霧のように細かい雨粒を一閃する、横からの鋭い薙ぎ打ちだった。
打ち込みの速さはあの石川を凌ぐ、と藤本は感じた。
目の前に立つ里田に、あの色の黒い女――おとめ組副長の姿が重なったのは偶然ではない。
同門か、或いは共通する体術を基幹としているのか、剣筋がよく似ている。
以前、監鳥居組と石川には関わりがあったというから、
或いはそこに由来するのか。
石川のように躍動的な、体全体を使った鞭のごときしなりこそ少ないが、
長い手足から繰り出される剣撃の間合いは広く、鋭い。
単純な身体能力だけならば、恐らく石川を上回るだろう。
藤本は雨にぬかるんでゆるくなった土の上を、意識的に大きく歩幅をとる。
「そうだ。あたしには気をつけたほうがいい」
里田は嬉しそうに言う。
思えば、所司代組屋敷において藤本が嗅ぎ取った血の臭いにいち早く呼応したのも里田である。
木村、斉藤が動くより前に、一人だけが迅速に動き出した。
里田の肩口の先、雨の向こう、
小路の奥にその監鳥居組の二人が姿を消していく。
「気になるかい?」
「仲間を逃がすか」
「はっ」
里田は笑った。
「関係ないね。あんな連中」
「あんたらのせいで、することがなくなっちまったから、
気まぐれにあいつらでも斬ってやろうかと思ってたんだけどさ」
藤本は瞬時に意味を理解した。
「お前も旧監鳥居側だったか」
「元に戻っただけよ」
里田が鋭く上段を打ち込む。藤本は体捌きで横に躱す。
着物の裾からすらりと長い里田の足が覗く。
一見すると鳥のように細いが、
それが鍛えぬかれた強靭な筋の束であることが藤本の目にはわかる。
「でも、もうどうでもよくなっちまった。あんたみたいなのと斬り合えるならね」
里田はまた嬉しそうに目を剥き、口を開け笑う。
所司代組屋敷において、木村の下で淡々と報告をしていた時とは明らかに様子が違う。
瞳に恍惚の色が浮かんでいた。
里田は藤本の右の腕にめがけて上から振り下ろす。
藤本は摺り足で半歩左に体を躱し、刀で受ける。
金属と金属が弾きあう音も消えぬうちに里田は刀を切り返し、
反対の左腕から左胸にめがけて再び振り下ろす。
藤本も再び摺り足で半歩右に体を躱し、刀で弾く。
すかさずそのまま藤本の頭上に切っ先が伸びる。それをまた刀で受ける。
速さに圧される。
藤本の摺り足に押し出された足元の水が左右に散り立ち上がり、
両脇の家屋の湿った壁を更に濡らす。
「足りないんだよ。あいつらじゃあね」
四度の打ち込みで、主導権は完全に里田に握られていた。
一撃目、すれ違いざま振り返った勢いの横薙ぎに藤本は瞬時の抜刀で応えた。
二撃目の上段、藤本は里田の長い手足から繰り出される思った以上の切っ先の伸びに、
下がる歩幅の修正を余儀なくされ、返しの一撃を放つ体勢を保つことが出来なかった。
三撃目、間合いを見切った藤本は、
自分の右腕にめがけて振り下ろされてきたそれを半歩横に躱し、
そのまま横向きで、空振りした眼下の里田の、
布製の手甲に覆われた小手を両共々斬り落とす心づもりだった。
だが、横に躱したはずの切っ先が傍でさらに伸びてくる。
里田の間合いを一度は見切り、歩幅を大きめに修正していたにも関わらずである。
軌道を変え、腕から胸にめがけて里田の剣が切り込んでくる。
藤本は咄嗟に、反撃を窺って前めに構えていた柄頭をぐっと懐に引き寄せ、手元で受けた。
その瞬間、藤本の反撃の機会は失われた。
里田は瞬く間に刀を切り返し、
反対の藤本の左腕から左胸にめがけて再び振り下ろす。四撃目。
