その凶行が何者によるものであるか。紺野には一目でわかった。
隊士に案内された紺野と新垣の二人は、鴨川のほとりに立っていた。
雨で水かさを増した川の流れから離れた堤防の脇に次々と遺体が運び込まれている。
その数は十を超えようとしていた。
「これ……は」
隣の新垣が呆然とその光景を眺めている。
遺体が整然と、一定の隙間を保って並べられていく。
横たえられた半数以上には“むしろ”が足らず、雨にさらされたままになっている。
男、女、老人、子供。無差別である。
「一体何があったんだ? 賊は何人いたんだ?」
「それが」
近くで借りてきたのであろう傘を二人の上に差していた隊士が、戸惑いながら答えた。
「傍にいた町人たちの話によると、……斬ったのは一人の浪人者だそうで」
「ひとり!?」
「巡察中だった道重さんのおとめ組二番隊が後を追っているようですが」
紺野は焦点の定まらぬ視線を地面に落とし、
誰にも聞こえないほどの小さな声を口から漏らした。
「人斬り、丑三」
これは紛うかたなく、あの夜のけだもののものだ。
虐殺であった。
そこには、目的や意志など一切が感じられなかった。
どれもが一太刀で終わっていない。遺体は狂った刃に何度も切り刻まれている。
まるで素人が慣れない刀をもてあまし、
人の命の絶ち方も知らずにただ振り回した後のようにも見えた。
元がなにであったかもよく分からない血に固められた肉塊が、
石ころのように転がっている。
主の分からぬ手や脚が一ヶ所にまとめられ、積み上げられていた。
紺野は雨ざらしの遺体の一つに近寄った。
恐らくは母なのであろう。女の遺体が小さい子を庇うように抱きかかえていた。
「むごい」と新垣がこぼした。
女は片方の腕を肩口から切り落とされていた。
その他にも顔と、首と、肩と、脚と、いたるところに叩いたような無残な斬り傷がある。
正直、並の人間ならば正視に耐えられる状態ではない。
やはり、と紺野は思う。
斬り口から見ても、腕は決して悪くないのだ。
にもかかわらず、何度も何度も体に刀を叩きつけるように斬っている。
なるべく無駄なく斬ろうという意志がない。
命というものに対する、畏怖のようなものが感じられない。
女には、背中にも斬り傷が無数にあった。恐らく逃げる背中を何度も斬りつけられたのだ。
まだ固まっていない血が雨に流され、鴨川へ向かう小さな水の流れに混じっていく。
この雨と、広い河原のおかげで辺りに血の臭いがこもることは無かった。
幸いにも、と言うべきか。庇うように抱かれた子供のほうは、一太刀で息絶えていた。
新垣がおもむろに隊の黒い羽織を脱ぐと、母子の遺体の上に被せた。
まだ遺体を検分していた紺野は視界を遮られて「あ」と口を開ける。
すると突然、後ろから新垣を勢いよく押す者があった。新垣がよろめき手をつく。
「さわるんやない」
見ると、それはいくらか年を重ねた男だった。
男は濡れるのも構わずその場に膝をつき、新垣の掛けた羽織を剥がして投げ捨てると、
二人の亡骸に覆い被さるようにして嗚咽を漏らしはじめた。
おそらくは身内なのであろう。
男は肉に指が食い込むほどに遺体を強く抱きしめ、
頬に血と泥がつくのも構わず地面に伏せ、泣き叫んだ。
「なんだ貴様」と、無礼に怒った平隊士が男に掴みかかろうとしたが、
新垣はそれを制し、苦しげに首を横に振った。
凶行は、ここからすぐ先に見える御池橋から西側に一本入った、
南北に走る通りで起こったという。
紺野と新垣は男をそのままに、その場所へと向かった。
新垣は、拾いなおした羽織を着なかった。
途中、同じく走ってやってきた安倍、矢口、吉澤、加護、辻と出会い、合流した。
「こりゃ……ひでえ」と吉澤が真顔で言った。
「みんな、なんの関係もない人達だったんですよね」信じられないという風に加護が尋ねた。
「許せない……」辻が下唇を噛んだ。
辻の黒い羽織の下が白い着物のままだったので、
