一、水の底
ぽたり。ぽたり。と、
暗い天井のどこからか、滴が落ちてきては床を打っている。
男はただ一人、薄明かりの中で膝を抱え座っている。
ぼろぼろの板壁の隙間から、幾重もの光がうっすらと中に差し込んでいる。
外では小雨の音がするが、灯りが一つも無い屋内よりは遥かに明るい。
壁は、いかにも無計画に貼り足され補修された板の端々が割れ、腐食し、
既に壁という形容することすらおこがましいほどに隙間だらけで、
もはや壁の部分より隙間のほうが大きいくらいである。
これじゃあまるで牢屋の格子のようだな、と、
いつも食事を運んでくる者が、蔑むようにせせら笑っていた。
薄明かりの中、男の目は開いている。
しかし何も見てはいない。
黙ってただ、虚空に視線を置き、息をしている。
男は死んでも、生きてもいなかった。
ただ、そこにいるだけだった。
男にはかつて、主(あるじ)がいた。とても偉い人だった。
とても偉い人で、とても頭が良くて、とても強い人だったから、
男はただひたすら主に付き従っているだけでよかった。
誰よりも進んで主の命令を聞き、誰よりも喜んでおこなった。
しかしその主も、今はもういない。
主を失った男には、もはや生きている理由など無かったが、
だからといって、わざわざ死ぬ理由も持たなかった。
だからこうしてただ、膝を抱え、息をし、虚空に視線を置いている。
「それで、始末はできたのか」
あばら屋の外で声がする。
小雨の中、屋根の下に二つの影が立っていた。
「ああ。昨日、所司代のほうに確認が取れた」
もう一人の声が答える。
「間違いないのか」
「間違いない」
男に食事を運んでくる者と、同じ人間たちだった。
少なくとも、男の中ではそう認識されている。
「事が知れる前でよかった」
「まったくだ」
二つの影は、会話があばら屋の中の男に筒抜けなのも気にせず話を続ける。
男がこの会話の意味すら理解できないことを承知しているからだ。
二人は退屈そうに地面をざ、ざ、と足でいじりながら会話を続ける。
「壬生の浪人どもは堅いからな。一時はどうなることかと思ったが、
手を回した甲斐もあったというものだ」
「それも結構危ない橋を渡ったと言うじゃないか」
「なあに。これでひとつ安心を買えると思えば、安いものだっただろうさ」
「それにしてもいくら手を回しておいたとはいえ、よくやれたものだ。こいつも」
影の一つが、中を覗き込むように壁に顔を寄せる。
「おい、やめておけ」
あばら屋の中の男は膝を抱えたまま微動だにしない。
「ふむ」
影は男に全く反応が無いのがつまらないのか、鼻から息を吐き、また離れる。
「所司代の屋敷は、そりゃあ酷いことになっていたらしい」
「どんなありさまだったんだい」
「俺は見ちゃあいないが、いや、壬生浪と勤王党のほうもすごかったらしいがね……」
二つの影が近寄り、ぼそぼそとまだ会話を続けている。
時折、「へえ」だの「はあ」だの声が上がる。
男は、このぼろぼろの壁一枚隔てた影たちの会話に、何の興味も無い。
もし内容が理解できたとしても、何も変わらなかっただろう。
ぽたり。ぽたり。と、
暗い天井のどこからか、滴が落ちてきては床を打っている。
「次はあるのか」
「もちろんだ。次は――」
男は黙ってただ、虚空に視線を置き、息をしている。
男は死んでも、生きてもいなかった。
紺野はぼうっと、薄暗い空を見上げていた。
細かい水滴が顔を打ち、こまめに目をぱちくりとさせている。
雨が小降りになるのを待って出てきたが、
この様子では残念ながら完全に雨が止むことは無さそうだ。
今年は空梅雨だったせいなのか、
例年ならとっくに梅雨明けというこの時期になって、急に雨の量が増えた。
このちょっと変わった天候を受けて、天変地異の前触れだと恐れる者もいる。
毎年まったく同じ天候など有り得ないのだから、
すぐにそうやって騒ぐのもどうかと紺野は思うが、
そう思いたくなる気持ちもわからなくはない。
地上がこれだけおかしいのだから、天に何かがあると思いたくもなるのだろう。
得てして人はそうやって、理解の難しいものを人知の外に求めがちである。
少なくとも地上は、天がちょっとおかしいくらいで騒ぐ程度には、おかしい。
「組長。そろそろ」
平隊士の一人が寄ってくる。
「あ、はい。じゃあお願いします」
紺野は丁寧に答える。
小屋の周りを、既に紺野が組頭を務める壬生娘。さくら組四番隊が取り囲んでいる。
頭に笠を被った隊士たちが、腰の刀に手を掛けて、中の様子を窺っている。
通りすがりの町民が尋常ならざる雰囲気に足を止めては、
