「無常よな」
飯田は呟く。
血臭の混じるぬるい空気が、
所司代組屋敷北東門をくぐった先に溜まっている。
飯田一人に対し、滅茶勤王党の残党は加藤、山本を含めて五人。
皆、まるで貧窮に喘ぐ農民たちのようにみすぼらしい身なりをしている。
京都における勤王運動のさきがけとなり、
天誅の嵐を吹き荒れさせた、あの滅茶勤王党の今の姿がこれか。
確かに天誅のように、局地的な暴力によって世論を動かす時代は終わっている。
もはや一人二人の生き死にで政事が動くような状況ではない。
しかし、役割の終えた者たちは、
時代の波に飲まれただ消え去っていくしかないということなのか。
その残酷さに飯田は無常の意味をかみ締める。
時代はむしろ勤王の方向に風が吹いているというのに。
政事、そのための先兵であり、やがては捨てられる運命にある“暴力”。
飯田は心の中で壬生娘。組が重なりそうになるのを意識的に避ける。
「だが……。貴様らも組織を束ねるものなら、わかろう」
そう、感傷などいらない。
これは生存競争なのだ。
力あるものは残り、力なきものは食われ消えていく。
ただそれだけのことなのだ。
時代など関係ない。
「情けはかけぬ。我らの志の礎となれ」
飯田は愛刀、備前長振(びぜん おさぶり)を再び上段に構えた。
「なんだ……てめえ」
飯田を見て加藤が動揺する。
「……泣いていやがる」
後ろの滅茶勤王党党員が続いた。
飯田の大きな瞳から、つう、と一筋の涙が流れていた。
飯田の顔も、言葉も、泣いてはいなかった。
ただそのつぶらな瞳だけが、自らの発する言葉とは裏腹に、哭いていた。
「ふざけるな!」
山本が顔をくしゃくしゃにして飛び出した。
「勤王党はまだ終わっちゃいねえ!」
屋敷の庭の、黒土の上にうっすらと乗った砂を後方に蹴り上げて山本が迫る。
巨大な肉塊から放たれる暴風のごとき豪速の張り手。
時代が違えば、この男もさぞや名のある力士になっていたに違いない。
その巨体からは想像もつかぬ、舞いの名手であるとも伝え聞く。
しかし、この男の背景にどんな人生があるのか、飯田が知る必要は無い。
山本の巨大な掌が、眼前に迫る。
飯田はそれを、何の前動作もなく躱す。
かすりもしない。
ごう、という音だけが、虚しく飯田の横を通り過ぎていく。
「滅茶勤王党は今宵、ここで滅びる」
そして壬生娘。組は、この時代を生き残る。
飯田は懐から呼子を取り出し、吹いた。
ぴりりりり、と。
高い音があたりに響き渡る。
飯田は冷静に辻、小川らの隊が門の配置につくまでの時間と、
滅茶勤王党残党の全戦力の把握を意識していた。
そして門への配置が済んだ頃を見計らって、呼子を吹いたのである。
まず、ここからそう離れていない北門から一団が飛び込んできた。
一様に黒い装束を身に纏っている。
一番隊組長の辻を先頭に平隊士を四名引き連れた壬生娘。おとめ組の一団だった。
「ちっ」
加藤が舌打ちする。
党員たちも動揺を隠さず、あわただしく辺りを見回す。
「大丈夫?」
辻は周囲に目もくれず、先頭を切ってまず飯田に近寄るとそう言った。
他の隊士たちは抜刀し、滅茶勤王党と対峙する。
「なぜここに来るっ!」
しかし辻を見るなり、飯田は一喝した。
辻はきょとんとする。
「麻琴に言われなかったのか!」
飯田は小川に、突入したらまずよゐこを確保せよと言った。
辻にもそう伝えるよう言ったはずである。
それなのに、屋敷に突入した後、よゐこの牢となっている蔵に向かわずに、
まず自分のところに駆け寄ってきた辻の行動に怒りを隠せなかった。
次代を率いるべき娘が、こんな感情優先の行動で良いはずが無い。
組織の上に立つ者はそれではいけないのだ。
こんなことでは、まだ壬生娘。組を任せるわけにもいかぬ。
辻の性格から半ば予想していた行動だっただけに、余計に腹が立った。
「わかってるよ!」
辻は頬を膨らませ、怒りで応える。
「でも麻琴だってそうしたはずだよ」
まっすぐな瞳で飯田を見る。
そして飯田の瞳の下に残るわずかな跡に気づき、一瞬怪訝な顔をする。
しかしそれも、飯田の次の言葉にすぐに忘れる。
「これだからお前はいつまでたっても子供なんだ」
「うるさいよ! 言われなくたってこれからすぐに行く!」
「いや……待て」
だが飯田がそこで言葉を止める。声は既に落ち着いている。
「お前ら半分は北門の警備だ。呼子を聞いて見廻組が来る。それを押さえろ」
「なんで!?」
辻の疑問は当然である。
言っていることが違う。
まず牢に向かわなかったことを怒ったのは飯田自身なのだ。
それともこれが、命令違反に対する罰則のつもりなのかと、不満な顔を飯田に向ける。
飯田は牢の方向を見ていた。
