公式本

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115名無し募集中。。。
「居ね、壬生狼(みぶろ)。おとなしく去れば、見逃してやる」

「はっ」
吉澤は鼻で笑う。
袋小路の奥の、乱れた荷の山を見る。

「どんな理由かは知らないが、この都で刀を抜いた以上、
見過ごしてやるわけにはいかないねえ。これもお勤めなんでね。
それにな――」
じいと阿佐藩士たちを見る。
「ちょいと腹が立っている」

もはや斬り合うより他にない。と、阿佐藩士たちは押し黙り、刀を構える。
三人が三人とも、全く同じように中段に構え、
切っ先を吉澤に真っ直ぐ向ける。

「……芸がないね」
吉澤の目から笑いが消える。

阿佐藩士らの構える刀は、藤本たちの側から見ると異様に長く、
反りの浅い刀身はまるで、巨大な鱶(フカ)のような迫力がある。
116名無し募集中。。。:04/03/29 21:33 ID:TovsRMOO
長刀。
これもまた、時代を象徴するものである。

尊皇攘夷が叫ばれる混乱の時代に入ると、
一部の武士たちは好んで長い刀を差すようになった。

中でも勤王を叫ぶ志士たちが多く求めたことから『勤王刀』とも呼ばれるそれは、
長いもので刃渡りが三尺を超えるものもあるという。
一般に定寸(じょうすん)が二尺三寸とされているのだから、その長さは尋常ではない。

刀身の長さは一対一での間合いの優勢を保ち、さらに、
巻き藁を並べて「切る」演武のようなものではなく、
より実戦的に人を鎧ごと「断つ」ような意識をもって作刀されていたために、
反りは無と言っていいほどに浅く、折れないために分厚く、重くなっていった。

長い泰平の世の中で、日本刀は武士の象徴としての美術的な美しさ、
また日常生活で取り回しのよい長さのものが多く求められ、
中には刃紋の姿に彫刻のような技巧を施すものが流行するなど、
装身具的な意味合いが濃いものに変容していた。

そこに現れた勤王刀は、まさしく勤王志士たちの心を象徴するものでもあった。

様式の美に向かい、兵士としての本質を失いかけていた武士を象徴するものを、
それら美術品的、装身具的な刀群とするならば、
剛直で実戦的な印象のある勤王刀は、数百年前の乱世の再来の如く、
失われし兵士の本質への回帰を渇望する若き志士たちの心の顕れでもあったのである。
117名無し募集中。。。:04/03/29 21:34 ID:TovsRMOO
藤本は吉澤より一歩後ろで、黙って戦況を見つめていた。
もちろん、何かあればすぐに刀を抜ける体勢ではいる。

吉澤の腕を信用していないわけではない。
実際に剣を見たことはないが、その立ち振る舞いからも、並の腕でないことは分かる。

しかし相手の阿佐藩士も相当に鍛錬を重ねている。しかも三人。
どう立ち合うつもりか。

藤本なら間髪入れず、相手が体勢を整える暇も与えず、抜いた瞬間に三人を斬り去っていただろう。
暗殺を生業にしてきた藤本は躊躇せず、ただ人を斬るために剣を抜き、剣を抜いたら人を斬る。
そこには武士同士特有の駆け引きのようなものはない。
だが吉澤は藤本を止めた。

小路。端から端まで二間ほどしかない。
そこに阿佐藩士三人が横に並び、同じように中段に構えている。
正面で吉澤と対峙している一人はやや後ろに引き、両端の二人がやや前めで、
吉澤を囲むようにしている。
刀の間合いを考えれば、まったく余分な空間がない状態と言っていい。

それぞれが全く同じ構えで、
長い刀をさらに長く持ち、剣先で牽制する。
先ほどの言葉どおり吉澤の柔術を警戒し、懐に入れさえしなければ、
三人がかりで一気に斬り伏せることができる。といったところか。
118名無し募集中。。。:04/03/29 21:34 ID:TovsRMOO
ふっ、と吉澤が息を吐く。
そしておもむろに、上段に構え、そこからゆるりと剣を横に回した。
「!」
「!」
「!」

