刻を告げる鐘の余韻が残る中、飯田の黒い影から伸びた長い刀が、
ぎらりと白い刀身を輝かせる。
剣の間合いから五、六歩は離れている。
加藤は門を背にして黙ったまま睨んでいる。
山本はせわしなく門の内と外を交互に見ている。
おそらくこの状況では、滅茶勤王党側もまだよゐこを救い出すには至っていない。
だから存在を所司代に知られるわけに行かず、大声を上げて仲間を呼ぶことができない。
人影はまだ、加藤と山本の二つしかない。
飯田は刀の先を向けたまま、暗闇の北東門を凝視する。
門の上に座する、猿の彫り物が黙ってこちらを見つめている。
「うしとら(北東)から災いを呼び込もうとは。鬼にでも倣ったつもりか」
北東の方角は陰陽道で鬼門(きもん)と呼ばれ、
鬼が出入りし災いを呼びこむ方角として忌み嫌われる。
京都の屋敷ではそれを嫌い、北東の角を落とし『鬼門封じ』をしているところが多い。
この所司代組屋敷も多分に漏れず、北東の方向には地形的な“切り込み”を入れている。
だから北東門とは言っても、所司代のそれは正確に北東の位置にあるわけではない。
屋敷東壁の北寄りに設けられた、
東隣にある所司代下屋敷との間を行き来するための小さな通用門である。
少し大柄の人間であるならば身を屈めるくらいでないと通りにくいほどの大きさ。
東門がやや南寄りにあるため、下屋敷との利便性で建築後に改めて設置されたものらしい。
ここに勤める者も皆、ここが(ほくとうもん)と呼ばれることを嫌い、
あえて(きた、ひがしもん)と呼ぶ。
所司代としても本来ならばこんなところに門など作りたくはなかっただろう。
門の上には御所の北東――猿が辻と呼ばれる場所に挿げられた鬼除けの猿の彫り物に倣ったのか、
似た猿の彫り物を挿げている。
飯田のすぐ右横で壁の中の影がじわりと動く。
北東の“切り込み”の内で刺客の一人が息を潜め、隙を狙っていた。
眼前の飯田は門前の山本と加藤に刀を向けたまま、じっと動かずにいる。
影は無言で脇差を腰の位置に構え、側面から飯田に向かって思い切って踏み出す。
しかしそこから先、刺客の足は一歩も進まなかった。
どさり、とその足元にかたまりが落ちる。
一言も発さぬまま打ち落とされた、刺客の首であった。
門に視線を向けたままの飯田の、刀を手にした右手だけが横一線に薙ぎ払われていた。
山本が息を呑む。
「お猿に代わり、壬生の梟が鬼を退治つかまつろう」
飯田は北東門から視線を外さぬまま、言った。
風。と言うよりは、血臭の混じったぬるい空気のうごきが、
緊張する両者の間をゆったりと通り過ぎていく。
紐で後ろに束ねられた飯田の長い髪が、ゆらりと揺れる。
首と、首のない体が地面に横たわっている。
すると何を思ったか、加藤がいきなり山本を肘で小突きはじめた。
「何だよお前」
「ええ?」
山本は何をいきなり、という顔をする。
「壬生娘って、来ちゃってるじゃんか」
「……だから、なに」
「お前。何してたんだよ、こんな所まで来て」
「……見張りだよ」
「じゃあ何だよこいつは、こんな所まで来ちゃってるじゃんか。何見てたんだよお前」
両手で山本を強く突き押す。山本はよろけて数歩あとずさる。
「それは……」
「ふざけんじゃねえよ。お前が見張りやるって言ったから任せたんだろうがよ」
「わかってるよ俺だって」
「わかってねえじゃねえか、なんでこんなところにこんな奴がいるんだよ」
どうやら飯田を無視して仲間割れをはじめてしまったらしい。
「だからそれは」
「だからじゃねえよ!」
加藤が強く押すと、山本がその場に倒れてしまった。
体中が砂まみれになると、今度は山本が怒り出した。
「わかってるって言ってるだろ! 俺だってな、
言われなくたってがんばってるんだよ!」
「がんばってねえじゃんか、見ろよこれ」
「ああああああ」
二人は飯田の目の前で、とうとう掴み合いの喧嘩を始めてしまった。
