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316名無し募集中。。。
「血の匂いだ」

刻を告げる鐘の音が止むと同時に、静寂があたりを包む。

「血の匂い?」
所司代監鳥居組の木村麻美が鼻で笑う。
「世迷言を――」

この目の前に立つ、あまりにも愚かな思考に支配された者たちへの、
腹の底から湧きあがる気持ちの悪いものに我を失いかけた紺野だったが、
藤本の突然の行動に、やや落ち着きを取り戻す。

(――いや)
一瞬は木村と同様に藤本のはったりかとも思った紺野だったが、違う。
確かに何かがおかしい。

静かすぎる。
馬も、犬も、鳴き声から息づかいまで、何一つ物音が感じられない。
虫の声一つない。

庭側に立つ、斉藤美海という娘と所司代組隊士たちの隙間の向こうに、
屋敷の庭の暗闇がある。

所司代組屋敷には庭と呼ばれるものが二つあり、
一つは現在紺野たちのいる詰め所も兼ねたこの建物の北側に位置する中庭と呼ばれるもので、
もう一つが建物の南側にある、この目の前の庭である。
317名無し募集中。。。:04/06/12 22:10 ID:2poxThlN
わずかに、ぬるい空気が歩み寄ってくる。
辺りに充満する農村のような家畜独特の匂いの中から、
藤本の言うような血の匂いを紺野は感じることは出来なかったが、
屋敷全体を覆う、何かしらの異様さは感じてとれる。

紺野も刀を手にしたまま、す、と藤本の後ろに歩を進める。
「う、動くな!」
斉藤に槍を向けられ、紺野は動きを止める。

腰の根付に刀の鍔が当たり、ちゃりと小さな音を立てる。
その音に、紺野は不意に不穏な考えを連想する。
(……斬る?)

目の前の連中を一人二人斬ってでも、この場の主導権を握るべきなのかもしれない。
もしこの屋敷全体を包む異様な空気が自分の気のせいでないならば、
権力への妄執にとりつかれたこの人たちより、
賢明な和田に指示を仰いだほうが正しいのではないか。
318名無し募集中。。。:04/06/12 22:11 ID:2poxThlN
いや。
(藤本さんじゃないんだから)
おかしなことはするなと矢口に言われている。
ここで所司代と斬りあってしまえば後々問題にもなる。

そもそも、紺野はそういった思い切った行動によって事態が急変するのを好まない。
それでも「斬る」という発想が思わず出てしまうのは、
曲がりなりにも壬生娘。組という中で過ごして身についてしまった、独特の価値観でもある。
だが、このままこの所司代に任せておくのが心配というのも正直なところである。

しかしそんな紺野の思いが杞憂であったかのように、
斉藤らとは明らかに違う反応を示す者があった。
里田舞。木村、斉藤らと同じく、所司代に属する監鳥居組の組頭格であると名乗っていた。
はじめは他の者たちと同じように嘲笑うかのような表情を見せていた里田だったが、
開かれた戸より入ってくる、わずかなぬるい風に顔をこわばらせていた。

「おい」
里田は身近の隊士を傍に呼ぶと、小声で囁く。
「……は」
命を受けた隊士は、そのまま屋敷の奥へと消えていった。
319名無し募集中。。。:04/06/12 22:12 ID:2poxThlN
「滅茶勤王党の動きは、所司代は追っていないのかい」
この状況にもかかわらず、和田が相変わらずの飄々とした口調で言った。

「はっ。勤王党がここを襲うとでも?」
木村は逆に威嚇のためなのか、大袈裟なほどに口の両端を吊り上げてみせた。

「もちろん追っていますとも。
それについては、あなた方より我々のほうがよっぽど正しい実態を掴んでおります。
なにせ、我々所司代は京都守護職より前から滅茶勤王党と対峙しているのですから」

確かに滅茶勤王党が京都で隆盛を誇った文久二年頃には、
まだ壬生娘。組どころか京都守護職すら設置されていない。
京都の治安維持には、各奉行所と、その上役である京都所司代が対応していた。
所司代配下である監鳥居組の設置自体はむしろ壬生娘。組よりも後なのだが、
組織としての滅茶勤王党に関する年季は所司代のほうが上と言っても間違いではない。