(……月?)
藤本の位置からは、それがまるで夜空に浮かぶ満月のように見えた。
相手を幻惑するようにゆるりと左から円月の軌跡を描いた剣先はやがて、
吉澤の斜め下、右足の前で止まった。

下段。受けの型である。
上半身に明らかな隙を見せ、
相手に攻めさせておいて後の先(ごのせん)をとる、誘いの構えである。
「三人いっぺんでもいいぜ、阿佐者」
吉澤の口の端がつりあがる。

「……ぐう」
「貴様……」
「……」
明らかに挑発している。

「……行くぞ。三人同時だ」
一人が残りの二人にささやく。
119名無し募集中。。。:04/03/29 21:35 ID:TovsRMOO
しばらく。沈黙の刻が過ぎた後、真ん中の一人が動いた。
「きはぁぁあああああ」
吉澤の胸に突きを繰り出す。
それを追って残りの二人も頭、腰に向かってそれぞれ突きを繰り出した。

吉澤は体をわずかに後ろに引き、
下段に構えていた刀で、やや先行していた真ん中の一人の突きを下から受け、
腰を落としながら突きをせり上げるようにして刀の棟の上を滑らせる。
鉄と鉄が擦れる甲高い音が響く。

吉澤は体を引きながら、さらに腰を低く落とす。
涼しげな瞳が藤本の目に映る。その刹那。

藩士の足元が、ふわりと浮き上がった。

「うおっ!?」
しゃりん。と、
吉澤が剣を擦り上げながら上に振りぬくと、狭い小路で浮き上がった藩士の体は、
残りの二人のわずかに遅れた突きの体勢を妨害しながら、
剣と剣の触れ合った一点を中心にして風車のように回り、
地面に頭を向けてどさりと下に落ちた。
「ぐはっ」
倒れた藩士が息を漏らす。

(なんだ……これは?)

「秘伝、一徹膳返し。なんちって」
足元に舞い上がった土煙の中で、吉澤がにやりと笑った。
120名無し募集中。。。:04/03/29 21:36 ID:TovsRMOO
「く、貴様あっ」
「何をしたっ」
「だから一徹……」

「きはぁあああああ」
「きぇええええい」
目の前で起きた出来事に一瞬怯んだ残りの二人だったが、
気を取り直して再び吉澤に斬りかかる。

が、その二人も同じように吉澤と剣が触れ合った瞬間、
何か不思議な力に天から釣り上げられたかのように、ふわりと足元が浮き上がらせ、
もんどりうって地面に叩きつけられた。

(これは、柔術か?)
それは確かに柔術の投げのようでもあった。
両者の触れ合う点が互いの刀のみという異様さを除けば。

刀が触れた瞬間に相手が異様なほど浮き上がる。
そしてまるで、自分の意志でそうしているかのようにくるりと回転する。

奇妙な光景だった。
阿佐藩士たちは吉澤に投げられては立ち上がり、狂ったように斬りかかる。
しかし吉澤と剣が触れ合うたび、また足元が浮き上がり、回転して地面に叩きつけられる。
吉澤という点を中心に、藩士が次々に円弧を描く。
121名無し募集中。。。:04/03/29 21:40 ID:TovsRMOO
柔術の投げは基本として、相手の体の部位をとり、関節を極めて技を打つ。
何はどうあっても、どんなに一瞬であろうとも、
まず相手の体か衣服を取らねば投げは打ちようもない。

相手に全く触れずして投げ飛ばす技があるとすれば、
それは人知を超えた力でしかありえないのではないか。

確かに剣同士の仕合であっても、余程の力量の差がある相手ならば、
体(たい)の流れを見極め、いい拍子で相手を投げ飛ばせることもある。
しかしそれは相手が余程の未熟者で、体をかわすか少し足でもかけてやるだけで、
勝手に転んでしまうような状態の場合のみである。

だが吉澤はそれを技として使っている。それも剣先のみで。
柔術とひとことで言ってしまうには、それはあまりにも。

「合気(あいき)だよ。藤本」
吉澤は涼しげな瞳を藤本に向けた。
122名無し募集中。。。:04/03/29 21:41 ID:TovsRMOO
合気とは技術的に言うならば崩しの技法のひとつである。