藤本は成す術なく摺り足で後退し、刀で受ける。
手元から更に伸びてくる切先と、反撃の隙を与えない切り返し。
恐るべき身体能力である。
里田は、にかりと口を開けて言った。
「さて、あんたはどうかな」
「ホラ! ソラ!」
子供が鞠を弄ぶように、里田は藤本の体を右へ左へと振り続ける。
主導権を握られた藤本は後手後手に回り、
その長い手足から繰り出される連撃をただ受け続けるしかない。
しかし、藤本に焦りは無かった。
いいように体を振られながらも感じていたのである。
この女の剣は速い。だが、体を斬り裂こうとしてこない。
間合いの伸びに比して、思ったほど剣が内に斬り込んでこない。
まるで、斬ることを目的とせず、
ただ刀が相手の体に触れさえすれば勝ちと言わんばかりの軽い打ち込み。
それに近いものを藤本は知っていた。
――竹刀による打ち込み。
藤本にとっては壬生娘。に入り、仕合の剣を交じあわせることでよく知ることになった剣である。
泰平の世の中で様式化し、実戦性を失いつつあった剣の、もう一つの道であった。
泰平の世は剣術にとって革命の時代であった。
実戦の場を失いつつも武士のたしなみ、
有様としてその存在意義を求められ続けてきた剣術は、
自ずと実戦とはかけ離れた部分での様式化が進み、
見た目の華麗さ、あるいは形式、精神論などが大きく幅をきかせるようになった。
当然、そういった傾向に反発する声、考え方も剣術家の中には多くあり、
それらは頑なに実戦を意識した厳しい鍛錬を是とし、
刃を潰した真剣や木刀による激しい打ち込みによる鍛錬を続けた。
しかし自然、そのような鍛錬には大きな怪我や死人が絶えず、
それはいかにも泰平の世に人々が求めるものにはそぐわない。
様式か実戦か。
そのせめぎあいが続く中、竹刀は剣術の歴史に登場した。
四つ割りと呼ばれた。
その竹の切り出し四本を筒状に束ねた刀は軽く、危険も低く、
専用の防具と共に、瞬く間に剣術道場に広がっていった。
実戦性を重んじる欲求と、怪我を避けたい心情を、
竹刀の登場は同時に満たしたのである。
だが竹刀と防具の登場は、怪我、死人を大幅に減らしたが、
同時に「斬る」よりも「打つ」という、斬り込みの軽さという弊害をもたらした。
剣術の潜在的な競技化である。遊戯化と揶揄されることもあった。
無論、見た目の華麗な技ばかりに囚われ、
型の修得にばかり傾いていた時の鍛錬法が、
竹刀の導入によって再び実戦的な方向へ揺り戻したことであるとか、
誰も常日頃から真剣での斬り合いと変わることなく打ち込むことを各々心がけるとか、
竹刀と防具の使用による功罪について議論はあったが、
何は無くとも当てる技術の優れた者が優勢となる仕組みと、
しょせん死と隣り合わせではないという抗いがたい根底の心持ちは、
自ずと「斬るべし」といった作為的な精神論を駆逐し、
町道場の隆盛と共に広がる剣術の指南は、実戦の斬り合いとは確かに質を変えていった。
実戦でも形式でもない、第三の剣である。
里田の打ち込みは、そういったものを連想させた。
「ハアッ! ハアーッ!」
それを自ら証明するかのように、里田はまるで遊戯のように、嬉しそうに、
軽い剣で藤本をつつきまわし、楽しんでいるように見えた。
雨粒は霧のように細かくなっていた。
さああと音無き音がおとめ組屯所全体を包み込む。
ぽたり、と、軒から滴が垂れた。
「阿佐……の?」
「へえ」
紺野の呟きに男が答える。
(……阿佐?)