はっとそれが悪名高い壬生娘。組と気づき、
何も見ていない聞いていないとばかりに、そそくさと去っていく。
またある者は、物陰からそっと好奇の目を向けている。
そういった町民の様々な反応にも、紺野はもう慣れた。
紺野は、小屋の取り囲みに問題がないか自らの目で確認すると、
正面入り口前に立つ隊士の後ろにそっと立ち、自分を落ち着かせるように大きく呼吸をする。
それを合図に、隊全体に緊張感がみなぎる。
「はい。行きます」
紺野が静かにそう言うと同時に隊士たちは一斉に刀を抜き、正面の隊士が戸を蹴破る。
追って裏手に周っていた隊士も裏口を蹴破り、中に突入した。
正面を蹴破った隊士たちの後に続き、紺野も中に入る。
暗い小屋の中は、しん、としている。灯りは一つも無く、
蹴破られた戸からの薄明かりが舞い上がった埃に反射し、
光の筋となって中に差し込んでいる。
先に突入した隊士たちは、ばたばたと小屋の中の物を蹴って転がし、
無造作に手で押しやり、辺りを探る。
どうやらどこにも隊士以外の人の気配は無い。もはや完全な廃墟である。
しばらくして、蝋燭の灯りを手にした隊士の一人が紺野に近寄って言った。
「組長。いません」
紺野はそれに小さく頷くと、ふうと息を吐いた。
いつになっても突入の時は緊張する。
組頭となり、先陣を切ることが少なくなった今でもそれは変わらない。
むしろ負担は増したくらいかもしれない。
壬生娘。組の隊には、死番というものがある。
死ぬ番。読んで字の如しである。突入の先頭に立つ係のことを言う。
今回で言えば、紺野の前に立っていた隊士がそれである。
突入の際、どんな危険があるか分からない。
敵の罠かもしれない。待ち伏せをされているかもしれない。
そういった時のために、最初に斬られる危険を負う役として先頭に立つ。
死番は持ち回り制で、その日に番の回ってきた者は、
朝のうちから死の覚悟を決めて任務に向かう。
分割新編成で組頭になり、通常の任務で紺野が死番に立つことは少なくなった。
しかしだからと言って、決して紺野が楽になったわけではない。
壬生娘。組の隊規の中に、こういった項目がある。
一、組頭討死に及び候時、その組衆その場に於いて戦死を遂ぐべし。
任務上において組頭が死んだ場合、残りの隊士もその場で戦って死ねということである。
組頭が死んだら、その部下たちも生きて帰ってはならない。
大将が死ねばその場から放免されるのが暗黙の了解であった戦国の時代ですら、
有り得なかった厳格さである。
浪人者の寄せ集めでしかなかった壬生娘。組が、
幕府最強の治安維持部隊として今や幕臣にまで昇り詰めた背景には、
この狂気にも似た厳格さが隊全体を引き締めていたということもある。
この厳格さは、何事にも命がけで立ち向かえという、
壬生娘。の士道を説く精神論の意味合いも強いものではあったが、
少なくとも紺野の死が直接部下たちの死に繋がることは事実ではあった。
紺野はもはや、うかつに一人で死ぬことの出来ない立場にあった。
数人の隊士が安心して刀を鞘に納める。
と。表に出ようと数歩、床を踏み鳴らしたところで、
紺野は足元に積み上げられた藁の束に素早く刀を向けた。
「そこっ!」
隊に緊張が走る。
「何者だ!」
気配を察し、ある者は瞬時に藁束から飛び退き、ある者は刀を抜き直し構える。
隊士が刀の先で勢いよく手前の藁束を打ち上げる。
細かい藁の屑が宙に舞い、差し込む光の筋の中で踊る。
一人のみすぼらしい男が、藁束に囲まれ、身を縮めてがたがたと震えていた。
「……乞食(こじき)、か?」
他の隊士が暗闇に目を凝らして言う。
ぼろを身に纏った、乱れた髪のその男は、ただの乞食のようであった。
身を寄せる場所も雨をしのぐ場所も無く、
数日前よりひとけの無くなっていたこの小屋に忍び込み、
じっと身を潜めていたのだと言う。
紺野はほっと胸を撫で下ろす。
男の証言により、少なくとも数日前よりここに人がいなかったという確証も取れた。
「ここももぬけの殻ですね」
隊士の一人が言った。
ここ数日。紺野たちのさくら組四番隊は、
滅茶勤王党の残党が潜んでいたと思われる隠れ家を片端から強制捜索していた。
所司代組屋敷襲撃前後の勤王派の動向を探るためである。
しかし今のところ、滅茶勤王党の動きを知ることのできる物証はこれといって上がっていない。
人どころか何一つ、食物ですらほとんど、どの隠れ家にも残っていなかったのだ。
それはまるで本当に、
所司代組襲撃が滅茶勤王党の最後の力であったことを証明するかのようだった。