「……。残りは屋敷内に残る勤王党を掃討しろ」
反射的に、飯田はその方向に辻たちが行くのを畏れた。
その方向から漂う、異様な空気を感じていた。
いやな臭いがする。
「じゃあ、私もここで闘う」
「ここは大丈夫だ」
「闘う」
「駄目だ」
「嫌だ」
「いいから行け」
「残る」
「駄目だ。これは局長命令だ。辻」
辻の目を見る。
「呼子を聞いて所司代もやってくる。大丈夫だ」
飯田は微笑んだ。
この屋敷にはまだ何かある。
幾多の死線を乗り越えてきた飯田の武士としての勘である。
この大きな暗闇の中に、まだ何かが隠されている。
おとめ組は突入に多くの人員を割いていない。
それは矢口率いるさくら組の乱入を防ぐために、
石川の隊に多くの人員を割いたという事情もあるが、
そもそもの目的が“滅茶勤王党に奪われたよゐこを奪い返す”というものだったからである。
つまり本来はおとめ組が滅茶勤王党を奇襲する側であった。
しかし、所司代北東側警備の不在、
勤王党側の予想外の規模の小ささ、等の思惑の違いにより、
現状はおとめ組が所司代組屋敷を守護するというような構図になってしまっている。
守護にはどうしても人数が足りていない。
だから今は、少人数でより多くの役割をこなさなければならない。
この屋敷にまだ何かあるとすれば、出来るだけ他の隊士には余裕を持たせておきたい。
そのために、この場は自分一人で抑えておく。
実際のところ、辻らを向かわせる先にすら、何が待ち受けているかまだ分からないのだ。
敵戦力の把握できているぶんは、なるべく自分一人が請け負っておきたい。
「いやああああああ」
勤王党が声を上げて飛び掛ってくる。
飯田は、両手で振り下ろされるその刀を片手にした刀で軽く受け止める。
「行け」
辻に言う。
「命令だ。辻」
再度言う。
辻は飯田をひと睨みし、何も言わず背を向ける。
飯田は勤王党の刀を難なく受け払いながら、
去り行く背中に向かって思い出したように、更に言葉をかけた。
「ああ、そうだ。辻」
「……なに?」
辻は足を止める。
「前から言おうと思っていたんだが、指の爪を噛む癖はやめておけ」
「はああ?」
辻は思わず振り返り、怪訝な顔をする。
「もういい大人なんだから、汚いぞ」
「知らないよ、そんなの」
辻は言い捨てると、数人の隊士とともにその場を去っていった。
自分でも、いきなりおかしなことを言ったなと思う。
しかし、今それを言うのもきっと間違いではないと、飯田はなんとなく思っていた。
走り去る辻の小さな背中を見送りながら、ふうとため息をつく。
いつも、どうもうまくいかない。
顔を合わせるたびに言い争いをしているような気がする。
無意識に辻を危険から遠ざける選択をしたことは否定できない。
その甘さが、組織の上に立つ者としての自分の欠点だと言うことも知っている。
しかしそれでも、飯田には、自分が間違っていないという確信のようなものがあった。
飯田は気を取り直して、再び勤王党に向き直る。
勤王党は飯田に対し、じりじりと間を詰めてきている。
(常に死線なのだよ)
ふと以前、自分が言った言葉を思い出す。
あれは小川に言った言葉だったか。
我々は常に死と隣り合わせにいる。
(壬生娘。が特別な存在であり続けられるのは、特別なことをしつづけているからだ)
同じ事をしていれば、いずれは時代の波間に消える。
なぜなら時代が絶えず変わりつづけているからだ。
同じ事だけをしつづけていれば同じ場所にいつづけられるなどという考えは傲慢に他ならない。
藤州内村光良の笑犬隊も、そうして消えた。
特別なことをしつづけられる者だけが、特別な存在であり続けられる。
「壬生娘。組は特別でありつづける」
極限まで到達した飯田の精神性が、
あたかも神仏をその身に降ろしたかのように菩薩の微笑みを飯田の顔にたたえる。
飯田は、対峙する勤王党を真っ二つに斬った。
「貴様ら! 何者だ!」
突然、叫び声がした。
飯田の後方、北東門の方向である。
(……所司代か)
飯田の呼子を聞きつけて、所司代組の警備がようやくやってきたか。
先頭の一人が叫ぶ。
「侵入者だ! であえ!」
所司代組が刀を抜き、飯田、滅茶勤王党とそれぞれ距離をとって取り囲む。
「壬生娘。組局長、飯田圭織だ」
飯田は勤王党の攻撃を意識したまま、所司代組隊士に言う。
「貴様……壬生娘。の飯田か! 何故ここに!」
「説明している暇は無い。貴様らこそ、なぜここにいなかった」
しかし隊士は飯田の問いを無視して続ける。
「濱口と有野は!?」
「…………。ここにはいない」
「どういうことだ!」
隊士は仲間に向かって言う。
(どういうこと……だと?)