さてどうしたものか。
蚊帳の外に置かれてしまった飯田は長刀を中段に構えたまま、二人ににじりよる。
「お前はいっつもいっつもいっつも」
「うるさいんだよっ!」
「てめえ、いいかげんにしろよっ――」
間合いに近づいた瞬間、飯田は殺気を感じ、刀を横に寝かせた。
加藤の右手から不意に伸びた小刀が、高い音を立てて飯田の目の前で跳ね上がる。
「――っと」
飯田は後ろにとび、再び間合いを開ける。
「ちっ」
加藤が舌打ちする。
喧嘩するふりをして、油断を誘っていたのか。
(妙な芸を使うな)
それを合図に、喧嘩などまるで無かったかのように、
二人がじりじりと飯田に向かって間合いを詰めはじめた。
奇妙な構えだ。
加藤は脇差ほどの長さもない小刀を二本、両手に持ち、
大きく覆い被さるように腕を広げて剣先を飯田に向けている。
山本は得物を持ってすらいない。
腰を低く落とし、ただ何も持たない手のひらを向け、すり足で飯田ににじり寄ってくる。
先程の事から考えても、二人がどんなことを仕掛けてくるのか分からない。
飯田には、滅茶勤王党によるよゐこ救出を待たねばならないという弱みもある。
心の中で、勝負に出てしまったことが果たして正しい判断だったのか、
わずかに迷いが生じる。
(早すぎたかもしれない)
「一人か。お前、所司代とは別もんだな?」
じりりと迫る加藤が、かすれ気味の声で言う。
「……なぜそう思う」
「知らねえよ」
加藤は答える代わりに飛び掛ってきた。
人並みはずれた跳躍で間合いが一気に縮まる。
速い。
飯田の剣先を躱し、長刀の間合いを抜ける。
襲い来る加藤の左手――飯田から見て右外下からの小刀を飯田は長刀の棟で受け止める。
そしてすかさず返す刀で加藤の首を薙ごうとする。
が、長刀がそこにとどまったまま動かない。
加藤が受けられた左手を素早く逆手に返し、
小刀で鎌のように飯田の長刀を押さえこんでいた。
加藤は、飯田の切り返しとまったく同じ速さで小刀を切り返して見せたのだ。
いかに長刀と小刀の違いがあるとはいえ、
飯田の切り返しと同じ速さは並ではない。
間髪入れずに加藤の右小刀が頭上から襲い掛かる。
飯田は後ろ左足を右足に交差させるように大きく引き、
体が後ろに崩れる勢いで、あとずさりながらそれを躱す。
体勢は崩れたまま右膝立ちになる。
左手を後ろ手に地面につける。
しかし視線と長刀の剣先は加藤の顔面への狙いを保ち、三撃目に備える。
それを予見して加藤の追い足が止まる。
長髪を後ろで結んでいた紐が、はらりと解ける。
(……なるほど。そういう技か)
左手小刀で相手の出足を誘い、押さえ込み、右手でとどめを刺す。
いわゆる二刀流の変形のようなものか。
両手とも小刀である分、二刀流より動きが速く、体術の系統が色濃くなっている。
刀の短さからくる間合いの狭さは大柄な体躯と瞬発力で補っているのだろう。
相手の切り返しを予測できる目がなければ、こんな芸当はできまい。
この男、できる。
伊達に滅茶勤王党の幹部を務めていたわけではないということか。
二人の攻勢は止まらない。
飯田の後ずさりにあわせて、山本が懐に鋭く間合いを詰めてくる。
飯田は膝を上げ、再び正眼に構える。
巨大な肉槐そのままの山本の体が迫る。
「どすこーい!」
(力士?)
聞いたことがある。
滅茶勤王党には『騎馬力士』の異名を持つ力士あがりの刺客がいるということを。
いわく“動ける巨体”。相棒は『滅茶の狂犬』。
滅茶勤王党きっての無頼者で、二人合わせて『極楽とんぼ』を名乗っているという。
加藤、山本。この二人がそうだったか。
飯田の腹に向けて右の手のひらが伸びてくる。
相撲の突きである。
すんでのところで横に捌く。
ごう、と飯田の横をぬるい風が突き抜けていく。
すると、その巨体の後ろから新たな気配が現れた。
(三人目!?)