「ですが連中は、もはや幕府を脅かすような存在ではない」
「彼らを甘く見ないほうがいい」
「くどい。我らまで惑わされるおつもりか」
木村は現在直面している事態への思考以外に気持ちを割かれたくないのか、
鬱陶しそうに言う。

「少なくとも彼らが単独で我が所司代を襲えるような兵力など、有しているはずがない。
前阿佐藩主、田森一義公の藩政復帰により党首の武田真治は切腹。
京都を震撼させた人斬り共も我ら所司代が捕え、田森一義公に引き渡し、処刑された。
岡村隆史、矢部浩之両名は既に奴等と袂を分かち、よゐこは我らの手にある。
幹部と呼べるような人間はもはや、せいぜい山本圭壱と加藤浩次くらいのものだ。
確かに残党に多少の動きはあるが、奴らに党を再興する力など無い」
320名無し募集中。。。:04/06/12 22:13 ID:2poxThlN
「お前らは――」
すると。緊迫する空気をまた一人無視するかのように、呟く声があった。
藤本だった。

目の前で槍を構える斉藤らをまるで存在しないもののように、
ぼうっと一人で庭を眺めていた藤本は、ゆっくりと振り返り、ふっと呟く。
「――滅茶勤王党とつながっているのか」

「……はあ? そんなわけがなかろう」
あまりに突飛な問いに、
何をわけのわからぬことをという風に木村が答える。
紺野にも藤本の言葉の意図はわからない。

「ならば、内輪の揉めごとか」
また、ぼそりと呟く。
「なんだと」
しかし今度は一瞬、木村の表情が変わったように紺野には見えた。そのとき。

「隊長!」
庭から一人の隊士が駆け込んできた。
先程、里田の命により屋敷の奥に消えた隊士である。

「どうした」
里田が答える。
「う、馬が……厩舎が」
隊士は息を切らせながら北東の方向を指さした。
321名無し募集中。。。:04/06/12 22:14 ID:2poxThlN
――五条通り。

「安倍……さん」
石川が最初に口を開いた。

「局長!」
「安倍さん!」
「局長っ!」
続けて隊士たちが口々にその者を呼ぶ。

「妙な匂いがすると思ったら。あんたらはあんたらで、何してんの」
穏やかな口調のまま、その者は答える。
加護の視界から、白い残像が徐々に消えていく。

壬生娘。さくら組局長。安倍なつみ。

左逆手で半身に抜いた刀で矢口の刀を受けている。
右手には団子の竹串。
細い竹串の先で田中の刀の鍔をただ一点で押さえ、
その田中の刀の鎬(しのぎ)で新垣の槍を受けている。

目は暗闇の中であるはずなのに、
その型は正確無比。

どういった力が働いているのか、
安倍を中心に、三人は誰一人として動くことができない。
322名無し募集中。。。:04/06/12 22:14 ID:2poxThlN
田中が、がたがたと震えている。
肩の傷から血が抜けていく寒さからなのか、
自らの行いに対する今さらながらの恐怖からなのか、
安倍に抑えられた竹串の一点から、手もとの刀はぴくりとも動かず、
ただ、体だけががたがたと震えている。

安倍は矢口を一瞥すると、かしんと左逆手に持った刀を鞘に収め、
その手をそのまま、そっと田中の肩に置いた。
「もう大丈夫だよ」
すると肩からふっと力が抜け、田中はその場にへたり込んだ。
からん、と手から刀がこぼれ、地面に転がる。

「局長ぉぉぉぉおお」
他の隊士たちにだいぶ遅れて、新垣が情けない声で叫ぶ。
あまりの出来事に事態の把握が遅れていたらしい。
濃い眉毛を思い切り「八」の字にして、目には涙を浮かべている。

「お豆ちゃん」
安倍は困ったような嬉しいような顔で新垣に微笑み、
背中に手を回し、ぽん、ぽん、と抱きしめるように数回叩いた後、
未だ呆然としている矢口のほうに向き直った。

「なっ……。局長……」
矢口も驚きの顔で安倍を見ている。

矢口を見る安倍の顔は既に笑っていなかった。
「矢口。説明してもらうよ」
323名無し募集中。。。:04/06/12 22:16 ID:2poxThlN
――所司代組屋敷内。

