「木戸番閉まっちゃいますよ」
「構わない。緊急時だ」
――さくら組屯所。
武具類を収めた蔵の前で加護と矢口が向き合っている。
扉の横に置かれた二つの大きな篝(かがり)に焚かれる炎が、
白い壁に映りこむ二人の影を揺らす。
くべられた木片が炎に弾け、火の粉を巻き上げる。
加護はまだ、矢口の判断に迷っているところがある。
性急すぎる気がする。
矢口がおとめ組――というか、局長の飯田に対して、
常々不信にも似た感情を抱いていることは知っている。
二人の対立ははっきり表面化することこそなかったが、
以前からうっすらと、半紙の上にぽたりと落ちた薄墨のように、
じわりと、知らず知らずのうちに広がっていたように感じていた。
それは藤本の加入によって少しずつ形を成し、
今回のよゐこ所司代引き渡しでより明確なものになったように思う。
(おとめの好きにやらせはしない)
おとめ組屯所からの帰り道、矢口ははっきりとそう口にした。
もちろんそれまでも組同士の対抗意識のようなものはあったし、
互いに負けん気を口にすることはあったが、
加護を前にして、飯田を名指しにそこまではっきりと言ったのは、初めてであったように思う。
そして今回の性急な動き。
とぼけたふりをしてその都度はぐらかしては来たが、
加護の中には、矢口に対する拭いきれない違和感のようなものがある。
矢口は何かに焦っていないか。
「副長。取り返すって、どういうことですか?」
そう、二人の間に割り込んできたのは新垣だった。
矢口は威圧するような目で新垣を見る。
留守番を言い渡された吉澤は、少し離れた場所で何も言わず成り行きを見守っている。
亀井は蔵から運び出される防具を逐一確認しながら、
彼女なりにこの異様な雰囲気を感じ取っているのか、
ちらちらと不安げに視線をさまよわせている。
「取り返すのは、おとめ組になるだろう」
「?」
新垣は首をひねる。
「それって、おとめが所司代屋敷にいるってことですか?」
「……そんなところだ」
新垣はさらに反対方向に首をひねる。
「どういうことですか?」
「詳しいことは加護に聞け」
矢口は冷たくそう言い放つと、
新垣から視線を離して篭手を手に取り、左腕に巻き、固定するための紐の片端を口にくわえる。
言われて新垣は加護を見るが、
加護は困ったように、黙ったまま矢口を見つめつづける。
「やっぱやばいっすよ。局長に断りもなく」
「やはり拷問でも何ででも、無理矢理吐かせればよかったんだ」
矢口は新垣の言葉を無視して独り言のように、呟く。
篝火にあてられて加護の額にじっとりと汗が滲み出る。
「……新垣ちゃん」
加護はゆっくりと口を開いた。
「たぶん、おとめ組は何か掴んでるんだよ」
「ん?」
不満そうにしていた新垣がさらに眉間に皺を寄せる。
「新垣ちゃんも、飯田さんが素直によゐこを所司代に渡したの、
ちょっとおかしいと思たでしょ」
新垣は腕を組み、首を傾けてしばらく考えてから答える。
「うん」
「この二日、うちらは六角牢に近寄ることもさしてもらえなかったけど、
その間にうちも矢口さんに言われて色々と探ってたんよ」
「うん」
「そしたらここ数日、所司代の御所警備が強化されてるって話があった」
「うん」
「だからその間、所司代屋敷の警備が手薄になるんじゃないかって」
「……うん? じゃあ、おとめ組が代わりに屋敷の警備をするってこと?」
「そこまで飯田さんもお人よしやないよ。矢口さんの受け売りやけど」
ちらりと矢口を見る。
「飯田さんも、実はよゐこの身柄引き渡しを認めてないんじゃないかって」
「え? それってもしかして……」
新垣の眉毛が八の字になる。
「所司代の警備薄くなったの狙って、飯田さんが所司代屋敷襲うってこと!?」
「ちゃうわ、あほか」
「襲うとしたら、滅茶勤王党ですよね」
亀井が口を挟む。
「あ、そっか。まだ残党がいるもんね。よゐこは元幹部だし、
屋敷の警備が薄くなることを知っていれば、当然救い出すことも考えるよね。
……ん? じゃあ、おとめ組は何をしに? 警備じゃないんだよね」
「そやから、飯田さんは横取りを狙ってるんやないかと」
「あ、なるほど〜、だから“取り返す”か。……って、ええ!!」
新垣は大袈裟に手を打った後、大きく目を見開く。
「それやばいじゃないですかー!」
新垣は一人で焦っている。
亀井は何故か満足げに微笑んでいる。