紺野の思考が混乱する。
命を狙われていたのはよゐこのほうではなく、阿佐藩士だったというのか。
よく分からない。あの阿佐藩士たちが一体何を。
「あさ美ちゃん」
とその時、後ろから声を掛けられる。
振り向くとそこに、傘を差した新垣が立っていた。
「巡察まだいいの?」
「あ、……うん」
もう、小川のところから帰るところらしい。
用事があると言って出て行ったはずの紺野が、
まだここにいるのが不思議といった様子だった。
「あっ」
紺野は横目で、まだ男たちがいることに気がつく。
「じゃあ、大方のことは分かりました。後はこちらで何とかしておきますから。
また聞くことがあるかもしれませんけど、ありがとう」
「は、へえ……」
紺野が微妙な笑顔で微笑みかけると、
男たちは不審ながらも場の空気を察したのか、そのまま仕事場に戻っていった。
「どうしたの?」
新垣が首を傾げる。
「ううん。ちょっとね、あの人たちに仕事を頼んでいたんだけど、
屯所の建てつけが悪いところがあるって、わざわざ教えに来てくれたの」
「……ふうん」
新垣は分かったような分からなかったような顔で、男たちが去っていった方向を見つめる。
咄嗟に隠してしまった。
まだ何の確証も得られたことではないから、新垣に話すには早いと思ったからだ。
それに、矢口のことがまだ引っ掛かる。
たとえ些細なことであれ、仲間内でいたづらに疑心を広めたくはない。
「どうかした?」
「ううん?」
細かい雨粒の降る、暗い空を眺めたままの紺野を心配したのか、新垣が言う。
「……そういえばさ。カラはまだあるの?」
「何?」
「カラだよカラ〜。前に言ってたじゃん。こう、さ」
新垣は空に向かって、そこに目には見えない何かがあるように、その表面を手で触る。
「ああ……」
そう言えば以前、新垣には話したことがあった。
普段とぼけている割に、妙なことはよく覚えているのだ。この子は。
目の前にある、ぼやけた膜のように漠然と、自分と外を隔てているもの。
それは殻のように堅い。
「里沙ちゃんはどうなの?」
たしかその話をしたとき、新垣も何かに悩んでいたはずだ。
よゐこの捕り物にしくじった時だったか。
「うん、まあ。ぼちぼち」
「そう」
暗い空を見上げる。紺野の目の前に、それはまだある。
里田の剣は軽い。
打ち込みは確かに速く、反撃の隙こそ見つけることはできないが、
死を感じさせる殺気のこもった剣はない。
竹刀のように軽く、稽古のように単調な里田の剣は、
ただ受け続けるだけならば藤本にとって、そう難しいことではなかった。
しかしそれとは別にまた、藤本は少しずつ、
得体の知れない予感に自分が包まれていくのを感じていた。
何かが辺りを覆っていく。真綿で首を絞めていくかのように、徐々に。
正体は分からないが確かに何かがある。そんな予感がしていた。
「わかるかい? この世に人より強い生きものはない」
里田が脈絡の無い問いかけをする。
突き。
速い。
軽い分、剣の引きも速い。
避ける藤本の足元で、ぬかるんだ地面からしぶきが上がる。
里田が恍惚とした表情でにかりと口を開ける。
「あたしだ」
藤本は少しずつ、着物の裾がしぶきに濡れて、足運びが重くなっていくのを感じていた。
(わざとか?)
疑いが生じる。
もしや、わざと避けられるぎりぎりの間合いを取らせている?
里田の剣が右に振られる。藤本は左に避ける。
再びしぶきが上がり、金属と金属が弾けあう音が響く。
左に振られる。右に避ける。
藤本の胸の鼓動が速くなっていく。
気がつけば里田の足元はほとんど乱れていなかった。
いつの間にか、里田はその位置のままに、藤本だけが左右に激しく動かされている。
徐々に、呼吸が大きくなっていく。
藤本は鋭い眼光を里田に向ける。
「恐い。恐いねえ〜。野生の獣は恐い。
けどね、どんなに狂暴な獣だろうと、最後には人に狩られる。何故だか分かる?」
また、里田が脈絡の無い問いかけをする。
揺さぶられている。
自分の動きは最小限に、相手だけを大きく振り回す。
そういった技術的思想は吉澤の操る柔術にも通ずる。
胸が早打つ藤本をいらつかせるように、
里田の剣先が小刻みにゆらゆらと揺れている。
「獣には爪と牙がある。けどね……ハァー!」
不用意な一撃だった。
里田の切っ先が右の小手を狙う。
藤本は手を引く。
踏み込んだ里田の裾から覗くすらりとした足に、筋が浮かび上がる。