「壬生娘。はどれほど屋敷に入っている!?」
隊士が高圧的な態度で訊く。
飯田は答えない。
「…………」
「おい! 蔵へ向かえ!」
その中の頭格らしき男が他の隊士に言う。
「では局長殿、この連中は我らに任せて――」
頭格が滅茶勤王党の加藤と山本を見る。
二人は黙ったまま、こちらを睨んでいる。
しかし、その表情には何故かそれまでのような焦りが無い。
むしろどこか、余裕のようなものさえ見て取れる。
「待て」
その場を離れ、蔵に向かおうとしていた所司代組隊士を飯田が呼び止めようとした瞬間、
隣の頭格の男が飯田に斬りかかった。
「ぐはあああああああああ」
飯田は瞬時に長振を切り返し、刀を肩越しに受ける。
「そのまま押さえろ!」
同時に加藤が叫び、小刀で斬りかかってくる。
飯田は身を引きながら頭格の刀を肩越しで受け流し、
そのまま加藤に向かって袈裟がけに刀を振り下ろす。
頭格は力を流され、自らの刀に振り回されるようにその場でぐるりと横に一回転し、
飯田の袈裟がけは空を斬り、
走り抜けた加藤の小刀は飯田の二の腕をわずかにかすめた。
「ふん。共謀か」
飯田はこともなげに呟くと、
長振を上段に構え、辺りを圧するようにぐるりと見渡す。
上段は、俗に炎の構えと言われる。
刀を上に大きく振りかぶる分、腕から下は隙だらけの構えである。
それを相手を炎のごとき気力で圧することで、隙を隙でなくするのだ。
並の肝ではできない。
最も勇気の必要な構えであるとも言われる。
北東門からやってきた所司代組隊士は、当然のように勤王党の横に並び、
飯田を囲むようにして刀を構える。
十……十一……。
対峙する敵の数が一気に増す。
しかし飯田は怯まない。辻を呼び戻そうともしない。
むしろ、その所司代組隊士と滅茶勤王党の共謀が当然の帰結であったかのように、
落ち着いて一人一人を見据える。
「五も十も、大した違いではない」
「虚勢張ってるんじゃねえよ」
加藤が叫ぶ。
「……無駄だ」
飯田が静かに言う。
「いやぁあああああ」
所司代組が口火を切った。
同時に、何人もの隊士、勤王党が重なるように中心の飯田に向かって襲い掛かかる。
――颶風(ぐふう)。
それは母なる碧い海に吹く穏やかな潮風のようでもあり、吹き荒ぶ嵐のようでもあった。
それまで屋敷の中に溜まっていた血臭のする、ぬるい風とは明らかに質の違う風。
飯田の長身、流れるように黒く輝く長髪、暗闇にきらめく長刀――備前長振。
飯田を中心に風がおこる。
この風はやさしくない。
腕の破片が宙に舞い、血飛沫が飛び、胸腔に穴が穿たれる。
男達の断末魔、叫び声が漏れる。
それでも自身の周りはまるで穏やかな風に包み込まれているかのように、
飯田は音も無く正確に空間をひとつひとつ長刀で斬り裂いていく。
刀と刀の触れ合う音すら、ほとんどしない。
自身と備前長振の間が開いた先にだけ、強烈な暴風が巻き起こっていた。
淵は激しい暴雨に打たれ灼かれるが如く凄惨で激しくありながら、
その中心はどこか優雅で、静寂な刻が流れている。
飯田ひとりの心象の中で完結しているかのような、深遠なる海へいざなうかのごとき舞。
それが飯田の剣であった。
風はびたびたと血と肉を地面に撒き散らし、
やがて人の群れに路を開け、滅茶勤王党の加藤、山本の前に迫った。
「ちぃっ」
加藤は小刀を投げつける。
甲高い音とともに、風が高く上空に小刀を巻き上げる。
「うおおおお」
山本が左右に体を振り、風の中心にするどく踏み込む。
しかし中から突き出た剣先に手甲を突かれ、
驚くほどの力で後ろに弾き返される。
波風の勢いのまま突き進んでくる刀を、
加藤はさらに腰から抜いた二本の小刀をもって両手で交差し、受け止める。
しかし刀を押し進める力は止まらない。
圧されて加藤の体が沈む。
「ぐうっ」
弾力のある黒土の上に膝が埋まっていく。
風が止まる。
ちゃきり、と。膝をつく加藤の頭上に刃先が置かれる。
「無駄だと言った」
このとき、周囲で息をする者は、加藤、山本を含めごく僅かしか残っていなかった。
