四、夜四ツ
「先生、なぜ京都に……」
「お? おー! 吉澤か」
男は吉澤の顔をまじまじと見つめた後、嬉しそうに声を上げた。
変わった風貌の男だった。
乱れた総髪。背が低く、猿のような顔。
腰に二本の刀を差してはいるが、何より変わっていたのは、
よれよれの白袴から伸びる足を覆う黒い履物。
鈍い光沢を放つそれは、男のくるぶしの上まで覆い隠している。
「なんですかその格好は」
「おーこれか、ブーツやブーツ。かっこええやろ」
そう言って履物をこんこん、と指で叩いた。
(阿佐の岡村隆史か!)
藤本は二人の様子を眺めながら、一人の人物に思い当たった。
驚くべき人物である。
――岡村隆史。
阿佐藩の脱藩浪人である。
今や、流転する政局の渦中の人物で、
倒幕の鍵を握る重要人物の一人と目されることも少なくない。
昨年成立した読瓜・藤州同盟の仲介に奔走した中心的人物であり、
それまで仇敵として牽制しあってきた二雄藩が足並みをそろえたことは、
結果的に、幕府による第二次藤州征伐を失敗に終わらせた。
幕府にとって岡村はいわば大罪人であり、
是が非でも身柄を押さえたいはずの人物である。
壬生娘。組にとっても当然、敵。
あらゆる幕吏が理由をつけて岡村を捕えようとしようとしている。
もはや気軽に一人で町中をうろつけるような人物ではない。
吉澤が焦るようにちらりと藤本のほうを盗み見て、唇を噛む。
「先生……うかつな」
(……先生?)
しかし岡村はそんな吉澤の仕種など気にせず、楽しげに続ける。
「吉澤かあ、なつかしいなあ。元気そうやな」
「そちらこそ……お変わりないようで」
「紗里奈とは仲直りしたんか?」
「いや……」
阿佐藩士の一人が叫んだ。
「岡村ぁっ、貴様っ」
するとすかさず吉澤が、一瞬で藩士との間合いを詰め、腹に肘鉄を入れる。
「ぐっ」
「お前らの話は後でじっくり聞いてやるから、ちょっとあっち行っててくれるかな」
吉澤は三人で団子のようになって支えあう阿佐藩士を、袋小路の奥へと押しやる。
阿佐と言えば岡村の出身、つまり彼らにとって岡村は同郷人のはずである。
岡村は同郷人にも狙われているのか。
岡村はかつて、盟友の矢部浩之と共に、
『無否々党(ないないなとう)』という集団を阿佐藩内で組織し、
過激な勤王活動を行なっていた。
しかし無否々党が様々な曲折を経て瓦解した後、
岡村は阿佐藩を脱藩し、『滅茶勤王党(めちゃきんのうとう)』を経て、
読瓜藩の支援を受け『狂内社中(ぐるないしゃちゅう)』という商業団体を設立した。
最近では読瓜・藤州同盟を成立させた後、
脱藩の罪を前藩主、田森一義(たもりかずよし)より赦され、
再び阿佐藩と組んで新組織再編を模索しているとの噂も漏れ聞こえる。
田森と言えば、阿佐藩内の勤王派を徹底的に弾圧し、
岡村の同胞の命をも多く奪った人物である。
その田森と今さら手を組むとなれば、当然、勤王派の阿佐藩士からは反発もあろう。
岡村のそういった過去の因縁の枠を越えたあまりにも奔放な行動力が、
同郷の過激派を刺激し、標的にさせているのだろうか。
実際、藤本自身も岡村の噂を聞くたびに、それが幕府の敵たる倒幕派としての振る舞いなのか、
それとも倒幕の動きを邪魔する振る舞いなのか、わからなくなることがたびたびあった。
風貌だけでなく、行動も奇妙な男。というのが藤本の印象である。
そこでふと、岡村が自分を襲った阿佐藩士を見て、声を沈ませた。
「お前、まだ人斬ってんのか」
吉澤は黙る。岡村は履き捨てるように言った。
「幕府はもう終わりやで。いつまでもそんなところにいたら、お前も死や」
