番外編「なっちのみち」
1.天性の才能
北海道の南西部に室蘭という町がある。
この町に、後に夏美会館を創立し格闘議界最強の異名を持つことになる娘がいた。
当時、若干16歳。
――――――――――これは若き日の安倍なつみの物語。
「見て見てー。中澤裕子が出てるよ」
友達が手招きする先の街頭テレビは中澤裕子のプロレス中継を映していた。
女子格闘技というジャンル自体、確立されていないこの時代において、
この女子プロレスの中澤裕子だけは一般人の友達でも知っている超有名人。
「日本で一番強い女性は?」と問われれば10人に9人は彼女の名を挙げる。
そんな時代。
「たいしたことないよ。なっちのが強いべさ」
そして私、安倍なつみはその10人の中の残り1人側。
空手を始めたのは15のとき。
それまでは格闘技のかの字も知らない普通の女の子だった。
いや、普通より悪いかな。
小中学生の頃、私は学校でいじめられていたんだ。
部屋に閉じこもって泣いてばかりいた時期もある。
そんな私がジュディマリの「小さな頃から」という曲に励まされて変わった。
強くなろうって思ったんだ。
何でもよかった。たまたま近所に空手の小さな町道場があったから、そこへ行っただけ。
その日に入門して毎日通うようになった。
「いや〜こんな覚えの早い奴見たことないべさ」
先生にはよく褒められた。
最初はお世辞だろうと思っていた。
日が経つにつれ、自分でもそれが理解ってきた。
たった一回見ただけの技が、あっさりとできてしまうのである。
それがどうしてなのか自分でもわからない。
これが天性の才能―――パーフェクト・ピッチであると知ったのはずいぶん後のことだ。
入門してたった二ヶ月で、町道場で一番強くなっていた。
空手暦十年以上の黒帯の大人の男の先生を、たった二ヶ月で超えてしまったのだ。
酔った。
麻薬みたいなものだ。私は強さに酔った。
自分より弱い奴しかいない小さな町道場にもう用は無い。
私は電車で一時間以上かかる札幌の大きな空手道場に移ることにした。
室蘭の小さな町道場と違い、そこは日本中に支部を持つ本格的な空手家の集団。
空手の全国大会に出場するという男の人たちも何人かいる。
トレーニングの過酷さも前の比ではない。
コテンパンに打ちのめされた。毎日血ヘドを吐くほど体を酷使した。
しかし私はそいつに耐えた。たった二ヶ月の格闘技経験しかない小娘の私が、
これほど厳しい鍛錬を乗り越えることができたのは、まさに「強さ」の魔力だ。
入ったとき道場で一番弱かった私が、物凄い勢いで強くなっていく。
自分でそれが分かる。
とにかく強い人の技を見た。それを目に焼き付ける。体に叩き込む。
その動きについていけるだけの体力をつける為に鍛える。
毎日この繰り返し。
三ヵ月後、ついに組み手で全国大会クラスの男性に勝った。
四ヵ月後、もうこの札幌の道場にも敵はいなくなっていた。
「女のくせに…何々だよ、お前」
よくそんなことを言われた。
周りの人の私を見る目が、明らかに変わっていった。
人外の者を見るような恐怖のこもった目だ。それが私に心地よかった。
(私は凡人とは違う。選ばれた者なのよ、ウフフ)
そうね、あの頃の私は天狗になっていた。
この札幌の道場で、のちの夏美会館創立メンバー戸田りんねと出会う。
彼女は私を除けば道場で一番強い女性だった。