恐るべき力により加藤の体が沈んでいく。
交差した小刀の刃は飯田の長刀によって欠け、
驚くべきことに、その切り込みは剣圧によって徐々に深くなっている。
加藤の頭の上に乗った飯田の長刀が少しずつ、進んでいく。
「ぐ……ぎ……」
と、加藤が半ば諦め、力を失いかけたその時、
乱れた加藤のみすぼらしい着物の懐から、
乾いた音と共にある物がこぼれ落ち、地面を打った。
「……?」
飯田はそれを注視する。
(……かざ……車?)
それは細い竹の棒と、赤い千代紙で作られた、
子供の掌ほどの大きさの玩具の風車であった。
地面に落ちた小さな赤い花のようなそれは、
ぬるい風にあおられて、からからと乾いた音を立てて回る。
殺伐としたこの光景には、明らかに場違いだった。
「ぐ……」
それを見て加藤の表情が変わる。
「やめてくれ!」
加藤の後方で声がした。
山本だった。
「そいつには今度、子供が生まれるんだ! 見逃してやってくれ」
普段ならこんな命乞いに揺れる飯田ではない。
だが、このときは違っていた。
長刀に込められた力が明らかに緩む。
飯田の脳裏に、小さな辻の背中がよぎる。
その瞬間を山本は見逃さなかった。
「うおおおおおおお」
物凄い速さのすり足で飯田に迫る。
「どすこーい」
飯田は加藤から長刀を離し、後ろ飛びに跳ぶ。
山本の豪速の張り手が飯田の小手に迫る。
「くっ」
飯田は刀を横に振って避ける。
しかし山本はそれを見透かしたように体を沈み込ませる。
「しまっ……」
深く沈みこんだ山本の双手が、飯田の足を刈りにいっていた。
山本は始めから張り手ではなく、これを狙っていたのであった。
すんでのところで飯田の左足は後ろに逃れえたが、
残された右足は見事に山本の双手に刈り取られていた。
「おおおおおお」
「くっ」
長身が重心の安定を失い、後ろに傾く。
飯田はかろうじて左膝を地面につけ踏みとどまり、
完全に倒れるのを防ぐ。
均衡を失い、手を地面についた。
「けひいやぁあ」
わずかに息を残していた党員が、ここぞとばかりに声を上げ斬りかかる。
しかし飯田は、右脛を山本に捕えられたまま、かろうじて長刀で切り返し、
横薙ぎにそれ真っ二つに斬り裂く。
「ああああああ」
党員は絶命し、天を仰ぎ叫び声を上げながらその場に倒れる。
「やめろ構うな! 逃げろ!」
山本が腹這いで必死に飯田の右脛にしがみつきながら叫ぶ。
「山本ぉ!」
加藤が叫ぶ。
「逃げろおおおお!」
加藤は、山本に向かって一瞬哀しみの表情を浮かべた後、
立ち上がって暗闇を駆け出した。
西――よゐこの捕えられた蔵の方向へ。
飯田は膝立ちのまま、
目の前の、自らの重石になっている巨大な肉の塊に、
備前長振を突き立てる。
「ああああああああああああああああああ」
滅茶勤王党幹部、山本圭壱、最後の叫びであった。
飯田は立ち上がると無造作に備前長振を抜き、
加藤の去った西の方向を向く。
「……麻琴!」
長振の緩やかに波打つ刃文の上に乗った血糊を振り、暗闇に加藤の背中を追う。
山本に右足を刈られたせいか、思うように走れない。
それでも必死で追う。
(麻琴……)
加藤の行く先には小川がいる。
辻と違って飯田と顔を合わせていない小川は、
呼子の合図から突入と同時に、蔵に向かっているはずだ。
右足を引きずり、必死に加藤の背中を追いながら飯田は自分を責める。
なぜあの一瞬、躊躇したのか。
あの男に子が産まれるからといって、それが何だというのだ。
あの瞬間、自分に降りてきていた、何かが解けた。
「くっ」
相手の子供に、一瞬、辻の姿を重ねてしまった。
壬生娘。組のために。
何ものであろうと、全てを踏み越えていく決心をしたというのに。
やがて、北西の蔵群が近づく。
蔵の前に一つの影。
「麻琴!」
飯田はその影に向かって叫んだ。
小川が振り返る。
加藤が迫っている。
小川が“くない”を投げつけ、加藤に弾かれるのが遠目に見える。
加藤はそのまま蔵の前を通り過ぎていく。小川が後を追う。
(追うな!)