加藤ではない。
山本の巨体は躱された勢いのまま飯田の右に逸れていく。
新たな気配はその逆の左。
飯田は慌てず左に視線を走らせ、刀を振りかぶる。
が、飯田がその刀を振り下ろすまでもなく、
左側に回りこんだ気配は、ぐうと小さな息を漏らし、その場に倒れた。
突進の勢いのまま行き過ぎた山本は振り返り、あっという顔をした。
倒れた影の首に“くない”が二本突き立っている。
それを見た加藤がすかさず、自分の背後に目を向ける。
門横の壁の上にしゃがむ影があった。
小川であった。
「くそ」
加藤が懐の小柄を壁の上に投げつける。
しかしすでに小川の姿は無い。
小柄が虚しく壁上の瓦に当たり、乾いた音をたてる。
小柄を躱し、ひらりと宙に飛んでいた小川は、
とんぼをきって地面に降り立ち、飯田の傍に寄った。
「局長。ちょっとおかしいです」
小声で囁く。
「説明しろ」
「中庭に所司代が一人もいないです」
「斬られたんじゃないの」
「そうかもしれませんけど、それでも多くはないです。
死体がごろごろ転がってたわけじゃないし。滅茶勤王党と思しき者も少ないし」
「何人?」
「確認できただけで三人です。もう少しいそうな感じもしますけど」
三人。とすれば、ここにいるのと飯田、小川がそれぞれ倒したのを入れても七人。
京都守護の要である所司代の屋敷を襲うにはいかにも数が足りない。
これでは襲撃というより奇襲。
加藤と山本が両翼から同時に襲いかかってくる。
飯田が加藤の小刀を長刀で受け、小川が山本の張り手をかわし、再び背中を合わせる。
「……詰め所の中はどうだ」
「人の気配はします。でもそれ以上は遠くて、暗くて」
「動きは無いのか」
「はい、目立った動きは」
和田らがいるはずの所司代組詰め所は所司代組屋敷敷地内の南側にある。
いわゆる正門となる南門をくぐってすぐにそれがあり、
中庭を挟んで北西から北によゐこの入れられている牢を含む蔵群、
そして東から東南にかけて厩など、家畜を飼うための小屋が並ぶという配置になっている。
理由は分からない。が、小川の報告から言っても、
どうやらこれは飯田の想定していたような大規模な襲撃ではない。
所司代が北東方面に不在なことを前提とした、空き巣狙いのような奇襲だ。
滅茶勤王党は所司代に知られぬまま、ひっそりと計画を実行している。
「……麻琴。予定を変更する。
お前はすぐに戻って辻と道重に合流。二手に分かれて西門と北門前に張らせろ。
私の合図と同時に各門より突入。全員まずは牢を目指せ。よゐこだけは逃がすな。
所司代は無視しろ。斬るな」
北西にある、よゐこらの囚われた牢から一番近いのが北門。その次が西門。
侵入してきた北東門が抑えられれば、そちら側に逃げる可能性が高い。
南正門は牢から離れており、所司代組の詰所があるため、
空き巣狙いという観点からすればもはや考えにくい。
北東からの侵入が予想外ではあったものの、
元々、二条城の北側一帯を占める所司代敷地内で西の外れに位置する所司代組屋敷は、
北か西がもっとも出入りしやすいことに変わりはない。
ここまで所司代に動きが無いのはもはや異常だろう。
あるいは所司代が敵側に回っている可能性も考えるべきかもしれない。
すべて、ということは無いだろうが、内部で手引きしている者がいることが考えられる。
滅茶勤王党によゐこを救出させる手引きをする者が。
場合によっては“所司代に”よゐこを逃がされてしまう。
嫌な予感がしている。
田森一義公上洛にさきがけた阿佐藩勤王派及び、滅茶勤王党残党による決起。
その前哨としてのよゐこの奪い合い。
しかしその渦中にある所司代と滅茶勤王党残党の関わりがどこかおかしい。
飯田の中にあった、この事象を捉える枠組みが少しずつ崩れ始めている。
これはもしかしたら、もっと大きな別の枠組みの中の、完全なる一部であるのかもしれない。
このままでは……。
飯田は焦る心を抑え、自答する。
(いや。ここに突入を決めたときから何も変わってはいないんだ。圭織)