もう大丈夫なのかと紺野は尋ねたが、辻は大丈夫、とだけ、下唇を噛んだまま答えた。
通りは紺野もよく見知った、両側に店屋の立ち並ぶ賑やかな場所であった。
橋の近くということもあって普段の晴れた日には人の通りの多いところだが、
今は突然の凶行に騒然とし、あちこちに傷の手当てを受ける者や、
それを見る野次馬の人だかりができている。
紺野たちが通りに入ると、一人の若い、眼鏡をかけた女が通りの中心に立っていた。
「村田か」
矢口が名を呼ぶと、女は作ったような笑顔をこちらに向けた。
見廻組の村田めぐみだった。
他にも傍に、与頭の斉藤瞳、そして大谷雅恵、柴田あゆみ。
幕府直参の優秀な娘だけで結成された、
『京都見廻女崙(めろん)組』の幹部がそこに揃っていた。
――京都見廻女崙組。
壬生娘。組と同様、洛中の混乱を受けて結成された、京都治安維持のための組織である。
結成は壬生娘。組より遅い。
ただし壬生娘。組と異なるのは、それが浪人の集まりではなく、
あらかじめ身分のある旗本の子弟で構成されているという点にあった。
壬生娘。組が当初、一介の浪人集団を会府藩が雇い入れた形であったのに対し、
見廻組は幕府みずから旗本や御家人より隊士を募り、身内で人員を固めた、
いわば幕府による幕府のための、幕府直属の壬生娘。組を意図するものであった。
そのため、与えられた身分は壬生娘。組より高く、幕府の扱いも実績に比べ格段に違う。
また、京都所司代と同様に任務が壬生娘。組と同質であるため、
平隊士同士の縄張り争い的な衝突は絶えることが無く、
特に身分のある見廻組隊士は浪士出身の壬生娘。組隊士を見下す傾向が強かったが、
上の幹部同士の交流はそこそこ厚く、幸いにもこれまで深刻な対立に至ったことは無い。
「やあやあ、幕府直参になられた壬生娘。の方々」
村田は歌舞伎役者のような大仰な言い回しで言う。
不思議とこの娘の語り口は、それが嫌味なのか、他意の無い言葉なのか測りかねる。
「邪魔だったかな」と斉藤瞳。
「いや。遅れて悪かった」
安倍が言うと、矢口が平静に続けた。
「悪いが、ここからはうちが取り仕切る。もう結構だ」
「貴様、召し上げられたからといって図に乗るな」
鋭い目をした大谷が、怒りを露わにずいと前に出る。
「やめろ」
斉藤が手を横に出し制止する。
「いやいいの。ここは我らの管轄ではないからお譲りする。
所司代の事件を仕切ったお手並み、拝見させてもらいましょう」
これもまた言葉だけ取れば、件を利用して所司代と幕臣の身分を手に入れた、
壬生娘。組への皮肉にしか取れないのだが、
村田の口から発せられるとあまりいやらしく聞こえてこない。
本音がどこにあるか掴みがたいからだろうか。
「与頭」
見廻組の隊士が、群衆の中から一人の男を斉藤の前に連れてきた。
「この者が、事の一部始終を見ていたそうです」
丸眼鏡をかけた恰幅のいいその男は、めざまし屋の軽兵衛(かるべえ)と名乗った。
雨の中立ち話もどうかということで、
紺野たちは女崙組と共に、そのまま軽兵衛の案内で近くの茶屋の軒先を借りた。
「私、そこのめざまし屋で番頭をさせてもらっております。
ええ、流行の御品から芸妓の噂話まで幅広く取り揃えているよろず屋でございまして、
明日のお天道様の具合なんかも予想させてもらっています。
会府藩の皆様にも、いろいろとご贔屓にしていただいているんですよ」
「めざまし屋? そう言えば最近、会府の客には冷たいと噂のあのめざまし屋か」
矢口が言う。
「いえいえ、冷たいなんてとんでもない! まったくそんなことありませんよ」
軽兵衛が額の汗をぬぐう。
「そうか? なんか最近、扱いが悪いという話をよく聞くが」
「会府藩様にはいつもご贔屓にしてもらってますから。
冷たいなんてとんでもございませんよ」
「……そう! そうそう。近いうち、そちらの女崙組様もご一緒に、