そうだ。危ない。と加護は思う。
勤王党残党と対峙する。それだけでも決して楽なことではない。
しかしそこから更に、飯田は“勤王党残党が救い出したよゐこ”を、
更に奪還しようとしていると言うのだ。
襲う勤王党、守る所司代組。そこに横から加わってよゐこを手中に入れようと言う。
矢口からその推測を聞かされたとき、加護はにわかには信じられなかった。
今、数々の功を認められ、ここに大きな屋敷を構えるまでに至ったこの時期に、
壬生娘。がそこまでやる必要があるのか。
少なくとも京都守護においては、壬生娘。組は磐石の地位を築きつつある。
ここであえて、自らその地位を手放す危険を冒す理由があるのか。
その時、そう言うと矢口は答えた。
(昔の壬生娘。はそれくらいのことやってきたんだ。圭織なら、やるさ)
まだ足りないというのか。
この地位に安住することを、飯田は望んでいないということなのか。
加護は新垣に、よゐこ引き渡しに素直に応じた飯田がおかしかったと言った。
しかし心の内では、飯田の行動にどこか納得している自分もあった。
だが今、矢口の推測を証明するようにおとめ組が屯所を空けている。
「圭織は和田さんと共謀しているということだ」
それまで黙って聞いていた矢口が口を開いた。
「和田さんも?」
「それならすっきりするだろ。あの人なら持ちかけかねん」
確かに。
和田と結託しているのならば、その信頼性も狡猾な策略も格段に説得力を持つ。
しかしならば、さくらは余計に――
「前阿佐藩藩主、田森一義公も上洛されるという話もある。
だとすれば、それは断然、滅茶勤王党の残党だ」
矢口が続ける中、加護は思う。
ならば余計に、さくら組は動くべきではないのではないか。
和田と飯田が詳細な策略を持っているのであれば、
そこにさくら組が無闇に顔を突っ込むのはかえって危険なことではないのか。
事はよゐこの身柄だけでなく、壬生娘。の存続にさえ関わる。
これは同じ幕府指揮下の組織同士の内紛のようなものである。
しかもよゐこは幕命で壬生娘。組から所司代組に引き渡されたばかりだ。
壬生娘。の不利に転ぶ可能性のほうが高い。
確かに戦力は多いほうがいいというのはあるだろう。
しかしそれでも飯田はさくらに隠した。
飯田は戦功を争って隠しごとをするような人間ではない。
ならば理由は一つではないのか。
さくら組を巻き添えにしたくないのだ。
その意図を矢口は分かっているはずだ。
それでも尚、矢口が出撃に拘るのは何故だろう。
ただのおとめ組――飯田への対抗意識とも思えない。
「滅茶勤王党は――」
そこで矢口は言葉を一旦切る。
矢口は加護を見ていた。
「圭織が危ない」
(少し遅れているか)
飯田は暗闇を駆け抜けながら後ろを振り返った。
陣を構えていた屋敷から距離にして約三町ほど。
後発で平隊士を引き連れた道重らの出足が遅れている。
狭い路地を抜け、見通しのきく大通りに差し掛かる。
暗い大通りには人一人歩いていない。
(まだ気づいていない?)
壁越しに見える所司代組屋敷西門には、警備の者が二人いる。
何事も起きていないように平然と、いつものように直立している。
東側の侵入者にまだ気づいていないのか。
飯田が後ろの闇に向かって手のひらを見せる。
追ってきた辻、小川の二人が足を止める。
「東側に回りこむ。門番に悟られるな」
そう小声で囁くと、再び走り出した。
二人も飯田の後に続く。
来た道を一度引き返し、
所司代組屋敷の外塀から一本外側の路地を西から北、北から東へと大きく回りこむ。
後ろを見る。道重はまだ来ていない。
すると辻が小さく咳き込む。
「大丈夫か」
「大丈夫だってば」
辻がうるさそうに返す。
飯田は一瞬考えた後、辻に言った。
「辻、戻れ」
「やだよ」
「そうじゃない。道重のところまで戻って、隊を誘導しろ。門番に悟られぬようにな。
東側から突入する」
辻は不満げに飯田をじっと見つめる。
「行け」
「……わかった」
辻は頬を膨らませたまま、もと来た道を走って戻っていった。
所司代組屋敷の北東――
飯田は小川と共に、ちょうど隣接する所司代下屋敷との間の路地の角まで音も無く辿り付くと、
影に隠れ、呼吸を整えながら様子を窺う。
飯田は塀の陰から見たその光景に、驚きを隠せなかった。
屋敷の門が隣接するという、最も警備が多いはずの場所に、
人が一人もいない。
(どういうことだ?)