しかしそれは、右足を引きずって必死に加藤の後を追っていた飯田の喉からは、
声になって出なかった。
「お前ら大丈夫か!」
「加藤さん!」
既に姿の見えなくなった加藤の叫び声が遠間に聞こえてくる。
別の生き残った党員と合流したらしい。
「北東門は!」
「駄目だ! 逃げよう!」
「中が」
「駄目だ押さえられてる!」
「濱口さんが!」
「北は!?」
飯田は小川の後を追う。
蔵群の中を抜け、加藤らの消えた角を曲がる。
「麻琴!」
曲がった先に見つけた影に向かって必死に声をしぼり出す。
遠く、小川の先は暗闇に包まれて、加藤らの姿は既に見えない。
走りながら暗闇に目を凝らす。
その先は中庭だ。逃げ込む先は無いはず。
加藤らはどこへ向かったのか。
南正門は無い。
距離が遠く、最も警備の集中している所だからだ。
西門は小川の隊――小川がここにいるので、恐らくは道重――が守備を固めている。
どこにも逃げ道は無い。
それに、よゐこはどうしたのか。
連中は蔵からよゐこを連れ出していない。
他の党員が叫んでいた「逃げよう」とは?
「飯田さんっ!!」
突然、小川の叫び声が飯田に向けられた。
そして間も無く。
轟音が飯田の目の前の、何もかもを、引き裂いた。
“それ”は、虚空のごとき真黒い、
まわりのすべてを飲み込むかのようなその丸い口をあんぐりと開け、
小川と飯田の方向を睨んでいる。
「やれ!」
「射線上に人がいる!」
「構わねえ! もろとも撃っちまえ!」
加藤の口元が笑っている。
小川は咄嗟に振り返る。
飯田がこちらに向かって走っていた。
大砲はその方向に、脱出の穴を穿つべく、狙いを定められている。
「飯田さんっ!!」
小川は叫んだ。
飯田にはこの大砲が見えていない。
暗がりでよくは分からないが、
野戦で使用する野砲並の大きさを有している。
野戦用の野砲とは、城を攻めるために城壁に穴を穿ったり、
敵陣を遠距離から局部的に吹き飛ばすためのものである。
つまり、本来ならこのような狭い場所で使うものではない。
もしこんなところでこんなものを撃ち放てば、
直撃しなくても、近くにいる者にはすべて、甚大な被害が及ぶ。
なぜ息も絶え絶えのはずの滅茶勤王党がこんな兵器を有しているのか。
なぜこんなものを誰にも知れず中庭に運び込むことが出来たのか。
しかし、そんなことを考えている暇は無い。
小川は反射的に走り出していた。
その大砲に向かって。
「うおおおおおおおおおおおお」
両手で“くない”を発射者たちに投げると同時に、
それに負けない速さで野砲に向かって走る。
加藤が小刀で“くない”を弾くのが見える。
――(常に死線なのだよ。小川)
おとめ組屯所にて。
所司代屋敷襲撃の作戦を聞いて動揺する自分に向かって言った飯田の言葉が、
小川の心に鮮明に残っている。
(壬生娘。が特別な存在であり続けられるのは、特別なことをしつづけているからだ)
ならば壬生娘。が特別でありつづけるためには、
その言葉を躊躇なく発せられる飯田の存在こそが必要なのではないのかと、
それ以来、小川は思いつづけていた。
特別でありつづけようとする者にこそ、特別になる資格があるのではないのかと。
暗闇に飯田の顔を確認し、その名を叫んだとき、小川の足は自然に前に出ていた。
火薬のつんとした臭いが小川の鼻をつく。
小川の投げた“くない”を、そこにいる誰かが投げ返してくる。
“くない”は小川の頬をわずかにかすり、後ろに飛んでいく。
大砲が目の前に迫る。
大きな、まわりのすべてを飲み込むかのような真黒い口をあんぐりと開けている。
小川は足の速度をゆるめない。
飯田の名前を叫んだ瞬間、心の中に一瞬だけ生まれた何かが、
弱気な小川の心を後押ししていた。
野砲の重さに負けないよう、
小川はその細い身体を屈めて足に力を込める。
「うおおおおおおおおおおおお」
あっけにとられる加藤らの間抜けな顔を視野に入れながら、
小川は野砲を乗せた荷車に、身体ごと思い切りぶつかった。
真黒い巨大な虚空がはじけ、轟音があたりに鳴り響いたのは、その直後だった。
飯田は瞬時に理解した。
(――野砲!)