「徳光のオッサンもそんなんに巻き込まれて死んでもうたし。
徳さんええ人やったのに。いまさら何が降嫁や――」
その言葉を聞いた瞬間。藤本が岡村の胸倉をつかんでいた。
「何か知っているのか!」
そういった状況に慣れているのか。つかみ上げられ、つま先立ちになりながらも、
岡村は落ち着いた様子で吉澤のほうを見る。
「吉澤……なんやこいつ」
「ちょ、ちょっと待てよ藤本」
「おー! お前が藤本かー!」
岡村はつま先立ちのまま、嬉しそうに藤本の肩を叩いた。
「話は聞いとるでー。お前が藤本かー、ほうかほうかー」
しかし藤本の表情は変わらない。
「あやは……姫のことは知ってるか」
「……はあ? 何や?」
「藤本、ちょっと落ち着け」
「女だ。その時一緒にいた女のことだ」
「? ……何言うとんのや」
「降嫁だ。徳光が斬られた時、駕籠に乗せられていた姫だ。亜弥々姫と呼ばれていた」
「お前……そこにおったんか?」
岡村はしばらく藤本を見つめた。藤本も岡村を黙って見つめる。
「……今は読瓜にゴチになっとるんやから、俺も少しは知っとる。
そやけどな。降嫁なんてただのはったりや
公武合体派の持ち上げた苦し紛れの嘘っぱちやで」
「嘘をつくな」
「ほんまやて」
「本当か」
「ほんとうや」
「違う」
「ほんまや言うとるやろ! 降嫁なんてありません! キダムも来ません!」
「きだむ?」
「こっちの話や」
藤本が手の力を抜くと、つま先立ちだった岡村の体がすっと沈む。
こいつは知らないのだと悟った。
徳光の駕籠が降嫁の一団であったことも、その中にあやがいたことも。
読瓜がそうそう亜弥々姫の存在を明かせるはずはない。
「そいじゃ、俺はそろそろ行かしてもらうで」
岡村が着物の埃をはたきながら言った。
「待て」
藤本が刀に手をかける。
たとえあやの手がかりがつかめなくても、
組にとって大きな獲物であることは変わりがない。
壬生娘。に義理はなくとも、つんくとの契約のために職務は忠実にこなす。
「……何や。斬るんか」
「藤本! ここは待ってくれ」
「斬りたいんなら斬ってもええけどな。俺ごとき斬っても、なんも変わらへんで」
「頼む」
吉澤が何故か悲痛な表情を見せる。
「幕府が倒れるのはもう刻の問題や。
お前らもさっさと壬生娘。なんてやめて、郷里にでも帰ることやな」
たそがれに、岡村の姿がにじむ。
「武士の時代は終わりやで。刀振り回す時代はもう終わるんや」
岡村の小さな背中が、町に消えていく。
「……すまない。藤本」
吉澤の顔は、さっきまでの自信に満ち溢れた表情とは全く異なっていた。
「この借りはいつかきっと返す」
遠くで、時刻を知らせる鐘が鳴っていた。
――虫が、鳴いている。
黒い空に月が昇ろうとしている。
昼の熱をようやく開放しはじめた石畳の上を、
さくら組副長の矢口真里がずんずんと歩いていた。
おとめ組屯営へ向かう通路である。
相変わらず高い下駄を履いている。
屯所内でまばらに行き違う平隊士たちが、
月夜に浮かぶ矢口の形相に恐れおののき、慌てて次々に道を開けていく。
数歩遅れて、矢口と同じくらいの背の娘が小走りについてきている。
さくら組一番隊組長、加護亜依である。
「矢口さん、そないに急がなくても」
「うるさい! ついて来れないなら置いてくよ!」
今夜も矢口は機嫌が悪い。
今は実質、副長の矢口が一人でさくら組を切り盛りしているようなものだから、
気が張ってしまうのも仕方がないのだけれど、
もう少し気楽にやれないものだろうか、などと、
加護は自分が副長助勤であることを棚に上げて思う。
もっとも、今回いらだっている理由ははっきりしている。