「安倍さん。一緒に東京へ出ませんか?」
彼女は私の強さに恐怖よりも羨望を向ける数少ない人物の一人であった。
いっしょに東京へ出て、空手で名を挙げようと誘ってきたのだ。
強さの魔力にとらわれていた私は、当然のようにこの誘いに乗る。
もちろん親はこれに猛反対。
だから私は妹にだけ別れをつげて、家出同然のまま飛び出したんだ。
「最強」と呼ばれるまで日まで帰らない。
密かにそう誓って。
なるほど、安倍がやたら反抗的な藤本に甘いのも、昔の自分を藤本に重ねてるのかもなあ。
2.福田明日香
東京に来た私とりんねはとりあえず、札幌の空手道場と同じ系列の道場に身を寄せる。
そこにも強い奴はいたが、その日に倒してしまった。
ここを拠点に他の空手道場をまわる。
16と17の娘が名を挙げるには、とにかく強い奴を倒していくしない。
あの頃はそんな愚かな発想しかなかったんだよ。
そうやってそこの一番強い奴と戦い、それを自分の強さに加える。
言ってみれば道場破りみたいなことで暴れまわっていたんだ。
もうこの頃の私は、はっきり言って強かった。
パーフェクト・ピッチという能力で、一度見た相手には間違いなく負けることはない。
関東の空手界に安倍なつみの悪名が少しずつ広まっていった。
そんなある日。
「ようやく来たか」
「例の道場やぶりですよ、先生」
訪れた空手会館で、そんな風に言われた。
どうやら私の噂を聞きつけて助っ人を呼んでいたらしい。
「おもしろい」と私は思った。
どんな奴か知らないが、強ければ強い奴ほどありがたい。
だが出てきた人物を見て私は目を見開くことになる。
子供だったのだ。
「福田明日香」
道場に入って向かい合うと、先生と呼ばれる子供はそう名乗った。
仏頂面で可愛気の欠片も無い口ぶり。
「子供なんか相手にできるか」と言おうとしたけど辞めた。
私だってまだ16歳。大の大人から見れば子供みたいなもんだ。
「怪我しても知らねえぞ」
そう言ったが、福田という子供は返事すらしない。
本当に生意気な態度だった。
こういう奴は少し痛い目に合わせた方がいいだろう。
私は構えた。福田も構えた。
さて、どんな技を使ってくるのか?
期待しながら待っていると、彼女は普通にまっすぐに向かってきた。
ただのパンチ。
何の変哲も無いただのパンチ。
それがまっすぐに向かってくる。
バゴンッ!
鼻っ柱に当たった。避けることができなかった。
のんびりしたパンチのスピードが、突然速度を上げたのである。
子供がそんな器用なことができるのかと驚いた。鼻から血が出て私はよろめく。
だが覚えた。もうそれは見た。なっちに次はない。
追撃する福田に向けて、私は反撃の突きを返す。
今覚えたばかりの速度変化するパンチ。
大概の相手ならば、これで驚愕を覚えるはずである。
だがこの福田明日香という娘は違った。速度の変化を読んで腕を掴みとったのだ。
(パーフェクト・ピッチが読まれた!)
その勢いに乗せて投げ飛ばされる。床に叩き落すと同時に膝を私の腹へ落とした。
激しい痛みと嘔吐感に私は身をよじる。そのまま馬乗りになられた。
徹底的に殴られた。
ギブアップかどうかも聞こうとしない。
そんな暇を与える間もなく、福田はマウントポジションでひたすら殴ってきた。
(なっちは凡人とは違う!)
(誰より一番強いんだ!)