すぐ横の白壁が、紙のようにはじけ飛ぶ。
弾丸は飯田には当たらなかった。
小川の体当たりにより僅かに角度を変えられた野砲は狙いを外し、
正面の塀も大きく外れ、飯田の横の蔵に弾丸を直撃させた。
地響きを立て大地が揺れる。
あまりの轟音に周りの音がかき消され、飯田を静寂の世界が包む。
視界が揺らぐ。
自身も気がつかないうちに、膝を地面についていた。
白壁の蔵が、飯田に向けて倒壊しはじめていた。
このままでは下敷きになる。
しかし、大砲のあまりの衝撃に身体が言うことを聞かない。
ただ、目の前でゆっくりと変化していく光景だけが、飯田の目に焼き付けられる。
(受け止めきれる……か?)
いや、無理だ。
衝撃で体勢が崩れ、地面に踏んばることが出来ない。
自身らの身体も傾いていっているのが意識できる。
白い壁と、
蔵を支える柱が、飯田の上にゆっくりと覆い被さっていった。
加護は夜中の京都の路を、所司代屋敷へと走っていた。
後ろには安倍、矢口、そして数人の平隊士がついてきている。
闇夜に鳴り響いた轟音を受け、さくら組も所司代屋敷に向かった。
これだけの音に何も行動しないのであれば、かえって不自然である。
むしろ、大手を振って所司代屋敷に出動する口実ができたと言える。
轟音が鳴り響いたのは二条城の方角であったが、その先の北側には所司代の屋敷群がある。
おそらく所司代組屋敷で起きている滅茶勤王党襲撃の絡みであろうということで、
場の意見は一致した。
局長の安倍は所司代屋敷へ向かうことを即座に決め、
自分の“目”として加護を指名した。
怪我を負った田中、疲労した新垣は屯所へ返し、
石川もおとめ組屯所の防衛として返すことにした。
おそらくもう、人手は必要としない。
これだけの騒ぎになれば見廻組も出動するし、所司代自体が動くからだ。
二条城の警備をする御定番組も現れるだろう。
だから自分たちは状況の把握と、もし飯田らに何かあった場合の後始末として、
判断の出来る安倍と加護が向かうことになった。
そこで問題となったのは、矢口である。
当初安倍は矢口にも、石川と共に屯所へ戻るよう言った。
矢口の所司代へのこだわりが尋常ではなかったし、
冷静ではないと判断したためである。
しかし矢口は引かなかった。
あまりにも強く志願する矢口に、安倍はついに、
絶対に自分に従うことを強く言い含めて、同行を許した。
加護自身も、矢口のあまりの拘りの中に何かの確信を感じ、安倍の許可を支持した。
何よりこの状況では、一旦矢口を屯所に帰したとしてもまた独断でやってくるに違いない。
ならば同じことを繰り返すより、目の届く場所に置いておいたほうがいい。
西堀川を北にのぼり、二条城の東側を抜けて所司代の一帯に入る。
先程の轟音を受け、辺りは既に騒ぎになっている。
その間をすり抜けるようにして、加護たちは最西の所司代組屋敷へ向かった。
所司代組屋敷の東門には警備が一人だけいた。
小さな門ではないが、恐らく人手は内部に向かっているのであろう。
加護たちは警備の者が余所見をしている間に適当なことを言って屋敷の中に入り込む。
警備の者もあまりの騒ぎに浮き足立っていて、うつろげな対応をするばかりである。
正直、これは怠慢だろうと加護は思う。
こんなときにこそ、警備に目を光らせなければいけないのだろうに。
場合によっては壁を越えて中に入ると言っていただけに、
その辺りは拍子抜けだった。
門を抜けたとたんに、血臭がたちこめる。
異様な雰囲気だった。
灯りは少ない。
左手の先の所司代詰所は、どたばたとしているようだが、
距離の離れたこの辺りにひとけは無い。
三人は警戒しながらゆっくりと歩を進める。
目の前には、木の柵がずっと並んでいる。
話によれば、このあたりで所司代組は家畜を飼育しているはず。
その通り、家畜をつないでおく木の柵と、小屋がいくつも並んでいる。
しかし何故か、物の動く気配がまったく無い。
(……!)
