4.市井紗耶香
大会前から市井紗耶香はすでにそれなりの知名度があった。
だが準決勝までオール一撃と、私も強い所を見せていたので前評判は五分であった。
私が夏美会館空手を背負っているように、市井紗耶香も市井流柔術を背負っている。
勝てば人が集まるし、負ければ人が去る。
当たり前のことなのだが、どっちも負けられない戦いだ。
市井はタックルに来た。
私はそれに合わせてローキックを放ったのだが、市井の動きは思ったより早かった。
腰をつかまれて倒された。
実を言うと私は寝技の経験がほとんど無い。
当たり前だ、ずっと空手ばっかりやってきたのだから。
それに大して市井は関節技のプロである。
後で知ったのだが、私が倒されたとき観客の人たちは秒殺かと思ったらしい。
だけど私は少しも慌ててはいなかった。
横になっても私にはこの拳がある。
こいつを相手に当てれば、どんな条件でもひっくり返せる自信があった。
市井は私の左腕を狙ってきた。
腕ひしぎ十字固めという技だろう。
完全に決まってはいないが結構に痛い。
私はもう一方の手で拳を握り、市井の背中に叩き込んだ。
さすがにこの体勢では威力も中途半端になる。
肘がミリミリという音をたて始めた。
私はもう一発、市井の背中に拳を叩き込んだ。
さらにもう一発。
四発目でようやく市井が私の腕を放した。
なかなか根性ある奴だと思った。
体勢が悪いとはいえ、なっちの突きを四発も耐えた。たいしたもんだ。
気の強そうな目で私をにらんでいる。
市井紗耶香か。
なるほど、これはブレークしてもおかしくない逸材だ。
今度はキレのあるキックの連打を出してきた。早い上に重い。
打撃でなっちがちょっとでも隙を見せると、すぐに組み付いてくる。
非常にバランスがいい格闘家である。打撃にもグラウンドにも精通している。
市井流柔術に人が集まるはずだ。
確かに彼女の元に弟子入りすれば相当強くなれるだろう。
あぁ、もったいない。
ものすごくもったいない。
市井紗耶香という格闘家はもっともっと上にいけたかもしれない。
ここで、なっちに会わなければ…
たまたま安倍なつみという格闘家と試合ってしまった為に…
ドンッ!!
正拳突きを撃った。
この3年間ひたすら鍛え上げ、サンドバックに穴を開ける程に磨きあげた拳だ。
市井の胸の正面を叩いた。
その一撃。
たったその一撃で、市井紗耶香の人生が変わった。
市井の強さに惚れた弟子達の前で、彼女は無様に倒れ落ちる。
「勝者!安倍なつみ!!」
この勝利は夏美館にとって、大きな勝利となった。
強いと評されていた市井流を完全に上回ったからである。
もうこの時点で、観客の私への反応は変化を始めていた。
期待と敬愛のこもった目である。
反対に市井紗耶香への評価は著しく落ち込むことになる。
だからもったいないと思ったのだ。
事実、市井流柔術の完成度はかなり高いと思う。
もし福田の様に天才と呼ばれる人物が、あの武術を学んだらと思うとゾッとする。
といっても福田はあの性格で、誰かの下につくことはありえない。
天才は数が少ないから天才と呼ばれるのだ。
そんな天才が出てくることは無い。
…と思っていた。
だから当時の私はまだ知らない。
退場する市井紗耶香の傍らにくっついていた金髪の中学生の存在を。
5.保田圭
決勝戦の相手は保田圭に決まった。
というのも福田明日香が準決勝を前にいなくなってしまったからである。
マスコミ達はこの件を「怖くなって逃げた」と叩いた。
それ以来、彼女は現在に至るまで格闘技界に姿を見せたことはない。
のちに、姿を消す前の彼女と話したという記者が、福田との会話を記事にまとめた。
「1番になることが、全てではない」
まだ子供と呼ばれておかしくない年齢の娘が発した台詞である。
こうして天才福田明日香は一部潜在的格闘技マニアの間で伝説として語られ、
その姿を消した。未だ復活を待ち望む声もあるという。
という事情で準決勝の保田圭の相手は急遽リザーバーが用意された。
保田はこれを秒殺。圧倒的強さを見せ付けて決勝戦へと進出した。
「あれは八極拳ですね」
決勝戦の前にあさみが言った。
八極拳。もちろん聞いたことはあるが、闘ったことなどない。
だけど負ける訳にはいかないのだ。
なにより、共に北海道から出てきて今まで支えてくれたりんねがやられている。
夏美館の館長として、許す訳にはいかない。
こうして決勝戦が始まった。
安倍なつみ対保田圭である。
とにかく体験したことのない武術だから、注意すべきだ。
向かい合って構えた。
どうやら保田は待ちに徹するようだ。
私は攻めなければならない。攻めない空手なんて空手じゃない。
自慢の正拳突きを撃った。
グーをパーで受ける形で保田が受け止めた。
その瞬間、変な力で私は吹き飛ばされた。
気を気で返されたのだ。口で言うのは簡単だが、普通にできることではない。
この保田という女はただの八極拳使いではないらしい。
強い。
殴られている。
蹴られている。
吹き飛ばされたなっちに、物凄い形相で襲い掛かってくる。
女子格闘技界に名の知れていない所に、これほどの奴がいたのかと思った。
とりあえずガードを固めるしかない。
保田の勢いが落ちたら、すぐに反撃する。
そうして待ち続けた。10秒、20秒、30秒…止まらない。
保田圭はちっとも攻撃の手を緩めようとしない。
このままガードで耐え続けるのはマズイ。ガードの上からでもダメージは残る。
私は思いついて、保田の足にしがみついた。
そのまま捻って倒す。観客から驚きの声があがる。そう、これは柔術だ。
さっき覚えたばかりの柔術だよ。
一番驚いているのは保田圭だろう、私が寝技できるなんて予想もしてなかったに違いない。
もう遠慮はしない。封印を解かせてもらったよ。
パーフェクト・ピッチ!