一人の隊士の飛び込みに、
ようやく他の者たちも屋敷全体を包む事態の異様さを感じ始めていた。
周囲がざわめく。
監鳥居組の三人が顔を突き合わせ、平隊士を外に走らせる。

(何が起きているのだろう)
紺野らは、所司代組隊士の交差する槍によって行く手を阻まれ、
彼女らの会話を聞き取ることができない。

そんな中、所司代組隊士たちの注意が散漫になるのを見計らったように、
藤本がすうと、木村らと反対の方向に動き出す。
目の前の組隊士は木村らの動向に目を奪われている。

(あっ)
それに気づいた紺野は、
藤本がおかしな行動をしたら止めるよう矢口に言われていたことを思い出し、
呼び止めようとする。
「待っ――」

しかしそれより先に、ソニンが口を開いた。
「待て、和田様をここに放っていく気か。護衛があんた達の仕事だろう」
藤本は一旦動きを止める。
そして振り返り、ソニンを見た。

「できるのだろう」
ソニンの手に視線を移した。
324名無し募集中。。。:04/06/12 22:17 ID:2poxThlN
藤本の言葉を追って紺野がソニンの手に視線を移すと、
その手のひらの中には、黒い金属製の何かが握りこまれていた。
(……暗器?)

そういえば、監鳥居組の木村の話によれば、
ソニンは一時期、藤州の笑犬隊に間者として潜り込んでいたという。
ならば相当使える手か。

紺野は遊女をしていたというソニンの経歴にとらわれるあまり、
兵士としてのソニンの能力を考えていなかった。
和田の下で間者として動き、側に仕えているならば、それ相応のものがあって当然か。
藤本はそこまで分かっていたということだろうか。

ソニンがそれでもなお睨み続けるのを無視し、
藤本はやにわに木村たちとは反対の方向に走り出した。

「あっ」
紺野は慌てて追おうとして、和田の顔を振り返る。
和田は諦めたように口を「へ」の字に曲げ、細かく何度も頷いていた。
紺野は和田に軽く会釈をすると、藤本の背中を追って走り出した。

背中に、いつまでもソニンの刺すような視線がこびりついているような気がした。
325名無し募集中。。。:04/06/12 22:18 ID:2poxThlN
藤本は西に向かっていた。
何を目指しているのかは分からないが、
おそらく建物を外から回りこんで中庭のほうに向かう気なのだろう。

しかし、先には当然、何人もの所司代組隊士が待ち構えている。
隊士たちは迫る藤本に気がつき、槍を水平に構えた。
「おい! 逃げるぞ!」
すかさず藤本が腰の刀の鯉口を切る。

「藤本さんいけない!」
紺野は思わず叫んだ。

先刻、自分の心の中に浮かんだ不穏な思考と藤本の行動が被る。
しかし藤本は紺野とは違う。邪魔する者はすべて迷わず斬り捨てる気だ。
だがいくら緊急時とはいえ、一時の都合で本来なら味方である所司代を斬るなど、
迂闊なことをしてしまえば後々壬生娘。組の存続に関わる話にすら発展しかねない。
それだけ今は不安定な関係なのだ。
矢口が紺野に言っていたのはそういうことだ。

けれども。紺野は走りながら思う。
(矢口さん、やっぱりこの人止めるのなんて無理です)

「ち」
だが紺野の想像とは裏腹に、
藤本は走りながら小さく口元で舌打ちをすると、
浮いた柄を、かん、と右手で押し戻した。

(え?)
間も無く。紺野は遠目に、不可思議な光景を見た。
326名無し募集中。。。:04/06/12 22:18 ID:2poxThlN
藤本が刀を鞘に戻し、素手で所司代組隊士の集団に突っ込む。
先頭の一人目の突きをかわし、藤本の右手が槍の柄にそっと触れたその瞬間。

槍を持つ隊士の両足が、ふわりと浮き上がった。

(これは……!)
紺野は大きく目を見開いた。
隊士の体はそのまま、藤本を中心にぐるりと円を描き、背中から地面に落ちる。
「ぐうっ」
うめき声が漏れる。

「合気!?」
それは正しくは、合気ではなく柔術の基本的な技のひとつに過ぎなかった。
しかしその正確な足運び。流れるような体の動き、無駄の無い間(ま)。
藤本を中心に宙に描かれた美しい円弧は、
かつて柔術師範の吉澤が紺野に、悪戯に一度だけ見せた『合気』の技を容易に連想させた。

