鐘の音が夜の空に鳴り響く。
「戌(いぬ。宵五ツ)、か」
暗闇の中、飯田はひとり呟く。
あたりに人の気配はなく、野良犬の足音一つしない。
田中の予想したとおり、日が暮れても京の盆地から暑さが抜けることはなかった。
粘りけのある汗がじっとりと飯田の体中にまとわりつく。
ぬるい風が時折、所司代屋敷の家畜の臭いを飯田の鼻腔まで運んでくる。
所司代組屋敷の西側に位置する町人屋敷の軒下に、腰を降ろして腕を組んでいた。
阿佐勤王党残党による所司代組屋敷襲撃を監視するためである。
壬生娘。組は日頃から、京都内にこのような場所を数箇所確保している。
今回のような場合や、戦時における緊急の潜伏場所として家主を買収しているのである。
もちろんこれは正規ではなく、秘密裏に隠れ家として確保しているもので、
壬生娘。以外にこの場所を知るものは、たとえ京都守護職であってもいない。
ふ、と飯田の頭上にかぶさるように、人影が音もなく現れる。
「どうだ」
飯田は影に目もやらず言う。
「動きはまだありませんねえ」
緊張感に欠ける気の抜けた声は小川である。
小川は屋根の上で細い筒状の遠眼鏡を片目に当て、
所司代組屋敷を監視していた。
「そろそろ和田さん達が来る頃だと思いますけど……あ、来た」
数頭の犬の吠える声が遠く所司代屋敷の方角から聞こえてくる。
「前から順に藤本さん、あさ……紺野、和田さん、ソニンさん。四人ですね。
やあっぱり紺野ちゃん、気まずそうだなあ」
小川は筒を覗き込みながら、どこか楽しそうに続ける。
「……あ、今、南の門から中に入りました」
飯田は腕組みのまま小声で会話する。
「警備はどうだ」
「南、西、北、と。東はちょっとここからだと見えにくいですけど、
各通り沿いにきれいに配置してますね。内側には犬もいますし、
さすがに今晩は警戒しているみたいです」
「ふん。“京ざる”の所司代も本拠ならそれくらいはするか」
飯田らが上洛して間もない頃、はじめて見た京都の“ざる”は、
それまで慣れ親しんでいたものに比べ目が粗く、
「豆腐も通す京のざる」と内輪ではよく言われていた。
それを揶揄して、飯田ら壬生娘。組の幹部は所司代の警備を皮肉交じりでそう呼ぶことがある。
元より、所司代の警備強化も想定してこの先半月は毎晩見張るつもりであったが、
初日は警備が浮き足立つことも多く、勤王党も狙う可能性が高い、と密かに思っていたが。
「あ〜、でも」
屋根上の小川が筒を覗き込みながら言う。
「ちょっと変ですね」
「変とは」
「う〜ん。外側を巡回してる人たちなんですけど。
顔が変わらないんですよねえ」
「うん?」
「いえ、あの〜。所司代組の警備って、こう、二人組でぐるぐると、
屋敷の周りを回る方式だったと思うんですよね」
筒に目をつけたまま、指先をぐるぐると回す。
「でも今晩は同じ顔がいつも同じところにいるから、
たぶん回ってるんじゃなくて、それぞれの組が角で反転して往復してるんじゃないかと」
「……ふむ」
飯田は腕を組んだまましばらく考え込む。
つまり同じ面だけを一面ずつ、同じ人間で受け持っているということか。
「臭うな」
「馬だけじゃなくて、犬やら鶏やらいろいろ飼ってるらしいですからねえ」
「麻琴、そうじゃない」
「どう?」
飯田の背後からもう一つ人影が現れる。
辻である。
辻の後ろには道重の姿もある。
二人とも黒の羽織の上に襷掛けをし、額に鉢金をつけ、両腕には篭手をつけている。
戦(いくさ)の装いである。
