不意に大粒の水滴が、ばらばらと頭上の枝葉から降りかかってくる。
強い風が吹いた。
身を潜めているために、既に閉じてしまっている傘を差し直すことも出来ず、
紺野はただ身を固くして水滴に打たれる。
藤本に口を押さえられたまま。
藤本は同じ水滴に打たれながらも、身動き一つしない。
紺野は背中の濡れた薄い生地の向こうに藤本を感じる。
何故か頬が赤らむ。
雨脚が強まっていた。
視線の先の、神社の境内の前に立つ矢口と監鳥居組の木村と斉藤の姿さえ、
正しく把握することが出来ない。
矢口と二人は対峙し、何か言葉を交わしているように見える。
しかしその内容は雨音にかき消されて聞き取ることはままならない。
それでも紺野は、降りかかる雨に目を曇らさせぬよう何度もまばたきを繰り返し、
必死に耳を傾ける。
「…………」
「……。……」
「……」
「…………」
三人は直立したまま、ほとんど動かないでいる。
微妙な距離感を保っている。
激しく言い合っているようにも、親しく歓談しているようにも、
ここから見るかぎりでは思えない。
ただ、何らかの張り詰めた空気が両者の間に漂っていることだけは感じ取れる。
(あ……)
突然、木村より半歩後ろにいた斎藤が膝を折った。
そのまま身を沈め、雨に濡れて泥の浮く地面に、無造作に手をついた。
様子がおかしい。
(え?)
紺野には何が起きたのかわからなかった。
向き合う矢口が何か、特別な動きをしたようには見えなかった。
どちらも刀など抜くそぶりは見せていない。柄に手を触れてさえいない。
斉藤が、ただ一人で、勝手に膝をついたように見えた。
全てが雨の強い音にかき消されている。
「…………」
背中の藤本も、黙って成り行きをうかがっている。
そしてやがて、木村も斉藤に続いて矢口の前に膝をついた。
頭(こうべ)を垂れ、両手を濡れた地面についていた。
高下駄を履いた小さな矢口の前に、まるで自らひれ伏すかのように。
不思議な光景だった。
紺野には矢口が一体何をしたのか、まったくわからなかった。
さああ、という音と共に雨脚が急速に弱まっていく。
それはまるで、今の出来事の瞬間だけを覆い隠していた豪雨の幕が、
その終演と同時に勢いよく開かれていくかのようだった。
「…………」
何事かを二人に告げると、
膝を地面につき、どこか苦しそうにしている二人をそのままに、
矢口は一人で、元来た石段のほうへと消えていった。
紺野はぼうっとその光景を見つめていたが、
やがてはっと気づき、後を追おうと立ち上がろうとする。
しかし、それは後ろからの強い力に押さえつけられた。
「お前はもう帰れ」
紺野の口元から手を離し、藤本は一人だけゆっくりと立ち上がった。
たしかに、丑三探索の任を負う紺野に矢口の動向を探る理由はない。
それは監察方である藤本にこそふさわしい役割なのだろう。
しかし、これだけあからさまに怪しい光景を目の当たりにして黙っていられる筈もない。
相手はあの、所司代組屋敷での会見において矢口を内通者として名指しした監鳥居組と、
その矢口本人なのだ。
自分も関わりがないわけではない。
紺野はなんとか抗弁しようと口をぱくぱくとさせる。
が、次の藤本の言葉ははっきりとそれを拒否していた。
「あんなものは尾行とは言わない」
その言葉に、紺野は何も言い返すことが出来なかった。
烏丸通りを南へ下っている。
先ほどの豪雨で皆家に入ってしまったのか、
あの後、一時は晴れ間も見えそうなくらいになったのだが、人の通りは少なかった。
路の端を、紺野は一人で歩いていた。
足はそのまま壬生娘。組の屯所へと向かっている。
藤本に言われた通り、素直に帰りの途についているのであった。
あの後、すぐに藤本の姿は紺野の背後から消え去っていた。
紺野はそのまま、神社の境内を振り返ることもなく、屯所へ足を向けた。