「所司代組屋敷を一気に突破し、我々が有野、濱口及び阿佐浪士三名の身柄を保護する」
体裁は後でどうとでもなる。多少強引であろうとも、壬生娘。が“駒”を確保する。
飯田の心は最初から変わっていない。
壬生娘。がその強大な力を幕府のため、自由に振るうために、政事の力を手に入れるのだ。
「ここ(北東門)は?」
そう聞く小川に飯田は迷わず答える。
「私が斬りこむ」
「そ、それは無茶ですよぉ」
小川の言い分は当然である。
滅茶勤王党がここ北東門から侵入している以上、この場所に最も人数が集中している可能性が高い。
そこに飯田が一人で残ると言うのだ。
だが、これからどの方面で何が起こるか分からない。
ならば現時点で戦力がある程度わかっているところに自分が残れば計算は立つ。
最も危険と思われる場所に自ら残る。
これは飯田の局長としての考え方でもあった。
「いいから急げ」
「……あんまり無茶しないでくださいよ」
小川がしぶしぶと、来た道に消えていく。
それを横目で見送ると、飯田は再び加藤、山本と対峙する。
(頼むぞ……石川)
――(所司代組屋敷には辻、小川、道重で行く。指揮は私が執る)
そう飯田が言った時、石川は当然のように反対した。
(私が行きます)
(いや、石川にはやってもらうことがある)
石川に指揮を任せて自分が屯所に留まることもできた。
隊の体裁を考えれば、そのほうが収まりがいいのは確かだった。
局長の自分とおとめ組の半数、そしてさくら組が屯所に残っていれば、
傍から見れば本隊はほぼ動いていないということが、後々幕府に対して弁明できるからだ。
つまり石川の独断で所司代屋敷に向かったと。
だが飯田が出動してしまえば、それは事実上おとめ組全体が動いた印象を与え、
おとめ組全体に責任が及ぶ可能性がある。
ある種、わがままであることは分かっている。
しかし飯田は、そこを冷徹に判断し、石川を犠牲にする計算ができるような人間ではなかった。
どちらにせよ罪を問われれば最終的には自分が腹を切るつもりでいる。
ならば最初から、自分が最も危険な場所に向かうのもいい。
飯田はそう思っている。
もとより、自分がさほど統率力に優れた局長でないことは十分承知している。
だからせめて、危険な場所には自分が進んで立つ。
若い芽たちも少しずつではあるが、育ってきている。
あるいはここで自分が命を落とすようなことがあっても。
そう思っている。
「……よし!」
そう言うと。
飯田は大きな瞳をさらに大きく開き、微笑んだ。
背後の山本を無視し、門前の加藤に向かって進む。
空気が変わった。
「な、なんだ!?」
迷いのない飯田の正面からの歩みに加藤が怯む。
微笑みながら颯爽と進む飯田の迫力に圧され、後ずさる。
「させるかっ」
後ろから山本が突っ込んでくる。
しかし飯田はまるで後ろに目がついているかのようにそれひらりとかわし、
そのまま一回転して正面の加藤の胴を逆袈裟に斬り上げる。
山本は勢い壁に体ごとぶつかり、上の瓦を揺らす。
加藤は飯田のそのあまりにも無駄の無い動きに不意を突かれ、
横に転がりながらそれを躱すのが精一杯だった。
加藤が立ち上がって飯田を見る。
闇夜にすらりと立つ長身の影。
後ろ髪を束ねていた紐が解けており、長く、広がった黒い髪がゆれる。
長刀を大上段に構えている。
頭上に掲げられ、闇夜に白く浮かび上がるそれは、
同じ長刀であっても無骨な勤王刀には見られない優美さがあった。
飯田の愛刀――備前長振知常(びぜんおさぶり ともつね)。
剣先からゆるやかに波打つ美しい刃文は、異人に遠く故郷の海を連想させるという。
「壬生娘。おとめ……。
壬生娘。組局長、飯田圭織。北東門を通らせていただく」
穏やかな微笑を湛えたまま、飯田が言った。
長い刀を自己満足のためのようにしか持たない有象無象の志士たちとは異なり、
飯田は備前長振の長大さを持て余すことなく、その長く美しい黒髪の如くきめ細やかに、
ふわりと風にたなびくように軽やかに振るう。
もはや奇技を弄する加藤も、その大上段から振り下ろされる無心の一撃を、