務めの性格上、大人数で動いて所司代に悟られないようにするため、
ここには幹部の他は平隊士を数人連れてきているのみである。
飯田ら先陣の後方で、辻が道重と共にその平隊士を従えて待機している。
何かあれば飯田がまず斬り込み、辻、道重と平隊士がその後に続く。
辻が軽く咳をする。
「風邪か?」
「うん? うん、ちょっと」
辻は自分でもよく分からないのか、首をひねって答える。
「だから寝冷えには気をつけろと、あれほど言ったろう。京の夏風邪は長引くぞ」
飯田は鼻から大きく息を吐く。
辻がけほんと咳き込む。
「つらければ屯所に帰れ。他の者に任せる」
「大丈夫」
「無理をして皆に迷惑をかけるくらいなら――」
「大丈夫だってば」
辻が声を荒げる。
「しーーーーー!」
上の小川が目を剥いて口の前に人差し指を当てる。
「わたしだって壬生娘。の組頭だよ」
睨む辻をしばらく見つめた後、飯田はふっと口元をゆるめて上を見上げる。
いつの間にか、いっぱしの口をきくようになったものだ。
おとなしかったあの辻が。
体の大きさこそ入隊の頃と変わらないが、顔つきは随分と変わった。
今は後方の指揮を任せられるほどに成長してきている。
はじめて出会った頃の頼りなさから考えれば、大した成長ぶりだ。
少々寂しく、複雑な想いもあるが。
飯田は目を細める。
辻だけではない。
みんな、人によっては少しずつの者もいるが、
確実に成長している。
大丈夫かな。と思う。
もう大丈夫だ。安心して背中を任せることができる。
もう自分は常に、迷わず先陣を切っていける。
いつ命を失ってもいいかもしれない。
「局長?」
辻が飯田を見て眉間に皺を寄せる。
「また飛んでっちゃってるんですかねえ?」
道重が飯田の視線の先を見つめる。
見上げた空は、薄い雲が月を覆い隠している。
これは賭けだ。飯田は思う。
うまく行けば壬生娘。組は阿佐の重要な参考人を取り戻し、
同時に、京都守護における主導権を握ることができる。
しかし失敗すれば。
重要な参考人を手に入れられないだけでなく、
おとめ組をも失うかもしれない。
だが壬生娘。組はこれからも京都を、そして幕府を、天子を守っていく。
そのための戦いだ。
ただ剣の力のみでここまでやってきた。
しかしこれからは、政事における力も壬生娘。には必要になる。
所司代を失墜させるためではない。あくまで京都の治安を思えばこそである。
今のように、現場も知らないような老人達に根幹を握られているような状況では、
足りないのだ。
だから政事の力を、剣で奪う。
たとえおとめ組を失っても、さくら組があれば壬生娘。は生き長らえる。
そのためにあえてさくら組を騙すようなことをした。
「飯田さん?」
辻が飯田の目の前で手のひらを振ってみせる。
「いや……」
彫像のように固まっていた飯田がいきなり口を開き、三人はびくりとする。
「我々はまさしく梟のようだな、と思ってな」
その言葉に、三人は首をかしげる。
「飯田さんどうしちゃったの?」
「大丈夫ですか?」
「さあ? まあ〜、いつものことじゃ」
「梟には夜が似合う」
飯田は薄曇りの空を見上げ、ひとり微笑んだ。
「ふくろう?」
三人は声を合わせて、さらに首をかしげた。
もしこれが失敗したとしても、この辻たちの命までは奪わせまい。
そのために自分が先陣を切る。
「そんなわけありません!」
紺野は思わず叫んでいた。
額にじわりと汗がにじむ。
矢口が濱口、有野の命を狙っている?