矢口を追えないならせめてもう一度、六角牢に立ち寄ろうかという考えも浮かんだが、
先程までとは違い、何の根拠もないことに労力を割けるほどの気力はもう沸かなかった。
藤本の言葉は、紺野が藤本の後をつけていた事に対してのものだった。
当然、藤本は紺野の尾行に気がつき、意識的に撒いていたのであろう。
恐らくあの状況から言って、尾行を撒いた藤本は、逆に自分の尾行についたのだろうか。
いや、もしかしたら。
(藤本さんも矢口さんを追っていたのかもしれない)
意図的に自分に矢口の後を追わせ、さらにその後を藤本はつけたのか。
もし自分が矢口に気づかれたとしても、藤本の存在までは矢口には知れない。
仮に想像は出来たとしても確証までは持てまい。
藤本の尾行に自分は利用されたのか。
しかし、利用されたと知っても紺野の内に怒りは湧かなかった。
怒る理由もないと言ったほうが正しいか。
力の足りない自分が力のあるものに利用されただけと、妙に納得してしまう。
元々、感情が薄いとは人によく言われる。
また雨脚が強くなり始めたので、紺野は携えていた傘を差し直す。
天候は未だ安定しない。
五条の大通りに出ると、さすがに人も増える。
延々と連なる店先の軒下には、雨宿りをする町人もまばらに見かける。
雨が降るなどとうにわかっていたことだろうに。と、何となく思う。
そういった人々の浅慮さが、紺野には今一つ理解できない。
このところ雨が多い。だから傘を持ち歩く。
そんな当たり前のことしか紺野には思い浮かばない。
すると、そんな中に一人の少女の姿を見つけた。
困ったように、しきりに軒下から空を見上げている。
姿からは、それが壬生娘。組の組長であることなど想像もできない。
新垣だった。
片手になにやら荷物を持っている。
傘は持っていないようだった。
「里沙ちゃん」
「あさ美ちゃ〜ん!」
声をかけてみると、新垣の顔が面白いくらいわかりやすくぱあと明るくなった。
渡りに船とは正(まさ)しくこういうことなんだろうと、紺野は思った。
「何してるの?」
「麻琴のところにお見舞い買って行こうと思ってさあ」
手にした荷物を目の前に上げる。
どうやら仕事の合間を縫って、わざわざ小川の見舞いを買いに来たらしい。
「そうだ、あさ美ちゃんも一緒に行く?」
「局長のところは、もういいの?」
「うん……。出かけちゃったんだよねえ……」
新垣は、置いていかれた小犬のようにしょんぼりとする。
半分は、このところいつも安倍の傍にくっついていることへの嫌味のつもりだったのだが、
どうも新垣には通じていないような気がする。
新垣の「八」の字になった濃い眉を見て思う。
紺野はこのように、言葉にひそかに毒を仕込んだりすることがよくある。
もちろん相手は選ぶが。
特に意味はない。悪意もそれほどない。性格のようなものだ。
そして大抵の人は、この毒に気がつかない。
紺野も、気がつかれたいとは特に思っていない。
「傘は持ってこなかったの?」
「うん」
「なんで?」
「いや、何とかなると思って」
「何とかならなかったらどうするの?」
「でもほら。なんとかなったし」
「……いいの? それで」
顎に人差し指を当て、一旦考えるふりをする。
一応、真剣に考えはするのだ。この娘は。
「ん。いいんじゃないの?」
「いいよね。里沙ちゃんは気楽で」
「ええ!? そんなことないよ!」
新垣は紺野の言葉を予想もしていなかったとばかりに、大きく眉を吊り上げた。
「宇多藩(うたはん)じゃないのか」
僅かな思索の後、矢口の口から出されたその藩の名に、
加護はむしろ驚かされた。
「宇多藩ですか?」
隣の吉澤が聞き返す。
「調べたか?」
「いえ」
「ならば当たってみろ」
正午も過ぎた頃。
三人は不動堂村壬生娘。さくら組屯所の座敷で向かい合い、座っていた。
加護と吉澤が所司代組屋敷での検分を終え帰ってきたところ、
