石段を一歩一歩踏みながら、新垣のことを思う。
あのときも見せた彼女の純粋さは、
壬生娘。組が、そして自分がかつて持っていたものであり、恐らく大切にすべきものだ。
あの夜、五条通りでさくら組とおとめ組が対峙した時もそうだった。
だが――。
じくじくと、心の底で泥がとぐろを巻きはじめる。
加護はそれをかき消すように首を振る。
紺野は。一緒にいたあの子は新垣とは逆に冷静だった。
台場での老女との会話を思い出す。
理路整然とした弁舌に、ときおり冷静さを通り越した冷たささえ感じた。
それは普段のぼんやりとした紺野の印象と、
繰り出される隙の無い論理との落差が過剰にそう思わせているのかもしれなかったが、
ぼんやりとした印象の奥に、どこか底知れない恐さを加護は感じることがある。
所司代組屋敷襲撃の件以来、特に思わされることが多い。
話によれば、あの人斬り丑三と暗闇の中、たった一人で斬り合ったと聞くが。
大きな三門をくぐり、更に急な石段を上ると、
そこにまた、長槍を持った会府藩の兵が待ち構えている。
「先に伝えが行っていると思いますが、今回の台場の件に関して、
早急にお話したいこがあって参りました」
加護がそう告げると、若い会府兵は表情を変えぬまま、目の前の屋敷の奥に消えた。
加護は安倍と共に屋敷の中の小さな会見の場に通された。
そこに現れたのは、会府藩公用方、稲葉貴子。
加護も見知った人物である。今は京都本陣で事務方を務めることが多いが、
元は会府軍の高官でもあるれっきとした武士(もののふ)である。
現在は京都本陣の剣術指南も務めており、その腕は確かなものだという。
「話は聞きました」
稲葉がゆっくりと口を開く。滞在が長いせいか、京の訛りが混じっている。
「結論から申し上げますと、今、会府の兵を動かすことはできません」
「……はい?」
加護がぽかんと口を開ける。横にいる安倍は、身じろぎ一つしない。
「もちろん、藤州藩のほうには上を通して事情を聞くことにはなるでしょうが」
「話はお聞きになったんでしょう?
賊のことはともかく、大量の武器が消えてるんですよ?」
「はい」
「じゃあどうして。もしかしたら、どこかの藩が謀反を、
それどころか戦(いくさ)でも始めるんじゃないかってくらいの量なんですよ?」
「はい」
「どうして」
稲葉は一拍置くと、落ち着いて言った。
「確かに。我が藩ではこれを倒幕派藩による戦の準備の一環と捉えています。
ですから、現在、抗戦の準備を整えている我が藩は、兵をお貸しすることは出来ないのです」
「え……?」
あまりのことに把握しきれない加護の横で、安倍がゆっくりと、目を閉じた。
「禄(ろく)を、頂けるご身分になられたんでしたな」
稲葉が言うと、加護は口を開けたまま小さく頷く。
「めでたい」
ぽそりと呟く。
「では。あなた方にもお伝えしておきしょう。
現在、会府藩では来たる戦のために国元で早急に軍備を増強しております。
それらは近日中に、上洛への準備が整う手筈になっている」
「……?」
加護はただ口をぽかりと開けているだけである。
また覚える、新たな違和感。話の大きさに自分の感覚がついていけていない。
(……戦?)
軽い脅しのつもりで放った言葉がそのまま受け入れられてしまう、この違和感。
「もちろん、こちらも出来うる限りの協力はいたしましょう。
武器の流れを押さえることができるならば、相手の機先を制せられるかもわからない」
「京で、戦がはじまるん、です……か?」
「だからあれほどおやめになられよと……」
稲葉が口元で小さく呟いた言葉は聞き取れない。
「はい?」
「我らとて……。我らとてっ! 本意ではないのだ!」
突然の叫びに、加護はびくりとする。安倍はその叫びにも動じない。
稲葉の拳が強く握られている。
「だからあれほど、守護職など受けるべきではないと我々は申し上げた!」
稲葉は突然湧き上がった怒りをただぶつけるように、
目は加護と安倍ではなく空(くう)をみつめ、たたみかけた。
「我ら会府藩とて、好きで京都守護職の任を受けたわけではない。
望んで覇牢幕府守護の矢面に立ったわけではないのだ!