あれが正真正銘、滅茶勤王党の最期だったのではないかと紺野個人は思っている。
それは恐らく、安倍も矢口も同じだろう。
今睨むべきは滅茶勤王党そのものではない。
その背後にある何者かに繋がる何かを、皆欲している。
「ひいい」
暗い小屋の中から表に出ると、怯えたような叫び声が上がる。見ると先程の乞食である。
「どうしたんです? もう放免していいですよ」
乞食を囲む隊士たちに言う。
「はあ、それが」
事情を聞くと、どうやら乞食がこの小屋から追い出されるのを嫌がっているらしい。
何とかしてこの小屋に居続けようとしているというのだ。
無理もないか、と紺野は思う。
毎年の不作に、政局の混乱も治まる気配が無い。
米に代わって商品の流通が盛んになることで貨幣の価値観も上がり、
経済の仕組み自体が組み変わり始めている。
また異国との貿易や治安悪化により、物価の変動も激しい。
町の外に出れば、いや、中でさえ、職にあぶれ、飢餓によって死に至る者がいくらでもいた。
「たのむよぉ、おさむらいさん」
歯もぼろぼろの乞食が、よれよれと隊士にしがみつく。
しかし滅茶勤王党の隠れ家であったものをそのまま自由にさせるわけにもいかない。
ここは幕府が没収し、幕吏の管理下に入る。
「なんだよぉちきしょう。お上は血も涙もねえなあ。おれぁどうすりゃいいんだよ。
六角牢(ろっかくろう)にももう帰れねえし」
「六角牢?」
紺野はその言葉に反応した。
六角牢とは二条城からやや南にある、京都奉行所直轄の牢屋敷の別称である。
壬生娘。組が捕えたよゐこの二人を監禁していた場所でもある。
「六角牢に住んでいたのか?」
牢屋敷では人手確保のために、非公式ではあるが人足を雇い入れていることもある。
牢に入っている軽微の罪人を雇うことが多いが、
現場の裁量次第で、近くの無宿者を雇うことも現実にはある。
「追い出されたんだよぉ。なんでもお偉いさんが代わったから、
おれを使ってくれてたお役人がくびになっちまったとか言って。
あそこは飯は臭かったけど、たくさん回してくれるからありがたかったんだ。
そうだ。聞けばあんたら壬生の連中があそこを牛耳るようになったっていうじゃないか」
「上が代わった?」
はて。
六角牢屋敷の上役に入れ替えがあったという話は紺野も聞いていない。
京都奉行所直轄ということは、すなわち京都所司代の管理下である。
ということは先の壬生娘。組幕臣召し上げによって、
確かに上役は壬生娘。組に代わったと言えなくも無い。
しかし、幕府は組織再編によって壬生娘。組が急速に力を持つことを嫌がり、
壬生娘。組もまた、過激な再編をすることによって幕府内に敵を増やすことを好まなかった。
よって、壬生娘。組の幕臣召し上げに伴う組織再編は、
実質的な支配下に置かれることになった所司代組を含めた各組織の主要部署に、
幾人かの連絡役を密かに設置する程度に留まり、
上役の差し替えは目立って行われなかった。
「どうかしました?」
首を傾げたまま固まっている紺野に隊士が声を掛ける。
「いえ……。その人は、さくらの屯所の近くででも雇ってあげてください。
何か仕事はあるでしょう。我々も一度、屯所に戻ります」
紺野の号令で、
さくら組四番隊は自然とばらばらに、各々静かに屯所へ向かい帰り始めた。
紺野らの代あたりから、壬生娘。組各隊は、
先代らのように隊列を組み、隊旗を掲げ、威張って町を練り歩くことが少なくなった。
それは壬生娘。の名が世間に浸透し、あえて存在を誇示する必要がなくなったことや、
壬生娘。組自身に、肩肘張る必要の無い余裕のようなものが生まれてきたこともあったが、
紺野らの代の、性格的なものに依存する部分も大きかった。
隊に締まりがなくなると懸念する者もいたが、
その自由さ、気楽さに敢えて反対する者は少なくなっていた。
「ご苦労さん」
唇を尖らせ、片手を挙げ、
ふんぞり返ってわざと威張るように言ってみせる姿が嫌味にならないのは、
加護生来の愛嬌ゆえである。
それでも、声をかけられた所司代組屋敷東門の門番は、深々と頭を垂れた後、
通り過ぎていく加護らの後ろ姿に舌打ちをする。
その音は加護の耳にも入ったが、慣れているので気にしない。
小雨の降る中、さくら組一番隊組長の加護は、
数人の隊士を引き連れて所司代組屋敷を訪れていた。
滅茶勤王党襲撃の後日検分のためである。
このところ雨が多く、あまり長く続くと現場を保持できないので、
まめに足を運ぶようにしている。
東門は、当日に加護が入った門でもある。
抜けてすぐ右に折れ曲がると、左手の先に座敷、