すると保田は寝技の状態から寸勁を発してきた。
なんて奴だ。
私はすぐに寝技を解いて離れた。
こいつは触れさえすればどんな状態からも気の攻撃ができるらしい。
だけど攻撃するには触れなければいけない。
この矛盾。
八方塞がりの絶体絶命だ……普通の奴ならば。
「残念だったな」
「なによ、急に」
「お前はメチャクチャ強えよ」
「あら、命乞いかしら」
「でも相手が悪かった」
「どういう意味かしら?」
「お前は安倍なつみの名前を忘れられなくなる」
私はニコッと笑った。人に太陽の様だと言われる笑顔。
すると保田の目がキュ〜と釣りあがった。怒らせてしまったみたいだ。
奇声を発しながら突進してきた。私はそれを迎え撃つ。
空手の構えではなく八極拳の構え。
保田圭と同じ構えで、同じ呼吸で、同じタイミングで、同じ気。
気の塊どうしがぶつかり合う!
ドンッ!
ドンッ!
「発勁!!バカな!!」
保田が叫んだ。
夢でも見ている様な心地だろう。
絶対の自信を持っていた自分の奥義をあっさりと真似されたのだから。
もう一度言うぜ。覚えとけ!
私は安倍なつみ。
地上最強になる女だよ!!
ドドンッ!!
八極拳の要領を込めた突きで、吹き飛ばす。
悲鳴をあげながら保田が転げ回る。
りんねやその他、今まで保田にやられた子の分まで、さらにぶっ叩いた。
TVカメラや大勢の観客の前で、私は保田圭をボコボコに打ちのめした。
もの凄い形相で目を見開いたまま保田は気を失い、試合は終わった。
完璧な勝利。そして優勝。
あの日、会場にこだました大歓声は今も耳に残っている。
なっち伝説始まりの瞬間。
6.それから…
「強いなぁ、あんた」
あの女帝、中澤裕子から直接優勝カップを受け取る。
私は笑みを込めて言った。
「ところで、中澤裕子とはいつ、試合ができるんですか?」
それで周囲の空気が一変した。中澤はこれを余裕の笑みで受け返す。
「アハハ。お譲ちゃん。せっかく掴んだ名誉は大事にした方がええで」
「悪いんですけど、最強という名誉意外に興味はないんで」
「おもしろい譲ちゃんや。まぁそのうち相手したるわ」
「なっちは今でもいいですよ」
「ウチがあかん。大会で疲れたお前を潰してもつまらんやん」
まぁ私も軽い冗談のつもりでふっかけたので、その場はなんとか収まった。
だが前に立つだけで、中澤裕子の威圧感は感じ取ることができた。
別格。
中澤裕子。伊達に女帝と呼ばれる訳ではなさそうだ。
この女と決着をつけるときは、なっちも本気の本気でいかねばならないだろうと思った。
しかし、実際に私と中澤裕子の対戦が実現することはなかった。
この二週間後、プロレス界にひとりの怪物が現れるからである。
その名を飯田圭織。
飯田が中澤を再起不能に追い込んだのだ。
こうして女帝の時代は終わり、女子格闘議界は新しい二本柱の時代になる。
なっちの夏美会館。
ジョンソン飯田のハロープロレス。
この二団体が一気に勢力を拡大していった。
もちろんこの間、安倍なつみvs飯田圭織のマッチメークは幾度となく持ち上がった。
しかし実現することはなかった。
夏美会館とハロープロレスが大きくなりすぎた為である。今この二団体の片方を失うこと
は、大きくなりはじめた女子格闘技界を崩すことになりかねない。
こうして真の最強を決めぬまま、ずるずると時は流れていった。
夏美会館は日増しに成長を続けていく。
里田まい。藤本美貴。紺野あさ美。辻希美。
数々の猛者がなっちの元へ集まってきた。
小さな室蘭という町で生まれ育った、小さななっちが、気が付けばこんなに…
自由に喧嘩もできないくらいに大きくなってしまっていた。
「ええよ、それでも。紺野あさ美。お前ときっちり決着が付けれるんやったらの!」
「もっと強い奴とやれるんか!楽しみやわ」
高橋愛。
あの子を見てると、少し思い出す。
田舎から出てきて自由に色んな喧嘩をしていたあの頃のなっちを…。
いや、振り返りはしない。
もう夏美会館も十分に大きくなった。
なっちがいなくても大丈夫だろう。
そろそろ、もう一度自由に暴れさせてもらうよ。
本当の「最強」ってやつを手にする為にね。
なっちは止まらない。
番外編「なっちのみち」終わり
飯田石川卒業ですか……。
毎度のことだけど、辻加護卒業後に発表しろって感じですね。
二人同時に発表する意味もわかんないし。
最後のオリメン飯田の卒業発表はもっと気を使ってやってほしかった。
これじゃ石川のおまけみたいだ。最悪。
あの事務所の人事はののたんよりアフォだ。