我々家臣は何度も殿をお止めした! 薪を背負って火を防ぐようなものだと!
誰にでもわかっていたのだ!
ここで立てば、ただ民衆の幕府への恨みを我らが肩代わりさせられるだけだと!」
「……しかし殿は。あのお方は、お受けになってしまった。
それも岩や、転げる岩みたいなもんでかっこええと。……わけわからん」
稲葉は肩を落とす。
「……貴君らも、幕府に召し上げられて浮かれているようだが、
その意味をよく考えておいたほうがいい」
「は?」
「貴君らが幕臣に召し上げられたのは、貴君らの功績が認められたわけではない。
幕府は幕臣を欲していたのだ。いざという時に責任を取れるだけの身分を持った者をな。
意味を、ようく考えておいたほうがいい」
「もう、止まらへん」
それが別れ際の、稲葉の言葉だった。
(戦? 望んで? ……功績が認められたわけではない?)
濡れた石段を一つ一つ降りながら加護は思う。何を言われているのか、よく分からなかった。
(幕臣を、欲していた?)
「加護、危ないよ」
後ろで安倍の声がする。体がふらつき、濡れた石段に足が取られそうになった。
安倍は、屋敷の中でほとんど言葉を発することがなかった。あの落ち着き。
全てわかっていたということなのだろうか。幕臣召し上げの意味さえも。
「しっかりと足元を見な」
安倍が言った。
「かご……加護……」
高麗門をくぐり、しばらくして通りに出ると、ふいに小さな囁き声が加護の耳に入った。
加護はきょろきょろとあたりを見回す。
「ここや、ここ!」
物陰に、一人の男が隠れるようにして立っていた。
姿を見つけ、驚きに目を見開くと、男は慌てて自分の唇の前に人差し指を立てた。
「つんくさん」
加護は慌てて声をひそめ、小さくその男の名を呼んだ。
紺野は石川の許可を得ると、一人で西に向かった。
雨降る道の上を早足で進む。
行き先は六角牢である。
そこに行けば、何らかの答えが見つかるような気がした。
人斬り丑三――江頭丑三。滅茶勤王党残党の一人。
これといった思想は無く、党首武田真治をただ崇拝し、言われるがままに人を斬った。
今でもはっきりと思い出すことのできる、あの殺気。
その剣に心は無く、ただ人を斬るために人を斬る。
前藩主田森一義の復権により阿佐藩内の公武合体派が力を盛り返し、
阿佐藩に仕官していた武田真治が国元に召還させられた頃、
丑三は京の町で無宿者として、つまらない罪によって捕縛された。
それが丑三と分かったのは、少ししてからのことである。
記録では、丑三はそのまま阿佐藩と幕府との取り引きによって京から放逐、
京の外で身柄を引き受けた阿佐藩が本国に送還し、慶応元年(1865)打首。となっている。
しかし死んだはずの丑三が今、この京都に現れている。
京都で捕まっている間の丑三の身柄は、六角牢と所司代屋敷の間を何度か行き来している。
その間に何かあったのか。
京に再び現れてからの丑三の犯罪は、
所司代組屋敷における、よゐこ、阿佐藩士および所司代隊士の斬殺。
「台場」における町人の大量虐殺。
台場の虐殺が官吏の目を引きつけるための囮だったとするならば、
どちらも丑三単独の意志による殺戮ではなく、
何者かと共謀していると考えるのが自然である。
そして所司代組屋敷におけるその目的が、よゐこではなく阿佐藩士だったとしたら。
それらを解く鍵が、六角牢に見つかるかもしれない。
そして、矢口のことも――
「よっ」
突然、後ろから声を掛けられ、紺野は心臓が飛び出るほど驚いた。
「吉澤さん!」
「よっ」
紺野が驚いたのがよほど嬉しかったのか、吉澤は満面の笑みで片手を上げてみせる。
「どうしたんですかこんなところで!」
「いや、まあ、なんつーか。暇でさ」
「暇って……」
「紺野こそどーしたのよ。一人で思いつめた顔しちゃって、隙だらけだったぞ」