そんなことあるはずがない。
両名は壬生娘。組にとっても重要な参考人だ。
木村は紺野をちらりと見た後、和田に向かって静かに言った。
「もちろん、我々も確実にそうだと思っているわけではありません。
仮にも壬生娘。組の副長たるお方。我々とてにわかには信じがたい。ですが」
再び紺野と藤本を見る。
「そういった話がある以上、用心にこしたことはありませんので」
「その話の出所は教えてもらえないのかね」
和田が言う。
「さる筋、としか申し上げることはできません」
「ふむ……」
「それだけでは全く、矢口さんを疑うには足りないでしょう」
紺野は木村を睨んだ。
「壬生娘。さくら組四番隊組頭、紺野あさ美殿。でしたか。
我々もこれで、様々な“つて”を持っております。
その中で、矢口殿に関するお話を色々と耳にすることもあります。
たとえば……里田」
「はい」
里田と呼ばれた娘が前に出た。
「壬生娘。組が有野、濱口両名――つまりよゐこ捕縛のために出陣したとき、
副長の矢口殿自らが先頭に立って指揮をお取りになった。御本人の希望だったそうですね」
里田が言う。
「それは……再編成で最初の大きい捕り物だったから、副長自らが責任を持ってやりたいと。
それに目的は捕縛であって、暗殺では」
「しかし、実際には有野は旅籠の一階ですぐに捕まり、濱口は屋根から逃走。
その後、そちらにおられる――おとめ組の藤本美貴殿により逃走経路を断たれる。
矢口殿はあとからその場に駆けつけた」
「それが?」
紺野が不満げに頬を膨らませる。
「つまり、旅籠突入のどさくさで斬ることができなかった」
「な!」
紺野はそのあまりに無礼な物言いに、日頃は小さな声を荒げた。
「ただの仮定じゃないですか!」
里田は紺野の叫びも意に介さず続ける。
「その後、二人の収容先を奉行所も管理する六角牢ではなく、
壬生娘。の屯所内に置くと強く主張したのも矢口殿です」
「それは身柄を確保したのが私たち壬生娘。組だからです。
あなた方のように、横槍を入れる方々がいるから」
「横槍ではない」
木村が横から口を挟む。
「勘違いされては困る。これは幕府による正式な通達だ。
そこら名もない不逞の輩ならいざ知らず、元滅茶勤王党の幹部ともなれば、
見廻組か、長らく幕府の信任を得てきた田中義剛様配下の我らに回されるのが当然でしょう」
「それを横槍と言うんじゃないですか」
里田は構わず続ける。
「幕府の方から移管が通達された時、激しく食い下がったのも矢口殿と聞いております。
我々に事実上の身柄が引き渡された後も、しつこく面会を求めてきた」
「あの二日間、身柄は壬生娘。の方にあった。
むしろあなた方が会わせないようにしたのではないですか」
「暗殺の恐れがあったのだ。守るのは当然だ」
「すべて憶測でしょう」
卑怯だ。と思う。
悪意があれば、物事など、どうとでも悪く取ることなどできるのだ。
だから物事を推測する時には悪意なき洞察と、万人が認める証拠が必要になる。
そう紺野は思っている。
しかし彼女らは「さる筋」の名のもとに、悪意に満ちた仮定を積み重ねている。
敵と味方の区別さえあれば、真実などどうでもいいと言わんばかりに。
学者肌の紺野には、監鳥居組が矢口を疑っていることだけでなく、それが許せない。
客観無き憶測の先に真実など見えてくるはずがない。
「まあ、可能性はあるのかもしれないね」
しばらく黙って聞いていた和田が口を開いた。
「和田さん!」
「しかし木村さん。矢口がそこまでよゐこを暗殺したがる理由はなんだろう」
そうだ。いくら状況から悪意に満ちた仮定を組み立てられても、
矢口さんにはよゐこを斬る理由が無い。
すると木村は少しも表情を変えず、続けた。
「第二次藤州征伐が完全な失敗に終わった背景に、
内部からの密告があったという話はご存知でしょうか」
「うん。まあそういうこともあったんじゃないかという話は聞いているが」
幕府による第二次藤州征伐が失敗した最も大きな原因は、
長年の仇敵であった読瓜藩と藤州藩の間に軍事同盟が結ばれたためとされている。
しかしそれ以外にも、求心力を失った幕府に対する諸藩の従属の意識の低下や、
それにともなう情報の漏洩も確かにあったと聞く。
「矢口殿は以前、藤州と関係を持っていたそうですね」
紺野は、はっと息を呑んだ。
ちょっと待て。この人はもしかして、矢口さんのことを。
「藤州の数ある諸隊の中でも奇兵兵兵隊(きへいへいへいたい)に並ぶと言われた笑犬隊。
