第55話 「白い翼」
北海道、室蘭。ある日の昼下がりのこと。時ならぬ「爆弾低気圧」の折り、
風雪が街をも凍れと吹き付ける中一人の少女が寒さに身を縮めながら通りを行く。
その日人通りは少なく、また行き交う車もまばらだった。それでも彼女はどうしても
この大雪をついてでもやらなければならない事があった。アスファルトを覆う雪を
慎重に踏みしめながら、少しずつ前に進む。鈍色の寒空に消えていく少女の白い
吐息。やがて少女は交差点へとさしかかった。白いヴェールの彼方に一点だけ
灯ったかのような、信号灯の光が奇妙なコントラストを描く。少女が顔を上げた
その時、信号はまだ青だった。
(大丈夫、まだ行ける)
周囲を確かめながら、少女は横断歩道を渡り始めた。そして四分の三程度を渡り
終えたその時だった。
『キイイイイイーッ!!』
激しいブレーキ音を響かせながら突如交差点に突っ込んできたのは、一台の乗用車
だった。遠く関東方面からやって来たこの車は、突然の大雪に対する備えが不十分の
まま北海道に来てしまったのである。少女がこの車の存在に気づいたときには、
すでに回避は不可能だった。車は道路脇に乗り上げたが、自走することが可能だった
のかけたたましくタイヤが悲鳴を上げると、脱兎のごとく現場から走り去っていった。
一方、その車にはねとばされる形で少女もまた雪の降り積もる歩道に倒れていた。
「おねえ・・・ちゃん・・・」
遠のく意識の中で、少女が呟いた言葉。事故の瞬間、走り去っていく車の、それこそ
乗っていた者の顔までも見えたほどゆっくりと流れた時間。やがてそれは、全身を
襲った衝撃にかき消された。そしてそのまま、少女のまぶたはゆっくりと重く閉じ
られていった。
そして少女が再び目を開いたとき、彼女は闇の中にいた。やがて顔、いやむしろ
全身に違和感を感じた彼女は、その正体を確かめるべくゆっくりと手を伸ばした。
どうやら、それは布か何からしい。そう感じた彼女は、自分の身体を包むように
かけられていた布らしきものを取り払い、ゆっくりとその身を起こす。目が徐々に
慣れてくると、彼女は自分がどうやら部屋の中にいるらしいことに気がついた。
そして、そこには自分一人しかいないことも同時に知った。薄暗い部屋の中に、
なぜかたった一人で横たわっていたのである。さらに、少女は着ていた服ではなく
何か検査衣のようなものを着させられていることに気づいた。ベッドとも台とも
つかぬものに横たえていた身体をすっかり起こした彼女は、裸足のまま床へと
降り立つ。皮膚感触、呼吸、嗅覚、視覚。その全てが今まで通りであることに
彼女は不思議な感覚を覚えていた。あれだけの事故に遭っていながら、である。
(死ぬかと思ったのに何ともないや・・・なんでだろ)
交通事故に遭ったことは自分でも理解していた。はねられ、跳ばされ、
叩き付けられる瞬間まで記憶していた。それなのに、なぜ今自分は全くの無傷で
そこにいるのかが判らなかった。戸惑いながら薄明かりの中で自分の身体の隅々に
視線を走らせるが、とくに変わったことはないように思えた。自分はすっかり
平気なのだと思うまでにはならなかったが、少なくともこの居心地の悪い部屋に
いる理由は無いように思えた。こんなところにいつまでもいたのでは、生きた
心地がしないと少女は思っていた。
仕方なく少女は検査衣のまま部屋から外へ出ることにした。ドアノブにゆっくり
と手を掛けると、大した手応えを伝えることなくドアは開いた。あっけないほど
簡単に外に出ることが出来た少女の目に映ったのは、先ほどの部屋よりは少し
明るい通路だった。それと同時に少女の鼻を刺激したのは薬品のにおい〜どうやら
消毒用のアルコールのようだ〜だった。その瞬間、彼女は一応自分を納得させる