ただ漫然と、十字にした小刀で真正面から受け止めることしかできなかった。
「ぎ……」
上からの物凄い圧力に加藤は膝を徐々に折っていく。
加藤の顔に汗が浮かび、表情は苦痛にゆがむ。
飯田は微笑を絶やさぬまま、もはや自分の胸の位置より低くなった加藤の頭から視線を外し、
左足を上げて北東門の木製の扉を勢いよく蹴飛ばした。
大きな音を立てて北東門が開け放たれる。
「何事だ」
それを合図に、わらわらと人影が集まってくる。
小川の言ったとおり、人影は三つ。
見張りの屋敷から遠眼鏡で確認できたのが六人だから、
斬った二人と加藤、山本を合わせて既に超えている。
まだ牢の方面と、闇に潜んでいる可能性も高いにしても、
十人前後か。
飯田は加藤を押さえていた刀を離し、牢へ向かって中庭へと歩みはじめる。
物凄い圧力から解き放たれた加藤はその場に腰をつき、ふうと息を漏らす。
勤王党浪士たちは何が起きているのか把握しきれていない。
この剣客は見たところ所司代ではないが、加藤と山本の様子を見るに、味方ではない。
「ま、待て」
飯田の悠然とした歩みの圧力にひるみつつも、三人は刀を抜き、
遠目の間合いから飯田を取り囲もうとする。
飯田の歩みが止まる。
背後から、山本と加藤がふらふらと寄ってくる。
五対一。
飯田の顔から微笑みが消える。
闇に向かってじっと目を凝らす。
「お前ら、これで全員か」
「何者だ貴様っ」
「全員かと聞いている」
京都所司代という、京都守護の総本山とも言うべきこの屋敷に襲い掛かるにはあまりに寂しい。
本当にあと五人しかいないというのか。
「ああ、こんなもんだ」
口を開いたのは背後の加藤だった。
「俺たちの滅茶勤王党はな」
飯田一人を前に敗北を覚悟したのか、すでに気力を感じない。
「加藤……」
山本の声。
よく見れば、全員がまるで百姓のような貧相な身なりをしている。
これがあの、京都に天誅の嵐を巻き起こした滅茶勤王党の末路だというのか。
「岡村さんさえ……岡村さんさえ戻ってくれば、滅茶勤王党はよみがえる」
党員の一人が言う。
「岡村……?」
飯田の眉がぴくりと動く。
「そのためにはまず、有野さんと濱口さんを――」
党員たちを見る飯田の瞳が、いつからか、どこか、哀しみの色を含んでいる。
俺たちの滅茶勤王党。そう言った加藤の言葉が自分に重なる。
「俺らはまだ終わっちゃいねえ。やっと倒幕の時代が来てるんだ。
俺たちはこれからだ」
山本が言う。
俺たちの滅茶勤王党。
我らの壬生娘。組。
この者たちもまた、自分の志に従い、熱く、この時代を生き抜いてきたのだろうか。
「無常よな」
飯田が小さく呟く。
「だが……。貴様らも組織を束ねるものなら、わかろう。
情けはかけぬ。我らの志の礎(いしずえ)となれ」
再び大上段に構えた。
小川は所司代組屋敷、西門正面向かいの塀の影に、
道重と平隊士三名と共に潜んでいた。
飯田の命令に従い、来た道を戻って、
所司代屋敷外周よりさらに外で近づきつつあった辻、道重の隊と合流。
事情を説明して、辻は北門、小川、道重は西門に別れた。
辻は飯田が一人北東門に残ることを不満そうにしていたが、
飯田には飯田なりの思惑があると説明してなんとか納得してもらった。
実際、中のあの様子であるならば、
飯田の自信ありげな風からしても問題ないのかもと思っている。
西門に警備は二人。槍を縦に持って両脇に立っている。
熱いからなのか、門から少し遠目の真ん中に篝火が置かれてあるので周辺は明るい。
時折、外周を警備する所司代隊士が行き交う。
彼らはまだ北東の異常に気がついていないのだろうか。
「……飯田さん、大丈夫でしょうか」
道重が後ろで言う。
「うん……」
振り返らずに答える。
その時。所司代組屋敷の中から、ぴりりりり、と高い音が鳴り響いた。
飯田の呼子だ。
「なんだ!?」
門の警備が顔を見合わせ、一人が慌てて門を開き、中を覗き込む。
「今!」
小川が叫ぶと同時に西門前の通りに飛び出す。
道重、平隊士も後に続く。