そこに取り入っていたとか」
「それは藤州の軍備状況を探るために」
「どうでしょう。状況を探るために潜り込んだ者が、
逆に相手に取り込まれてしまうことも珍しいことではない」
やはりそうだ。監鳥居組は矢口さんを内通者として疑っているのだ。
「まあ、笑犬隊は隊長格の南原と内村が読瓜の手の者に斬られて壊滅しました。
ところでご存知の通り、滅茶勤王党は藤州藩に支援基盤がありましたが、
阿佐藩に対する勤王活動の多い集団でした。
それはひとえに、阿佐藩出身の浪士が多く所属していたからです。
そして中でも大きい影響力を持ったのが、阿佐藩浪士岡村隆史。
聞くところによると、矢口殿はこの者とただならぬ関係にあったとも」
――岡村隆史。
しばらく忘れていたその名を聞いて、紺野はある種の衝撃を受けた。
確かにその名を、壬生娘。は知っている。
ほぼ、互いに敵対するような立場になってからも尚、未だ先生と呼ぶ者もいる。
或いは矢口も。
「いや、そんなことは……」
紺野は瞳を宙にさまよわせながら尚も食い下がる。
「その筋によれば、有野と濱口は、矢口殿と藤州の関係について重大な証拠を握っていたとも」
「そんなわけありません」
「果たしてそうでしょうか。
いや、もしかしたら、そちらの方ならご存知かもしれない」
そう言うと、木村は和田からも紺野からも視線を外し、一人の娘を見た。
「どうでしょう? ソニンさん」
「え?」
意外な指名に驚く。
さくら組の紺野はソニンのことを知らない。
紺野は、ソニンのことをただの和田の付き人程度としか思っておらず、
しばしその存在を忘れていた。
「元笑犬隊隊士ソン・ソニン。あなたは笑犬隊初期より前線部隊に所属している。
しかしその正体は、どうやら和田様ご配下の者であったらしい。
とすれば、矢口殿がご存知だったかは分かりませんが、
同じく笑犬隊の内部事情を探っておられた。
笑犬隊壊滅後、島原にて滅茶勤王党幹部、濱口優とも深いかかわりを持ったあなたならば、
もっと詳しいことをご存知ではないのですか」
遠くの鐘の音が、さくら組の屯営に響く。
刻を知らせるため、まず三度。その後、五度打ち鳴らされる。
宵五ツを知らせる鐘。
「なんですって?」
蝋燭の小さな炎のもと、加護がぽかんと口を開けたまま言う。
「なんでもなにも、そのままだ」
立ち上がった矢口が、腰に刀を差しなおしながら加護を見下ろす。
「所司代屋敷へ行く。恐らくおとめ組もそこにいる」
「は?」
口をぽかんと開ける加護を無視して、矢口は亀井を見る。
「亀井」
「はい」
「新垣を呼べ」
「はい」
矢口は襖を開け、座敷を出る。
慌てて加護も立ち上がり、腰に刀を差しながらついていく。
「吉澤はいるか!」
矢口が廊下で大声で叫ぶと、すっと目の前に大きな影が現れる。
「ここに」
早足で歩きながら言う。
「留守を頼む」
「……は」
屋敷を出ると、平隊士に蔵を開けさせて防具を運び出させる。
矢口はそれらを受け取り、手早く体に纏いながら言う。
「少人数で動く。加護、新垣は各隊精鋭を三名ずつ選び、
出動の準備をさせろ。亀井もだ。吉澤と残りの隊士は屯所で待機。
忍びだ。灯りは最小限で」
「あの……なにを」
加護が恐る恐る聞くと、それまでこまごまと動いていた矢口は、
立ち止まって答えた。
「さくら組はこれより、
濱口、有野両名、及び阿佐浪士三名を取り返しに、所司代屋敷へ向かう」
「……ん?」
小川が屋根の上で小さく呟く。
「動きがあったか?」
飯田が言う。
「いえ……笛の音だ」
「笛?」
飯田は耳を澄ます。
確かに、遠くの山合からかすかに笛の音が聞こえてくる。
「……祇園囃子か」
それは京都の祇園祭特有の、祇園囃子と言われるもののようだった。
山鉾と呼ばれる祇園祭最大の見物である山車を取り回すときに演奏される。
恐らくは一人で演奏されているその笛の音は、
俗に「コンチキチン」と言い表される独特の鉦や太鼓の音が伴っていないためか、
どこか寂しく感じられた。
「ああ、そういえば本当なら今頃は、祇園祭の最中だったんですよね」
「小川はまだ見たことなかったか」
「ええ」
飯田も京都に生まれ育ったわけではないから、
祇園の祭りにかける京洛人の気持ちまでは分からないが、
はじめて祇園の祭りを見たときの、あの大きな通りを占拠し立ち並ぶ山鉾の荘厳なつくり、
溢れかえる人々の喧騒、そして夜のどこまでも続く無数の提灯の灯りは、今でも覚えている。