反対側から同じように帰ってきていた矢口に鉢合わせし、共に座敷に上がった。
(ちょうどいい。報告を聞こう)
そう言った矢口に、吉澤共々、加護はついてきたのである。
「今、大砲技術と言えば宇多藩だ」
「そうなんですか。そう聞くことはありますが」
「おいらも最近知った。やっぱり、おいらたちには知らなかったことが多すぎたらしい」
矢口の表情は変わらないが、逆にその変わらなさに、矢口の悔しさが滲み出ている。
「異国の精錬技術を取り入れた宇多の武器鋳造能力は、今、相当なものだそうだ。
たいせーには聞かなかったか?」
あの、野砲を楽しそうに眺めていた坊主のことである。
「いえ、特に」
吉澤が答える。
「あの野郎、日和見しやがったな」
矢口が鼻に皺を寄せた。
宇多藩。
藤州、読瓜、阿佐などに比べるとあまり目立たないが、
いわゆる西南雄藩の一つに数えられる。
幕府が慢性的な財政難に陥る中、
他雄藩の例に漏れず大規模な藩政改革に成功し、着実に力を蓄えてきた。
宇多藩の特徴は筆頭家老の秋元康に代表されるように、
後追いもありながら貪欲に他藩の成功例を取り込み実直に技術力を積み上げてきた、
豊富な発想力と、その粘り強い藩気質にあると言われる。
藩主の鈴木慎治は中央の幕政に関心を持たなかったため、
他藩主に比べ全国的に名こそあまり知られていないが、
正しく藩気質の体現であるような、その飽くなき探究心と粘り強さから、
宇多藩独自の技術力、理化学向上に多大な功績をもたらし、
名君「化学君」と藩内では称えられる。
この動乱の中、それだけの近代的軍備を有しながら、
未だ倒幕、佐幕いずれにつくか態度をはっきりさせようとせず、
しかし尚、新たな人材を貪欲に取り入れ、再び大規模な改革の方向を探っているとの話もあり、
この腰の重さと、大胆な開明性を併せ持つところは、
やはり藩気質に由来すると言えよう。
「じゃあ、お前ら二人はこのまま野砲の事に当たれ」
「あの、丑三のほうは」
加護が口を挟む。
「そっちはいいや。こっちで回す」
矢口はいつも以上にてきぱきと話を進めていく。
その回転の速さに、加護はある種尊敬の念を抱かずにはいられない。
そして、矢口はあのことはもう引きずってはいないんだなとも思った。
飯田と、安倍との、あの所司代組屋敷に関するやり取りのことである。
上層部の余計な諍い事など無いに越したことは無い。
「あと、所司代組も使ってやれ、せっかく配下に入れたんだ。
監鳥居の木村麻美には話を通しておく」
「……あれ? 監鳥居組は謹慎ってことになっているんじゃあ」
「明日で解ける手筈になっている」
加護はその対応の早さに、さすが手回しがいいと思った。
よすぎるのではないかと不安を抱くほどだ。
「それと、問題は藤州のほうだな」
「藤州がどうかしたんですか?」
「報告によれば、領内の軍備増強が急速に進んでいるらしい。
せめて連中の武器調達経路をいくつかは見つけておきたい」
元々、独自の貿易経路がそれほど太くなかった藤州は、軍の近代化に遅れていた。
それがここ一年ほどで急速に近代兵器の配備がはじまり、一気に増強が進んだという。
昨年の幕府による藤州征伐が、いい結果をもたらすことが出来なかった背景には、
そういった原因もあったと言われる。
「軍備……ですか」
「そうだ」
「読瓜との、同盟が影響しているんでしょうか」
「だろうな。表向き武器の流通は幕府が監視しているが、
やつらもう、裏ではやりたい放題だろう。できればその根元を見つけ出したいんだが」
「京都じゃ限界がありませんか」
「もちろん、それは本来のおいらたちの仕事じゃないが、
滅茶勤王党の持っていた例の野砲が宇多藩と関係あるなら、
京都から探れるものもあるかもしれない。それはおいらたちでもできる」
「わかりました。では、そのあたりも含めて捜索を続けます」