(いつの間に……?)
藤本の腰のあたりを中心に、幾人もの隊士が次々と地面に転がっていく。

剣と剣で人を投げるというような吉澤の極技には遠かったが、
それでも洗練されて見える藤本の柔術の技は、能の舞いのように美しく、
あまりの流麗さに紺野は足を止め、目を奪われた。
柔術を知る前に藤本自身が独りで積み上げてきたものがいかほどであったか、
紺野は驚愕せざるを得なかった。

隊士の八割方が地面に突っ伏し、うめき、立ち上がることができなくなった頃、
藤本は、息も切らせず紺野に言った。
「これでいいか」
327名無し募集中。。。:04/06/12 22:19 ID:2poxThlN
「え……あ、は、はい」
紺野の答えを待たずに藤本は再び走り出していた。
慌てて背中を追う。

屋敷の南西の角で右に折れ曲がり、南正門を背にして北へ向かう。
石畳の上を音も立てず走り抜ける。
北側の蔵群に続くこの外廊には、一定の間隔で灯りがともしてあり、常に明るい。

所司代の追っ手はもはや無い。
あたりの様子を見るに、危急の知らせはまだ屋敷全体には届いていないようだった。
どこにも動きが見られず、遠目に見える隊士も紺野たちの存在にすら気づいていない。

やがて紺野が追いつき、横に並ぶと、
藤本は走りながら、目も合わせずに言った。

「二手に分かれる」
「……はい?」
「説明している暇はない。勤王党が屋敷に潜入している。
それをおとめ組が追っている。目的はよゐこの救出だ」
「はい?」

藤本は紺野の困惑を無視して続ける。
「先に行け。目標は最北並び、西から四番目の蔵だ」
「え?」
「そこによゐこが捕えられている。状況を把握したら最善の行動を取れ」

そう言うと藤本は蔵の手前、
石畳の途切れたところで急に右に折れ曲がり、そのまま暗闇に消えていった。
328名無し募集中。。。:04/06/12 22:20 ID:2poxThlN
「……あの? え?」
紺野は慌てて足を止める。
しかし藤本の姿はすでに無く、足音も聞こえない。

(ああ、もう!)
自分の愚鈍さに腹が立つ。

足を止めた途端、体中から汗が滝のように吹き出てきていた。
額の汗をぬぐいながら、暗闇の中を一人で歩く。
(最北並びの、西から四番目の蔵に……よゐこ?)
しかし――。

(滅茶、勤王党?)
滅茶勤王党残党の動きが活発になっているという話は紺野も知っている。
だからこそ所司代の楽観ぶりに腹も立ったのだ。
だが、それが現実に所司代組屋敷を襲いうる程のものなのか。
木村が言っていたとおり、滅茶勤王党がそこまでの兵力を有しているかは正直疑わしい。
襲撃の信憑性がどれほどのものであるか、さくら組である紺野には知らされていない。

だが自身も今は所司代に追われる身である。闇雲に藤本を探しまわるわけにもいかない。
仕方なく、紺野はとりあえずその蔵に向かうことにする。

不思議と人の気配はどこにもない。
藤本の話が確かなら、滅茶勤王党か、藤本か、
あるいはおとめ組の誰かにいずれ出くわすはず。
いつでも刀を抜けるように、腰に手を添え、慎重に、慎重に、一歩ずつ歩を進める。
329名無し募集中。。。:04/06/12 22:22 ID:2poxThlN
まったく同じ形、色をした蔵群の白壁の横を抜け、北の塀に達し、
あたりに注意を配りながら右に折れたところで、紺野は奇妙な物体に気がついた。

黒い、小さな影が落ちている。
ちょうど藤本の言っていた四番目の蔵の近くだ。
紺野は息を潜め、北の塀に背中を預けながらゆっくりと進む。

それに近づくにつれて、生臭い刺激が鼻をつく。
血の匂い。

死体だった。
犬の死体。
紺野は決して慌てることなく、用心してそれに近づく。

異常だった。
明らかに異常な殺され方。
胴体の上に幾重にも刀傷が交差している。
恐らくは最初の一太刀で絶命しているだろうに、
その上から何度も、何度も、斬りつけられている。