「隙って……」
「まーいいさ、どっかあてがあるんだろ? 俺も付き合うよ」
どうしたものかと迷う。
事が事なだけに、なるべくなら一人で済ませたかったのだが、
この調子だと、むげに断ったり誤魔化したりすれば、余計に怪しまれてしまいそうだ。
こう見えて、この人は意外に鋭い。
吉澤は、組の幕臣召し上げの話に関して、最後まで反対していた人間の一人でもある。
組の和を乱すまで反抗しきらないところは、いつもの吉澤らしくはあったが、
このところ奇妙な行動も続いている。
どこまで話していいものか。
「吉澤さんは。台場のこと、どう思いました?」
「うん?」
「あの人たち、台場が襲われたのは私達のせいだって」
「あー、あれかあ。う〜ん」
吉澤は腕を組み、首をひねる。
「がんばるしか無いんじゃないの」
紺野は吉澤の言葉に軽い失望を覚えた。
別に吉澤に特別な解答を望んでいたわけではないが、
やはりそういうことしかないのか。そうとしか言えないか、という、
吉澤に対してというよりは、事象に対しての失望があった。
「昔の壬生娘。組は強烈な人がいっぱいいたからなあ」
紺野をよそに吉澤は何故か嬉しそうに微笑む。
「結局さ、俺らは先代先々代から壬生娘。の名前を預かってるわけで、
壬生娘。を引き継ぐって事は、昔の悪名も引き継ぐって事なんだよねえ」
とかく京の町で壬生娘。組は忌み嫌われることが多い。
その原因は主に、壬生娘。組結成当初の隊士たちが、
京の治安を守る立場であるにもかかわらず、
時に町人たちの安息の場を乱し、横暴の限りを尽くしてきたことにある。
紺野はそういった古い隊士たちの遺した悪評に自分たちが振り回されるたび、
先代の壬生娘。たちの後始末をさせられているような嫌な気分になる。
「辛かったか?」
「いえ」
くだらない。と思う自分がある。
人からは感情が薄いと言われがちだが、
紺野には、そのことになるとついむきになってしまうというものがあった。
筋、道理などという、感情を抜きにした物事の筋道のようなものである。
例えば台場の人々。憎むべきは町を襲った賊であるはずなのに、
積年の恨みを持つ読瓜に、目の前の壬生娘。組にその矛先を向ける。
例えば壬生娘。組の悪評。悪評を負うべきは「過去の」壬生娘。組の隊士たちだろうに、
「現在の」自分たちまでもが、いつまでも悪評を負わされる。
所司代の屋敷でもそうだった。
あの夜。憤って見せたのは、何も無闇に矢口をかばおうとしたからではない。
ただ、矢口が内通者だという前提で、
自分たちの都合のいいように推論を積み重ねていく木村あさ美たちに腹が立ったのだ。
譲れない何かがあるわけでもない。ただ自然と、心がささくれ立つのだ。
紺野には、物事の道筋というものが人より見えてしまうところがある。
しかしそれを人に話しても、話が飛びすぎてきちんと理解されることが少ない。
うまく説明するのも難しい。だから、あまり言わない。だから感情が薄いとも言われる。
ただ、自分には見えるその道筋を、
感情というものによって都合よく捻じ曲げられることが、ときおり許せなくなる。
何でこんなにも、人は感情のために盲目に慣れてしまうのだろうと思う。
都合のいい証拠のみを集めていけば、都合のいい結論に至るのは当然のことなのだ。
なのにそれが平然と、正しく冷静な思弁の結果のように語られる。
その愚かさが紺野をいらつかせる。
ぽたり。と、道行く紺野たちの横で、雨水が垂れる。
だが同時に、それすらくだらないと思う自分がある。
感情に支配される人間にいくら理を説こうと無駄であることが、
道筋の見える紺野にはわかってしまっているからである。
くだらない。と、どこかで、自分のことすらそう思う。
「だってあの人たちって、自分たちが正しいってことを言いたいだけでしょう?