倒された死体すらない。誰も、いないのだ。
見張りを立てていた西の屋敷からは完全に死角になっていた。
(所司代は、ここに警備がないことに気づいていない?)
上から監視していた小川の言葉を思い出す。
今夜の警備は何故か、屋敷の外周をぐるりと回るのではなく、
どうやら角できびすを返して往復していると。
だとすれば、他の方面を警備する者はこの事態にまだ気づいていないかもしれない。
(裏をかかれているのか)
何者かは分からない。が、この襲撃の主謀者は、
飯田が想像していたような“襲撃”ではなく、
もっと綿密に、所司代内部の動きまで鑑みて、
詳細な計画を立て、静かに行動を謀るとししているように思える。
飯田はしばし様子を窺う。
しかし、動くものはどこにも見えない。
(……罠か?)
しかしその時。
所司代組屋敷の北東門の内側より二つの影が現れた。
影は明らかに周りを警戒し、抜き身の刀を持って辺りを見回している。
(滅茶勤王党か?)
所司代組屋敷の中からは相変わらず、騒ぎは聞こえてこない。
二つの影は見張りだろうか。
少なくとも所司代ではない。
飯田の心臓が静かに脈を打つ。
これが滅茶勤王党の残党だとして、
飯田らが駆けつけた時刻の差から言って、よゐこはまだ外に運び出されていない。
このまま運び出されるのを待ち受けるべきか。
よゐこが出て来る前に突入すれば、
滅茶勤王党の襲撃は所司代組屋敷内部で完結し、
二人の身柄はこのまま所司代に固定されたままになる可能性が高い。
だがこの妙な静けさは何だ。
本当に滅茶勤王党によるよゐこ救出は進行しているのか。
そもそも何故、所司代の警備がいない。
滅茶勤王党の策略はこちらが思うより綿密で、想像以上に大規模なものなのか。
(それとも……滅茶勤王党ではない?)
もしそうであるならば、このままただ待ち続けることは、
或いは所司代、そしてよゐこの命、
さらには中にいる和田の命まで危険に晒すことになりかねない。
背後を見る。道重の隊はまだ来る気配がない。
(ここが分かれ目か……)
飯田はぎりりと奥歯を噛み締めた。
「麻琴、壁を越えろ。
中の様子を窺って報告。まず北東門を破る。私は正面から行く。
顔をよく見ろ。滅茶勤王党の幹部ならば斬らずに極力捕える」
「行け」
「ほ〜い」
言い終わるや否や、小川はひらりと軽やかに細身の体を宙に舞わせ、
音も立てずに所司代組屋敷の外塀の上に取り付いた。
訓練された乱波の動きである。
飯田は、小川の動きに同期して北東門に踊り出る。
慎重に腰の長刀(ちょうとう)を抜き、
まだ気づいていない二つの影に音も立てず近寄った。
――所司代組屋敷内。
八畳ほどの座敷の中の視線が一人の娘に集中していた。
ソニン。
「どうなの、ソニン」
いつの間にか前のほうに進み出ていた紺野がソニンを見ている。
ソニンは黙ったまま、木村の視線を受けとめていた。
しばしの刻が過ぎた後、やがて意を決したようにソニンが口を開こうとすると、
横から手が伸びてそれを制止した。
「いや、いい」
和田だった。
「うん。所司代組の考えは分かった。義剛公の考えも同じということでよろしいな?」
和田は落ち着いた調子で言う。
「ならば、今日のところはこれで良しとしておきましょうか」
木村はソニンから和田に視線を移し、またもやしばらく見つめた後、
「……なるほど。あるいは矢口殿だけとは限りませんな」
と言った。
「和田様は岡村を買っていなさる」
「不用意な発言はよしてください」
紺野が言った。
木村は矢口さんを疑い、そしてその真偽を聞き出そうとしたソニンの口を止める和田さんを、
矢口さんの同類(すなわち藤州の内通者か?)と牽制し、
そして岡村の名前まで引き合いに出した。
これはつまり、和田さんの行動を内通者とばかりに皮肉ったのである。
紺野はそれを咎めた。
なんと無礼な振る舞いか。
しかし和田は笑顔を絶やさない。