先日さくら組が捕えた濱口、有野の両名が、
こちらの知らぬうちに別の場所に引き渡されるという話を聞いたからである。
不動堂村屯営内の留置所は既に捕えた不逞浪士で溢れ返っている。
さくら組の最初の取調べを終えた濱口と有野は、身柄は壬生娘。組のまま、
壬生娘。組の管轄から少し離れた、京都奉行所と共同で使っている牢に留置されていた。
そのときから、どこかおかしいとは思っていた。
二人はその勢いのまま屯所の一番大きな建物の中に入り、
矢口は高い下駄を脱ぎ捨てると、
少しでも風を通すようにと戸の開け放たれた廊下をずんずんと進み、
奥の広間の襖を開けるなり叫んだ。
「局長!」
「なんだ、矢口」
「矢口さん」
広間には、上座に局長の飯田、その横に、副長の石川、
続いて下座におとめ組一番隊組長の辻、四番隊組長の小川、
そして、一番下(しも)の縁側に、監察方の藤本が座っていた。
矢口の後ろで加護が、矢口の真剣さをからかうようにおちゃらけた顔をして見せると、
辻が笑いを堪えきれなくなって下を向く。
「……藤本」
矢口はその姿を見つけて苦々しく呟いた。
「有野と濱口を所司代(しょしだい)に引き渡すというのは本当か」
矢口は飯田の正面に座った。その後ろに加護が座る。
「……そうだ」
飯田が答える。
「何故だ! こちらになんの断りも無く」
「事後承諾になったのは謝る。しかし、もう聞き出せることは聞き出したのだろう」
「そんなことはない。確かに、はじめは大したことは吐かなかったが、
うちの吉澤と……そこの藤本が捕えてきた阿佐脱藩浪士の話によれば、
滅茶勤王党の残党の動きがあるというじゃないか」
「連中も残党だったのか」
「それはまだ分からん。だから、もしかしたら再決起の危険もあるかもしれない。
ならば、よゐこの二人を尋問する価値はまだある」
――『滅茶勤王党(めちゃきんのうとう)』。
岡村隆史もかつて所属していた、勤王過激派集団である。
阿佐藩で『無否々党(ないないなとう)』として活動していた岡村隆史と矢部浩之は、
それより以前に、既に倒幕の方針を打ち出し始めていた藤州藩からの支援を受けて、
『飛薬(とぶくすり)組』として密かな活動をしていた。
その後、無否々党が瓦解し阿佐藩を脱藩した岡村と矢部は、
よゐこら、他藩からも志を同じくする者を集い、
樹音(じゅのん)藩脱藩浪士、武田真治を党首として、
飛薬組を滅茶勤王党として再結党する。
武田真治と滅茶勤王党の活動はすさまじく、
それは特に京の町で、佐幕派公卿、幕臣の暗殺という形であらわれ、
阿佐藩公武合体派の指導的立場であった、下平さやかの暗殺にまで至った。
(下平暗殺の犯人には諸説あり、笑犬隊の内村光良という説もある)
これらは文久二年(1861)から文久三年(1862)の間のことであるから、
まだ壬生娘。組結成以前のことである。
滅茶勤王党が京で猛威を振るった頃、壬生娘。組はまだそこに居なかった。
しかし間も無く、滅茶勤王党の勢いは止まる。
幕府の権力闘争に敗れ、それまで隠居を余儀なくされていた前阿佐藩主、
田森一義が幕政に復帰したのである。
公武合体論を掲げる田森は滅茶勤王党を徹底的に弾圧し、
ついには首魁の武田真治に対し下平暗殺の罪を問い、切腹を命じる。
これで事実上、滅茶勤王党は瓦解した。
武田の切腹は、腹を三文字にかき切る、それは見事なものであったという。
「その通りだ」
飯田が言う。
「二人を尋問する価値がある。だから引き渡すのだ」
「何故だ!」
「うん。そこからは私が話そう」
突然、隣の部屋から男の声がした。
飯田が黙って石川を見る。