周囲を引きずりまわしたのか、あちこちに黒い血の跡がべったりとついている。
紺野はその、もはや死体ですらない、本来の犬の半分ほどの大きさの槐に、
言い知れぬ狂気を感じた。

この異様な空気の中で、
犬の吠え声も、馬の嘶きも全く聞こえてこないのは、もしや。
330名無し募集中。。。:04/06/12 22:23 ID:2poxThlN
蔵を見る。
藤本の言っていた目標の蔵。

北の塀との間につづらなどの荷箱が集められ、無造作に積み上げられていた。
上を見ると、蔵の上部に穿たれた小窓の格子が破られている。
(ここから中に?)

念のため、注意をしながら蔵の表側に回る。
しかしやはり、表の鉄扉は大きい錠がかけられ、開けることができない。
耳をそっと鉄扉に当てる。
物音はしない。

再び裏に戻る。
状況から見て、ここから何者かが中に侵入したと見るのが妥当だろう。

あたりに人の気配は無い。
何故だか分からないが、藤本のやってくる様子も無い。
(状況を把握したら、最善の行動を取れ?)
藤本に言われたことを思い出す。
そもそも藤本自身は、ここに来るつもりがなかった?

だが、ここで迷っても仕方が無い。
藤本の言ったことは正論ではある。
紺野は上を見上げ、意を決して、積荷に足をかけた。
足に踏まれた積荷がぎしりと苦しそうに音を立てた。

その無造作に積み上げられた荷の中に、
“荷ではない、やわらかいもの”が含まれていたことに、紺野は気がつかなかった。
331名無し募集中。。。:04/06/12 22:24 ID:2poxThlN
小窓は人一人がじゅうぶんに通れる大きさだった。
紺野は格子の残っていた部分に手をかけ、自分の体を持ち上げる。

蔵の中には灯りがともっている。

頭だけを小窓の中に入れると、まず猛烈な異臭が紺野の鼻をつく。
紺野は思わず手を外から引き込んで鼻をつまむ。
この暑い中、蔵に篭っていたのだから、臭いの酷さは尚更である。

なるべく音を立てないように、体を中に入れる。
体が小窓を通りきると、膝立ちになってすかさず脇差を抜く。
狭い屋内では扱いにくい大刀より、短い脇差のほうが向いている。

空気が篭っている。
異様に静かだ。

蔵の中は十畳ほどの広さ。
紺野のいる場所は、蔵の二層構造の上段で、
上段の床は蔵全体の広さの半分ほどで途切れており、
そこから下段に移動する小さな梯子がかけられている。

紺野は低い体勢で梯子の傍に寄り、そっと下を覗き見る。
下は意外に明るい。

台の上に乗せられた太い蝋燭の炎が揺れている。
死角になっているところが多くて様子が完全にはわからない。
炎の揺れにあわせて、死角の影がちらちらといそがしく左右に揺れる。

人の気配が感じられない。
(……? 人の気配が……無い?)
332名無し募集中。。。:04/06/12 22:24 ID:2poxThlN
紺野は慎重に脇差を片手に持ったまま、
もう片方の手で梯子を握り、ゆっくりと下に降りる。

猛烈な臭いで鼻が既に効かなくなっている。
扉を開け放ちたいところだが、鉄の扉は外から錠をかけられていて開かない。
蝋燭の炎がゆらりと揺れる。

(人が……いない?)
まさか、よゐこは既に脱出した後か、あの小窓から。
紺野は自分のいた上段を見上げる。

そこでふと、奥にまだ何かあることに気がついた。
上段の床の下。ちょうど紺野が侵入してきた足元のあたりになる。
荷の死角になっているが、まだ、それなりの広さがありそうだ。

(隠し部屋?)
紺野はごくりと唾を飲み込む。汗がつつ、と頬を流れていく。
脇差を前に構えて進む。

ぴちゃり。
その死角を覗き込む前に、
紺野は足先に触れる生暖かいものに反応し、歩みを止めた。
反射的に足元を見る。

血だまり。
333名無し募集中。。。:04/06/12 22:25 ID:2poxThlN
(……!)
紺野は瞬時に足を引き、
そして少し遅れて気がついたように正面を向き、
血だまりを避けるようにして左右の荷を横に押し、前に進んだ。