空振りした刀を強引に上に切り返してくる。
藤本は半歩下がりそれを刀で受け、腰から体ごと押し返す。
体勢の悪い里田の体が上向きに後ろに下がり、僅かに泳ぐ。
強引すぎた。
はじめて里田が見せた隙らしい隙だった。
藤本は迷わず前に出、里田の泳いだ上体に突きを構えようとする。しかし。
よろけた里田の目の前にある水溜りに踏み出した瞬間、左足を激痛が襲った。
それまで里田の足元にあったそれは、
ずっとそこにあったがゆえに、藤本に警戒を怠らせた。
思えば里田は、その水溜りに一度たりとも足を踏み入れていなかったかもしれない。
しかし気づいた時には既に遅かった。
五寸釘ほどの太さの棘を縦横に突き出した拳にも満たない大きさのそれは、
藤本の足の裏から甲を貫き、凶悪な刃(やいば)を天に向け、水面から覗かせていた。
(菱(ひし)か)
激痛に痺れる自分の左足が、
踏みとどまる力を持てず横に滑っていくのを感じながら藤本は思った。
里田はあらかじめ、自らの足元の水溜りの中に、
その凶悪な刃をひそませていたのである。
「人には技と、知恵がある」
霧のように細かい雨粒の降りしきる中。
既に返しの突きを構えた里田が、にかりと口を開いた。
里田は、あらかじめ足元に仕込んでいた菱を完璧な足捌きで隠し通し、
完璧な状況で藤本に踏み込ませたのである。
水溜りはくるぶしも埋まらない程度の深さだった。
しかし、里田にさんざ振り回され、足に疲労を蓄積させ、息を乱し、
更にはしぶきに裾を濡らし重く鈍らせた藤本の体勢を崩すには、
十分すぎるほどのぬかるみと、そして痛みだった。
崩れる体勢を戻せない。
足の痛みと疲労だけではない。
単調な横への揺さぶりに体が慣らされ、一種の「酔い」をも生み出していたのである。
一瞬解かれた警戒、意に反して流される体。
二重三重に掛けられた、戦術の罠だった。
それは、藤本の斬り合ってきた幾多の剣とは、全く異質の剣だった。
防具と竹刀の導入は、
怪我と死人を大幅に減らすかわりに斬撃の軽さを確かにもたらしはしたが、
同時に、打ち合いの多様な変化を剣術にもたらした。
それはそれまでの実戦第一主義に多く見られた、
命を賭けた一撃必殺のような斬り合いとは全く異質の、
より精緻な、詰め将棋の如く論理的な技術体系だった。
一見何のかかわりも持たないような初期の一手が、最終局面で重要な役割を果たす。
兵法においては古代から普遍的に存在する価値観ではあったが、
現実の一対一の斬り合いの中では一撃の強力さが何よりも優位であり、
数回の斬り合いによって負傷、或いは生き死にが決定するような状況では、
精密な戦略性などは絵に描いた餅であることが殆どであった。
だが、竹刀の導入により死の危険から遠ざけられ、
剣術の鍛錬が打ち合いの技術向上に特化されていく過程で、
その技術体系はより精緻さを高め、幅を広げ、
実戦に帰納されるまでに洗練されていった。
無論、そもそも里田の並外れた打ち込みの技術と、
実戦への応用力が無ければ成せぬ技ではあった。
あたかも優れた職人の拵(こしらえ)が、
髪の毛の一本も入る隙間無く、かちり、とはまるように。
揺さぶりに慣らされた体、引く間合いの長さ。
藤本の足運びの癖、疲労、警戒の解かれる瞬間。
全てが計算し尽くされていた。
それは恐らくはじめての、殺気のこもった剣だった。
「ケヤァー!」
藤本の眼前に重い突きが迫る。
痛みの走る左足はぬかるみに取られるまま横に滑り、
藤本の上体は里田の切っ先に向かって傾くことを止めない。
足の甲から血が噴き出し、泥に濁った水溜りの中に混じっていく。
ふっ。
しかし。藤本は鋭い呼気を放つとともに足を止めることを放棄し、
そこから逆に上体を、迫り来る剣に向かって更に突き出した。
意外な行動に里田の動きが一瞬鈍る。
鈍った刀が藤本の顔面を突ききる直前、
藤本は自らの顎にかかった笠の紐に手を触れ、紙一重で頭を下げる。
切っ先が額の髪の生え際をかすり、ちっと微かな音を立てる。
だが藤本は全く表情を変えず、そのままぬかるんだ地面に片手をつき、
躊躇することなく自らの体を前に転がした。
剣の常識では考えられない行動だった。
里田の突きが、主を失った藤本の笠を貫く。
逆さに背を向ける藤本の全体重はそのまま里田の足元を巻き込み、引き倒した。
二人の体がぬかるんだ地面の水を勢いよく跳ね上げ、二人は泥にまみれる。