暗闇に目を凝らしていた加護は、
自分の見ていた木の柵の向こうに何があるかに気づき、息を詰まらせた。
「安倍さん!」
死体だった。
馬、犬、鶏。
屋敷内で飼われているありとあらゆるものの死体が、累々と地面に横たわっていた。
刃物なのか、ただの棒切れなのか、
ぱっと見では区別がつかないほど無残に、
むやみやたらに殴打され、切り刻まれた死体が、いたるところに横たわっている。
加護は一目見て、これをした人間の尋常ならざる精神性を感じとり、身を震わせた。
「死体……だね?」
安倍は加護の雰囲気を察して言った。
矢口は黙ってその死体の数々を見つめている。
と、そのとき。
加護は暗闇の中に急速に膨れ上がるものを感じた。
殺気。
加護は反射的に刀を抜いた。
安倍と矢口も既にそれを察知し、構えていた。
(……人!?)
加護は本能的にそれを感じていた。
これは加護の知るような、人という生き物の持つものではない。
例えるならそれは“けだもの”の殺気だ。
けだものが来る。
そう思った瞬間、暗闇の中からそれはあらわれた。
「うあばぁぁぁぁあああああああ」
人のものとも獣のものともつかぬ雄叫びを上げながら、
それは、折れ曲がった刀を気が狂ったように振り回し、飛び込んできた。
すばやく三人は散開する。
「ぎゃあ!」
避け損ねた後ろの平隊士が悲鳴を上げる。
加護がけだものの剣を受け止める。
ものすごい力。
人のものとはどこか本質的に違う、得体の知れない剛力。
加護の体が異質の力に押され、ずずずと後ずさる。
「丑三っ!」
矢口がけだものに向かって斬り込んだ。
(丑三? ……人斬り、丑三?)
覚えのある一つの名前が加護の脳裏をよぎる。
けだものは、しかし、平隊士一人に傷を負わせると、
剣を受け止めた加護、斬り込む矢口を無視し、
折れ曲がった刀を片手にうめき声を漏らしながら東門に駆け出した。
「くそっ」
矢口が後を追おうとする。
「深追いするな!」
安倍の叫びに矢口の足が止まる。
それでもまだ追う構えを崩さない矢口に安倍が再び一喝する。
「矢口! 今は中の状況把握のほうが先だ」
矢口がけだものの消えた方向を睨み、血の滲むほどに下唇を噛んでいる。
「矢口……さん?」
加護はその表情に驚き、呟いた。
自分の頬をひたりひたりと叩くものに、飯田は意識を取り戻した。
ゆっくりと目を開く。
辻の顔が目の前にある。
それは、見慣れた飯田だからこそすぐにわかったが、
とても人の顔と思えるものではなかった。
辻の顔は、自らの涙と、鼻水でぐしゃぐしゃに崩れていた。
覆い被さるように上から顔を覗き込ませ、
だらしなく流れる涙と鼻水をそのままに、飯田の頬の上に垂らしている。
意識が飛んでいたらしい。
状況がよくわからない。
背中に人の体温を感じる。
肩が、小さな手に力強く支えられているのがわかる。
どうやら自分は、辻に抱きかかえられて地面に横たわっている。
辻の後ろに、割られた白壁と、柱の瓦礫の山がある。
「辻……か」
飯田は独り言のように口を開いた。
白壁が覆い被さってきたのは覚えているが、それに圧し潰された記憶がない。
飯田が声を発したことに気づき、辻が目を大きく開く。
しかしとりあえず、ここでこうしていると言うことは、
大体のことは飯田の思惑通り、うまく行ったということなのだろう。
結果的に壬生娘。組がどれだけの被害を受けたかはわからない。
しかし辻も今、こうして無事に、ここにいる。
(麻琴は無事だろうか)
小川のいた方向を見る。
幾人か、地面に倒れているのが見える。
蛍のように集まった、いくつもの灯りに照らされた大砲の周りには、