右手に家畜を囲っておくための木柵が、正面――北のほうへと続いている。
あの時に見た夥しい数の動物の死体は、
さすがにこの熱さの中、臭いを放ったままにしておけなかったらしく、
跡形も無く始末されていた。
今にしてみればあれは本当に悪夢のような一夜で、
死体の一つも無いこの状況では、現実の出来事ではなかったのではないかと思いたくもなる。
加護はそのまま木柵に沿って北に向かうと、
北東門の手前で西に折れ、北側一帯を占める蔵群に向かった。
行き先はよゐこらの捕えられていた、あの蔵牢である。
蔵の前では、まだ他の検分の人間も出入りしている。
加護はその中に知った顔を見つけて声を掛ける。
「道重ちゃん」
「加護さん」
加護の姿を見つけて、道重の顔の緊張がぱあと解かれる。
「ひさしぶり〜」
「本当、ひさしぶりですね〜」
道重は本来、おとめ組二番隊組長でもある石川の下で伍長を務めているが、
おとめ組の人手不足により忙しくなった石川の代わりに、今は二番隊を指揮している。
「最近どう、おとめのほうは」
「うん……」
瞬時に顔を曇らせる道重を見て加護はしまったと思い、努めて明るく笑ってみせる。
「あ、あ、大丈夫だよう。田中ちゃんの傷も浅かったみたいだしさ、
またすぐにみんな復帰するよ」
「……そうですよね」
いくらか暗さの取れた道重の顔を確認して、
加護が笑顔を絶やさぬまま蔵の中に入ろうとすると、道重が口を大きく開いた。
「あ、待っ」
しかし道重の制止は間に合わず、加護は蔵の中に入る。
「うっ」
加護は咄嗟に口を押さえる。血の臭いが消えていない。
むしろこの季節に屋内ということもあって、さらに猛烈な腐敗臭が漂いはじめている。
「熱がこもってるから、ひどい臭いですよ〜」
鉄扉の外から、背中越しに道重が遠慮がちに言う。
暗い室内で板張りの床には、黒い血の跡がまだ一面に残っていた。
「うん。そうだね」
加護は込み上げる吐き気を抑えながら、さらに奥に進む。
さすがにこの程度で怯んでしまうほど、やわな鍛え方はされていない。
というかいい加減、自分より年下の人間の前で格好の悪いところも見せられなかった。
猛烈な腐臭にむせて一度は外に逃げ出した隊士が、再び戻ってきて明かりに灯をともす。
(うわあ……)
灯りに照らされた大量の血の跡は、蔵の奥に設けられた、
ちょっとした長物を入れておくようなほんの小さな部屋の中にまで続いている。
大体、紺野の話から聞いた通りである。
紺野の話では、そこにまるで、
押入れの中に収納しきらない布団を無理矢理押し込んだかのように、
無造作に、五人分の死体(正確には濱口はまだ息を残していたが)が詰め込まれていたという。
牢の中を見渡す。
牢とは言っても尋問や監禁のために急遽、蔵を改造したような牢である。
普通の蔵と基本的な構造は全く変わらない。
この、床に続く血の跡と、柱、荷物、壁のいたるところにつけられた、
まるで秩序の感じられない刀傷からも、ここで起こった事の異常さがうかがえる。
「人斬り丑三……」
紺野、矢口らの証言から、
これは元滅茶勤王党の江頭丑三の犯行であったということで組内の見解は一致している。
なぜ丑三がここをちょうどあの時に襲ったのか。そしてなぜ、丑三がまだ生きているのか。
そもそも他の滅茶勤王党残党は丑三が生きていることすら知らなかった。
それらを探るために、加護はここに来ている。
「丑三の、ここに来る前の足取りは分かったのかな」
後ろの道重に尋ねる。
道重は袖で口元を押さえて顔をしかめながら、なんとか加護の後ろについて入ってきていた。
「……はい」
本当に辛そうな道重を見て、逆に加護の中には先輩としての余裕のようなものが出てくる。
「あ、一回ちょっと外に出よっか。ここ臭いしさ」
「……はい」
雨を避けるため、二人とも蔵の軒下に入る。
あらためて道重と向き合う。
背の小さい加護からすると、顔のまだ幼い道重を見上げるような形になる。
「ええとですねー」
臭いから開放されたのがそんなに良かったのか、
腕を組んで思い出しながら説明を始める道重は、既にいつもの自分の調子に戻っている。
色々とわかりにくい子だけど、そういうところはわかりやすい子だなあと加護は思う。
「丑三を捕まえたのは京都奉行所の同心だったんですよ。
捕まえた時は既に滅茶勤王党も瓦解していて、丑三も乞食のような逃亡暮らしで、
同心も分かっていなくて、ただの無宿者として捕まえたんですね。
それでなんと、身柄はここ、所司代のほうに回されてるんですよ」
「へえー」
「そのあと、丑三はそのまま無宿者として入墨刑のあと、