あの人たちだってただ、自分たちのしたいことをしているだけなのに。
それはきっと、自分のしていることに自信が無いからなのに」
驚く吉澤の表情を見て、しまったと思う。
まただ、と思う。また、どうでもいい自分の感情で、他人を困惑させる。
「きちっとしてるんだなあ。紺野は」
しかし吉澤は、ゆったりと微笑む。
「俺みたいな馬鹿にはそこまで考えられない」
「……すごいですね。吉澤さんは。
隊士たちにもてるのもわかります」
「は?」
「だって、かっこいいじゃないですか」
「いや?」
「吉澤さんは、殻を感じたことはあります?」
「なにいきなり」
「殻です。殻。こう、ここに、薄くて、色の無い、堅い殻があるんです」
宙に手をかざす。
傘からはみ出した腕が、雨に濡れる。
紺野には、自分の周りに殻が見える。薄くて、色の無くて、堅い。
漠然と、何事に対しても薄い欲求と、瑣末なことに拘ってしまう心。
小心で、すぐに緊張してしまう自分と、どこかいつも冷めている自分。
その相反する二つが、自分の中に同時に存在している。
自分でも自分が良くわからない。
きっと、これはそれらを隔てている境界なのだと思う。
「……無いけど」
宙に手を振りながら吉澤が答える。
「ですよね」
「はあ」
「吉澤さんはかっこいいですよね」
「うえ?」
困惑する吉澤をよそに紺野は黙り込む。
本心である。
吉澤はいつも穏やかに話を聞いてくれる。全てを受け入れてくれるように思う。
優しい。生き方に迷いが無いのだろうと思う。
できるならば、自分もそんなふうになれたらと思うこともある。
「吉澤さん」
「はい?」
紺野は、吉澤になら事情を話してもいいと思った。
少なくともこの人は、話した自分の都合を簡単に踏みにじるような人ではないと思う。
それに、どうなってもくだらないし、どうでもいい。
という気持ちも、同時にあった。
「茶でも飲もか?」
そうした寺田の誘いで、加護と安倍は町はずれの茶屋に来ていた。
馴染みだというその何の変哲も無いその茶屋は、寺田がやってくると、
「よぉ、つんちゃん久し振り」
と、気さくに三人を中に迎え入れた。
花街で遊び惚ける放蕩者そのままの外見の寺田は、
とても京都守護における最高権力者には見えない。
「さっきはよう大声出さんでくれたな。
稲葉にでも見つかると、うるさくてかなわんのや」
本当に困った様子で、苦い笑いを二人に向ける。
おそらく、本当に困っているのは稲葉のほうだろう。
「どうや、目のほうは」
お茶を出されて一息つくと、寺田は優しい顔を安倍に向けた。
「悪くありません」
「そうか。……知り合いにいい医者がおるから、今度紹介したるよ」
「は……」
しばしの沈黙が三人を包む。
加護も、先程の稲葉の話を聞いたばかりなので、寺田を前にしてどこか気まずい。
「そや、義剛にいさんがお前らによろしく言うとったで」
寺田が沈黙を嫌ったのか口を開くと、安倍が神妙な面持ちで小さく頷く。
花畑藩藩主、そして京都所司代の田中義剛公のことである。
本来なら、あれだけ所司代をかき回したはずの壬生娘。組を恨んでいてもおかしくない。
それをよろしくとは、さほど所司代組に興味が無かったのか、諦めているのか、
あるいは内部の膿が取り除かれたことに本当に感謝しているのか。
「おにいさんって、ご兄弟なんですか?」
「血は繋がってへんけどな」
加護が頭に浮かんだ疑問をそのまま言うと、寺田が楽しそうに苦笑いを浮かべた。
「まあ、同じ気持ちで京都にやってきた、兄弟みたいなもんかもな」
「同じ気持ちで……」
先程の稲葉の言葉を思い出す。
寺田は、家臣たちに強く止められていたにもかかわらず、京都守護職の任を受けたと。
「そや、オレらは幕府に大恩があるからな」
寺田は何かに思いを馳せるように目を閉じる。
「それにな。オレは……京都におられる織明帝を、お守りしたかった」
今はもう、この世にはいない織明天皇。
「まあ、あのお方はもう、おられなくなってもうたけどな。