木村は紺野の咎めも意に介さず、ふっと鼻で笑い、続けた。
「まあいいでしょう。いずれ取り調べが進めばわかることです」
「けっきょく取り調べはするんじゃない」
紺野が小さな声で不満げに呟く。
「なにか?」
「いいえ」
「では、また後日――」
きりのいいところと思ったのか、そう言って和田が立ち上がろうとすると、
何故か監鳥居組の三人も急くように立ち上がった。
「お待ちください」
「は?」
と同時に座敷の四方の襖が開いた。
開いた先には、四方とも数人ずつの槍を手にした所司代組隊士が立っていた。
「なに?」
紺野は慌てて手元の刀を持ち、立ち上がった。
「どういう、ことですかな?」
和田が落ち着いた調子で言う。
「できれば手荒なことはしたくない」
そう言う木村の横で、里田、斉藤、そして周りの所司代組隊士らは、
鋭い目で紺野たちを警戒している。
「先に申し上げましたとおり、今お話しましたのは我々所司代の重要な機密です。
まして壬生娘。組の副長が内通者などという話を、
同じ組の方に素直に持って帰らせるほど我らも間抜けではない。
陰で我らを“ざる”呼ばわりする輩もいるらしいが」
木村は目を細める。
「もちろん、捕縛などという失礼なことはこちらとしてもいたしたくございません。
阿佐藩士らの一通りの事情聴取、そして“矢口真里壬生娘。組副長の疑いが晴れるまで”、
みなさまにはしばらく“滞在”していただく」
「無茶な!」
紺野が叫ぶ。
「何を言っているのか分かってるんですか。和田さんは幕府の重臣ですよ。
それに私たちだって、互いに身内で争っている場合ではないでしょう。
今だって、いつ滅茶勤王党の残党が動き出すか分からないんですよ?」
すると木村はけげんな顔をして言った。
「は? 滅茶勤王党など、とうに壊滅しているでしょう」
「飯田さんが?」
新垣が目を丸くする。
「滅茶勤王党はあれだけじゃないんだ」
矢口が一人で、もどかしげにうつむく。
「あいつらの狙いは違う」
「あいつら?」
「今は言えない」
新垣は黙る。
加護も何も言うことができない。
矢口は一体、何を知っているというのか。
何故言えないと言うのか。
矢口は構わず、鉢巻に鉄板を仕込んだ陣鉢を額に巻いた。
額の鉄板の中心には「娘。」の文字。
そして全員に向かって言った。
「とにかく圭織が危ないんだ。おいらは行く。
おいらが信じられなければ。ついてこなくてもいい」
しん、と場が静まり返る。
と。どこからともなく、笛の音が流れてきた。
「……祇園囃子?」
亀井が言った。
「ああ! そういえば、ちょうど今頃だったんですよね」
新垣が人差し指を立てる。
鉦や太鼓の音を伴っていないのでどこか寂しく感じられるが、
この笛の音は「コンチキチン」と言い表される、祇園囃子の笛だ。
「なつかしいなあ」
加護は目を細めた。
こちらの地方の生まれなので、加護は祇園祭には何度か来たことがある。
飯田や安倍ら大幹部が新入りに自慢げに話して聞かせる祇園の祭りの美しさを、
自分がそれよりも早く知っていることは密かな自慢でもあった。
三年前の事変以来、その祭りが京都で大きく開かれたことはない。
それも、長く続くこの混乱のためだ。
特別な意味も無く、全員が黙ってしばらく、その音に耳を傾けた。
この音を、雑踏の笑顔の中で聞ける日は、いつのことか。
やがてその音が途絶える。
加護は思う。
今までも自分は必死で矢口らを追ってきた。
その、矢口の額にある「娘。」の一文字の下に。
「いきましょか。矢口さん」
最初に口を開いたのは加護だった。
「そうですね」
新垣が長槍を手にし、続く。
「はい」
と亀井。
後ろで密かに、吉澤が顔に笑みをたたえている。
矢口は何故か、顔を伏せたまま言う。
「……よし。いくぞ」
「はい!」
三人は声を揃えて答える。
「いってらっしゃ〜い」
吉澤が後ろで呑気に手を振っていた。
(え……?)