飯田のふるさとである蝦夷はもちろん、江戸でもあんな思いをしたことはなかった。
それはまるでこの世ならぬ、夢幻の迷宮に迷い込んだかのような、
まさしく一月かぎりの祭りの街であり、宴の都であり、暗闇に浮かぶ一塊の灯火であった。
京都に来てまだ二年程度の小川はそれを見たことがない。
何故なら京都で毎年この時期、一月に渡って行なわれていた祇園の祭りは、
三年前の幕府と藤州の激突によって生じた大火で多くの山鉾を焼失して以来、
僅かな神事がひっそりと行なわれているのみだったからである。
祭りが催されないことを残念がる声も少なくなかったが、
幾多の山鉾を作り直す余裕も、活力も、今の京都にはなかった。
「動き無いですね……」
小川が呟く。
「どこから来ると思います?」
石川との話によれば、牢から一番近い北門。
しかし滅茶勤王党の残存勢力をまだ見極めきっていない。
首領の武田真治は失ったものの、まだ強力な幹部は息をひそめ、
京都のあちこちに潜っているという話もある。
正面から来るか、それとも壁を越えてくるか。
もし残党の規模がこちらの予想を上回るものであれば、
もっと思い切った行動に出てくるかもしれない。
とその時、祇園囃子の笛の音がやんだ。
「あ、動きました!」
遠眼鏡を覗いていた小川が言った。
目に見えない緊張が、飯田らの潜む屋敷の中を走る。
「どこの門だ」
飯田はその場から所司代組屋敷に向かって目を凝らす。
大きい動きがあるようには見えない。
大人数で門を突破するようなことがあれば、声にしろ人の動きにしろ、
必ずこちらから見て分かるなにかがあるはずだ。
「北か?」
「いえ……」
「南か?」
「東……です」
「何?」
東側と言えば、隣の所司代下屋敷に接する通りであり、一番監視の目が多い場所のはずである。
事前の話し合いでも可能性は最も低いとしていた。
だから西側のこの屋敷に監視の拠点を構えた。
(東?)
「犬は」
「わかりません。薬で眠らされているのかも」
「人数は」
「三……四人。あ、いや、どこだ? 増えてます!」
「行く?」
辻が後ろから姿をあらわす。
「まだだ、待て」
壬生娘。組の狙いはあくまで“脱走した罪人の奪還”である。
よゐこ及び阿佐浪士が所司代組屋敷から脱走か、
あるいはそのそぶりを見せるまで待たねばならない。
“通りすがりの部外者”が屋敷のそばに踏み込めるだけの条件が必要なのである。
その見極めは慎重にしなければならない。
しかし何故、奴らは東から現れることができたのか。
「知っている顔はあるか?」
「灯りを持っていないので、ここからでは分かりません」
屋敷の内の階段を上り屋根に出る。
「貸せ」
小川から遠眼鏡を奪い取るようにして覗く。
確かに、五つ六つの影が静かに、屋敷の中を窺いながらうろついているように見える。
所司代の警備の姿はない。
近くに灯りが一つも無いため、見えるのは空からの僅かな光りに浮かび上がる影だけであり、
顔など判別しようがない。
滅茶勤王党の幹部が出てきているのか、そもそも滅茶勤王党なのか、
それすらまだ分からない。
「飯田さん!」
下から辻が急かす。
「……北西の牢に到達したら教えろ」
飯田は自分の心を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐くと、
遠眼鏡を小川に返した。
勤王党がよゐこを救い出さなければ、無意味なのだ。
たとえば今、所司代組屋敷に侵入している者が、
“よゐこ脱走のためにやってきた滅茶勤王党の残党”でなかったら。
誤って突入して、間違いでしたでは済まない。
飯田は、北側を占める広大な所司代の“領地”を含めた二条城の一帯に目を凝らす。
(敵はどこにいる)
階段を下りる。
滅茶勤王党の残党を、壬生娘。組は正確に把握しきれていない。
聞いた噂は有象無象のものばかりだった。
(どうする圭織……)
今、どれくらいの武力を持ち、財源を保持し、組織としての体裁を保っているのか。
もしその中でも最悪のものが真実だとしたら。
もし。
その規模が今この人数では抑えきれないほどのものだったら……。
所司代の被害も見過ごすわけには行かない。
(紺野。藤本……)
「侵入者、北西の牢に到達しました! 見張りが倒れているようです!」
小川が屋根の上で叫んだ。
(牢に取り付きさえすれば、言い訳は立つ。か)
「よし、出るぞ!」
言うや否や、飯田は自ら先陣を切って所司代組屋敷に向かい駆け出していた。