「くあっ!」
動転する里田をそのままに、藤本は転がった勢いですぐさま一人立ち上がり、
下段から里田の顎に向かって切っ先をすくい上げる。
「ひっ!」
里田は腰を落としたまま、すんでのところで上体を引き、躱す。
里田の笠が刀にすくい上げられ、雨の空に飛ぶ。
藤本は力を入れた勢いで血の流れ出る左足に少しも表情を変えることなく、
間髪入れず眼下の里田にめがけて刀を上段から振り下ろした。
きいん。と、硬質の金属同士が弾きあう音が響く。
「人斬り……」
低い体勢のまま里田は呟く。
地面につかっていた腰は既に浮き上がり、
素早くたたみ込まれた長い足はいつでも立ち上がれる体勢に戻っている。
ふ、ふ、ふ、と笑い声が漏れる。
堪えようにも堪えきれない。そんな笑いだった。
地面に転がる里田の刀が、貫いた笠と共に雨に打たれている。
「……いい」
里田の額から、つうと一筋の血が流れ落ちた。
藤本の上段からの振り下ろしは、額を割りきる寸前で里田の右手甲によって止められていた。
からん、と手甲が割れ、地面に落ちると同時に里田の右手首から血が噴出す。
「くっ」
顔を苦痛にゆがめ、後ずさる。だが、
「いいよあんた! 考えられない! やっぱり聞いていた通り、生まれながらの人斬りだ!」
まるで斬られたことが喜ばしいことであるかのように里田が叫ぶ。
しかし興奮する里田とは対象的に、藤本の瞳は驚愕に大きく開かれていた。
柄に残る、この、手甲の感触。そして藤本の上段を受けきった瞬時の踏み込み。
たとえどんなに堅い手甲であろうと、渾身の上段を正面から簡単に受けきれるものではない。
止めるには、斬るための最高の点を外し、力を受け流すための前への踏み込みが必要なのだ。
この動きに、覚えがあった。
おぼろげな意識の中でも、藤本の心に深く刻み込まれたあの時の。
“あれ”と似ていた。
全身が雷に打たれたように痺れる。
「貴様……能面か!」
藤本は叫んだ。
「おじさ〜ん」
明るい声と共に、ばしゃばしゃと雨の中を走る音がする。
「あ、紺野さ〜ん。塾長〜」
その声は紺野と新垣の姿を見つけると、笑顔で近づいてきた。
田中れいなだった。
「あ……」
新垣が気まずそうに黙り込む。
「傷はもういいの?」
遠慮がちに紺野が訊く。
詳しい状況は聞いていないが、
田中の怪我が矢口によって斬られたものだということは伝え聞いている。
「はい! もう大丈夫です!
それよりお二人揃ってどうしたんですか? おとめの屯所で」
「うん、麻琴の見舞いにね。田中ちゃんこそ、どうしたの?」
「おじさんにちょっと用事あったんですよ〜」
「おじさんたちなら、あっちに行ったよ」
「あ、ありがとうございま〜す!」
「……なんか。変わったね、あの子」
裾を持ち上げ、ばしゃばしゃとしぶきを上げながら走り去っていく田中を見て、
紺野が呟く。
あの日以来の田中は、確かに以前の田中とは違っていた。
「うん……」
「どうかした?」
田中を見つめる新垣の横顔が、どこか不安げに見えた。
「ううん」
新垣は首を振り、ぽそりと呟く。
「みんな少しずつ、変わっていくんだね」
「うん? まあ、麻琴もなんか、変わったしねえ」
「あれは、ねえ……」
「……里沙。どうかした?」
「ううん」
とその時、屯所の門から一人の平隊士が飛び込んできた。
「大変だ!」
全力で走ってきたらしい。傘も差さず、全身が雨に濡れて乱れている。
「どうしました?」
「あ! 紺野先生、新垣先生! ひ、人斬りです!」
「どこ!」
新垣が鋭く反応した。
「鴨川のほう、御池通りの近くです!」
「浪人同士のいざこざですか?」
「いえそれが! と、とにかく来てください!」
「わかった! 案内しろ!」
新垣が叫ぶ。
「こっちです!」
紺野と新垣の二人は、平隊士の後を追って雨の中を走り出した。
「へえ……」
膝を地面についたまま、里田が驚いた顔を見せる。
それまで少しも表情を変えなかった藤本が、突然感情を露わにしたのが意外だったらしい。
二人共に、ぬかるんだ地面を転げまわったために全身が濡れ、泥にまみれている。
「答えろ!」
「さあな。あたしを斬ったら答えてやるよ。もっとも――」
里田はよろけ、後ずさりながらにかりと口を開く。
「斬ったら答えられないけどね。あーっはっはっはっは!」
額と、右の手首から流れ出る血は止まっていない。
「すごいよあんた。……美しい!