答えを導き出すことが出来たと思った。事故にあった自分は病院に運ばれ、そこで
意識を取り戻したのだと理解することが出来た。
「よかった・・・助かったんだ」
命に関わる事故だった。しかし奇跡的に彼女は一命を取り留めた。安堵の表情を
浮かべ、ふと見つめた部屋。だがそこに、少女の予想だにしない事実の証左となる
プレートが掲げられていた。がっくりとうなだれ、膝をつく少女。彼女の目に
飛び込んできたプレートには、明らかにこうかかれていた。『霊安室』と。
その部屋が何のためにあるのか、それくらいの事は少女も十分理解していた。
少なくともそこは生者が世話になるような部屋ではない。人間はまれに死後数時間
から十数時間経過した後突然息を吹き返すケースがあるという。従って彼女がその
例外的ケースに当てはまったという事実も無いわけではない。だが、今の彼女に
そのような判断は出来なかった。
「いやあぁぁぁぁぁぁ!!」
頭を抱え、髪を振り乱しながら少女は乱れた足取りのまま通路を走る。それは
おおよそ正常な人間の有様ではなかった。薄暗い通路を抜け、どこを目指すでもなく
ただこの場から逃れるために走る少女の姿は、行き会った何人かの病院関係者に
目撃されていた。
「あれって確か・・・」
「おととい事故にあった女の子じゃないか?」
「んな馬鹿な!」
彼らの会話が事実ならば、明らかに人間の蘇生時間を超えて少女が蘇生した事に
なる。少女が意識を取り戻したことはすぐに病院内に知れ渡ることとなり、すぐさま
彼女の身柄を取り押さえるために職員や警備員達が行動を開始した。程なくして少女に
対する包囲網は縮まっていき、少女は中庭に追いつめられた。彼女が事故に遭って
以来、嵐のような風はやんだものの雪は未だ降り続き中庭を白く染めている。
「安倍さん!落ち着きなさい!!」
「とりあえず落ち着いて話し合いましょうよ?ねえ?!」
取り囲む警備員や病院職員が口々に彼女の名を叫ぶ。何とか少女をなだめようと
する者がいる一方で、その傍らにはさすまたを手にした警備員の姿もある。状況を
理解できないのはお互い様だった。少なくとも彼らにとって少女〜安倍麻美は
おとといの事故で命を落とした、そう思われていたからである。
(確かに心停止の状態にあったのに・・・なぜだ)
(この子は事故で死んだんじゃないのか。何がどうなってんだ)
(気味が悪いわ・・・はやく取り押さえてよ)
(警察を呼べ!俺たちじゃ太刀打ちできないかも知れん)
口にこそ出さなかったが彼らは麻美に対して一様に不気味さと嫌悪感を抱いていた。
しかしそれは通常ならば相手にダイレクトに伝わる感情ではなかった。だが、今
自分を取り巻く人々の抱くこれらの感情が、麻美の心に直接伝わってきたのである。
心の声は口々に言う。
(化け物!)
(このバケモノ!)
自分をなだめすかすために繕う引きつった笑顔の下に、悪罵の言葉を吐く別の
顔が隠れている、麻美はそれを思いがけずして見透かしてしまった。少女の
猜疑心が、明らかな敵対心と憎悪に変わる。
「あたしは・・・あたしは化け物なんかじゃない!!」
雪降り積もる中庭に響く怒りの叫び。まるで自分たちの心を見透かされたかの
ような言葉に、一瞬戦慄を覚える病院関係者達。麻美はそんな彼らをにらみつける。
彼女の瞳に燃える怒りにも似た不気味な赤い光が宿ったその直後、少女の背中に
大きな白い翼が生えたように見えた。そしてその翼が翻った瞬間、そこから無数の
光の矢のようなものが放たれると、それは次々と居合わせた人々へと浴びせられた。
一瞬のひらめきと共に、雪の中に舞う光の羽根におそわれて青白い炎を吹き上げ
ながら崩れ落ちる職員達。彼らの命は一瞬にして奪われた。それはあまりにも
短時間の出来事だった。