先頭を切って通りを走って横切る。
風に煽られ篝から飛び出した火の粉が通り過ぎる耳たぶに触れ、
小さな痛みを一瞬だけ残す。
「何だお前らっ!?」
所司代の残った一人が叫ぶ。
小川は素早く所司代の懐に飛び込むと、腹に拳を一発。
「ぐぅっ!」
所司代は悶絶して倒れる。
そのまま倒れた所司代を捨て置いて、開いた扉に突っ込む。
道重、平隊士らも続いて所司代組屋敷の中に突入していった。
西門を抜けてすぐは、南の詰め所から北の蔵に向けて外廊が続いているため、
一定の間隔で灯がともしてあり、明るい。
そこを抜けると視界が一気に暗くなる。
小川は何度も瞬きをして、目を暗闇に慣れさせる。
しばらくして、黒一色だった目の前が像を結び始める。
右手の指に“くない”を挟み、身構える。
飯田の呼子を合図に、所司代組屋敷ないもにわかに騒がしくなってきている。
火を持った警備の者たちで溢れ返るのも時間の問題だろう。
目を細め、遠めに飯田の姿を確認する。
刀を構えて立っている。無事のようだ。
地面に数名、倒れているのも見える。
北東門からまっすぐ進み、ちょうど北門を過ぎた辺りの位置か。
あの位置ならば、北門から突入した辻の隊のほうが先に追いつく。
「よし」
小川は頷く。
飯田の無事が確認できたので、よゐこの身柄確認を優先させる。
後ろの道重と平隊士らを手招きで誘導する。
「道重ちゃんと、あんたとあんた。この辺りにとどまって、
西門と、南門方面から勤王党が逃げないようにしててね。
所司代連中とは……うまくやって」
「はい」
「あんたは私についてきてね」
残った平隊士に言う。
「はっ」
音もなく、走り出す。
石川の説明によれば、よゐこと阿佐隊士らが拘束されている蔵は最北並びの西から四番目。
普通なら警備がついている。
だが、北東のことを考えればどうなっているかわからない。
まずは近くの蔵の壁に取り付き、陰から目的の蔵の様子を覗き込む。
飯田の姿を確認するため、やや東よりに進んだため、目的の蔵より東寄りの、
北から二列目、西から五番目の蔵。
「鍵は?」
「あった」
蔵の前で小声で囁きあう影が三つ。
(勤王党だ)
やはりまだ他にもいたか。
がちゃがちゃと蔵の扉につけられた錠前をいじる音。
一人は少し離れて見張りをしている。
小川は少し様子をうかがう。
ここで勤王党がよゐこを逃がせられれば、壬生娘。組として当初の思惑通りの展開になる。
飯田は状況を見てこちらから積極的によゐこを奪う可能性も示唆したが、
当初の予定通りになるならばそれに越したことはない。
できれば門外に逃げてから壬生娘。が捕えたい。
門外まで行かなくとも、ぎりぎりで捕えられればそれだけ壬生娘。に有利になる。
そこで小川はふと思う。
勤王党は、よゐこを救い出した後、どのように逃げるつもりだったのだろう。
確かに北東門には人がいなかったが、
蔵を破った時点で所司代に知られる可能性は高い。
蔵が牢であるということは、そこにはそれなり見張りがいるということだ。
たとえその場の見張りをやり過ごせたとしても、屋敷中の所司代がやってくる。
その時、遠い北東門から逃げるというのはいかにもうまくない。
逃げるならば近い北門か西門だろう。
だが、あの貧相な人数で門を抜けられるのだろうか。
刻が経てば経つほど、警備は堅くなるのだ。
それとも牢内にすら警備はおらず、
逃走路まで所司代が用意してくれているとでもいうのだろうか。
「ん?」
なにげなくすっと踏み出した足先に違和感を覚える。
地面に小さな窪みができている。溝になっている。
よく見ると、指三本分ほどの細さの溝が、北東門の方向に向かってずうっと伸びている。
(……なんだ? これ)
手で触れようとする。すると、牢のほうでがちゃり。という音がした。
小川は再び牢に目を向ける。
錠前が外されていた。
ぎいいと鉄の扉が開く。中のかすかな灯りが、隙間から漏れ出る。
二人が刀を構え、静かに中に入っていく。
見張りの一人はまだ外で様子をうかがっている。
しかし。
(……影?)