崩しとは、投げにおける連続した動きの中の一段階で、
相手の重心の均衡を変化させることである。

たとえば歩いている人間が石につまずいて転ぶ。
これは人が移動するという、重心が不安定な状態の時に、
目標としていた位置より手前でその移動を妨げられることから起こる。

止まっている人間をまずこの状態にする。簡潔に言うならばこれが崩しである。

通常は相手の重心移動を誘うために、自らも相手を捕らえて押す、引くなどの動きをする。
これが崩しの基本としてある。

相手も生きている人間なのだから、そう簡単にこちらの思い通りには動いてくれない。
投げの過程における見かけ上の運動量を線であらわすならば、
相手の動線を引き出すために、自らも同じ量の動線を引かなければならない。

しかし達人であればあるほど、崩しに要する当人の動線は短くなってゆき、
やがてそれは、相手の動線の延長に相反して限りなく点に近くなる。
つまり自らは全く動かず、相手だけが動くようになる。
そしてその点はやがて術者自身をも離れ……。

そのさらに高みに、合気の境地はあると言われる。

(刀から……相手の関節を極めているのか?)
123名無し募集中。。。:04/03/29 21:42 ID:TovsRMOO
阿佐藩士たちは肩で息をしながら、長刀を杖のようにして立ち上がる。
「長い刀がもったいないぜ」
「ば、化け物」
「失礼な」
吉澤は少しむっとした表情を見せる。

「どうだい阿佐者、あんたら何か面白いことを知っていそうだ。
このままおとなしくついてくれば、これ以上痛い思いをしなくて済むよ」
「痛みなど恐れるかっ」
「ちええええい」
阿佐藩士は怯まず斬りかかる。

吉澤はふうと息を吐き、剣を触れずにかわす。
もはや体力を消耗し、長く重い刀に振り回されてしまっている。
かわすのはたやすい。

「壬生狼がっ」
「……やれやれ」

すると吉澤は、自分の刀を地面に突き立て、手を離した。
「さあ」
挑発するように、阿佐藩士に向かって両手を大きく開いた。
124名無し募集中。。。:04/03/29 21:43 ID:TovsRMOO
「くっ」
「舐めるなっ」
三人は刀を構えなおす。

「断ったのはあんたらだからな。覚悟しろよ」
吉澤の足元に土煙が上がる。
三人は同時に斬りかかった。すると吉澤の姿が、
「……消えた?」

「間合いに入れないんじゃなかったのか?」
そう言った吉澤の体は、三人の間に割り込んでいた。
消えたのではなく、一瞬のうちに正面から視界を突き抜けていたのだ。

三人の斬りかかった瞬間、同時に吉澤も前へ突っ込んでいた。
無手の人間がわずか数歩の踏み込みで三人の剣を無力化した。
常人の見切りではない。
125名無し募集中。。。:04/03/29 21:44 ID:TovsRMOO
「しっ」
吉澤は鋭く息を吐くと、一人の長刀の手元の指をとり、躊躇なく逆向きに折る。
ぼきりと鈍い音がする。
「ぎゃああああああ」
手首をとり、関節を極めて投げる。
相手は吉澤の体を中心にぐるりと回転して、背中から地面に叩きつけられる。
「ぐふっ」

そしてすかさず、距離をとろうと後ろ足に下がる藩士の膝を低い体勢で前に蹴り押し、折る。
藩士の膝が逆に曲がる。
「うごおおおおおお」

残った一人に対し、擦り寄るほどの間合いで体を密着させ、
自分の腰の脇差しを鞘ごと抜き出し、その柄を思い切り相手の脇腹にぶつける。
ごきり、と腹の近くで音がする。
「うぎゃあああああ」
126名無し募集中。。。:04/03/29 21:45 ID:TovsRMOO
刹那であった。
土煙の中。吉澤と、少し離れた場所で戦況を見守る藤本だけが立っていた。