それでもあの方の魂は、オレはまだ京都に残ってると思う。
オレは、それをお守りしたいんや」
寺田は何度も小さく頷く。
「それが岩、ってことなんですか」
稲葉が言っていた、よく意味の分からなかった言葉を発してみる。
「そや! よう知っとるな加護」
寺田は驚いた顔をして加護を見る。
「それが岩や。転がる岩ってもんや。かっこええやろ?」
「……はあ」
加護は首をひねりながら頷く。
「岩や」
「はあ」
(あかん。この人頭おかしいかもしれん)
と加護は思ったが、それを言ってもしょうがないので口には出さなかった。
きっとこの人にはこの人なりの、何かがあるのだろうと思うことにした。
「まあ、そやから。今は踏ん張りどころや。
今年一年。降りずにどれだけ踏ん張れるかで、この先決まってくるんや」
黒谷本陣で会話した稲葉とこの寺田とでは、危機意識にかなりの開きがあるように感じる。
本人の持つ雰囲気のせいかも知れないが、寺田の口調はどこか楽天的に思えた。
「会府藩が、軍の準備を整えていると聞きましたが」
安倍が声を低くして言うと、寺田の表情がややひきしまる。
「そや」
「稲葉様は戦が始まると」
「半分は備えや。けど、国元では十中八九、
いずれ倒幕派藩との戦になると読んどるみたいやな」
「そこまで……危ないんですか?」
「どうやろな……」
加護が訊くと、寺田は手元の茶をすすって、ふうと息を吐いた。
「どうなるかは、オレにもわからん。
けど、そんなら稲葉からも聞かされたと思うけど、
今の会府藩はそんなわけであっぷあっぷなんや。
そやからその分、京都の治安はお前らにはがんばってもらわんとあかん。
幕臣への召し上げも、そのためと思ってくれて構わん。
会府が動かせない間、その分お前らが少しでも自由に周りを動かせるようにと思ってな
オレも、個人的にできることがあったら何でも協力するで」
稲葉は幕臣召し上げに関して、そういう言い方はしていなかった。
また稲葉と寺田の認識の開きを感じる。
「あの……」
「今回のお台場の件なんですが」
しかし安倍の言葉が加護を遮る。
「ああ、少しは話を聞いとる。なんや?」
「武器に関してですが」
「……なに?」
吉澤の顔色が変わった。
「ですから、たまたま雇うことになった無宿者の言うことですから、
どれほど当てになるかわかりませんけど――」
紺野は吉澤の表情の変わり方に驚き、慌てて言い繕おうとする。
「違う、その先」
「ええ……。毒が盛られていた相手が違っていたって話ですか?」
「そう」
「ええと……つまり、その無宿者が言うには、
毒を盛られていたのはよゐこの二人ではなく、阿佐藩の三人のほうだったと」
吉澤の足が止まる。
「でもそれが本当だとして。
よゐこではなく、あえてあの三人をそこまでして殺す必要があったとして、
じゃあ一体、彼らが何者だったのかということになりますよね」
吉澤の様子を不思議に思いながらも紺野は続ける。
「屯所の尋問では、特に重要視されていなかったということもありますけど、
彼らが阿佐藩の勤王派ということ以上のことまではわからなかった。
仮に何者かに彼らを殺す必要があったとするならば、一体、彼らは何者だったのか。
彼ら阿佐藩士が、何をしに京都に来たのかってことですよね。
それには、彼らが京都に来てからどこで誰と接触したのかとか、
足跡も調べてみないと……吉澤さん?」
吉澤は大きく目を見開き、紺野を見ていた。
「紺野、一度戻るぞ」
「え?」
そう言うなり、吉澤は雨の中を走り出した。
「なるほどなあ……。めざまし屋に、武器か」
寺田はまたお茶を一口すすり、息を吐く。
「そもそも藤州に、それほどの武器の余裕は無かったはずや」
「ああ……」
矢口も言っていた。
それまで軍備の近代化に遅れていたはずの藤州は、
読瓜との同盟の締結以来、急速に軍備を増強したと。
矢口はその流通経路も、できるならば突き止めたいと言っていた。
しかし、もしめざまし屋の武器が読瓜からのものだとすると、