黙って聞いていた吉澤が口を開いた。
「頼む。阿佐も既に読瓜と手を結んでいるという噂もある。気をつけておけ」
「はい」
屋敷の外は、また雨が降っていた。
加護には正直、まだわからないところがある。
知らないうちに大きな渦の中に足を踏み入れていた。そんな感覚だ。
話はわかる。が、実感はない。
自分たちが既に渦の端に足を踏み入れていることは知っているが、
その渦の大きさも、強さも未だ感じることができない。
あんな情報すらも、
幕臣となる以前の壬生娘。組では知ることもままならなかった。
矢口は既にそれを当たり前のように取り入れ、当たり前のように政事の話をしている。
きっと、それまでも内通者として藤州の笑犬隊などに潜入していた矢口には、
違和感のないことなのだろう。
しかしそれまで京の治安を守ることで精一杯の、
たかが一組長にすぎなかった加護には、
話が大きすぎてまだよく分からない。
ついこの間まで不逞浪士だ所司代だと言っていたのが、
そのまま同じ口調で、今は藤州だ軍備だと言っているのだ。
まるで規模が違う。
宇多藩という存在などはそれをよく表していて、
藩士の出入りに厳しく、「鎖国の中の鎖国」とも称され、
また、政治的態度もはっきりとしない宇多藩に身を置く藩士は、
京都の町で見かけられることがそう多くない。
確かに名の知れた雄藩の一つには違いなかったが、その割に、
京都で不逞浪士を取り締まることだけが目の前にあった加護には、
取り締まりの対象として、あまり縁の感じられない藩であった。
だからその名が矢口の口から自然に発せられた時、
加護は漠然とした違和感をおぼえずにはいられなかった。
藩、軍備、貿易。そんなことを平然と語り合うようなところにまで、
自分らは知らず足を踏み入れていたのだろうか。
時代を生き残っていくということは、
こうした違和感を何度も繰り返し経験していかなければいけないということなのだろうか。
ずっといつまでも、同じ場所にいつづけることなど、無理なことなのだろうか。
吉澤を見る。
隣で、降る雨を軒下から見上げている。
その涼しい横顔が実はまだ機嫌が直っていないことを、
付き合いの長い加護は知っている。
監鳥居組不在の流れで、所司代組屋敷からまだ行動を共にしていたものの、
二人の間には未だ気まずい空気が流れていた。
ぽたり、ぽたり、と。雨水を溜めた軒先から滴が垂れ、落ちている。
加護の心の底にじくじくとした、暗い、泥のような感情が溜まっている。
いつも穏やかな吉澤が、不機嫌であり続けるのは珍しい。
その不機嫌さが、自分の感じた政事の大きさに対する吉澤の気持ちから繋がるものなのか、
加護は理解する努力をできなくもなかったが、
それを理解することは吉澤の自分に対する不機嫌さも理解することになるのではないかと思い、
今の加護には、それを認めることはできなかった。
「よっちゃん……」
しかし、それとはまた別に吉澤を求める心も同時に加護の中にある。
「何」
顔を外に向けたまま、吉澤はぶっきらぼうに答える。
「これからどうする?」
「お前はこれから巡察だろ。自分の隊で好きにすればいいよ」
加護は泣きそうになる気持ちを、ぐっとこらえる。
「ちょっと出かけてくる」
その空気に耐えられなくなったのか、ぶっきらぼうなまま吉澤が言う。
「また東山に行くの?」
しぼり出すような加護の言葉に、吉澤の動きが一瞬止まる。
東山には高台寺、月真院という寺がある。
そしてそこには、壬生娘。を出て行った、あの人がいる。
吉澤が最近、頻繁にそこに出入りしていることを加護は知っていた。
壬生娘。組の規律に照らせば、それはあまり許されることではない。
「あんまり行きすぎると。梨華ちゃんも心配してるよ」
「……。今後の方針は夜に話し合おう」
吉澤は加護と目を合わせぬまま、軒下を出た。
加護はまた、こらえる。