洛外(京都の外)へ放逐されているんですけど、それはただの方便で、
実は阿佐藩に引き渡すための手打ちだったようです」
この時代、藩による自治権は強い。
藩の重犯罪人は、藩に送還され、藩の法によって裁かれることが多かった。
ただし幕府と藩の力関係は常に微妙で、
幕吏が捕えた重犯罪人が、藩と幕府の政治的駆け引きの道具にされることも多かった。
その中では、洛外追放という名目で、洛外に待ち受ける藩の藩吏に引き渡される形もあった。
京都を天誅の嵐で震撼させた滅茶勤王党の重要人物、人斬り丑三である。
しかも丑三は党首の武田真治に非常に近しい人間で、
当時、武田らによる下平さやか暗殺の証拠を掴めずにいた阿佐藩は、
その身柄を喉から手が出るほど欲していたに違いない。
現在、阿佐藩の実権を握る田森一義は基本的に公武合体を論じる身だが、
藩論全体は必ずしも一致していない。
特に藤州、読瓜が着々と力をつけ、倒幕の意志を露わにしていく中で、
阿佐藩も幕府との関係に慎重であっただろう。
滅茶勤王党の実質的な支援者であった藤州、そして阿佐、幕府の間で、
丑三について何らかの裏取り引きがあっても全く不思議ではない。
「その後は?」
「それが、調べでは丑三はそのまま阿佐藩に送還されて、
獄中で拷問を受けた上に、斬首ということになっているんですよね。
慶応元年(1865)潤五月です」
(ううん……)
加護は腕を組み顎に手を当てる。やはり死んでいるか。
これは一度、阿佐藩の人間にきちんと照会しなければならないかと思う。
しかしこの政治の情勢で、上手く事を運ぶことができるだろうか。
いや、こういった話を通し易くする為にも、飯田は政事の力を手に入れたのだ、
帰って安倍に相談してみよう。と加護は思い直す。
「じゃあ、私たちは所司代にちょっと顔出してから屯所に戻るわ。
道重ちゃん、後はよろしくね」
「あ、そうですか。はあい」
道重に見送られながら、加護は南側の所司代の座敷に向かう。
西の回廊を通ったほうが、雨が避けられて楽か。
すると、回廊のすぐ近くの蔵の屋根の下に人だかりがあり、
その中にまた見知った顔を見つけた。
「よっちゃん」
声をかけると、これまた背の高い壬生娘。が、振り返ってにやりと笑う。
「よう」
さくら組二番隊組長、吉澤ひとみである。
同時期の加入ということもあり、
年長で男っぽい性格の吉澤は、加護にとって兄のような存在だった。
「何してるの?」
「ああこれ」
吉澤の後ろには、数人の隊士に囲まれて大きな木製の車輪があった。
仏式四斤野砲。滅茶勤王党残党による所司代組屋敷襲撃の際に使われたものである。
「ちょっとね、うちの連中じゃあ分からないから、
専門の人呼んで検分してもらってたところ」
見ると、その野砲の周りをぐるぐると興味深げに見ながら回る、
やけに背の高い、剃髪の男がいる。
(お坊さん?)
壬生娘。組でも、砲術の訓練は定期的に行われているので、
砲について知識を持つ者もいなくは無い。
しかし現実の京都において大砲を使う機会など滅多にあるわけがなく、
それは有事における備え、あるいは組の士気昂揚、勤王派への威嚇など、
実務的な意味合いからは遠い、形式的な面が大きかった。
剣の力を信じる武士である壬生娘。たちにとって、
大砲という存在が異質であったこともある。
よって、組の中に砲術に真剣に取り組み、進んで知識を蓄える者は少なかった。
唯一、小川がその方面にやや明るかったが、
小川は現在、重度の腰痛で動くこともままならない。
「ふむう」
剃髪の男が息を漏らす。
よく見ると、目が妙に離れていて鱶のようなちょっと変わった顔をしている。
「どうですか? たいせーさん」
吉澤が訊く。男の名らしい
「こりゃ結構、新しいねえ。ここ一年くらいか」
「へえ?」
「なんで分かるんですか?」
加護が訊く。
「ほれ、ここ覗いてみ」
大砲の大きな口を指さす。恐る恐る加護が中を覗くと、
暗い筒の中に細い筋が六本、奥のほうから手前に向かって螺旋状に伸びている。
「これが前装式施条砲って言ってな、砲身の中に溝が彫ってある」
前装式とは、元込め方式ではなく砲身の前方から砲弾と火薬を込める装填方式のことで、
施条砲とは砲弾を無回転で打ち出す滑空砲に対し、
打ち出される砲弾に、砲身の内側に掘られた螺旋状の溝で横回転を加え、
命中精度を高めたもののことであるという。
「ほれ、これでな」
男が地面に置かれた砲弾を指さす。
加護の拳よりも遥かに大きい、先の尖った釣鐘のような形をした砲弾には、
表面に全部で十二個もの“いぼ”状の鋲が打たれている。