そんな自信が…天狗になっていた心が…コテンパンに打ち崩された。
……
目を覚ますと私はアパートで横になっていた。
気を失った私を、りんねがここまで運んでくれたそうだ。
「気にしなくていいよ。なっち。今回のは相手が悪かった」
りんねがそう慰めてくれた。
若干13歳であらゆる格闘技をマスターした本物の天才。
それがあの福田明日香という娘だったのだ。
(相手が悪かった……)
私は泣いた。負けたことより、自分が特別だと思っていた浅はかさが悔しかった。
3.夏美会館
上京して3年目の夏。
私は19歳になった。
福田明日香に敗れてから、私はそれまでしていた道場破りの真似事を止め、
ひたすら空手の修行に打ち込んだ。パーフェクト・ピッチを封印したのだ。
あの敗北が天狗になっていた私の心を変えた。
「なっち。これ見てよ」
ある日、りんねが一冊の格闘技雑誌を持ってきた。
『市井流柔術!!大ブレーク!!』
まだ若い一人の格闘家にスポットを当てた記事であった。
その格闘家とは、今あらゆる大会に出場して勝ちまくっている市井紗耶香である。
柔道に。
レスリングに。
サンボに。
空手に。
この女はすべて勝ってしまったのである。
世間はこの『柔術』という格闘技にすっかり心を奪われた。
そして、市井流柔術は数多くの門下生を集めることに成功したのである。
「こいつ、うちらより年下だぜ。負けてられないよ。なつみ」
私は頷いた。本格的に動き出すことを決める。新しい空手流派の設立だ。
日本初の女性による空手流派。
発足が夏であったこと。女性の美。そして私の名前をもじり夏美館と名づけた。
りんねが北海道から後輩で腕の立つ木村あさみを呼びよせ、3人。
現在、海外にも支部を構え総勢数万の道場生をもつ夏美会館も、設立当初はたったの3人。
道場も資金も何も無い。
若い娘が集まって稽古するだけのサークルみたいなものだった。
3人で力仕事系のバイトをこなしがら、少しずつではあるが運営資金を溜めていく。
つらい時期だったけど、りんねもあさみも文句一つ言わない。
あの頃から、私とならば必ず成功すると信じてくれていたのだ。
そしていよいよチャンスの時が来た。
中澤裕子プロデュースで女子格闘技の大会が開かれるというのだ。
優勝賞金が100万円。まだマイナーな当時の女子格闘技にしては、破格の金額だった。
それ以上にネームバリューという価値がある。
あの女帝中澤裕子が「自分のライバルになれる女性選手を探す」という意味で開いた大会。
女帝と並び一気に女子格闘技界の2TOPに並べるのである。
「こういうのを待ってたんだべさ」
私はすぐに参加を申し込んだ。
貯めた貯金を使い、夏美会館という刺繍入りの空手着を作る。
この空手着を着た瞬間から、二度と敗北は許されなくなる。
格闘技道場というのは、その顔となる者が強いから集まるものである。
弱い奴の所へ弟子入りする奴はいない。
『夏美会館』の看板を背負うとは、そういうこと。
今、この瞬間から安倍なつみに敗北は許されなくなったのだ。
史上初、女性による格闘技トーナメント。
総勢26人。予想以上の人が集まった。
今ブレーク中である市井紗耶香の参戦も尾を引いた様だ。
早くも優勝候補に名があがっている。
だけど、私の注目は別のところにあった。出場選手リストに見つけたあの名前。
福田明日香。思い出される3年前の悪夢。
(あいつも、出場するのか…)
血がたぎった。この3年でどれだけ強くなったかみせてやろうと燃えてきた。
そして大会は始まる。
抽選による組み合わせ決めから、1回戦が順に始まる。
私は余裕で勝った。
市井も勝った。
福田も勝った。
この大会にはりんねとあさみも出場していた。あさみは勝った。
だがりんねが負けた。それも一方的に。
妙な技で吹き飛ばされ動けなくなった。この時点で勝負はついている。
ところが相手の女は動けなくなったりんねを、さらに叩きのめしたのだ。
審判が止めるまで、そいつは攻撃の手を止めることはなかった。
りんねは意識を失ってすぐ病院に運ばれた。
「弱い奴が悪いのよ、フフフ」
蛇のようなするどい目つきで、りんねをこんな風にした女は笑っていた。
それが保田圭だ。
私は正拳突きの一撃のみで勝ち上がっていく。
市井紗耶香は前評判通りの柔術で、余裕の勝利を重ねる。
保田圭は妙な武術と凶暴な乱打で相手をボコボコにしていく。
あさみは残念ながら準々決勝で負けた。
相手が悪い。
福田明日香だったのだ。
『天才』の強さはあの頃から少しも衰えることなく、さらにキレを増している。
あさみもかなり強い部類にいると思ったが、福田はやはり次元が違う。
あさみは触れることすらさせてもらえずに負けた。
ベスト4はあっさり決まった。
どうやら出場選手の中でこの4人だけは飛びぬけていたらしい。
市井紗耶香。
保田圭。
福田明日香。
そして私、安倍なつみ。
ここからが本番だと、私は思った。
私の準決勝の相手は柔術の市井紗耶香に決まった。
もう一つのカードが保田圭vs福田明日香である。
誰が相手でもなっちは負けられない。
『夏美会館』の名にかけて。