人を殺すためだけの技。人を殺すためだけの人間。聞いていた通りだ!」
恍惚とした表情で里田が叫ぶ。
端から泡を飛ばさんばかりに口を開く。
もはや、口で訊いても答えはしまい。
そう思った藤本は、素手の里田に向かってすうと『独り舞台』を平正眼に構えた。
無論、このまま殺すつもりは無い。
しかし本気の殺気を込めた、脅しの突きの構えである。
あれだけの奇策を弄してきた相手である。まだ何か隠し持っていないとも限らない。
「いい刀だ。まさかあたしの手甲を割るとはね。
一度くらい、あたしも振ってみたいもんだよ」
そんな藤本の心中を見透かしているのか否か、
里田はまるで命を諦めているかのように、余裕の笑みでそれを見つめる。
手甲を割っても刃こぼれひとつしていない『独り舞台』の切っ先が、
まっすぐと里田の眉間に向く。
二人の視線が合う。里田の顔から、表情が消える。
「ああ、あんた。いつかその刀に喰われるかもね」
里田がそう言った矢先である。
近くで叫び声が上がった。
一人や二人ではない。
何軒かの家を挟んだ先で、怒号の如く多くの叫び声が上がった。
「逃げろぉー!」
「た、助けて!」
「誰かー!!」
「何だ!?」
「いいから逃げろ! 殺されるぞ!」
それから間も無く。泣き叫び、走る人の群れが藤本たちのすぐ横の小路に現れた。
女、男、子供、老人。みな、わき目も振らず、背後の何かに恐怖し、逃げていた。
地面の水が勢いよく跳ね上がる。足をとられて転ぶ者もいる。
様子から見ても藤本たちのことではない。
彼らはもっと、何らかの巨大な恐怖から逃げている。
それは大火に逃げ惑う人々の姿にも似ていた。
その隙をついて里田が素早く、藤本の笠を貫いたまま地面に落ちていた自らの刀を取り、
躊躇わず投げつけてきた。
そのあまりに無造作な攻撃を藤本は刀で弾き返す。
霧雨に打たれた笠が、一瞬奇妙な動きで藤本の視界を遮る。
笠が地面に落ちたとき、里田の姿はその場から消えていた。
「ちぃ!」
藤本は消えた後を追い、小路の交わるところに出る。
しかし、大通りの方向から逃げ来る人の群れが、完全に里田の気配を消していた。
立ち止まった左足に、忘れていた痛みが蘇る。
どく、どくと脈を打ち、足の甲から泥水の中に赤い血を溢れ出さしている。
鋭い刃が、足の甲から頭を覗かせていた。
「く……」
突き刺さった菱をそのままに、藤本は足を引きずりながら里田の姿を群れの中に探す。
群れの流れに逆らって人影を追う。
足がもつれ、迫る人の群れにことごとくぶつかる。
体を反転させ、群れの流れに合わせて姿のいい女の影を探す。しかし、いない。
足に蓄積した疲労と、雨を含んだ着物の重みと、痛みが、藤本をよろけさせる。
「祭りの日は近い」
不意に、群れの中から低い声が響く。
はっと辺りを見回す。だが里田の姿は無い。
群れのどこから発せられたか分からない。
逃げ惑う人々の叫びに反して、藤本の耳にだけその声は響く。
「また会おう。人斬り」
そう言って声は途絶えた。
(……祭り?)
人々の声が遠くに聞こえる。
彼らが叫び逃げ惑う中、藤本はただ一人、里田と斬り合った場所に戻り、その場に立っていた。
一本の刀と、二つの笠と、割られた手甲の欠片が、ぬかるんだ土の上で雨に打たれていた。
藤本の手にある『独り舞台』から、つうと雨の滴が流れ、
切っ先からぽたりと落ちる。
――人斬り。
そう呼ばれたのは、いつの日以来か。
霧のように細かい雨粒が降りしきる中、藤本は独り、その場に立ち尽くしていた。
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紹介に関してですが、ご自由にどうぞ。
一応、名称等の権利的なこととか、本文中の誤った知識による被害等にはお気をつけください。
他の方々も、AAなんかまで作っていただいてありがとうございます。
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