石川は立ち上がり、隣の部屋との間の襖を開いた。
男が一人、座っていた。
肌が黒く光り、やや猫背ではあるが眼光鋭く、口もとには不敵な笑みを浮かべている。
「……あんたか」
矢口が言った。
男の名は和田薫。幕臣である。
壬生娘。組の結成に大きく関わった人物であり、
その後も何かと壬生娘。の面倒を見てくれ、また、仕事の依頼もしてくる。
ただし壬生娘。との直接的な上下関係はなく、
また、壬生娘。自身、そもそも浪士の集まりで結成された独立的な組織であり、
彼女らも自らを国の危機に立ち上がった草莽の志士であるとする思いが強かったため、
幕臣に盲目的に従属するような意識は強くなかった。
そのため、縦と言うよりは横の、同僚のような関係がこの和田との間にはあった。
「うん。最近、阿佐藩と滅茶勤王党の残党の動きが活発というのは本当らしい。
そうだったよな、飯田」
「はい」
藤本はあの後、数日間に渡って密かに岡村を張り込み続けた。
やくざ者を何人か雇って見張らせもしたが、
岡村は毎日仲間を集めては酒を飲むばかりで、
あやの降嫁等に関しては何も有用な話がつかめずにいた。
ただし、確かに周辺の阿佐藩浪士の動きは活発で、
岡村を追っているうちにそういった話は多く入ってきた。
吉澤の頼まれたとおり、岡村の存在は隠していたが、
阿佐藩浪士らの動きは適当に飯田に報告していた。
「うん。これには幕府も頭を悩ませてね。わかるだろ、今、幕府はぎりぎりのところなんだ。
読瓜と藤州が同盟を組んで、これに阿佐が積極的に関わってくるようなことになると非常に困る。
幸い、今のところ阿佐の一義公は倒幕に懐疑的で、勤王には弾圧的だという。
そのために、阿佐の勤王派はこちらの方でも徹底的に消し去っておきたい。わかるな?
だから、阿佐浪士の取り締まりは京都所司代の方で包括的に組織することになった。
今後、阿佐藩士に関する取調べは所司代が一括して行なう。うん」
「なんだって……」
京都所司代とは、不逞浪士らによる混乱を受けて京都守護職という役職が新設されるまで、
京都の政事と治安維持を一手に引き受けてきた、老中に次ぐ要職である。
つまり、有事に緊急で設けられた壬生娘。組などとは異なり、
京都の包括的な治安維持活動は、本来なら所司代が行なっていたのは事実である。
「ウチらでやればいいじゃないか。
よゐこも、阿佐浪士も捕まえたのはウチらだ。ウチらに分がある」
「うん……。これは、決定だ」
「つまり、ウチらを幕府は信用できないってことか」
「矢口さん……」
加護が後ろで矢口の袖をつかまえる。
それはつまり、単純なことだった。
壬生娘。が捕え、聞き出し、狙いを固めてきたものを、
幕府が上から取り上げ、お抱えの所司代に与えようとしている。
「何をやってるんだ幕府は! 今は身内で手柄を争っている場合じゃないだろう!」
「矢口さん!」
和田に掴みかからんばかりの勢いで前へ出ようとする矢口を、加護が後ろから押さえる。
広間がしん。と静まり返る。
「……その通りだ、矢口。だから手を引け」
飯田が言った。
身内で争っている場合ではない。だから壬生娘。は手を引く、と。
「うん。これは京都守護職、つまり寺田殿も認めたことだ」
和田が言った。
「濱口、有野両名、そして阿佐浪士の所司代引き渡しは明後日の夜、
引き渡しの後、和田さんも尋問に立ち会うそうだ。一応その時に、
うちに引き渡すよう、再度交渉もしてくれるという」
和田が黙って頷く。
「こちらから和田さんに護衛を出す。おとめ組からは藤本をつける。
さくら組のほうからも一人出してくれ」
しかし矢口は黙っている。
「矢口!」