皆様で町の親睦もかねて、蹴鞠大会でも開こうかなんて話も、
主人とさせてもらっているんですよ」
「まじ? それ面白そうじゃん」
吉澤が目を輝かす。
「いつ?」と辻。
紺野も少しやってみたいと思った。
「まじです、まじ。できれば来年あたりには」
「え〜? 来年〜?」
「でもですよ。それに主人は、いずれは会府様御用達の支店を近くに開いて、
そう! 壬生娘。組局長の安倍様のお名前で、町のあらゆる現場に突撃する、
名付けて、あっちこっちなっ――」
「まあそれはさておき」
矢口が途中で話を遮った。
いかにも番頭らしく慣れている風に穏やかに語る軽兵衛の話では、
賊はやはり、たったの一人であったという。
雨の中、突然現れ、手当たり次第に周辺の人々を斬り、雨の中に消えたのだという。
まだそこら中の壁に血糊がべっとりと残り、町人たちは未だ騒然としている。
「その賊と誰かに諍いがあったとか、誰かを追っていたとか、
そういう風ではなかったのか」
「ええ、私も慌てて店の中に引っ込んだもので、
はっきりとは申し上げられませんが、何か狙いがあったようには……その」
軽兵衛はそこで口篭もる。
「なんだ?」
軽兵衛の顔が見る見る青ざめていく。
「私の仕事柄、なんとも憚られる言葉でなんですが、
その……まるで……狂……人、のようで」
「何か目的があったようではないと?」
「……はい。なにかこう、まるでわからず、とても恐ろしい有り様でした」
軽兵衛は目を伏せ、ぶるると小さく震える。
「あの、矢口さん、その賊ですけど」
紺野が遠慮がちに口を挟む。
既に太刀筋から、それが丑三の仕業であるという確信があったからである。
しかし矢口は何も聞く前から、「わかっている」と答えた。
「読瓜ですよ」
すると、近くから紺野たちに向かって言う声があった。
その方向を見ると、娘たちよりはやや年上の女が立っていた。
「彩……」
軽兵衛が言った。
女はめざまし屋の使用人で、名を彩といった。
「彩?」
安倍をはじめ、数人がその名前に反応した。
かつて、そういう名の娘が組にもいたのを紺野も知っている。
まだ京都が天誅の嵐に混沌とし、
壬生娘。もまた、熱く荒かった時代である。
しかしこの女は古着木綿商の高島屋ゆかりの者で、
名は同じでもその彩とは全くの別人であった。
「これは読瓜の連中が仕組んだに違いないですよ。
あの芋侍ども、組んだと思わせておいて、また藤州を裏切るに違いありません」
彩という名の女はいかにも悔しそうに顔を歪ませる。
「読瓜がここを狙っていると」
矢口が言った。
「彩、やめなさい。また旦那様にしかられますよ」
軽兵衛が困った顔で制する。しかし彩の恨言は止まらない。
「あの人たち、いつも帳簿をごまかしたり、巨人軍の力を傘に着て汚い手使って――」
「やめなさいってば。こっちだってそんなに大きい声では言えないようなことあるんだから」
と慌てて軽兵衛も自分の口を手で塞ぐ。
「ふむ。藤州をか」
と安倍が応える。
元々、京都に藤州びいきは多い。
それは安定した財政を背景にした落とす金の多さもさることながら、
開国による物価高騰で苦しんでいた民衆には、
当初真っ向から開国政策を批判していた先鋭の攘夷論者たちが、
まこと正当に見えていたからである。
政情が揺らげば、政権批判側に支持が集まるのは世の常でもある。
実は、裏では既に藤州も開国へと藩論を翻していたのだが、
表向きには声高に開国を叫ばなかったため、たとえ熱の変化に気づくことはあっても、
一度固定された民衆の意識はそう簡単に変わるものではない。
少なくとも、あくまで開国政策を押し続ける幕府の態度は、
民衆にとって藤州を抜きにしても喜ばしい存在ではなかった。
さらに京都の中でも、この地域には特に色濃い藤州びいきの気風がある。
この通りは、古くは鴨川の流れの中にあった。
以前の鴨川は、今の倍以上の広さがあったのである。