壬生娘。の隊士たちも検分に立っている。
身内から重大な怪我人が出ている様子はない。
とりあえずは、良かった。
そう思うと、飯田は目の前の、
その見慣れた顔に、そっと手を伸ばそうとする。
「……っつ」
右手が痺れて動かない。感覚が無い。
仕方なく、左手を伸ばす。
髪が涙に濡れてべっとりと辻の顔に貼りついている。
きたないなあ、と飯田は心の中で苦笑する。
「ばかやろう!!」
いきなりの怒号に驚き、飯田はびくっと手を止めた。
辻の目が睨んでいた。
飯田は瞳を丸くする。
「あんた、なに一人で勝手なことしてるんだ!」
涙と、鼻水と唾が顔に飛ぶ。
辻が息を止まらせている。
咳き込む。
いけない。落ち着かないと。
飯田は身体を横たえたまま、少し困る。
「ん……組のことを、思って……るのは、あんただけじゃないんだ」
肩を握る辻の手に力がこもり、少し痛い。
飯田の顔色が変わる。
ある、記憶が呼び覚まされつつあったからだ。
横になったまま、辻の背中越しに、倒壊した白壁の残骸を見る。
少しずつ、そのときの記憶を取り戻しつつあった。
自分の身に白壁が覆い被さろうとしたとき、
なにものかの力強い腕に支えられ、その場から強引に引き離された。
一瞬の出来事であった。
自分は、白壁に圧し潰される難を逃れた。
その手は、壬生娘。組局長たる飯田にさえ有無を言わせぬ力強さで、
まるで飯田を一人のいたいけな少女のように、一瞬でも蹂躙した。
「あんた私たちの頭だろ! あんたが一人で勝手なことしてどうするんだ!
小さな体が、泣きじゃくって小刻みに震えている。
自分の背中に、肩に触れるその小さな手は、
しかし、あの力強い手と同じものだということに気がついた。
ふっ、と。飯田の口から息が漏れる。
「そうだな」
一人で勝手に思いつめ、周りが見えなくなっていたのは、
確かに、自分のほうであったのかもしれない。
辻を、仲間の力を信頼もせずに。
小さな手の力を、肩に感じながら思う。
「すまなかった」
飯田は言った。
肩を握る辻の指の爪から、血が滲んでいる。
「不器用だな。……我々は」
(よか……った)
遠目に飯田の無事を見て、地面に横たわった小川は安心する。
暗闇から影が小川に走り寄り、抱き上げられ、揺さぶられる。
(…………!!)
声も上げられないほどの激痛が腰のあたりに走る。
「……! ……!」
揺さぶる影は小川に向かって何かを叫んでいる様子なのだが、
小川の耳には聴こえない。
あたりに音は全く無く、一定の小さな高音だけが頭の中を支配している。
たぶん、大砲の音を近くで聞いてしまったせいだと、
妙に冷静に思う。
(あさ美……ちゃん?)
おぼろげに見えてきた、その影の正体を心の中で呼ぶ。
「……! ……! …………!」
何度も、何度も揺さぶられる。
(痛いっ……て)
激痛に耐えながら、また、遠目に飯田の姿が映る。
抱きかかえる辻に罵倒されているのが見える。
(あはは……)
何故か自然と、顔がほころんでいるのが自分でもわかる。
(飯田さん……)
たいして距離も離れていないその光景を、
まるで夢の中の光景であるかのように、
まぶしそうに小川は見つめる。
本当に、良かった。
(……あれ? 安倍……さん?)
安倍の姿を見たような気がした。
さくら組局長、安倍なつみ。
飯田に並ぶ、自分たちの頭だ。
飯田と並び立つ、壬生娘。の特別な存在。
今、こんなところにいるはず無いのに。
幻でも見たのだろうか。
(わたしもこれで、少しは特別なこと、できただろうか)
(飯田さん……)
腰に、息をするのも苦しいくらいの激痛が走っている。
痛みから逃れるように、小川はそのまま気を失った。