これが発射の際に砲身内側の溝に食い込み、回転を与えられるのだと言う。
「それでな、この溝はやっすいやつだと大抵三本なんだけど、これは六本あるだろ。
本数が多いほど、砲弾には正確に回転を付けられる。
そのかわり、砲弾と砲身の摩擦は大きくなって、暴発の危険も高まる。ということは」
「ということは?」
「それだけ作りに自信があるって事だな。つまり、鋳造技術の精度が高い」
「むむむ」
吉澤が難しい顔をして、野砲を睨む。
あまり難しいことを考えるのを得意としていないことは加護も知っているから、
まあたぶん何も考えてないだろうなと思う。
「それと砲身も少し短くなっとるね、たぶん」
「それは?」
「取り回しがきくってこと。重量も軽くなる。これも技術に自信がある証拠だよな。
これだけ丁寧なつくりだともはや模倣品とは言えないね。立派な改良型や」
たいせーという男の話によって、発射の手間を考えれば当日は一発だけすぐに打てるよう、
あらかじめ弾が込められていただろうことや、
新式ではあるが、全体の疲労度から言って、
せいぜいあと二、三発撃つのが限度の代物であったこと、
製造時に打たれるのが通例となっている藩の紋や、
製造場所を示す類の刻印は削られていることなどが分かった。
「じゃあやっぱり、読瓜ですかねえ」
一通りの説明が終わると吉澤が言った。
今これだけの技術力と、大砲を秘密裏に回せるほどの軍事力を持ったところと言えば、
普通はまず読瓜藩が浮かぶ。
「うん。まあ」
たいせーという男が自分の長い顎をさする。
「じゃあ無ければ」
「無ければ?」
「うーん。わからんなあ」
「はあ」
ただ、仮に出所が読瓜藩だったとしても、
滅茶勤王党の支援関係は元々藤州や阿佐のほうが濃い。
そう考えると、読瓜から滅茶勤王党に野砲が渡るまで何段階か踏むことになる。
それだけのつてが、壊滅寸前の彼らに残っていただろうか。
あるいは雄藩の側にとって、彼らにそれだけのことをしてやるほどの、
利用価値が残っていただろうか。
紺野はひとり小雨の振る中、傘をさして京の町を歩いていた。
京都奉行所牢屋敷に向かっている。先程、乞食の口から名前の出た六角牢である。
自分の隊とは途中で別れ、乞食ともども屯所に帰していた。
一人で勝手に行動して、また矢口に怒られるかと思ったが、
気になって確かめずにはいられなかった。
そもそも、矢口自身のことも紺野にはまだ引っかかっている。
(壬生娘。さくら組副長、矢口真里)
あの夜、所司代組屋敷を和田らと訪ねた時、
頑なによゐこの引き渡しを拒む監鳥居組の木村の口から出たのが矢口の名前だった。
矢口が、よゐこの命を狙っていたのだと言う。
もちろんそんなことは信じていない。
言い逃れにも節度というものがあるだろうと紺野は思った。
しかし、どこか否定しきれないものが矢口の行動にあるのも確かだった。
聞けばあの夜も、矢口は独断で所司代組屋敷に乗り込もうとしたという。
ある意味で監鳥居組木村の言い分を自ら証明してしまっている。
あの時以来、紺野は素直に矢口を信用することができなくなってしまっている。
疑っているわけではない。
しかし矢口に対し、思ったことを素直に言う。言われたことに素直に従う。
そのことに一瞬の躊躇がある。
このままではいけない、とも思っている。
或いは自分のほうに原因があるのではないか、とも。
壬生の方向から御院通りを越えた、三条通りの手前に六角牢はある。
京都奉行所直轄の、京都の罪人収容をほぼ一手に担う牢屋敷で、
六角通りに面していることから、いつしか六角牢、六角獄舎などと呼ばれるようになった。
所司代、見廻組のみならず、
事実上、京都奉行所の上に位置していた壬生娘。組も大いに利用し、
ついこの前、所司代組屋敷に移されるまでよゐこを収容していたのもここである。
祇園祭の山鉾の多くを焼いた元治元年(1864)の大火の際、
罪人の逃亡を恐れた幕吏が、騒ぎのどさくさに紛れ大量惨殺を行い、
世間の幕府に対する悪評、そして倒幕派雄藩による批判をさらに高めるきっかけともなった。
また、多くの罪人解剖がおこなわれ、医術の発展に寄与したことでも知られている。
四条通りに出る。
小雨が降っているとはいえ、大通りに出ればさすがに人は多い。
商人、武士、坊主と、あらゆる生業の人間が雑多に行き交っている。
安倍らと同じく蝦夷の出の紺野にとっては、
この人の多さをはじめて見たとき、近くで祭りか何かがあるのかと驚くほどであった。
「ん?」
その中に、紺野は見覚えのある顔を見た。
(藤本さん?)