「酷いなあ。それって、あたしは安倍さんが居ない間の暇つぶしってこと?」
少しふくよかになった顔を、言葉とは裏腹に嬉しそうにほころばせる。
寝床から上半身だけを起こして話す小川は、腰以外は順調に回復してきているようだった。
「そうだよ?」新垣が答える。
「ひゃー」
「嘘だよ嘘嘘」
二人の会話をにこやかに紺野は見つめる。
小川は、新垣の持ってきたお見舞いの山ほどの羊羹を次々と平らげる。
新垣は小川をからかいながら、笑い、会話を続ける。
小川も長く退屈していたらしく、新垣の話に楽しそうに耳を傾けている。
「さて……と」
そう言いながら、紺野は立ち上がり、横に置いておいた刀を腰に差し直す。
「あれ? もう行くの?」と小川。
「うん。ごめんね。これから午後の巡察とか、色々とやらなくちゃいけない事あるから」
「……ごめんね。あたしとか動けないから」
「あーいいのいいの。麻琴は名誉の負傷なんだから、いいんだよ」
「まあね〜!」何故か新垣が元気よく答える。
「あんたが言うなよ」
「私はもうちょっと麻琴の相手してあげてるよ、暇だから」
「あたしが相手してあげるんでしょ、豆」
「うっわ」
「なんだこのやろう」
紺野は二人に見送られながら、そっと部屋を出る。
せっかく来たおとめ組屯所である。
ならばついでにと、紺野には尋ねようと思っていた場所があった。
紺野には、密かに好意を寄せている人間がいた。
とは言え男女の恋愛のような、露骨なものとは違う。
かといって、ただの好きとも少し違う。
うまく言えないが、あえて言うならば、それは憧れに近かった。
新垣が安倍に対して抱いているようなものに近いかとも思う。
その人は今、小川と同じように所司代の一件以来体調を崩し、床に伏せている。
その人は、自分とはまったく違う人だった。
似ているところはたくさんあった。
よく食べる。よく泣く。よく倒れる。
同時期加入した隊士の中で、味噌っかすのような存在であったところも似ている。
しかしその人は、自分とはまったく違う人だった。
「おさむらいさん!」
と、軒伝いに屋敷の中を移動する途中で、紺野は男の声に呼び止められた。
目的の相手が部屋にいなかったので、少し心配になって辺りを探していた最中である。
見るとそれは、紺野が今朝がた突入した小屋に潜んでいた無宿者だった。
以前は六角牢で、わずかな仕事を貰っていたという男である。
後ろに仲間なのか、似たような汚い格好の男をもう一人連れている。
「ああ」
「おかげさんで、ほんとうに助かりました」
部下に言いつけておいた通りに、屯所で雇ってもらうことができたのか。
「どうですか、お仕事のほうは」
「ええもう、ほんとうにおかげさんで」
涙を流さんばかりの顔で男は手を握ってくる。
正直、身なりは汚く、臭く、触られて嬉しいものではなかったが、
拒否するわけにもいかず、戸惑いつつもただ男に手を握られるに任せる。
「それで、何か御用ですか?」
あまりに男が長く手を握っているので、紺野はまた言葉に毒を含ませる。
「ええ、ああ! こりゃ、こりゃすいません」
男が手を離し頭を掻くと、大量のふけがぱらぱらと地面に落ちる。
「じつはこいつが」
そう言うと、後ろの似たような男に目を向けた。
「いえ、わたしに仕事をくれたおさむらいさんが、
ほかにも仲間をつれてきていいとおっしゃるんで、
同じところではたらいていたこいつをつれてきてやったんですが。
こいつがぜひ、お礼におさむらいさんのお耳に入れておきたいことがあると。ほれ」
そう言って仲間の尻を叩く。
「へえ」
叩かれたもう一人が、前に出て、おずおずと口を開いた。
紺野は何なのかと、首を傾げてその顔を覗き込む。
「何です?」
「へえ。お侍さん。なんでも最近、六角牢を出て行った連中のことを調べているとか」
「……。はい」
大方、屯所の中で早くも聞きつけたのか、