「……わかった」
「よゐこは所司代に引き渡せ、いいな」
「わかったよ」
うるさいと言わんばかりに矢口は一字一字を強く言う。
「さがっていいぞ、矢口」
飯田が冷たく言い放つ。
「圭織……」
矢口はそのまま顔を上げることなく、加護を引き連れて出て行った。
「いいんですか、飯田さん」
二人の足音が聞こえなくなると、石川が口を開いた。
「矢口さん、顔真っ赤だったよ」
辻が心配そうに矢口の出て行った方を見ている。
「いい。お前たちには、まだこれから話がある」
飯田が和田を見た。
やはり矢口の後ろ姿を見て、どこか気まずそうにしていた和田もそれを見て頷き、
さっきまで自分がいた部屋から一人の娘を呼んだ。
見た目はそのあたりの町娘と変わらない。
強いて言うならば、肩幅が広く体格ががっちりとしているくらいか。
女は目を伏せ、黙ったまま、和田の隣に座った。
「うん。この娘は、名をソニンという」
矢口は、もと来た石畳の上をずんずんと歩いていた。
歩く速さは来た時と変わらない。
「矢口さん……」
小走りでその後を追いながら、加護が心配そうに言う。
「紺野を出そう」
矢口が突然言った。飯田に言われた和田の護衛のことである。
「紺野ちゃん? ……大丈夫でしょうか」
加護は正直にそう思った。
紺野で務まるだろうか。
「違う。わからんか?」
矢口は立ち止まった。
加護は首を傾げ、しばらく黙った後、
「わかりません」
と言った。矢口がため息をついた。
「……そにん?」
首を傾げる辻に、和田が続ける。
「うん。朝鮮での名でね。向こうの血が混じっている」
黒船の来航により日米間に条約が締結されるまで、
日本は鎖国を保っていたが、それでも僅かながら外国とのやりとりはあった。
オランダ、中国、朝鮮などがそれで、
中でも朝鮮は、オランダと中国が「通商」と言われる貿易のみの関係だったのに対し、
「通信」と言われる正式な国交を持っていた。
もっとも、それは双方の経済的理由などにより、文化八年(1811)以降、絶えてしまっている。
しかし同時に、その裏で行なわれていた密輸などで局地的な関係は続き、
交流の中でごく僅かながらも混血児は存在した。
「うん。身寄りが無くてね。私が預かっているんだが」
話によると、ソニンは和田の下で密偵のような活動をしているという。
今は島原の遊女をしながら、体を張って得た情報を和田に伝えている。
中でもよゐこの濱口はソニンに相当入れ込み、濱口の行動は和田に筒抜けだったという。
「ああ、それで」
小川が言った。
そもそも和田には、
自分がさくらに濱口、有野を捕える仕事を流してやったという意識もあるのか。
「このソニンによると、よゐこの移送を待って、
所司代屋敷に滅茶勤王党残党が襲撃するという話があるらしい」
飯田が言う
「えっ?」と小川。
「じゃあ所司代に知らせてあげないと」
「その必要ないでしょ」
辻が言う。
「なんで!」
「だって、勝手によゐこが欲しいって向こうが言ったんじゃん。
当然、それにともなう危険だって持ってってもらわないと」
「でも、このまま指をくわえて見てるわけにも」
「そこでだ」
飯田が言う。
「横からかっさらおうかと思います」
石川が続けた。
「……まあいいよ」
矢口は再び歩き始める。加護は慌てて小走りでついていく。
どういうことだろうか、と加護は思う。
和田もああ見えて一応、幕府の要人である。
紺野はまだ経験も少なく、どこかぼうっとして用心に欠けるようなところがある。
あの性格は、警護に向いているのだろうか。
まあ、あの藤本が一緒なら大丈夫だとは思うが。
「逆」
「はい?」