息をのんだ。

一つ、二つ。……三つ。四つ……
五つの体が、その狭い空間に詰め込まれていた。
濱口優。有野晋哉。そして三名の阿佐藩士。

「酷い……」
紺野は思わず声を出した。

五つの塊から大量の黒い血が滲み出、床に大きな血だまりを作っている。
猛烈な異臭は、その周辺から発していた。
334名無し募集中。。。:04/06/12 22:26 ID:2poxThlN
たしかに尋常な光景ではなかった。

が、紺野とて壬生娘。組の組頭であり、死体などは日頃から見慣れている。
紺野はわずかな時間で平静を取り戻し、状況を確認しはじめる。

蝋燭の位置から死角になっているために暗く、死体の状況が正しく確認できない。
炎が揺れるたびに、光と影が死体の上を交錯する。
紺野は口に手を当て一瞬考えた後、
五人の顔を確かめるように、まじまじと顔をよせた。

「う……」
すると、その中の一人から声が漏れた。
紺野は反射的に身を引く。

(まだ息がある)
「大丈夫ですか!?」
紺野は遠慮がちに体を触る。

苦しそうに、血だらけの顔面からゆっくりと目を開いたのは、濱口だった。
「う、うし……」

「うし?」
何かを訴えかけるように濱口が手を伸ばす。
手は、紺野のうしろを指さしていた。
335名無し募集中。。。:04/06/12 22:27 ID:2poxThlN
途端に紺野の背後で盛り上がる強烈な殺気。

紺野は振り向いた瞬間に後ろに跳び、脇差を両手で構える。
そしてその強烈な殺気の渦に誘い込まれるように、
間を置かず上段を、積荷の影に打ち込んだ。

「やあああああああ」
鉄と鉄の弾けあう音が空気の篭った蔵の中でこだまする。

渾身の打ち込みは“それ”にあえなく受け止められ、
伸びてきた強烈な前蹴りに紺野は吹き飛ばされる。
「ぐふっ」
体ごと血だまりに飛び込み、黒いしぶきがあたりに散り、斑点を作る。

紺野は立ち上がりながら視線を走らせる。
積荷の影から、それは姿をあらわした。

血走った目が、紺野の視線を捕えて離さなかった。

それは紺野の第二の打ち込みを動物的な動きでかわし、
ぼろぼろの刀を手に狂ったように紺野に襲い掛かる。
刀を横にして両手で受ける。

「あぅぁげぁごごうっー」
それは人とも獣ともつかぬ叫び声を発して紺野を威嚇した。
336名無し募集中。。。:04/06/12 22:28 ID:2poxThlN
紺野は受ける刀に力を込めながら、ゆっくりと呼吸する。
蹴られた腹がずきりと痛む。
しかし、今の紺野に耐えられない痛さではなかった。

以前、似た体験をしたことがある。
やはり同じように、渾身の上段の打ち込みを難なく受け止められ、
腹を蹴られ、弾き飛ばされた。
紺野はその時、己の力の無さを実感した。
以来、紺野は前よりもずっと体を鍛えてきた。

当時はまだ組長ではなかったが、
仮にも壬生娘。に名を連ねる紺野を、いとも簡単に、赤子のようにあしらった獣。
その名を藤本と言った。

しかしこれは、その獣とも違う。
返り血を浴びて血だらけの上半身は何も身にまとっていない。
下半身は腰から下が全て真黒い股引(ももひき)で覆われている。

(狂っている)
紺野はその血走る目を見て、直感的にそう感じていた。
藤本をどこか理知的なたたずまいを持つ、抑制されたしなやかな獣(けもの)とするならば、
これはまるで手負いの、血に飢えた本能のままの、けだもの。

「う……うしみつ……」

濱口が息も絶え絶えに、言葉を発した。
その名を聞き、滅茶勤王党と目の前のけものが、紺野の中で一本の線によって繋がれる。

「人斬り丑三(うしみつ)!?」
紺野は叫んだ。
337名無し募集中。。。:04/06/12 22:29 ID:2poxThlN
加護は独りで、その光景を眺めていた。