幕府が寛文十年(1670)、度重なる氾濫から市街地を守るため両岸に堤防を築き、
その護岸工事により中洲などが埋め立てられ、
やがてそこに町家ができ、今の賑やかな通りとなった。
当時、開府直後でまだ政情が不安定だったため、
諸国大名への威嚇に、東の守りとして鴨川に向け大砲台場が設置されたことから、
未だにここを「お台場さん」「台場横丁」などの愛称で呼ぶ地元民も多い。
埋立地であるために比較的新しい住人気質であることと、
近くに藤州の藩邸があることなどから、藤州と深く繋がる店が多く、
いつしか藤州のお膝元とも呼ばれるほどに、「台場」には色濃い藤州びいきの町風ができた。
そんな町風から、これを藤州に対する襲撃と受け止める彩の考えも不自然ではない。
また、今でこそ両者に同盟が結ばれているものの、
かつての政変で一度は京都を追われた藤州の、読瓜の裏切りに対する恨みは凄まじく、
特に政事に関わりのない町人にとって一度固定された読瓜憎しの観念は変わりにくい。
藤州に何かが起これば、まず幕府と読瓜を疑うのも自然のことではあった。
しかし仮に読瓜ならば、なぜここを襲うのか、
それを両者の確執の一言で片付けるには安直にすぎる。
藤州のお膝元である台場に賊が現れたことと、読瓜側の動機は、
関連があるようで全くの別物である。
むしろ彩のほうが、読瓜への恨みによって冷静な判断ができていない。と紺野は思った。
「彩、こちら会府藩の方々なんだから」
会府も当然、藤州が憎むべき幕府側である。
客であるどの藩に対しても波風を立てまいと気を使う軽兵衛の行動は、
誰にでも愛想のいい店屋の番頭らしくもある。
と、通りからの路地の一つがざわつき、そこから黒い一団が姿を現した。
賊の後を追っていた道重率いるおとめ組二番隊だった。
「安倍さん」
その声を発した石川が、黒い一団の先頭で肩に道重を抱え、引きずるように連れていた。
「石川か」
「道重!」
「しげちゃん!」
「やられたのか!」
そこにいた皆が口々に叫ぶ。
他にも傷を追い、他の隊士に抱えられた隊士が数人いる。
「すい……ません。……逃げられちゃいました」
道重が苦しそうに言葉を繋ぐ。
「いいから喋らないで」
「傷は」
矢口が冷静に石川を見る。
「腕と、肩と腰を数ヶ所斬られています。でも深くはありません。賊はやはり……」
「うん」
「……ええ気味や」
どこからか、声が聞こえたような気がした。
紺野はふっと反応し、その方向に目を配る。
しかし群衆はそれぞれに、向けられた紺野の視線から目を反らし、
或いは数人は漠然と光景を眺めており、その声がどこから発せられたか分からない。
気のせいかと思った。
と、群衆の中の一人の老女に目がとまる。
鋭く、昏い目でこちらを睨んでいる。
脇腹を手で押さえている。
彼女もまた、凶行によって刀傷を負ったらしい。
簡単に手当てしたらしい、布切れの上に血が滲んでいる。
「おばあさん、大丈夫ですか? こちらに隊の者がいますから、よければ手当てを――」
紺野が近寄る。すると、
「触るんやない!」
老女は突然大声で叫び、紺野の手を勢いよく振り払った。
深い皺を刻んだ老女の顔が、苦痛に歪む。
「え?」
思いもしなかった反応に紺野は困惑する。
「どうしたの?」
気がついた新垣が近くに寄ってきた。
「あ……」
紺野は、老女の後ろに小さな子供が隠れているのを見つけた。
老女の裾を強く握っている怯えた目は、紺野の腰に差された二本の刀を凝視していた。
「あんさん方がとっとと京都から出て行ってくれてれば、
こんな騒ぎにはならへんかったのや!」
老女が叫んだ。
「あんさん方がおへんかったら、糞幕府なんやさっさと潰れて、
天子様の下でええお国が作れたんや! こんなことも起こらへんかったんや!」
「……え?」
「なにっ!」
近くの平隊士が老女を睨み、腰の刀に手を掛ける。
「斬りや! 斬ればええやないか!