それとも六角牢で働いているうちから噂を聞いていたのか、
恐らくは、よゐこらのことを言っているのだろう。
こういった、町の隅々で暮らす人々の口に戸を立てることはできない。
むしろ、仔細な捜査を必要とする壬生娘。組の職務上においては、
そういったものが貴重な情報源になることも多い。
六角牢の上役が変わったという情報も、先の男から得たものだ。
逆に根も葉もない無意味な噂話に踊らされてしまうこともあるが。
「それであたし、食い物をね。
持っていったり始末したりする仕事を手伝わせていただいてましてね。
牢のお役人さんからね。その余り物を恵んでいただいていたんですよ」
もう一人のほうよりは、言葉も流暢でいくらかの知性も感じられる。
無宿者になる以前は、そういった仕事にでも就いていたのだろうか。
「まあ囚人用の余り物なんですがね、
食いっぱぐれがないなんて、こんなありがたいことは無い。
いや、けっこう豪勢なものも中にはあるんです。
特にお偉いさんが中に入ってると豪勢なものが出る」
はっきり言ってしまえば、
牢屋敷のような末端の役所では、細かな程度の買収は日常茶飯事である。
さすがに裏金のみで釈放といったようなことは滅多にないが、
金のある者ならば、牢役人にいくらか握らせて食事を豪勢なものにしたり、
何か特別な物品を支給してもらうことは日常的にある。
牢の外に有力な支援者がいれば、
その支援者の使いが持ってきた物をそのまま牢の中に通すこともある。
それ自体は、罪状や収監に直接関わるものでない限り、そう珍しいことではない。
「えええ、それは珍しいことじゃあないんです。
おこぼれにあずかれるこちらとしちゃあ嬉しいくらいで。
いつもお役人さんが残り物を持ってきて、ほれ、これを始末しておくれと、
あたしたちに渡して、そのまま消えていってくれるんです。
ところがね。その日はお役人さんが、
そのまま触らずに、ごみに始末してしまえ、絶対に食うなと言うんです。
それなりに良い食い物でしたから、
ははあ、これは新しく入ってきた噂の連中のだなと思ってはいたんですが、
しかもこれがまったく手をつけられてない。
さすがにおかしいんで、何でですかい? と、聞いてみたわけです。
そうしたら、そのお役人さんが。これがなんと」
そう言って男は紺野の耳元に近づき、声を潜めた。
「毒が入ってるって言うんですよ」
「……毒?」
「へえ。お役人さんは、ここだけの話だから誰にも言うなよと。
この良い食い物を持ってきた奴は、実は牢の中の連中を殺してやりたいんだぜと。
ただ、中の連中も当然それをわかってて、
どんなに豪勢なもんだろうと、決して口をつけないんだと」
(毒……)
よゐこを六角牢から所司代組屋敷へと強引に移動させた監鳥居組が、
その理由の一つに、命を狙われているということを挙げていた。
それが今、紺野の中で繋がる。あれは本当のことだったのか。
「しかしじゃあ一体、誰が有野と濱口を殺そうと」
まさか。また、紺野の脳裏にあの名前が浮かぶ。
「いえ違いますよ」
しかし男は言った。
「毒を入れられていたのは別の……ええと、阿佐のお侍さんたちのほうですよ。三人の」
「阿佐……の?」
藤本は笠を頭に深く被り、雨の中に立っていた。
人もまばらな大通りを、誰にもその存在を際立って感じられることなく、
周りの景色に溶け込んでいる。
しばらくすると、宿屋の中から二人の娘が出てくる。
監鳥居組の二人。
矢口が既に、さくら組の屯所に戻ったことは見届けた後のことだった。
二人はどこかおぼつかない足取りながらも、
傘を差し、ゆっくりと雨の中、歩を進めていく。
藤本は笠の奥でそれを確認すると、すっと動き出した。
二人の後を、そうと気取られぬように追う。
気配を消した藤本は雨の中、景色となり、影となり、
誰にもその存在を気にかけられることすらない。