扉の辺りで、影がもう一つ。動いたような気がした。
「駄目だ! 違う! 逃げろ!」
突然、蔵の中で叫び声が上がった。
同時に中の灯りが消える。
(何!?)
「違う! 加藤さんに知らせろ! 逃げろ!」
その場から逃げるように影が一つ、牢から飛び出した。
もう一人はまだ出てこない。
(何だ!?)
小川も同時に牢に向かって駆け出す。
牢の扉の前に立ち、中を覗き込む。
暗い。真っ暗で何も見えない。
しかし……。
むせるような生臭い……血臭。
「麻琴!」
後ろに声を聞き、振り返る。遠くから飯田が走ってきていた。
前を行く加藤を追っている。
反射的に加藤に向けて“くない”を投げる。
しかし加藤は小刀でそれをはじく。
加藤はそのまま牢の前を通り抜け、党員たちの逃げた方向の影に消える。
小川も加藤を追う。
「お前ら大丈夫か!」
「加藤さん!」
走りながらの会話が聞こえてくる。
「北東門は!」
「駄目だ! 逃げよう!」
「中が」
「駄目だ押さえられてる!」
「濱口さんが!」
「北は!?」
かなり混乱しているようで、言葉があちこちで錯綜している。
加藤らは蔵の角を折れ曲がる。中庭の方向だ。
(逃げるんじゃないのか?)
逃げるつもりなら中に向かうのはおかしい。所司代に囲まれてしまうのは明白だ。
迷いながらも、白壁に囲まれた蔵一帯の路を追う。
「麻琴!」
飯田が叫び声が後方から聞こえる。
ちょうど角を曲がり、小川らの走る路に来たところだった。
「駄目だ門からは逃げられねえ!」
勤王党の声が聞こえる。
「穴を開けろ」
「用意は!?」
「できているはずだ!」
(……穴?)
その時、南向きのぬるい風がゆらりと動いた。
と同時に、覚えのある刺激臭が走る小川の鼻腔をくすぐる。
それまでの行動で早打ちしていた小川の心臓が、更に大きくばくんと鳴る。
(火薬の臭い!)
小川が蔵の一帯を抜ける。視界が開ける。
中庭に人影が数人。“それ”を囲んでいた。
加藤もいた。
“それ”は、虚空のごとき真黒い、
まわりのすべてを飲み込むかのようなその丸い口をあんぐりと開け、
小川の方向を睨んでいた。
(野砲!!)
蔵の近くについていた不審な溝の記憶が瞬時によみがえる。
これの車輪を引いた跡だったのか。
「やれ!」
「射線上に人がいる!」
「構わねえ! もろとも撃っちまえ!」
加藤の口元が笑っている。
小川は咄嗟に振り返る。
飯田がこちらに向かって走っていた。
大砲はその方向に、脱出の穴を穿つべく、狙いを定められている。
「飯田さんっ!!」
小川は叫んだ。
轟音が暗闇を引き裂いた。