嫁も息子も殺されて、もう生きる意味なんやあらへんのや!」
「やめてください」
紺野は今にも無礼討ちをしようとする隊士を制止する。
「おばあさん、それは違います。この町で起きたことと、幕府や私たちは直接関係が無い。
たとえ私たちがいなくても、こういった事は起きるでしょう。
むしろ私たちは、町でこうした悲惨な出来事が起こらないように」
紺野は、老女は身内を殺された怒りで冷静な判断が出来なくなっているのだと思った。
筋が違う。恨むべきは自分たちではなく、実際にこれを行った賊であろうに。
しかし賊はこの場にいない。
だからやり場の無い怒りを、理屈ではなく、
ただ目の前にいる自分たちにぶつけようとしているのだ。
先程の彩にしてもそうだ。
現実に起きたことと彼女らが導き出した結論に、
直接的な因果関係をすぐに見つけることはできないはずだ。
それが人というものだ。と分かってはいても、感情で事実から目を背け、
恨みで人を傷つけあっていては何も解決しないと紺野は思っている。しかし、
「あんたら壬生狼(みぶろう)が勝手にやってただけやないか!」
あんたらが来てからやないか! この町がおかしなったんは!」
「違います。だから――」
「そうや!」
紺野の言葉を遮って、周りから声が上がった。
「そうや! ばあさんの言う通りや!」
「さっさと幕府が潰れないからこんなことになるんや!」
「そんな……」
新垣が戸惑いの表情を見せる。
「出て行け! 壬生狼!」
「こんなんなったんはお前らのせいや!」
声は瞬く間に群集に広がり、やがて紺野たちを囲むようにして怒りの渦を形成しはじめる。
「あんたらが京都に来てからろくな事がないやないか!」
「違う。ちょっと待って」
すると何かが、紺野の頭をかすめる。
(!?)
それは小さな石だった。群衆の中から誰かが投げ込んだのだ。
(いけない……このままでは)
暴動に発展する恐れがある。紺野は刀に手を触れた。
「やめろ。紺野」
落ち着いた声に振り返ると、安倍が立っていた。
「局長!」
新垣が安倍の姿を見て驚きの声を上げる。
安倍の額がかすかに切れ、血が滲んでいる。紺野と同じく、群衆から石をぶつけられたのだ。
「誰だ! 局長に石を投げたのは!」
「いいんだ新垣」
「局長の目が見えないのをいいことに! 貴様ら出て来い!」
激情にかられた新垣が刀に手を掛ける。
「待て! ガキさん」
「出て行け! 壬生狼!」
吉澤の鋭い声が響くとほぼ同時に、
群衆の中からさらに、一つの石が投げ込まれた。
「あ!」
限りなく直線に近い曲線を上空に描いたそれは、新垣と紺野の頭を一瞬で越え、
安倍に向かって鋭く飛んでいく。
「あぶない!」
しかし安倍は微動だにせず、そこから一歩も動くことなく、
投げ込まれた小石にそのまま頭を打たれた。
かす、と小さな音をたてて、小石が地面に落ちる。
(わざと、よけなかった?)
「局長!」
紺野はすかさず群衆に目線を走らせる。石の投げられた方向。
「誰だ!」
新垣が刀の鯉口を切り一歩前へ踏み出す。
しかし群衆の中で石を投げ入れた者など見つかるはずもない。
「待って! 里沙」紺野は叫んだ。
小さな子供が新垣を凝視している。
老女の裾を強く握り締めたその子供は、新垣の抜きかけた腰の白い刃を直視して、
明らかに怯えの表情を浮かべている。
「あ……」
我を忘れ、怒りに緊張していた新垣の顔が変わる。
この町は、つい先ほどまで人斬りの狂った刃に晒され、いくつもの命を失ったばかりなのだ。
そして子供はその小さな瞳に、その一部始終をただ刻み続けていたに違いない。
「出ていきなはれ!」
老女が子供を抱き寄せ、新垣と紺野を睨んだ。
「いいんだ」
背中越しにもう一度、安倍が言った。その声は最初と変わらず、落ち着いている。
石をよけない安倍の行動に群衆は、熱を高めるのと逆にかえって静まり返っていた。
「矢口。場所を変えよう。道重の手当てもそっちでやる」
安倍は淡々と告げ、背を向け歩き出す。
「これは、我々の責任だ」
誰にも聞こえぬほどの小さな声と、一瞬の安倍の横顔が、紺野の目に映った。
その時。一人の若い女が通りの向こうから走ってきた。
「軽兵衛さん大変です!」
「どうしました、美奈子さん」
軽兵衛が応える。
「店の……離れの蔵が!」
「蔵!?……ちょ、ちょっと」
軽兵衛は慌てて口の前に指を立て、女を黙らせようとする。