遠目ではっきりとはわからなかったが、
それは紺野のよく知る、いつも無愛想な藤本の顔に見えた。
反射的にその顔の主の後ろ姿を追いはじめる。
藤本の足も六角牢の方向に向かっているように見えた。
(藤本さん? 何の用だろう)
(あれ?)
人ごみに入り、藤本らしき人間の足が急に早まる。
(気づかれた?)
慌てて紺野も歩を早める。しかし、早い。
紺野がいちいち通行人と肩をぶつけ、
向かいから来る人々と間が悪く妙な駆け引きなどをしているうちに、
藤本は、まるで人ごみなど無いかのように、するすると前へすり抜けていく。
距離はどんどん引き離されていく。
人ごみを抜けきったとき、藤本の姿は既に見失われていた。
(ああ、もう)
紺野は自分のふがいなさを嘆く。
これで藤本に撒かれたのは二度目だ。
一度目の所司代組屋敷のときは、藤本は紺野の向かった蔵には向かわず、
何やらその間に重大な仕事を成し遂げたのだという。
そのことを矢口はあえて責めなかったが、
少なくとも自分への評価が上がることがなかったのは間違いだろう。
紺野は仕方なく、元の通り六角牢に向かった。
すると、六角牢の門が視界に入った辺りで、また別の、知った顔を見つけた。
矢口だった。
あいかわらずの高い下駄を履いた矢口は六角牢の門の前に来ると、
門番の男と親しげに話した後、何かの包みを男に渡し、笑顔で別れていった。
(矢口さん)
紺野は声を掛けることをとどまっていた。
矢口の姿にどこか奇妙な感覚をおぼえいた。
思えば、六角牢の門番と親しげに話す矢口の姿など見た記憶が無い。
前に所司代引き渡しが決まったよゐことの面会を求めに行ったときも当然、
終始不機嫌な顔だった。
迷った挙句、紺野は黙って矢口の後をつけることにする。
(壬生娘。さくら組副長、矢口真里)
監鳥居組木村の言葉が、まだ心に引っ掛かっていた。
矢口は一人で六角通りを東に抜け、堀川を過ぎて繁華街の方へ向かっていた。
今度は藤本のように撒かれまいと、紺野は必死で気づかれないように追う。
しかし矢口は繁華街をそのまま素通りすると、やがてひとけのない方向に進み、
二十段ほどの石段を登った、小さな神社に入っていった。
紺野は万が一矢口に尾行がばれていることを考え、
側面の違う坂のに回り込み、草木に隠れながらそっと神社の境内を覗いた。
また撒かれてしまうかもしれない一種賭けではあったが、
矢口はまだそこにいた。
境内に向かって手を合わせていた矢口はしばらくして手を解くと、
振り返らず、明らかに独り言ではなく、言った。
「そろそろいいだろ。出てこいよ」
心の臓が飛び出そうになる。
やはり気づかれていたのだ。
どうするか。紺野は躊躇する。
汗がじわりと、額から頬を伝って首へ流れていく。
いや、今なら問題はあるまいと冷静に思い直す。
別に何をしたわけでもない。ただ内緒で後をつけていただけである。
特にやましいことは無い。
新垣ばりに「あはは、ばれちゃいましたあ?」とか、笑いながら出て行けばいいのだ。
そもそも紺野自身、なんとなくの勘で矢口の後をつけていただけで、
本気で疑っていたわけではない。
すごい勢いで弁明を含めた思考が紺野の頭の中で回転する。
その間、まだ僅かにしか刻は経っていない。
そして。意を決して紺野は草木の陰から前に出ることにする。
もし半端に隠れるようなことがあれば、あの鬼副長と呼ばれる矢口である。
どんなことになるか。
と。思い切って一歩を前に踏み出そうとしたとき、
突然、後ろから紺野の口が塞がれた。
たいせーという男はこういった機械類がたまらなく好きであるらしく、
いつまでも鼻息荒く、一人で野砲の周りをぐるぐると回っていた。
野砲が好きな心情など加護には到底理解できないが、
好きなものにこうして無我夢中になっている姿は、
壬生娘。の他の仲間たちの姿にも重なって微笑ましくもある。
「するってえと、どこなんでしょうかねえ……」
吉澤は独り言のように呟く。
一応吉澤なりに、色々と考えを巡らせているようだった。
「西南のほうなのは間違いないだろうけどねえ」
たいせーが答える。
こと西洋の銃器に関して、四国、九州、西国など西南の藩に優るところはない。
それは西南の港の多くが、幕府に隠れ異国から武器を輸入していたことが大きい。
特に、異国と既に一戦を交え、実質的な敗北を喫していた読瓜藩などは、
逆にその国と武器調達の契約を結び、初期の攘夷思想などどこへ行ったかのように、