目の前で石川と矢口が、安倍を挟んで話をしている。
地面にへたり込んだ田中が、亀井と他の隊士に肩の手当てを受けている。
新垣は少し離れた場所で槍を支えに立ち、ぼうっと安倍たちのほうを眺めている。

「――わかった」
二人が一通りの説明を終えると、安倍が言った。
全員の注目が安倍に集まる。
安倍の次の言葉を待っている。

「亀井」
「はい?」
「ちょっと荷物とってきてくれる? 茶店に置いてきちゃったんだよね。場所は――」
「わかりましたあ」
亀井は平隊士を一人連れて、すぐに鴨川の方へ消えていく。

「安倍さん」
石川が言うと、安倍は全員に向かって言った。
「屯所に戻る」

「なっ……」
矢口だけが不満そうに声を上げた。
338名無し募集中。。。:04/06/12 22:30 ID:2poxThlN
目の前の、数人の壬生娘。たちのやりとりが、
加護にはどこか、自分とは別の世界のように見えた。

加護は、引くという安倍の判断は結果として正しいと思った。
矢口が何を思っているのかは結局のところ分からなかったが、
それが妥当な判断だろう。

しかしなんだろう。このもやもやした気持ちは。
新垣を見る。精魂尽き果てたような顔をしている。

自分は一体、何をしていたのだろう。

矢口の考えは分からない。
何を知り、何を背後に背負い、何を自分たちにさせようとしていたのか。
安倍はそれを知っているのだろうか。
或いは、それを知らずとも、周囲の状況から冷静に判断を下せるのが、
この、おとめ組局長たる安倍の力量なのだろうか。

「局長!」
矢口はなおも不満げに安倍に食い下がる。
「おいらの離しを聞いていたのかい?
ここは組全体で所司代に向かうべきだ。圭織の考えも分かるけれども……。
でも信じてくれ、おいらは――」
「矢口」
安倍が矢口の言葉をさえぎった。

「圭織のことは信じてやらないのかい」
339名無し募集中。。。:04/06/12 22:32 ID:2poxThlN
矢口が目を剥き、口をつぐんだ。

「仲間を信じるのだって、私たちの仕事だよ」
安倍は石川を見る。
「ね? 石川」

石川は妙に気まずそうにうつむいている。
「石川は圭織を信じてるべさ」

「ああ、そこか……」
加護は誰に対してでもなく、独り小さく、そう呟いていた。
肩の力が抜けていくのが自分でもわかる。
安倍の口から当たり前のように発せられた言葉に、
自分に何が足りなかったのかを思い知る。

「……加護さん?」
気がつくと新垣が、不思議そうに首を傾げ、加護の顔を覗き込んでいた。
「どうかしました?」
「ううん、なんでもない」
加護は顔をそらす。
自分がどんな顔をしているのか分からない。見られたくない。
「お豆ちゃんはすごいなあ」
「……はあ?」

すると突然、轟音が鳴り響いた。
何かが爆発したような、暗闇を引き裂く巨大な音。

全員が一斉に、その方向を見た。
「なんだ!?」
「二条城の方向だ」
340名無し募集中。。。:04/06/12 22:33 ID:2poxThlN
血走るけだものの目が紺野をとらえて離さない。

――姓を江頭、名を丑三。
名のほうは通り名であり、本当の名は知られていない。

文久の時代、京の都を震撼させた滅茶勤王党による殺戮。天誅の数々。
その影に必ずその姿が見られたという。

党首武田真治の下で、思想も何もなく、
ただ武田を崇拝し、武田に仇なす者を端からすべて斬っていった。
学は無いに等しく、粗野で荒々しい性質ではあったが、
実戦における剣法の腕前だけは並び立つ者が無く、
当時の奉行、所司代は手を焼くに焼いた。

その、あまりに無思慮な、まるで人を斬るためだけに生まれ、
人を斬ることだけが無上の悦びであるかのようなその男を、
京の人間のみならず、同じ勤王の浪士や勤王党の身内の者まで、
「人斬り丑三」と呼び、畏れ、蔑んだ。

(まさかこれが、あの人斬り丑三?)
紺野は驚きを隠せない。

(死んだはずじゃなかったの?)
この男は盟主、武田真治と運命を共にしたと伝えられている。
341名無し募集中。。。:04/06/12 22:35 ID:2poxThlN
その時、蔵の外でぴりりりと呼子が鳴り響いた。
紺野もよく知る壬生娘。組の呼子。

丑三の力が緩む。
紺野はすかさず脇差を離し、素早く横に薙ぐ。
しかし当たらない。

距離を置いて睨みあう。
丑三は荒く肩で息をしている。

(おとめ組?)
藤本の言った通り、おとめ組が来ているのか。
だとしたら、外には滅茶勤王党も?