しかし矢口がそれを聞き逃さなかった。
「蔵……? 蔵がどうした」
美奈子と呼ばれた女が、しまったという表情を見せる。
軽兵衛が体の前で両手を振る。
「い、いえ何でもありません。店の話でございます」
「この女の慌てぶり、何でもない事はないだろう」
「いえ本当に何でもないですから」
「何かあったのだろう? 探索の手がかりになるかもしれん」
「いえ、お店の話ですから、賊とは何も」
「しかし何かはあったのだろう? 我らに手伝えることもあるかもしれん。遠慮するな」
「い、いえ……」
「どうした? 何かやましい物でも隠しているのか」
「とんでもございません」
「めざまし屋」
「……は、はあ」
「案内しろ」
「……かしこまりました」
めざまし屋の蔵は、
店から三町ほど南へ下った五条通りにほど近い、やはり鴨川の傍にあった。
大店だけあって、同じような所有の蔵が五戸ほど小さな路地に続いている。
途中、道重の治療のために近くの店を借りて数人の隊士が残り、
その他、周囲の警戒と探索のため組頭も数人に別れ、
蔵には矢口、吉澤、紺野と数人の平隊士、そして数人の見廻組が向かった。
「ここがどうかしたのか」
案内された一つの蔵の前で、辺りを見回しながら矢口が言った。
北の「台場」側から来て一つ目の蔵である。
紺野も見たところ、特におかしなところはない。
「いえ、その……ねずみが」
美奈子が口篭もる
「ねずみ?」
「いえ……」
「まあいい。鍵を開けてくれ」
「はあ……」
軽兵衛がいかにも困った風にのろのろと、鍵を取り出して扉に近づく。すると、
「副長!」
隊士の叫び声が聞こえた。蔵の周囲を窺っていた隊士の声である。
北の「台場」側から五番目――最奥の蔵からだった。
その蔵の扉のところから、いくつもの車輪を引いた跡が残っていた。
轍(わだち)が幾重にもなっているため、雨が溜まってぬかるみになっている。
雨の中で短時間に大量のものを運ばなければ、こんなにはならない。
無口になった軽兵衛の顔が青ざめていた。
本人にとっても、これが恐らく初めて知らされた事実なのだから、仕方もない。
扉は一応閉まっているが、
鍵のあった部分が強引にこじ開けられた跡が明らかに残っている。
「開けろ」
矢口が言った。
もはや抵抗しても無駄と思ったのか、軽兵衛が呆然と五番目の蔵の扉を開ける。
湿気で黴の臭いが漂う蔵の中は、一見、何もおかしなところが無いように思えた。
中の品が最近急に大量に運び込まれた様子も、運び出された様子も無い。
「副長」
一人の隊士が言った。隊士は床にしゃがんで何かを見ている。
「灯りを」
矢口に言われて他の隊士が灯りを照らすと、
いかにも硬い物を慌ててぶつけたために出来たような新しい傷が、
その床の周辺にだけ大量についている。
「せーのっ」
吉澤の掛け声により、数人の隊士に持ち上げられた床板の下には、
蔵の底の更に下へと続く階段があった。
「地下か」
矢口が軽兵衛を見た。
青ざめたままの軽兵衛は、何も答えなかった。
蔵の下に隠されていた部屋には、
壁に備えつけられたいくつかの灯りと、
どうでもいいような空箱や木屑を残して何も無かった。
しかし、壬生娘。組や見廻組のような組織に在籍するような人間には、
一歩足を踏み入れただけで、それが何の部屋であったかすぐに分かった。
鉄の臭いがする。
先程まではここに存在していたであろうそれの、鼻をつんと突く刺激臭が充満している。
「これは……」
斉藤が呟いた。紺野にも分かった。
(火薬……)
「てめえ! 武器を隠してやがったな!」
小さい矢口が大きい軽兵衛の胸倉を掴み上げた。
壁と床に染みつき、滲み出る臭いと、辺りに残る跡からすれば、並の量ではない。
「戦争でもおっぱじめる気か」
普段は余裕のある吉澤もさすがに顔色を変える。
もちろん、これほどの量の武器所有は幕府に認められていない。
「どこに隠した!」
「し、知りません」
「しらばっくれるか!」
「ほ、本当です。私にもこれは寝耳に水で」
「てめえ!」
「矢口さん」
紺野が口を挟む。
恐らく軽兵衛も本当に、ここにあったはずの武器がどこに消えたのか分からないのだ。
恐らく、隠し持っていためざまし屋も意図しない形で、騒ぎに乗じて武器が盗まれた。
「……ふん。囮かよ」
矢口が吐き捨てるように言った。
「めざまし屋の番頭と主人を拘束! 局長を呼べ! 近くにいる組頭連中もだ!」