「なめんなよ」
吉澤は、倒れた阿佐藩士たちに向かい、涼しげな瞳を向けた。
「壬生娘。は伊達じゃぁないんだよ」
ぞくりとさせる視線だった。

「ぐ……なぜ斬らぬ」
指を折られた藩士が膝立ちで言う。
三人の中ではもっとも怪我が軽い。

「言ったじゃん、俺は蛇の次に血が嫌いなんだよ。それに――」
吉澤はいたずらをする子供のように、にぃと笑う。
「怪我人二人なら、一人で運べるだろ」
127名無し募集中。。。:04/03/29 21:46 ID:TovsRMOO
「おっと、丁寧に動かせよ。肋骨が折れている。下手に触ると臓腑に刺さるぞ」
指を折られた阿佐藩士が、ふらふらとしながら二人を抱え上げる。

一人は肋骨が折れているが、他のところに怪我はないし、
もう一人は片膝を折られたが、一人に支えてもらえば片足で何とか移動できる。
そこまで考えて怪我を負わせたということか。

江戸の時代は、柔術が隆盛を極めた時代でもある。
これは泰平の時代と無縁ではない。

組み打ちの術とは本来、剣を失った時のための剣術の裏技的な技法であった。
それが戦乱の収まりから、剣に関する規制が増え、
剣術が心身鍛錬などの求道的方向に走っていく中で、柔術として内に組み込まれ、
新たな、剣を使わない時代の、剣を使わない護身の術として、脈々と技を編んでいった。

後の時代の柔道、合気道へとつながる萌芽が、この時代に力を蓄えたのである。

武芸が様式の美を備え、精神性を極めていく中、柔の術は剣のない時代に合気の境地に達した。
これはあるいは、江戸という長い泰平の世を経なければ生まれ出なかったものなのかもしれない。
128名無し募集中。。。:04/03/29 21:47 ID:TovsRMOO
「これが、道はひとつではないということか」
藤本は、新垣が浪士とやりあったときに吉澤が言っていた言葉を繰り返した。
時が流れれば世は変わるのは必定である。
ならばその世にふさわしいものも、また変わってくるということか。

吉澤はふっと笑う。
「変わるのも悪いことばかりじゃないさ。隊服みたいにね」

「だが――」
そこで藤本は言葉を止める。

もし新しい芽が伸びてこなければ。
柔術が発展したのは、剣を使う場が失われつつも、
武士の精神と戦いの術は尚、必要とされていたからだろう。
その武士の振るう武芸の一部として、たまたま柔術が伸びてきたに過ぎない。

果たして壬生娘。は、武芸のように普遍と必要とされるものなのか。
合気の技が育まれる中、その影で消えていった、
数多くの流派の一つに過ぎないということはないのか。
129名無し募集中。。。:04/03/29 21:50 ID:TovsRMOO
藤本の心の内を読んだかのように、吉澤が言った。
「だったら、滅びるのもまた道さ」

西の空の色が赤い。
町は刻々と色を変え、辺りの店屋は明かりを灯しはじめている。
行き交う人々の姿がすでに暗く、遠くの人間がどんな顔をしているのか、
もはやよくは分からない。

――たそがれ、という言葉は、
「誰そ彼」という言葉から来ているという話がある。
昼と夜という全く別の世の境目にあるこの刻は、人の姿を正しく捉えにくくさせる。
刻々と変化していく世の色に、目が対応しきれないためだ。

吉澤は指先で宙にくるりと円を描く。
「円だよ。昼があるならば、夜もまた、必ずくるものだよ」
「お前……」
たそがれの薄明かりの中、吉澤の表情は霞んでよく見えなかった。
130名無し募集中。。。:04/03/29 21:52 ID:TovsRMOO
と突然。袋小路の突き当たりの積荷が、がたがたと音をたてた。
二人の視線がすばやく動く。

「……いてててて」
崩れた積荷の中に、その姿はあった。
「酷い目におうてもうた」
頭を押さえながら上半身を起こす。
そういえば、阿佐藩士たちはこの人物を追い込んでいたのか。

その姿を見て、吉澤が呟いた。
「……岡村先生」
大きく目を見開いている。吉澤は明らかに驚きの表情を見せている。

「ん? 誰や?」
その、猿のような顔をした小男が、立ち上がって首をきょろきょろと振った。