台場の町人が言っていたように、
虐殺の犯人を読瓜の仕業とするのは難しいのではないか。
「宇多藩は、どうやろうなあ」
寺田は一人、思案するように独り言を繰り返し、黙る。
「あのな」
そして何か一つの決心に至ったように、ゆっくりと語り出した。
「昔……もう何年前やろうなあ。オレも読瓜とちょっとな、付き合いがあったんや。
まあ、読瓜もどちらか言うと佐幕のほうで、会府ともうまくやってた頃や。
向こうもオレのこと『つんくちゃん』言うてな、まあこれはオレが言わせてたんやけど、
お忍び用の宿まで用意してくれてな」
寺田は懐かしそうに目を細める。
「伏見の宇治川近くの船宿でな、寺田屋言うんやけど、
名前が同じなのは偶然や言うとったけどね、これも洒落や言うてな。
まあ、色んな芸人呼んで遊んでみたり、新しい芸者育ててみよう思ったり、
忍びで色々と遊ばせてもらってたんや」
「ほんまはもっと楽な、旗本の三男坊にでも生まれたかったんやね。オレ。
そんでな、その頃、同じ宿でちょっと面白い男と知り合ってな。
まあ面白い男で、背はちっちゃいんやけど、言うことがやたらとでかい。
ちっぽけな地方の郷士の癖に、その口から国は、とか世界がとか語りよるんやな。
なんていうか竜みたいにな、天から日本を見下ろしているような視野の広い男やった」
懐かしい友を思い出すように宙を見つめ、茶を一口すする。
「オレらは酒の席ですっかり意気投合してな、
そいつはその頃、なんかの党に属してて、
まあ、そろそろ抜けて新しいことやるって言ってたんやけど、
一緒にやりませんか、って誘われたこともあった。
もちろん向こうはオレの身分なんか知らんし、
オレもそんなわけにいかんから、すまん、と断ったけどな」
そこで寺田は、ふうと息を吐く。
「もちろん無理やけど。あの時、断ってなかったらと思うこともある。
そうしたら、あいつも少しは違った道に行ってたんやないか、ってな。
……そいつ、武器商人を始めよったんや」
「武器商人?」
「そや。武器を運ぶ死の商人や。
人を殺す道具を人を殺したがってる連中のところに運んで金を稼ぐ、卑しい仕事や。
なんで、そんな奴になっちまったんだか……」
寺田の顔を見て。こわい、と加護は思った。
「お前らも知っとるやろ、岡村や」
「え……?」
その名を、加護も知っている。
「阿佐脱藩浪士、岡村隆史や。
こいつが、藤州への武器横流しに噛んどるかもしれへん」
日も傾きはじめ、分厚い雲に覆われた空は、早くも闇を宿しはじめる。
藤本は雨降る町の中を彷徨っていた。
あてもなく、ただ、消えた能面の手がかり――里田の姿を追って。
傘も差さず、雨に濡れた体がふらついている。
足に深く突き刺さっていた菱は既に抜いた。
痛みはもはや、痺れていて何も感じない。
あの手甲の感触。上段を受けたときの動き。
今は確信になっている。
あれは間違いなく、あの能面たちの体術の動き。
全身の毛が逆立つのを感じる。
あの夜を思い出すたび、焦りと、己の未熟さへの怒りで身がよじれそうになる。
里田が姿を消した後、しばらくして後を追ったが、
こうしていても無駄なことは既に分かっていた。
里田があの能面の一味であるならば、当てもなくただ町を彷徨って見つかるはずが無い。
自分でもおかしいと思っている。
ただ、雨に打たれていたかった。
小さな路地を抜け、大きな通りに出ようというところで、
足元の水溜まりに足を取られ、体がよろけ、角の家屋の壁に肩を当てる。
水が跳ね上がり、通りを行く人々の裾をわずかに濡らす。
ふらふらと家屋沿いに、足を引きずるようにして歩く。
人々はずぶ濡れになった藤本を汚らしい溝鼠を見るかのような目で蔑み、
あるいは何をするかわからない浪人者として恐れ、避けて通った。
すると、一人の男が藤本の前で立ち止まった。
小柄なその男は、驚いた様子でゆっくりと頭の笠を持ち上げ、
丸い目で確認するように藤本の顔を覗き込んだ。
「……藤本か?」
それは藤本も見知った猿顔の男――岡村隆史だった。