積極的に武器を買い入れ、最新技術の吸収に努めていた。
「いっそ、京内の各藩邸に照会してみるって手もあるけど」
地面に這いつくばり、野砲を下から覗き込んでいるたいせーが言った。
「そんなの無理ですよ」
加護が口を挟む。この微妙な時期に、犯罪に使われた大砲の出所など、
正面から聞いて向こうが答えてくれるはずがない
「でもあんたら、壬生娘。組ってやつだろ。
だったら、素直に聞いてみてもいいかもしれんよ。幕府のお偉いさんになったんだろ」
「何で知ってるんですか」
「上のほうとは、知らない仲じゃないからね」
「ああそうだ」
たいせーの言葉に、加護は思い出す。
「そういえば私たちもう、幕臣なんだよね。だったら他にも、つてがあるかも」
今までは何の権利も持たず、幕府から回されてくる僅かな情報と、
自らの機知と暴力的な行動で無理を通してきた壬生娘。組だが、
幕臣となったこれからは、京都全体での包括的な活動が可能になる。
所司代や奉行所の持つ正式な連絡網を使い、
目的に応じたもっと緻密な情報を集めることができるはず。
「いざとなれば、力づくじゃなくて圧力かけることもできるんだよねえ」
加護はうっとりとした調子で言う。今までの立場からは考えられないことだ。
「せっかく幕臣になったんだし。ねえ、よっちゃん。」
「よせよ」
加護は吉澤の声が変わったことに気づく。
「よせよ、そういうの」
吉澤が今回の幕臣召し上げに不満を持つ者の一人だったことを思い出す。
加護は、調子に乗って適当なことをべらべらと言ってしまったことを少し後悔する。
日頃は政事的な話にあまり興味を示さない吉澤だったが、
壬生娘。が佐幕色を強めることにだけはいつも静かに、どこか批判的だった。
「でもさ、仕方ないよ。私たちが今のままで、倒幕派とやりあっていけるわけ無かったし」
しかし、加護はむきになって言い返す。
咎められたままで引っ込むほど、加護は吉澤に対して大人ではなかった。
「元から似たようなことはやってきてるんだからさ、今さら嫌がることでもないでしょ」
「違うよ」
「じゃあ、よっちゃんはどうしたいの」
「お前は、いつもそうやって周りに流されていくんだな」
吉澤がぼそりと呟く。加護は吉澤を睨んだまま黙った。
「じゃあ、行くね」
しばらくの沈黙の後、加護は吉澤に言った。
吉澤はまだ機嫌が悪そうに、顔を別の方に向けていた。
むっとしている時の吉澤は、正直、長年の付き合いがある加護にとっても恐い。
だが加護もそういった状況にある程度は慣れていたし、
向こうが怒ったからといってすぐに態度を変えられるほど、素直にはなれない。
「まだ所司代組に聞かなきゃいけないことがあるから」
加護がそう言ってその場を去ろうとすると、
それまで黙って成り行きを見守っていたたいせーが口を開いた。
「屋敷に行くの? 監鳥居とかいう人たちなら、今いないよ」
「え? そうなんですか?」
拍子抜けする。
「なんでも所司代組が再編成するんで、
謹慎してるんだってさ。なんだかよく分からないけど」
「はあ、謹慎なんだ」
じゃあ、今所司代に顔を出してもあまり良い事はないかな、と加護は思う。
「あちらさんも色々、大変なんじゃね」
別の方を向いたままの吉澤が、嫌味っぽく言った。
加護は小雨の振る中、つらそうに、その背中をじっと見つめた。
紺野は心底驚き、目をむいてその、自分の口を塞ぐ手の主を見た。
(藤本さん!?)
塞ぐ手の下でふがふがと言う。
それは、先程、町中で見失ったはずの藤本だった。
視界の隅に映る藤本の袖の柄は紺野が見かけたのと同じ柄。やはりあれは藤本だったのだ。
じゃあ、自分が見失った後、藤本に逆に自分の後をつけていたのか?
藤本は紺野と共に身をかがめ、草木に身を隠したまま、
完璧に紺野の口と体を後ろから押さえ、身動きを取れなくしていた。
「しっ」
藤本が小声で鋭く耳元に囁く。
その一言で、蛇に睨まれた蛙の如く、紺野は完全に動きを止めた。
そうせざるを得ないくらいの雰囲気が、藤本にはあった。
しゃがんだまま、後ろから紺野を抱きしめるような形になっている藤本の視線は、
境内――矢口の方に向かっていた。紺野もそれを追って境内を見る。
すると、矢口の登ってきた石段の方向から、二つの人影が現れた。
矢口もその二人に対して声を掛けていたらしく、二人を見つめている。
監鳥居組の木村麻美と、斉藤美海だった。