丑三は血走った目で紺野を睨みつづけている。
しかし先程より殺気は弱く感じる。
丑三も呼子を受け、迷っているのか。
彼にとってもここに留まることは得策ではないはず。

すると。
がたがたと鉄の扉が鳴った。
外に誰か来ている。

隙を突いて再び丑三が斬りかかってくる。
342名無し募集中。。。:04/06/12 22:36 ID:2poxThlN
速い。
気の狂ったような無軌道な斬撃を紺野は脇差で必死に受け止める。
脇差が木の枝のように削られていくのが分かる。
細かな破片が飛び、紺野の頬や腕の表面に浅い傷をつける。
「くっ」

丑三の狂気は、その攻撃の志向性にあった。
無駄なく、きれいに斬ろうという、人として当然の感性が感じられない。
ただ目の前のものを、手にしたものを使って破壊しようという純粋な攻撃性。
その中に、人を斬るということへの畏れ、
自らと同種のものを切り刻むということへの想いが少しもない。

がちゃん。という音が聞こえる。
鉄扉の錠が外れた音だ。

間も無く。ぎいいと鉄の扉が開く。
覗き込む顔と一瞬目が合う。
(おとめ組じゃない)

風貌から言って、おそらく所司代でもない。
だとすれば滅茶勤王党。
紺野は追い詰められる。

しかし、覗き込んだその顔の反応は、紺野の想像と違っていた。
「駄目だ! 違う! 逃げろ!」
男は丑三を見るなり、顔色を変えて叫んだ。
343名無し募集中。。。:04/06/12 22:36 ID:2poxThlN
次の瞬間、蔵の中の灯りが消える。
丑三が消したのだ。

(あ……)
突然の暗闇に紺野は視界を失う。
全身に鳥肌が立つ。
今、丑三に襲い掛かられたら確実に斬られる。

「違う! 加藤さんに知らせろ! 逃げろ!」
男の叫び声が続く。
紺野は目を瞑り、脇差を受けに構える。

だが。
丑三の気配は既に無くなっていた。

(逃げ……た?)
ゆっくりと目を開き、再びどきりとする。
まだ、鉄の扉から中を覗き込んでいる影がいた。

(勤王党?)
紺野は咄嗟に息を潜める。
しかしその影は、紺野の存在に気がつかなかったのか、そのまま姿を消した。

「麻琴!」
続いて外から叫び声がする。
(飯田さん? 麻琴?)
344名無し募集中。。。:04/06/12 22:37 ID:2poxThlN
聞き覚えのある声だった。
おとめ組局長、飯田圭織の声。
とすれば、先に覗き込んでいたのは同じくおとめ組の小川か?

紺野は声を追って慌てて表に出る。しかし既に人の姿はない。
すると離れたところに、人影を見つけた。

(飯田さん)
その長身の影は見覚えのある飯田の姿。
飯田は何かを追っているらしく、蔵群の中を走り抜け、
途中で角を左に曲がり、中庭の方に向かって蔵の陰に消える。

紺野は飯田を追う。
とにかくこの状況を把握しなければならない。
そして飯田に知らせなければならない。

(あの人斬り丑三が生きている)
今もこの、所司代組屋敷の中にいる。

しかし飯田の消えた角にやっと辿り着こうというとき、
思いもかけない事態が紺野の身を襲った。

「飯田さんっ!!」
切迫した叫び声。
「うわぁぁあああああああああああ」
(麻琴?)

紺野にとってはあまりにも唐突に、何の前触れも無く。
そのとき、天地を揺るがすような轟音が闇を引き裂いた。
345名無し募集中。。。:04/06/12 22:38 ID:2poxThlN
>>338
修正
×この、おとめ組局長たる安倍の力量なのだろうか。
○この、さくら組局長たる安倍の力量なのだろうか。