この人たち何を言っているのだ。と紺野は思う。
この、腹の底から湧きあがる気持ちの悪いものはなんだ。
顔が青ざめてくる。
「滅茶勤王党は、まだ力を持っているよ」
和田が言う。
「……なるほど。
そうやって危険を煽ることで幕政を引っ掻き回すのがあなたの政事ですか。
滅茶勤王党がほぼ壊滅状態にあるのは周知の事実。
なにやら壬生娘。組が不穏な動きを見せると思えば何のことはない。
滅茶勤王党ですか。
なるほど、和田殿と矢口殿に、いいように踊らされているわけだ」
木村の顔がひきつる。
「そうは行かない。よしんば、滅茶勤王党の残党がまだ力を温存していたとしても、
それは我ら所司代組がきちんと引き受けますゆえ。ご安心ください。
さあ」
そう言うと、木村は回りの隊士に目で合図する。
周りを囲んでいた所司代組隊士らが、じわりを輪を縮める。
矢口さんの言っていた通りだ。
今や幕府の根幹が揺らいでいるというのに、この人たちは何を言っているのだ。
紺野は絶望にも似た感覚に襲われる。
視界が揺らぐ。
目の前が暗くなり、倒れそうになる。
すると。紺野の横から、す、と前へ出る者があった。
それは何も言わず紺野の横を抜け、座敷の庭側に向けて歩み出る。
庭側を囲んでいた所司代組隊士が慌てて槍を傾け、行く手を阻む。
藤本だった。
紺野は自らの興奮のあまり、長らく藤本の存在を忘れていた。
「みうな!」
「む、無駄な抵抗はおよしなさい」
監鳥居組の斉藤が庭側に立ち、藤本を睨みつける。
すると藤本は、この場の張り詰めた空気を一人に無視するかのように、
無表情のまま、ぼそりと呟いた。
「気がつかないのか」
「何?」
「血の匂いだ」
ちょうどその時、遠くで、刻を告げる鐘の音がした。
夜の京都の町を黒い一団が行く。
がむしゃらに走るわけでもなく、しかし確実に、早い足取りで、
矢口ら十人ほどの壬生娘。さくら組の一団は、
不動堂村壬生娘。さくら組屯所より、所司代屋敷への道を急いでいた。
西本願寺の横を抜け、醒井通りを抜け、五条通りに出る。
と、そこに黒い人影が現れる。
三……四……。
六、七人ほどのその集団は、矢口らの行く手を遮るように立ちはだかる。
矢口らは足を止めた。
その集団は、手にした提灯を、矢口らの顔を確かめるように向ける。
「矢口さん。どちらへお出かけですか」
集団の先頭の人影が言った。
その提灯には、「娘。」の一文字。
「石川……」
矢口が苦々しげにその名を呼ぶ。
矢口らの前に立ちはだかったその集団の先頭は、
壬生娘。おとめ組、石川、そして田中。
「ここから先、通すわけにはいきません」
石川が言う。
「……この件。圭織が思っているより根が深いぞ」
矢口が言う。
「それでも、飯田さんの命令です」
「壬生娘。が壊れるぞ」
「壬生娘。が壊れるからです」
「力づくでも通る」
矢口が腰の刀に手をかける。
「力づくで止めます」
すかさず石川も刀に手をかける。
ざわ、と。場に緊張が走る。
石川、田中。矢口、加護、新垣、亀井。
まだ剣の間合いではない。
対峙する二つの集団はそれぞれ石川、矢口を中心にして横に開き、
平隊士らは相手の不穏な動きを少しでも見逃すまいと腰をかがめ、
それぞれの武器を持つ手に力を込める。
「退け」
「退けません」
夜の京都の町で、二つの黒い集団が対峙する。
ちょうどその時、遠くで、刻を告げる鐘の音がした。
飯田は影に無音で近づく。
やがてその、顔が判別できる距離まで来た。
一人は太った大柄の男。もう一人は背が高く、いかにもしっかりとした体つきをしている。
その瞬間、影は飯田の気配に気がつき、さっと後ろへ飛んだ。
「誰だ!」
飯田はまだ声を上げない。
よゐこの動向、そして道重の隊が追いつくまで、
変に騒ぎ立てて所司代の警備を呼び込むのは得策ではないと判断したためだ。
「元滅茶勤王党幹部、加藤浩次と山本圭壱だな」
飯田は長刀の剣先を向けてその名を呼ぶ。
「お、お前こそ何者だ」
太った方の男――山本圭壱が顔をくしゃくしゃにして指さす。
「壬生娘。おとめ組局長、飯田圭織」
「み、壬生娘。!」
ちょうどその時、遠くで、刻を告げる鐘の音がした。
刻を知らせる合図である三つの打鐘の後に、四つ。
その時刻、夜四ツ。