目には見えても、人々の意識には上らず、記憶に残ることもない。
それは人斬りとして長く生きてきた藤本が自然と身につけた、
言わば野生のようなものである。
大きな通りから、横の細い路地に入る。
二人は周囲のことをあまり気にせず、ただ黙々と先へ進んでいく。
数人の人とすれ違う。
細い路地を抜けると、再びまばらな人が行き交う大きな通りに出る。
また通りを横切って、細い路地に入る。
少し行ったところ、別の細い路地と交差するところで、
先を行く二人と藤本の間に、横の路地からすうと人が入った。
傘は差さず、藤本と似たような笠を深く被っている。
腰から伸びる、二本の鞘。
藤本は気にもせず、その士(さむらい)の後ろ側を抜け、
やり過ごそうとする。しかし。
ちょうど、藤本とその姿が重なった時。
ちき、と微かに金属質の音が鳴る。“はばき”と鯉口が擦れた音。
藤本はすばやくその士の背中側から、左足で地面を横に蹴り、右に半歩飛ぶ。
左手は既に腰の『独り舞台』の鯉口を切り、右手は続いて白い刀身を抜きさっている。
がきん、と高い金属音が藤本の目の前で響いた。
士が振り向きざまに薙いだ刀を、藤本が刀の棟で受け止めていた。
笠の奥の口元がにやりと笑った。
「残りの一人か」
少し鼻のつまった、抑揚のない声で藤本が言う。
「あんた、立ち姿いいねえ」
わずかに上げた笠の下から覗いた顔は監鳥居組、里田舞。
「いいよ。気配を消してもすぐ見つかる。臭いで分かるんだよ。人斬りの臭いが」
吉澤が雨の中に一歩足を踏み出したとき、
加護はその先の縁側に、
白い着物を纏った一人の少女がたたずんでいるのを見つけた。
少女はつまらなそうに縁側で両足をぶらぶらとさせ、
口をとがらせて恨むように空を見上げている。
「のの……」
加護は少女に呟いた。
「おー! 辻ぃー!」
吉澤もその少女に気がつき、嬉しそうに叫ぶ。
少女も吉澤に気がつき、満面の笑みを浮かべる。
「よっすぃー!」
「もう大丈夫なのかよー!」
「大丈夫だよー! 退屈すぎてさくら組に遊びに来ちゃった」
二人は楽しそうに思いきり抱きつき合い、じゃれあう。
その様子を加護は、少し離れたところで眺めていた。
目の前にするとよく分かる。
このじくじくとする、暗い、泥のような感情の正体が。
その本質は、得体の知れぬ政事の巨大さにも、吉澤の不機嫌さにもなかった。
加護には大嫌いな人間がいた。
その人間が今、加護の目の前にいた。
未の刻。
小雨の降る、京都の町中にその男は立っていた。
髪の伸びるに任せた頭には月代などもちろん剃られていないが、
額の上が薄くなってきているために、まるで髷を落とされた落ち武者のように見える。
ぼろと言うほどではないが、とてもきちんとしているとは言えない薄い着物に、
なんとか身を包まれている。
一振りの、鞘に収められた刀を、腰にも差さず手にしている。
男は大通りの中心に立っている。
通りを行くまばらな人々は、やがてその荒い呼吸を繰り返す男の、
目の輝きの普通でなさに気がつき、
なるべく関わりのないよう、避けるようにして端を急ぎ足で行き交っていた。
近くの店の軒下にいた子供が、好奇心に駆られたのか、
なにげなく男に近づいていく。つぶらな瞳で、男を見上げる。
じゃまだ、と男は思った。
近くの店から慌てて女が飛び出してきた。
びしゃりびしゃりと、女の足元で水しぶきが上がる。
女は子供を男のそばから引き離し、抱え込むようにして、
水の溜まっているその場にしゃがんでしまう。
混乱した女は、どうかおゆるしください、おゆるしくださいと男に叫びはじめた。
特に理由もなく。
じゃまだ、と男はまた思う。
女は徐々に声を細め、子供を抱え込むようにしたまま、がたがたと震え出した。
男はぼんやりと、その女を見下ろす。
と。子供を庇うその女の手が、肩のところからぼとりと、水溜りの上に落ちた。