「局長は……圭織は、ああ見えて、藤本を信用しちゃいない。おいらと同じくらいね。
その藤本を和田さんの警護につけるということは」
「言うことは」
「和田さんのところは重要じゃないということだ」
「はあ?」
「まあ、それでも藤本の腕ならいざって時は大丈夫って意味もあるのだろうけど。
あいつは集団行動には向かない。だから“外した”」
「……はあ」
「ええーっ」と再び小川。
「和田さんの交渉が決裂した場合、
残党の襲撃に便乗して、よゐこの身柄をこちらで確保させていただきます。
そうなれば、所司代も文句は言えないでしょう」
確かに、残党に屋敷を襲われる不備を露呈した後、
壬生娘。組に救われたとなっては所司代も声を強くはできまい。
しかしなんと。悪どいとでも言うか。とても正義とか誠の下に出る発想ではない。
「わくわくするね! こういうの」
辻が嬉しそうに言った。
「でも〜、そこまでする必要があるんですか」
小川が言う。
つまり、そこまでしてよゐこの身柄に壬生娘。がこだわる必要があるのかということだ。
ただの名誉欲であれば、それこそ身内の手柄争いでしかない。
「ああ。阿佐藩の田森一義公が近々上洛(京都入り)との噂がある」
読瓜と藤州が手を組んだ今、田森一義は数少ない有力な公武合体論者である。
読・藤のみならず、阿佐藩内部の勤王派も穏やかではあるまい。
もしも田森が暗殺されるようなことがあって阿佐藩が急速に読・藤に擦り寄れば、
一気に情勢が倒幕に傾く恐れがある。
逆に田森が強弁に公武合体を唱えつづければ、幕府は首の皮一枚でつながる。
(岡村はその工作のための上洛か)
藤本は岡村の周りを見張っていた数日間を思い出す。
矢口も言っていたとおり、何か起こる可能性もある。
(岡村はどちらだ)
「うん。本音を言えば、一義公のことも考えれば、
俺も所司代より、お前らに動いて欲しいんだよね。
所司代も悪いわけじゃないんだが、力の差を考えるとやはり」
和田が顔をしかめる。
「向こうが強引なやり方をして来るんだ、こちらも少々強引にやらんとな」
飯田がどこか嬉しげにうなずく。
「でも、おおごとにならない?」
辻が言う。
どう言いつくろっても、結局のところ、これは強奪である。
表面上は罪に問われずとも、これが壬生娘。の仕掛けたものだと気づく人間も少なくあるまい。
つまり、余計な恨みを更に買うことになる。
彼らにしてみれば、手柄が奪われるとしか感じないだろう。
まして、これが失敗に終わろうものならば――。
「だからこそ矢口さんには帰ってもらったのよ」
石川が言った。
「うむ。この件は我々おとめだけでやる。いいんですね。和田さん」
飯田が念を押す。
「うん。すまないが」
「たとえ片翼が死んでも、片翼が生き残れば何とか生きていけるだろう」
「飯田さん……」
飯田がこともなげにさらっと言いのけた。
それはつまり、命を賭けるということだ。
自らが死ぬかどうか、壬生娘。が潰れるかどうかの判断を、今ここでしている。
「常に死線なのだよ。小川。
壬生娘。が特別な存在であり続けられるのは、特別なことをしつづけているからだ」
「気の毒だが、今回さくらは蚊帳の外に居てもらう」
飯田は決意を強くするように、目に力を込める。
「泥はおとめが被る。いいな」
「いいよ」
辻が言った。
「はい」
小川が続いた。
「紺野には悪いが、今回は貧乏くじだ」
月の光の下で矢口は決意を強くするように、口を強く結び、何度も頷いた。
「さくらはさくらで好きにやらせてもらう。
うちの局長がいない間、おとめの好きにやらせはしないよ。圭織」
加護はまだよく分からずに、首を傾げた。